生きて死ぬということ | 作家・シナリオライター西村悠のブログ

作家・シナリオライター西村悠のブログ

ラノベ作家・シナリオライター西村悠の近況報告とかです。

 今回は敬語は抜こうと思う。報告ではなく、自分の考えをまとめるための色合いの強い文章だからである。とにかく吐き出しておきたいと思うし、それならこの場が一番いいだろうとも思う。
 
 ずいぶん長い間、このブログを書いていなかったことには理由がある。昨年の後半から少し前までの、半年と数か月の間には、本当にたくさんのことがあった。大変なことというのは重なるもので、これまで経験したことのないような仕事の忙しさに加えて、子供を宿した妻の重いつわりや切迫早産の危険性などが重なり、この期間、育児と家事の大部分をひとりで回すことになった。睡眠時間の大切さはよくわかっているけれど、眠ってしまうと、そもそもの仕事時間が作業量に比してあまりにも短くなりすぎるということもあり、結局睡眠時間を削るというあまりよくない選択肢を取らざるを得なかった。もちろん、精一杯の仕事をしたつもりだ。文字通り身を削って仕事をしたという自覚がある。精神的にも大分追い詰められていて、あとひと月この状態が続いていたら、多分倒れていたんじゃないかと思う。

 そうして、昨年来のこの忙しさのピークにぴたりと重なるように父が亡くなった。実家で眠っている姿で見つかったという。いつものように生活する中で、多分、明日は何をしようとか、誰と碁を打つとか(父は生涯、囲碁に夢中だった)、そんなことを考えながら亡くなったのだと思う。驚くほど、数年前に亡くなった母と、同じような亡くなり方だった。
 

 妻が切迫早産の危険性があるということで急遽入院したその日、父が亡くなったという報を受けた。とるものもとりあえず、妻と子供のことを義理の母にお願いして、電車で実家に向かった。今住んでいる場所と実家はかなり遠く、気持ちばかり焦ったけれど、仕事上のお付き合いのある各所に連絡してしまえば、あとは電車に揺られるだけだった。人身事故の関係で、普段の倍は、到着まで時間がかかっただろうか。持ってきたノートパソコンを開き、少し仕事の文章を書いて、それから、どうしても気持ちが入らず、代わりに、父との記憶について思いつくまま書き散らした。そうすると不思議と気持ちが落ち着いた。
 
 小さな頃から僕は本が好きだった。読書家の父は、それを喜んでくれたように思う。父が喜んでくれたから、なお読書に入れ込んだという動機は、今振り返れば確かにあった。小学生に入りたての頃、父が僕に、児童文学全集を月に一冊ずつ買ってくれた。最初に買ったのは、十五少年漂流記。これが本当に面白くて、最初に島に流れ着いたときの持ち物のリストを読みながら、これからどんな冒険が始まるんだろう、自分ならこの道具でこうして……などと、ドキドキしながら読み進めた。次は西遊記、レ=ミゼラブル、巌窟王、宝島、ヘレンケラー、三銃士、シャーロックホームズ、ギリシャ神話、他にも、たくさん。自分では覚えていないのだけれど、この頃の僕は小説家になりたいと言っていたそうだ。小学校高学年に上がる頃にはその夢を忘れて、高校を中退したときも、そのことを思い出すことなく、僕は小説家を目指した。


 けれどおそらく、僕がどこに向かって進んでいくかは、小学校低学年の頃、父に本を買ってもらった頃から決まっていたのだろう。
 結局多分、今の僕は父から贈られたものでできている。

 小学生の頃から父が死ぬまでの間、本を読み終わったあと、父と感想を言い合うのが習慣だった。父と対等に話せている気がして、嬉しかった。図書館に通うようになると、父も一緒に同じ本を読んだ。父は児童用の本でも喜んで読んで、あの本のここは面白かった、ここがよかった、という話をしていた。あまり、ここがつまらなかったという話にはならなかったと思う。本当にずっと、たくさんの本を一緒に読んだ。中学にいっても高校にいっても高校を辞めてもそれは続いた。父はなんでも読んだ。SF(特に宇宙モノ)、歴史、ノンフィクション、経済小説、ライトノベル(女性向けのものも男性向けのものも)、ホラー、思想書。僕が読んだ小説で父が読まなかった小説はほとんどないというくらい、なんでも一緒に読んだ。僕が本を選ぶときは必ず、父がこの本を喜ぶだろうか、という判断が頭の片隅にあったものだ。グインサーガなんて、1巻から始まってお互いにすごい勢いで読み進めながら、これからこういう展開が待ってるんじゃないか、とか、やっぱり三大魔道師が出てくるとぐっとさらに面白くなる、とか。本を通して、たくさんの物語とたくさんの世界を、父と一緒に見てきた。
 
 だから、今年に入って少しした頃、目の調子が優れず、本が読めなくなってきたという電話に、自分でも驚くほどショックを受けた。それじゃあもう、それはもうおしまいじゃないか、と、なにがおしまいなのかもよくわからないまま、心の中で呟いていた。その数か月後に、父は亡くなった。
 
 父はタバコを吸っていた。僕にとっては、タバコの良さというものはこの年になってもさっぱりわからないけれど、父の吸うタバコの匂いは好きだった。それは父のよい思い出と繋がっている気がする。
 父のことで覚えている最初の記憶はなんだったろう。自転車の練習に付き合ってくれて、けしていいコーチではなかったような気がするけれど、それでも乗れるようになるまで付き合ってくれて、うまくバランスを取ってペダルを踏みしめることができたとき、父の手が離れた瞬間を今でも覚えている。風を切る感覚。世界が一気に広がったような気がした。

 昨年から今年前半。家族旅行の話があって、年老いた父を故郷に旅行させてやりたいという話が家族で出ていたのだけど、僕はコロナのことがあるからという理由で反対していた。もう少し待って、色んなことが落ち着いて、そうしたらなんにも不安を覚えることなくいけるじゃないかと。そんなことを言った。
 父が亡くなったのはその最中のことだった。今でも判断自体は間違っていなかったと思っているけれど、こんなことになるならあのとき……と思ってしまう自分もいる。

 過去の一時期、大学生の頃は家族内で色々あって、僕は父と二人暮らしをすることになった。酒で酔っぱらった父に、僕はよく論戦をふっかけてはあっさり負けていた。知識、思考の柔軟さ、経験、思想の深さ、なにひとつ勝てるところはなく、だから、負けることは全く悔しくなかった。むしろ心地よくさえあった。それでこそわが父、という気がしたし、僕は論戦で負けることを心から楽しんでいた。
 大学生の頃、ある夜の、とある先生を中心とした飲み会で、父と語ったテーマに偶然触れる瞬間があって、教授をうならせたことがあった。先生が僕の言説に感心して、父の受け売りだと恐縮していたら、父はどこの大学の先生なのか、と聞かれ、それがすごく誇らしかったのを覚えている。

 父は金銭に対する執着が全くなく、そのために家族に苦労をかけることが多かった。特に母の心労たるや想像を絶するところがある。
 幼い頃からの家庭内のひずみは段々と大きくなって、家族が崩壊するかもしれないというそのタイミングで、僕は父とふたりで暮らすことを選んだ。そしてその距離感は結局、僕たち家族によい影響を与えた。新しい枠組みでの家族になったような気がする。色々あってかなり急にそのような立場になったこともあり、僕と父にはお金がなかった。お金がなくて米が買えなくなったりもしたけれど、バイトと、奨学金をやりくりして生活費に回したりでなんとか暮らし、築年数が半世紀は優に越えてそうな長屋に住んで(しかし、とても安い家賃に設定されていて、大家さんの善良さがよく感じられた)、周囲には大変だ大変だなんてこぼしていたけれど、内心そんな生活を楽しんでもいた。図書館に行けばいくらでも本を借りてこれたし、学内の奨学金制度に助けられたりで、なんだかんだ大学を途中でやめるようなことにはならなかったし、なにより父は、僕がこれまでに接してきた人の中で一番に賢い人物で、話しているだけで楽しかった。

 そう、賢いという言葉が似合う人だった。本人はふざけて仙人みたいなもんだと言っていたけれど、生きている以上、生々しかったり人間臭かったりした一面も持っていた。そういうものが垣間見える場面も何度かあった気がする。けれど、そういった面をひっくるめても、いや、ひっくるめたからこそだろうか、おそらくこれからも父以上に賢い人に、出会えるような気はしないのである。

 少し話がズレるのだけれど、父が亡くなり、持ち物を整理していたとき、数年前に亡くなった母の手記が、箪笥の奥から出てきた。僕が生まれる直前から一才くらいになるまでの様子やそのときの若い母(今の僕よりずっと若い!)の心持ちが、そのノートには書かれていた。父は僕が生まれたとき、バラとぶどうを持って母を見舞ったそうである。最初は『ちひろ』という名前を僕につけようと思っていたらしい。けれど色々あって、保留に。父は今度は辞書と古本屋で買った子供の名付け方の本を手に母と議論をかわし、悠という名前をつけてくれた。悠然、悠々、という意味で『偉くならなくてもいい、出世しなくてもいいから、父さんのように自由に生きてほしい』と、そこには書かれていた。今の僕がとても父のように生きられているとは思えない。得てきたものより足りないものを数え上げてはため息をつくような、つまらない人間だ。
 けれど自分なりに、名に恥じないように生きなければと、それを読んだとき思った。

 若かりし頃の父と母が、一生懸命、なにもできない小さな自分を育ててくれたのだということを、初めて知った気がした。もちろん理屈の上ではわかっていた。そうでなければ今日の自分はいないだろうから。けれどそれはどこか他人事のような借り物の知識でしかなかった。

 今更のように、その尊さに気づく。以前このブログに、初めて子供ができたときのことを書いた。育児のあまりの大変さに、誰かがこの大変さを引き受けてくれたおかげで自分が大きくなってきたということに驚いた、というようなことを。街ですれ違う全ての人が、誰かが一生懸命育ててくれた結果なのだ、というようなことを書いたと思うのだけど。当然ながら、それは自分もなのである。

全ての大人が、昔は、ひとりでは絶対に生きていけない小さな赤ん坊で、それを誰かが多大な労力をかけて育てたという事実は、なんというか、本当に尊いことだと思う。

 乳幼児だったころの僕は身体が弱く、よく調子を崩していたらしいことが手記には書かれていた。高熱を出した夜などは心配して、母は朝までずっと看病してくれていたそうだ。早くよくなって、という短い文章に込められた心配と疲れのにじんだ優しさが、子供を持つ身となった今ではよくわかる。
 
 父の思い出はどうだろう。囲碁を打つ父の横で碁石を並べて絵を作った。小学生の頃、国語の授業で、僕が書いた詩を父はとても褒めてくれた。この子は文才があるぞ! とかなんとか。一緒に街に出かけると、看板にある漢字の文字を片っ端から教えてくれた。
 記憶にないもっと幼い頃からずっと、ふたりが育ててくれたのだ。何もできなかった新生児が、大人になるまで見守って、世話をしてくれて。

 こんなにありがたいことはない。もらった愛情の分だけ、自分を大切にしなければいけないと改めて思う。そして、もらった愛情の分だけ、家族を愛そうと思う。

 先日、妻は出産という大きな仕事を無事に果たし、僕は家に新しい家族を迎えた。
 今はもう亡くなってしまった両親が育ててくれた僕は、三人の子供の親になった。入院中はコロナの関係で、面会に制限がかかっており、退院少し前、わずかな時間だけ、実際に顔を見ることができた。男の子3人か、女の子も育てみたかったなあなどと、生まれてきた子供に失礼なことも頭の隅で思っていたのだけど、その子の顔を見たらそんなものふっとんでしまった。ゆっくりと動かす小さな手、自分の手と比べると自分が巨人になったような気持ちになる。時々開く目。黒い瞳が灯りを映している。妻にうながされて恐る恐る抱いてみると、あまりにも軽く、身体は熱かった。少し何かを間違えてしまうだけで、すぐに壊れてしまいそうなこの子を、僕たちで大切に育てようと思った。

 人は生きて死ぬ。そうしてずっとそれが繰り返されていくのである。そういう当たり前のことを実感する。父や母の残したものが、僕を通して子供たちに流れていく。なんだか誇らしい気持ちになる。この子達が大きくなったとき、本当に、ほんの時折、なのだろうけれど、心の片隅で、今の僕が思い出すように、いつか僕との記憶を振り返ることもあるだろう。そうであったらいいと思う。

 なんだかうまく言えないけれど、色々なことについて、腑に落ちたような気分だ。

 僕も僕の両親のように、精一杯生きて、少しでもなにか、子供のためになるようなことをしようと思う。そうしてできれば、物語を書いて、誰かにそれを楽しんでもらうことを、これからも許される限り追求していこうと思う。
 父と母だけではない、色々なものに感謝したい気持ちでいっぱいである。