昨日の宮城、笑顔になれた子どもさん、たくさんいたみたいですね。
福島校の開校に続き、岩手でも開催されればいいなぁと思っています。
ただ、岩手、宮城、福島という、いわゆる「被災3県」と呼ばれる地域以外でも、地震の被害が大きかったり、放射能の影響などで苦しい思いをされている地域があります。
私が住む会津若松市は津波の被害が大きかった浜通りの沿岸部からは遠く、直接的な地震の被害も小さく、県内では空間放射線量も低い地域です。
いまは地元のあちこちに仮設住宅が建ち、避難されてきた方々が大勢生活していらっしゃいますが、我が家は風評被害に苦しんでいる農家でも酪農家でもなく、観光業に携わっているわけでもありません。
いま現在も辛い思いをされている方々に比べたら、直接的な震災の痛手は皆無といっていいくらいです。
だから新聞やニュースに気を止めないでいれば、「被災地」という意識をもたずに、震災以前の生活をすることも出来ます。
どれくらいの方々がこのブログを読んでくださっているかわからないけれど、んな地域で生活している新米アラシックである私がいま思っていることを、できるだけ正直に、ここに書いてみたいと思います。
ちょっと、というか、まったくそぉまらしくない真面目な文章になると思うので、興味のない方はすっ飛ばしちゃってください。
東西に広い福島県は、同じ県内でも、福島第一原発のある太平洋側の「浜通り」、福島市や郡山市のある「中通り」 、多雪の「会津地方」の3つにわけられています。
その地方ごとで天気予報も分かれているくらい、その天気や気温は違います。
震災前に亡くなっていますが、父方の祖母が浜通りのいわき市に住んでいたので、子供の頃は毎年、お正月やお盆になると家族で顔を出しに行っていました。
いちめんまっ白な会津若松から完全な冬装備でおばあちゃんちにいくと、暖冬のときなどは近所の子供が半袖短パンで走り回っていたりして、子どもながらに別世界に来たような不思議な感覚になった記憶があるくらい気候が違います。
会津地方の一般住宅に比べ気密性も断熱性も十分とは言えない仮設住宅で生活されている方々は、不慣れな土地で初めて迎えた厳しいこの冬を、多雪と寒さに不便や不安を感じながら越されたことだろうと思います。
今年の3.11特別番組で櫻井さんが訪れてくれた仮設住宅のすぐ裏手に、息子②が通う小学校があります。昨年の3月、息子①はその小学校を卒業し、4月には中学校に入学しました。
息子たちと同じ年頃の子どもたちがすぐ近くに避難してきていて、卒業式も入学式もままならない状況の中で、不安な気持ちを抱えて暮らしている。。。。親として複雑な気持ちで迎えた春でした。
せめて私に出来ることをと考え、炊き出しのボランティアに参加したりもしましたが、避難されてきている方々もその状況は様々。何もかもを失ってしまった方もいれば、家が残っているのに帰れない、という方も。。。
先の見えない不安と、動くに動けない苛立ちをぶつけてくる方も中にはいたりして、なんとも居心地の悪い空気になった、という話も幾度か耳にしました。
帰りたいのに帰れないというのは、ある意味いちばん残酷な状況かもしれません。
もちろん、自分の子供たちの健康のことも心配でした。
子供たちのことを思えば、細かい地域の詳細な空間線量が知りたい。
でも、農家、酪農家、観光業に携わり、「これ以上傷を広げないでくれ!」
と願いながら必死で頑張っている地元の人たちを見ると、
そうそう大きな声で意見もいいづらい。
原発の状況がどう変わるかわからない中で、テレビから目が離せない毎日。
暗くなるような情報ばかりが錯綜し、気は滅入る一方だったけれど、
神経質になりすぎて子供たちに暗い顔ばかりも見せていられない。
無理に笑顔を作ることの難しさを痛感した日々でもありました。
それでも、私はぜんぜん恵まれている。
帰る家もあるし、家族そろってご飯も食べられるし、仕事だってできている。
仮設住宅のそばを通るたび、そのことに罪悪感を感じたりもしました。
私の自宅から車で10分ほどのところに、廃校になった小学校がありました。
大熊町から避難してきた子どもたちが、そこで机を並べて授業をしていると聞き、
その子どもたちのために何かできることはないかと考えましたが、
個人でできることはたかが知れています。
「教育委員会が分かれているので学校同士での交流は難しい」
「子どもたちの気持ちが落ち着くまではそっとしておいたほうがいいのでは・・・」
いろいろな事情を考慮すると、行動ひとつとっても慎重にならざるを得ない現実。
結局、学校を通じて文房具や図書の寄付程度のことしかできない自分が情けなく、その小学校の前を車で通りすぎるたびに無力感でいっぱいになりました。
そんなとき、その小学校に「被災地の子どもたちを笑顔にしよう!」と、志村どうぶつ園から100匹の動物を連れてやってきた相葉くんの姿をテレビで観たんです。
私の落ち込みがピークの時だから6月頃だったと思うんですが・・・…ほぼ1年ほど前。
嵐といえばパッと浮かぶメンバーの名前は二宮和也くらいで、それすら「にのみやかずや」だと思っていた当時の私が、自分にできることの何かヒントになるんじゃないか、そう思って録画しておいた番組でした。
見慣れた場所に現れた相葉くんは、終始ただただ笑顔でした。
そして、そんな相葉くんの周りにいる子どもたちも、みんなみんな、笑顔でした。
笑顔って、人を元気にするんだ。
笑顔って、人を幸せにするんだ。
そうか、笑顔でいればいいんだ。
難しいことばっかり考えて
何もできないとひとりで勝手に落ち込んで
笑顔でいることがつらくなっていた私にとって
相葉くんのそのまんまの笑顔は
本当に本当に、大きな救いになりました。
「いつも笑顔でいること」がどんなに大変なことか。
きっとこの子(相葉くん)だって辛いこともイヤなこともあるだろうに、、、
それをきちんと引き受けて、心から子どもたちと一緒に楽しもうとしてるんだなぁ。。。
「してあげる」という押しつけがましい優しさじゃなく、
「一緒に楽しもうよ!」っていう大きな優しさが伝わってきました。
いくら考えても、私にはできなかったこと。
というか、こむずかしく考えることじゃなかったんだな、、、
感謝と、安心感と、何かいろんな感情が決壊したように、
涙があふれて止まりませんでした。
「いつも笑顔のアイドル」なんて、嘘くさいと思っていた。
だからこの歳まで興味を持ったこともなかった。
そんな私が、すごいなぁ、相葉くんの笑顔ってすごいなぁ、
相葉くんありがとう、ありがとう、、、
そう思いながら、くり返し何度も何度も見ました。
あとから彼の出身地が千葉だと知って、
「あなたのとこは大丈夫だったの?地元支援はしなくていいの?
人のことばっか一生懸命に心配して・・・どこまで心の優しい子なんだよぉ・・・」
って、どんどんどんどん好きになっていっちゃったんだよね、
相葉くんのこと。
いろんな事情があるだろうから、私がかわりに千葉県応援するよ!
って、千葉県産の野菜を買ったりしてね。
そのすぐあとに入院しちゃたから、本当にもう、心配で心配で。。。
そうして嵐さんの番組を見るようになり、
メンバーと一緒にいるときの相葉くんの笑顔がさらに素敵なことに気づいて
昔の嵐さんをさかのぼり始め、その絆の強さを知るにつけ、
ふかみにはまって今に至る、と。
ジャニーズ事務所が行なっている支援活動には、
企業としての責任、という部分もあるのかもしれません。
それでも、影響力の大きなタレントさんを抱えている事務所だからこそ
できることも、意味を持つこともたくさんあるのだと思います。
嵐メンバーひとりひとりの中にはきっとそれぞれの思いもあるでしょうし、
自分たちが望むような形での支援ができない制約も逆にあることでしょう。
それでも「自分たちにできることなら」と被災地に足を運ぶ努力をしてくれ、
「忘れてないよ」っていう気持ちを表明し続けてくれる嵐さんに、
勇気をもらい、元気をもらい、未来に光をもらっている人が、
1年前の私のように、たとえアラシックじゃなくても、たくさんいるはずです。
「音楽のちから」でのあれこれのときもいろいろと考えさせられたけど、
あの日会場にいた人たちだけでなく、自宅のテレビで
優しい顔で歌っている嵐さんたちを見て、
汗だくの笑顔で精一杯に歌って踊る相葉くんを見て、
笑顔になった人もたくさんいると思います。
私一人の力は微力だけれど、私が嵐さんを応援することで、
誰かを元気する一助になるなら、
それも支援活動の形のひとつなのかな、と思えるようになるまで、
少し時間はかかったけれど。。。
自分たちの力を「名も知らない誰かのために」と考えて行動してくれる嵐さんに、一生ついていこう!と思えたんです。
昔からのファンの方を大切にしながら、新しいファンのことも考えてくれる嵐さん。
せめて古株のアラシックさんたちに失礼のないよう、
私なりの誠意をもって応援していきます。
福島校の詳細が発表されたら、ハガキ1通、出させていただきます。
サトシックの息子②と、息子のクラスメイトの嵐ファンの女の子と一緒に「ありがとう」を伝えられたらいいなと思っています。
当たったら感謝し、はずれたら、本当に行くべき方が当たったんだな、と思えるように。
いまから精神修行しときます。
長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。