「 人生、詰んだな… 」
って、あっさり死んだあと

すっかり蘇って
しっかり生きてて今があったりする。




自分のための人生を捨てた日から
与えられる頼まれごと
めぐってくる対処ごとだけ
黙々とさばいていたら、

ちょっとめんどうでも
ちょっと前向きな気持ちで
黙々と取り組んでいたら、




周りにはそれが
野心的に映っていたり
アクティブに映っていたりもして、

でもまぁそれもどうでもいいかと
黙々と取り組んで生きてたある日、





自分のための希望選択もしてみたいな
という好奇心がわいて



自分に出来ることは何だろう?
自分がしたいことは何だろう?
自分の好きなことは何だろう?


あちこち歩きまわって
答えを探したのに見当たらなくて
フラフラになって、うちに帰ったら、





自分に出来ること、自分がしたいこと、
自分の好きなこと、自分が選んだこと、

希望はぜんぶ、もう家にあった。
うちに、今ぜんぶ置き並べてた。







そもそも
自分の満足はどーでもいいと
決め選んだのは自分自身であって、


めんどうな頼まれごとを与えられて
めんどうな対処ごとがめぐってきて

さばいてきた足跡を振り返ったら
それらがぜんぶ、
自分の財産となって残ってる。





もし先に
「自分の我で選ぶ」をセレクトしてたら

人見知りです とか それは苦手です とか
無礼な言い訳をだして

現場に飛び込むような経験も
人や場所との出会いで学ぶ経験も
自らの意思ではできなかったわけで。





なにかに傷ついたら
あっさり死ぬけど、

なにかを頼まれて
すっかり蘇ってみたら、

なにかしらのマスターをしてて
しっかり生きていけるようになる。







ぎゃくもいえて
自分の好きなことを追求していたら
いつのまにか
誰かを救えるツールになるもので。




我を捨てた先に、究極的な自我があり、
我を追った先に、究極的な貢献がある。




ポイントは
ひょんな好奇心にしたがって、
うまくやろうと悲観的になるより
ほんのちょっとでも楽観的になることだ。








強くなれる答えを探して
あちこち歩きまわってるうちに
足腰がきたえられてて、
それが強くなる答えだった。

 
サムネイル





  


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・