彼女はおかっぱ頭だ。当節はボブカットというのだろうか。大の女が前髪を短く切りそろえておかっぱにしたり、三つ編みを結ったりおさげにしているのは気味が悪い。


 彼女が市松人形のごとく不気味に見えないのは、黒くつややかな髪を耳にかけているのと、こどもの紅斑と同じ位置に、そばかすが散っているからだ。


 薄いそばかすがやんちゃなイメージを与えていた。形のいい耳は小さかった。福耳の反対だな、と私はつまらないことを考えた。



 真っ白い顔の中の部品はどれも小振りで、くるくるとよく動く目が、どんぐりのようにつぶらだった。彼女はパステルピンクのセーターに白いスラックスを履いていて、水色のロンパスにこれまた白いタイツの赤ん坊との取り合わせが、ひと足早い春の風を運んできた。


 大きく開いたセーターの胸元から、その体にはあり得ない、豊満なバストが覗いていた。断じて豊胸手術なぞ施すタイプではない。彼女なら悪あがきをせずとも、世界を手に入れることができる。母乳が出ている証拠だ。


 大の男がいくらお乳を吸おうとしても無理なのを、私は過去の経験から知っていた。赤ん坊は独特の舌を使う、天性のテクニシャンである。


 私はテクニシャンの容態よりも、お乳の味の方が気になってしかたなかった。

 「どうしても今のうちに早く治しておきたくて」


 そう言った母親の膝には、生後四ヶ月くらいの男の子が乗っていた。


 「急に目覚めてしまったんです。ずっといい子で眠っていたのに」


 赤ん坊は手足をばたつかせ、しきりにむずかっていた。


 「でしょうね。どんなに深い眠りからも覚めるというものです。大手総合病院ほど、大事なお客さまをお待たせして平気な企業はありませんからね」


 医者らしからぬ軽口に、母親は緊張が解けたようだった。心配そうな顔がぱっと明るくなり、白い歯を見せて笑った。彼女が今どきにはめずらしい犬歯を抜かないのは、チャーミングだからだ。


 「おっしゃるとおりですね。お医者さん自身が病院で待たされるなんてことはあるのかしら?」


 「さぁどうでしょう」


 犬歯に衣を着せないところがいい。


 「それでなんの病気ですか?すごく痒がっているんです」


 赤ん坊の鼻からほっぺたにかけて、蝶々が羽を広げたように赤いぽつぽつができているのは、どう見てもりんごほっぺ病だと思われた。乳幼児に多い病ではないが、ここまで症状が出てしまえばもう大丈夫だ。


 「おそらく伝染性紅斑です」


 「それはなんですか?」


 小むずかしいことを言っても始まらなかった。


 「りんごほっぺ病です」


 「まぁそうなんですか。それならわたしも昔かかったことがあります」


 彼女のほっぺがりんご色に染まれば、さぞかし可愛らしかったろう。要するに私は、その女性が気に入っているのだった。


 「りんごほっぺですって。帰りにりんごでも買っていきましょうか」


 遊び心のあるところがいい。母親はこどもの手を握り、ぱたぱたと振ってあやした。病名がわかり、かつて自分も経験したことのある安堵感からか、その女性は現金に喜んでいた。母親の精神状態がそっくり伝染するのか、乳児はぱったり大人しくなり、すっかりいい子になっていた。

 男と女はベッドに倒れ込んだ。女が背を向けるよりいち早く、男は肩を掴んでこちらを向かせた。萎れた薔薇の花は見たくもないように、無関心に振る舞われるのが寂しかった。男と女は額をくっつけ合った。


 陽が高くなったらしい。カーテンのすき間から射し込む光の角度が変わっていた。誰もが本格的に活動し出し、外出を始める時刻だ。


 「君とは夜に逢ったことがないね」


 「そうね。長いのにね、夜は」


 この街の夜は美しい。女の言い方に特徴があり、男は女の心を読むように、今は透明な色を湛えた瞳の中を覗いた。


 目を伏せがちな女が、唇を舐めていた。そういえば口の中がからからだった。二人とも、絶えず声を振り絞っていたから。 女の喉元が痛々しく赤くなっているのは、無意識にひげをこすりつけたせいだ。男はいたわるように、女の喉にキスをした。


 「飲み物を取ってくる」


 投げ出してあったパジャマのズボンを履くと、男はキッチンへ向かった。



 男が戻ってみると、女はシャツブラウス一枚を羽おった恰好で、ベッドの上を這い回っていた。後ろを向いた女は、シャツが尻をぎりぎり隠すか隠さないかのきわどさで、男はその姿に見惚れた。何をしているのかと思えば、女はベッドに散らばった二人の体毛を拾い集めていた。


 忍び寄った男は、女の首筋に冷たい飲み物を押しつけた。キャッと女が飛びのき、男は声を立てて笑った。


 「ほらこれなら、食器を汚さなくてすむ」


 男は女に缶ビールを手渡した。正座をした女は上目づかいに睨み、男は笑いが止まらなかった。女はビールを受け取ると、脚をそろえてベッドを降りた。どこへ行くのかと思えば、窓辺に向かった。女はカーテンを全開した。



 男と女は並んで立っていた。窓の外には、青く晴れ渡った空を背景に、赤い骨組みの東京タワーがあった。その隣りに、雪化粧をした富士が顔を見せていた。


 「きれいね」


 女はそう言い、男の胸に頭をもたせかけた。その時男は、自分がこの女を愛しはじめていると思った。


 「今度食事でもしようか?」


 「いいえ」


 「いつかドライブにでも行こうか?」


 「いいえ、だめよ」


 「どうして?」


 男はやや不満げに問い質した。


 「わたしたちはここから出てはいけないの」


 男が同じ質問をする前に、女がぽつりと呟いた。


 「そういうことになっているのよ」


 男はビールを、ひと口すすった。


 「君の本当の名前は?」


 「風子よ」


 男は手を伸ばしてロックをはずすと、窓を開けた。わずかに春を含んだ風が、男の前髪を揺らした。



               第一話 ふう -終わり-