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小野弘晴のブログ

テノール歌手 小野弘晴のブログです!



歌劇「トゥーランドット」


トゥーランドットと聞くと、「プッチーニ作曲」とまず頭に思い浮かぶが、歴史上12名の作曲家がこの作品を書いたとされています。


その中でも現在でも名前が上がるのが、


 1.アントニオ・バッジーニ

 2.フェルッチョ・ブゾーニ

 3.ウェーバー

 4.プッチーニ


4名の作品となっています。


プッチーニが書く前にも既に前述作品は発表されていましたが、プッチーニは他人が作曲したからといって意に介するような人物ではなかったのです。


過去においても「マノン・レスコー」ではマスネ、「ラ・ボエーム」ではレオンカヴァッロという既出作曲家の存在を十分に意識しつつ、プッチーニは作品を書き完成させ発表し、彼らの作品を凌駕するに至っています。


ちなみにプッチーニのフルネームは「ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ」

(伊: Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini)


プッチーニ家の2代目から続いてきた音楽家の名を連ねて付けているのでこのような長い名前となりました。

プッチーニ家は父祖伝来の音楽家の家系で、プッチーニ家としては6代目、音楽家としては5代目に当たるのが現在知られている「プッチーニ」であります。



「トゥーランドット」は、アラビア半島からペルシャにかけて見られる「謎かけ姫物語」と呼ばれる物語の一類で、この系統の物語をヨーロッパに紹介したのが、ペティの「千一日物語」であり、原典は失われてしまったが同じような筋書きのペルシャ語での写本が残されている。


このペルシャ語写本には「トゥーラン」の国名はあるものの「トゥーランドット」という人名は記されておらず、ペティが出版する際に名づけたのかもしれないとされています。


このペティの手になる「カラフ王子と中国の王女の物語」をオマージュ/リメイクして生まれたのがゴッツィ版「トゥーランドット」であり、この作品は更に、シラーによって1810年にドイツ語に翻案されています。


そして、プッチーニのオペラはこのゴッツィ版を元にしており、ウェーバーのオペラはシラー版を元にしているとされています。


冷酷な王女・トゥーランドット姫と対照的な、優しさを体現した「もう1人の、小さい女性」の役柄を創作することにしたプッチーニは、原作に登場しない若い女性奴隷・リュウとして具体化させました。


一方で、ゴッツィの原作に登場する伝統的な仮面付の4人のコミカルなキャラクターに関しては、プッチーニは導入の是非を悩んだ末に、宮廷の3大臣・ピン、パン、ポンとして残すことになりました。



1920年頃作曲し始めたプッチーニは、1921年〜19233月頃までのスランプを乗り越え(中略)、完成前にも関わらず初演の準備も進んでいた。


政治的対立で過去数年間も冷却関係だった指揮者トスカニーニとも、この頃再び友好関係を取り戻し、彼に宛てて、「この作品をやる時には、完成直前に作曲家は亡くなったのだと伝えて欲しい」というような手紙を書いたという。


192410月には台本はほぼ最終稿の形を整え、あとはプッチーニの作曲を待つばかりだったが、彼の病気は外科手術不能のガンであると診断される。


当時の最先端癌治療法とされたラジウム療法を受けるためブリュッセルに移動し、1124日に3時間にわたる手術を受け、一旦は成功かと思われたものの、突然の心臓発作によりプッチーニは1129日息を引き取った。


「トゥーランドット」はリュウが自害した箇所以降が未完となり、あとは23ページにわたるスケッチだけが遺された。



プッチーニの死後、補作を巡っての混乱

プッチーニの死後、トスカニーニ未完部分の補作作曲家にリッカルド・ザンドナーイの起用を提案するも、プッチーニの版権相続者となった息子のアントニオは、当時プッチーニの後継第一人者とされていたザンドナーイが、プッチーニの意図を離れたオリジナルなものを創作してしまうのではないかと懸念を示し、ザンドナーイではなくフランコ・アルファーノの名を挙げました。


より中庸温厚な性格のアルファーノならプッチーニの構想により敬意を払ってくれるであろうとの期待、また東洋的な題材を扱ったオペラ「サクーンタラ」が成功していたことも理由であったといいます。


アルファーノは19261月に総譜を完成させ、それはまずトスカニーニの元へ送られました。


ところがトスカニーニは「余りにオリジナル過ぎる」と評して、400小節弱の補作中100小節以上をカット。


これは、ザンドナーイ起用案が退けられたことへの意趣返し、そして年少のアルファーノに対する敵意(アルファーノはトスカニーニより8歳年下。またザンドナーイはそのアルファーノよりも更に8歳若い)、あるいは自らの権威確立のためのブラフ、など様々の意図が込められていた行為ではないかともされています。


アルファーノはこのカットに対して激怒、それなら自分はトリノ音楽院の教授を辞してトスカニーニに作曲法の教えを乞おう、と言ったとも伝えられるが、結局は削除を呑まざるを得なかったといいます。


そして迎えた初演初日、プッチーニによる作曲部分が終わったシーン(リュウの自害シーン)でトスカニーニは指揮を止め、聴衆に「マエストロはここまでで筆を絶ちました」(Qui il Maestro finí.)と述べて舞台を去り、幕が下ろされました。


2夜目になって初めてアルファーノ補作部分(上述のトスカニーニによるカット処理後)が演奏されるというエピソードが残っています。




バリトンの頃、一度はソロを歌ってみたかった作品。

ドイツレクイエム/ブラームス


ベートーヴェン、ブラームス、ヴェルディという3人の作曲家に特に魅力を感じていています。

その1人、ブラームスの傑作ドイツレクイエム。


朝からふと、この作品についてブラームスの生涯の一部と共に📝



ヨハネス・ブラームス


J.S.バッハ(Bach)やベートーヴェン(Beethoven)と共に、ドイツ音楽における三大Bとも称される。

作風は概してロマン派音楽に属するが、古典主義的な形式美を尊重している。



1833年5月7日ドイツ北地ハンブルクにて、市民劇場のコントラバス奏者だった父のもとにヨハネス・ブラームスは生まれた。


(20年中略)


1853年ブラームス20歳、演奏旅行中の9月、生涯に渡って交際を続けることになるシューマンと出会う。


シューマンはブラームスの音楽に敬意を持ち、自身のエッセイ「新しい道」に掲載し、それを「新音楽時報」に発表してブラームスを大絶賛し、これによりブラームスは脚光を浴びることとなる。


(シューマンやクララとの逸話は省略)


1856年シューマンの死後、デュッセルドルフからデトモルト、更には1862年にはウィーンに移住する。


その間、1857年頃からドイツレクイエムを書き始めた。


構想されたきっかけは、ブラームス自身が友人のヨアヒムに「ドイツレクイエムはシューマンへの思い出と密接に結びついている」と述べた記録もあることから、やはり恩人ロベルト・シューマンが死去したことにあったと言われている。


また、1865年に亡くなったブラームスの母親の死が完成を加速させたという見解もあります。


この曲は一度に完成されたものではなく、10年間にわたって何度も追加が行われで現在の形になりました。


1867年に第1〜4曲を作曲し初演するも大失敗、その後第6〜7曲を作曲し、1868年に第5曲を除くナンバーで初演をして大成功を収め、ブラームスは35歳にしてドイツ屈指の作曲家としての地位を確立。


その年の8月に第5曲を完成させ、1869年2月に全7曲により初演が行われました。


さて、このドイツレクイエムは、ブラームス自身も「キリストの復活に関わる部分は注意深く除いた」と語っていて、演奏会用作品として作曲され、典礼音楽として使うことは考えられていないとされています。


通常レクイエムはカトリック教会において死者の安息を神に願う典礼音楽のことであり、ラテン語の祈祷文に従って作曲されますが、前述の通りハンブルク生まれで最終的にはウィーンで没したブラームスはルター派信徒。


その為、ルター聖書のドイツ語版の文言から、ブラームス自身が選んだ旧約聖書と新約聖書のドイツ語章句を歌詞として使用しています。


(メンデルスゾーンが1840年に作曲した交響曲第2番「讃歌」で既に行われた手法)


また、テキストは元の文脈を離れて、人間の苦悩や儚さ・忍耐、そして慰めと報いと喜びを表現するという「生者のためのレクイエム」として構成されました。


自由に、あるところは旧約聖書から、またあるところは新約聖書からと自由自在に言葉を抜き出して、自らの人生観に則した歌詞を作り上げたのではないでしょうか。

(諸説あり)



"Selig"

「この上なく幸せな / 天福をうけた / 至福の」という感嘆の意。


これは聖書の原文(ギリシャ語)では「ああなんと祝福されていることよ」という感嘆であり「祝福されている」とは「神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている」状態のことで、いわゆるキリスト教の「救い」の状態。


ドイツレクイエムは"Selig"で始まり"Selig"で終わります。


歌詞の推察から、この"Selig"を体感するには「神の愛顧を感じてそのような状態に至る」ということであり、キリスト教徒でない人には難しいのかもしれない。


この精神状態をイメージするのに、音楽から感じ取るのも良し、身近な自分の至福の状態をイメージして感じ取るのも良いのではないかと思います。


テクニカル的なことはもとより、愛に包まれる至福の時、そのイメージでこの言葉を歌う事に大きな意味があるのかもしれません。


10年に渡り作曲され、3回の初演を経て今にまで至るドイツレクイエム。


まさに最高傑作のひとつであり、その経緯もドラマティック。

とても大好きな作品です。





余談

1864年2月6日ブラームスはワーグナーと会っています。

ブラームスはワーグナーの前で「ヘンデルの主題による変奏曲」を演奏。

ワーグナーはそれに感心し「古い形式でもこれを扱うすべを心得た人間の手にかかると、まだ何かなし得るものだ。」と言ったそうです。




先日のコンクールの表彰の様子が下野新聞に掲載されました。


この賞に恥じることなく、これからも精進いたします。


ありがとうございました!



名古屋通過中にふと思うこと。


何かを成し遂げるとは、練習や勉強のその飽くなき反復作業の向こう側にあると信じています。

実際に時間をかけなければ高められない、感じることのできない領域というものがあると、最近よく感じることがあります。


今まで歌ってきたレパートリーを公演と公演の空いた時間に練習をすると特に感じます。


声の響きはもちろん、音量と響きの違いに気を配って歌唱する事やディナーミク・アゴーギクを再確認しながら歌唱すること。


大切なレパートリー作品、歌うたびにその感じ方も少しずつ変わります。


日々、勉強です。




【 藤原歌劇団退団のお知らせ 】

 


陽春の候、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。


このたび、2014年より団員として所属してまいりました藤原歌劇団を、昨年度3月末で退団致しました。


歌劇「ルチア」をはじめ、オペラコンサートや芸術鑑賞会公演等、また多くの所属歌手の皆様やスタッフの皆様に大変お世話になりました。


素晴らしい機会を多く頂けましたのも、ひとえに皆様のご厚情のおかげと厚く御礼申し上げます。


しばらくの期間フリー無所属歌手として活動して参ります。


今後のマネジメントにつきましては決まり次第あらためてご連絡させていただきます。


願わくば今後とも変わらぬご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。


まずは略儀ながら、お礼かたがたご挨拶申し上げます。


                  

令和5年4月1日 小野弘晴