53次三重県:四日市宿→桑名宿→石薬師宿→庄野宿 | 新労社 おりおりの記

53次三重県:四日市宿→桑名宿→石薬師宿→庄野宿

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前回53次愛知県:岡崎宿→池鯉鮒宿→鳴海宿→宮七里の渡しの続きです。今回は三重県を走ります。

 

(四日市の宿と亀山市和泉橋にて)

 

四日市のホテルで目が覚め、午前6時。風呂に入ってぐっすり寝たせいか、疲れは取れています。朝風呂を使って朝食バイキングを摂り、昨日四日市まで自転車でたどり着けなかった失敗をどうリカバーするか?

 

逆の江戸方向へ桑名宿を攻略して、また四日市に大急ぎでもと来た道を取って返して、石薬師、庄野と攻めて、亀山でどうするか考えようと決めました。午前8時半ホテル出撃!通勤時間ですが待ちきれませんでした。

 

43、四日市宿

 

四日市は工業都市のイメージがありますが、それは海岸地帯のこと。JRより内陸の近鉄四日市の市街は高層マンションなどもある大きくて繁華な街です。かつて高度成長期、四日市ぜんそくなどもありましたが、今は空気が淀んでいるわけでも悪臭がするわけでもない、朝の空気が少し冷やいフツーの街です。

 

しかし東海道沿いに入ってみると、昔ながらの街道沿いの街、という道は広いが建物があまりセットバックしていない、しかし交通量はその割に多くない感じなのです。問屋場のあったあたりは路面が「東海道コーティング」してあるところが親切です。

 

(四日市の本陣のあったあたり)

 

三重県有数の大都市、四日市と桑名の間は朝日、富田、川越など昔は漁村だったと思われる街があります。朝日町、川越町などは四日市や桑名の間にありながら合併しないのです。気候もよく昔から豊かなんでしょう。昔ながらの広壮な住宅も、広大な平野の敷地を活かした工場も多いのです。

 

(朝明橋)

 

大きな川も多く、朝明川の朝明橋は2,000年も前、ヤマトタケルが東征から帰ってくるときに朝目を覚ました伝説の場所。ほとんど敷地のひろい住宅街に工業地帯、さらに近鉄とその関連会社、三岐鉄道、JRが入り乱れた「鉄道地帯」でもあります。JRをくぐったかと思うと、近鉄本線の踏切で特急電車を待つ、通りがかりの駅では小さな電機の貨物列車が発車を待っている、という具合です。産業のあるところでは鉄道も表情に富んでいます。

 

(伊勢朝日駅)

 

そんな近代化の進んだところに寺やお地蔵様のほかに道標や一里塚の跡などヒョッと現れるから街道下りはやめられないのです。街道の雰囲気を探すのと、鉄道のわだち、垣間見える地域の生活を見つつ行けば決して退屈しないし、自転車でスピードを出して行くのが惜しいと思われるくらいなのです。

 

(桑名付近)

 

最初は丘陵地帯を縫っていく旧東海道は、桑名に近づくにつれて平坦になり、桑名城址が見えると、昨日行った七里の渡しの帰着港、桑名宿です。10:30頃着きました。

 

42、桑名宿

 

七里の渡しの桑名港はどういうところか?分厚い堤防に隔てられた中の小幅の水門の周囲が、桑名場も含め公園として整備されています。船着き場っぽかった名古屋の宮宿とはエライ違い、というのも、この桑名港は大河3つ(揖斐川、長良川も1つ木曽川)に面していて、洪水の災禍にたびたび巻き込まれてきたからです。

 

(桑名城址)

 

まずは江戸中期の薩摩藩の犠牲者(疫病の他に切腹)を多く出した宝暦治水、明治の改修を経て死者4500人以上を出した伊勢湾台風もあったのです。要塞のような堤防上に江戸時代の遺跡、という異様な風景は伊勢湾台風が作ったものです。

 

 

すぐご近所は桑名城、宿の本拠、問屋場も港近くにあります。水がチャプンとくるような港では、3川が大洪水を起こしたらひとたまりもなかったでしょう。桑名藩は豊かと言われていましたが、交通の要所は治水の必要があったのです。公園には治水史の説明版が多くあります。

 

43、再び四日市宿

 

さあ対岸にはるか名古屋(宮宿)を望み、また東海道を取って返します。幹線道路を飛ばし、途中11:30に吉野家で昼食を摂り、12時過ぎに四日市のさっきスタートした場所に戻ってきました。行きは旧東海道になるべく忠実に、あちこち寄って2時間でしたが、帰りは食事も含め1時間ちょっと。歩道橋を上がったりしましたが、今の道はやっぱり能率がイイのです。

 

(これも東海道)

 

★日永の追分

 

市街地より西の四日市宿は、東の桑名寄りと雰囲気が変わります。あまりマンションやビルのような高層建築のない、昔ながらの敷地の広い一軒家が連なる、軽い勾配もあるやや狭い2車線の道という感じです。商店街の中の東海道も、幹線道路も、いなか道の東海道もあります。

 

ここら辺は「日永の追分」東海道がお伊勢参りの街道を分けるところです。今の名古屋のような役割だったでしょう。日永は分岐点として栄えたのです。

 

(左:伊勢神宮、右:京)

 

また「近代化されたナローゲージ」四日市あすなろう鉄道に沿って走ることになります。途中の日永駅、線路を渡って追分駅、終着の内部駅前を旧東海道がとおっています。内部も間宿ではありませんが、神社寺院を中心とした歴史のある特徴的なコミュニティでした。方々にホタルがいるのです。

 

 

★内部駅

 

あすなろう鉄道内部線の終着駅。フツーのローカル駅ですが、車庫があるせいか駅員さんも2人います。デイタイムですがお客が2人3人と乗ってくるのですね~私は乗りませんが、最短切符を買い、スタンプなど捺して駅周囲を見学します。駅舎と車庫と修理工場、側線もあって付属車両が停まっています。

 

(オレンジの線が東海道)

 

軌間762mmと新幹線の半分ほど、1人掛けの座席が1対ずつ並ぶ車内です。なんだかバスを3両編成にしたような独特の電車です。おもちゃのようで鋼鉄製なのでずっしりしています。ただ電車ですから、ドアが閉まると軽々と発車していきます。さっきの近鉄の特急は1435mm軌間。

 

(内部駅反対側から)

 

★杖衝坂

 

内部川を越えて、東海道は住宅街のようなところに入ります。その一角から丘に登る急こう配の坂が杖衝坂です。東京のど真ん中にある急坂のように、滑り止めの丸印が打ってある長さ数百メートルの坂です。内部の交番のおまわりさんに道を尋ねても「つえつきざかへ行くんですね!」と明快に出てきます。それだけ有名な坂なのです。

 

天下の東海道、人通りが多かったというのもあったのでしょうけれども、ただ松尾芭蕉が落馬したという伝説で、有名な坂になったのです。山中で急にうっそうと暗く、私設「博物館」もありましたが誰もいなくて、あっという間に越えます。並行する国道一号を自動車で行っては気づかないでしょう。丘の上にも家がありますが、空き家もあるようでした。

 

(ここも東海道)

 

坂を越えると大平原。この平原に出るための峠だったでしょう。ただ旧道も合する大幹線国道1号線は怖いこと!定期便大型トラックが高速ですっ飛ばし、横断歩道もろくになく、歩道は背の高い草が生えています。草に脚をツンツン切られ、切り分けながら走ると、ようやく石薬師宿への入り口で旧道が分かれます。

 

(国道1号線、これも東海道)

 

44、石薬師宿

 

小学生の下校時刻で、帰途に就く列に注意しながら石薬師の宿場を行きます。保存はしていないけれど、ムリな開発の難も逃れた感じ。江戸のころはお伊勢参りの喧騒と無縁で、やや地味な宿場だったようですが、今でも地味で、古い家屋の存在感があり、住民もトッポイヒトはいなさそうな平和な雰囲気です。

 

 

ここでのトピックは佐佐木信綱資料館です。明治から昭和戦後まで活躍した歌人にして国文学者、万葉集などの解釈、和歌の体系化などに功績がありました。今日は月曜日。あいにく開いていませんでしたが、隣接する生家は文化財です。

 

信綱の親父さんが幕末の思想のバックボーンになった国学を学んだ歌人で、時代の流れに乗って文学の素養が培われたのです。街道沿いの偉人ですが、ザワザワした繁華さでは、こういう人は出ないでしょう。

 

(資料館と生家)

 

坂を下りて田んぼの中を行き、またまたコワい国道1号へ。対向車線を行かざるを得ず、旧道と新道が一致していますからしょうがない。これもしばらく走ってようやく旧道が分かれて、落ち着いた宿場町を走れます。

 

(私邸と本陣兼ね備えの宿)

 

45、庄野宿

 

 

ここもお伊勢参りから外れた地味な宿場町だったようで、ただし名古屋より遠い分、古い家屋は石薬師より残っている感じです。浮世絵師、歌川広重の傑作「庄野の白雨」で有名になりました。たまたま庄野でにわか雨があった景色ですが、躍動感のある絵画です。

 

 

中央の公民館のような「本陣跡」では、若い衆が集まって何か催しをやっています。東海道では小規模な宿場で、隣の石薬師から2.7kmという近さもあるので、こじんまりとまとまっているのでしょう。そして今日の目的地汲川原!

 

(本陣跡と汲川原の道)

 

汲川原というのは、前回来た時にここから46番目亀山宿~52番目草津宿まで走った起点です。特に名所でもないのですが、自動車道路の交差があって、旧東海道がブチブチに切られているところです。ここを突破すると、おととし通ったなじみのある風景を走ることになります。時に15時ごろ。ここまで息せき切って走ってきました。

 

★井田川駅

 

鈴鹿川の支流安楽川にかかる和泉橋のほとりで業務電話。曇り空の下考えました。明日は関西から関東まで大雨。関西もやむのは午後、だから草津~京都三条大橋まで行くのは明日はムリ。かといって今日中に行くと、京都への逢坂越えは18:00過ぎで暗くなってからになる、初めてのそれも幹線道路で暗夜行路は避けたい、というわけで東京に帰ることにしました。

 

 

和泉橋からさらに走って10分、JR井田川駅があります。そこで自転車をたたんで帰ります。15:40頃着いて自転車をたたんで40分ほど待ちます。気勢をそがれてぼんやりしていると名古屋方面からの下校の高校生がドッと降り立ったりして、にぎやか。平日の大都市行きの電車はそんなに混んでいません。自転車を括り付けてロングシートに座り安楽に休みます。

 

井田川 16:29~17:34 快速電車名古屋行き

名古屋 18:06~19:45 のぞみ172号東京行

 

(八重洲口)

 

八重洲口で自転車をまた組み立て、走り出して20時過ぎ帰ってきました。この2日で岡崎、知立(池鯉鮒)、鳴海、宮(名古屋)、桑名、四日市、石薬師、庄野の8宿80km余を走り抜け、残るは草津宿→大津宿→京都三条大橋の2宿間だけになりました。良かったところ、反省点は以下の通り。

 

・ヘルメット初めて付けましたが、重くもなく風通しもよくイイですね!帽子よりイイです!

・愛知⇒三重のあたりは近代化と古くからのものが共存している感じで至極良い。

・名古屋に宿をとるべきを、欲張って四日市に取ってしまった!四日市―桑名間往復ロス。

・備品の忘れもの。下着にコンセント。今回はサイコンもスマホもバッテリーから充電。

 

東海道2宿ではあっという間に終わってしまうので、クソ暑くなる京都盆地か、あるいは近江の中山道を組み合わせ、西への帰省のついでにしようかと考えています。

 

<53次愛知と三重県、完>