日本輸送船団列伝 | 新労社 おりおりの記

日本輸送船団列伝

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太平洋戦争80周年。日米行き違いの最後通牒の後、飛び交う弾丸の第1発は、真珠湾でもフィリピンの島でも海中でも空でもなく、マレー半島上陸の日本軍を迎え撃つイギリス軍守備隊の機銃弾または砲弾発射でした。日本の輸送船団から発船した上陸用舟艇を迎え撃ったのです。

 

「日本輸送船団」は、戦艦戦隊や空母機動部隊よりも、海に囲まれ太平洋で戦った日本に戦争に必要な資源確保のかなめでした。当時でも世界有数を誇った海運力は、地球の6分の1を征服する原動力になり、大戦後半、アメリカが潜水艦戦術の転換から、魚雷の改良まで務めた結果、日本を敗戦に追い込んだ最大の原因になりました。

 

その中で話題になった輸送船団をご紹介します。

 

 

🚢 マレー攻略船団

 

広大なアジアのイギリス植民地を、開戦当初根こそぎ奪おうという大部隊を載せた輸送船団で、主に台湾や中国から開戦前からひそかに南方に出ました。開戦前から中立国のタイへ行くような偽装航路を取ったり、イギリスの哨戒機を追い払ったりしました。

 

開戦しマレー半島所々に何十隻の輸送船をバラ撒き、艦隊の支援が間に合わず、輸送船自体も機銃などなくまだ丸腰のものが多く、飛行機のたった1発の爆弾に撃沈されたフネも出ましたが、重火器含め上陸はおおむね成功しました。

 

🚢 ジャワ攻略船団

 

オランダ植民地の首都のあるジャワに上陸する上陸用強襲船、防空基幹船を含めた優秀船で固めた大船団。上陸を始めた中で、アメリカ・イギリスの巡洋艦に襲われました。軍司令官の座乗した船も沈み、司令官も南海を泳ぐことになりました。兵力と物資の大部分は無事で、3か月で蘭領インドネシアを攻略できました。

 

日本艦隊がこれを撃滅しましたが、その後沈んだり大破した輸送船は、日本の魚雷によるもので、海軍が陸軍に秘かに陳謝することになりました。

 

🚢 ボルネオ攻略船団

 

ボルネオは世界で3番目に広い島ですが、坂口支隊ほぼ一手で攻め取りました。ただ石油基地タラカン島に上陸後、輸送船団が連合軍駆逐艦に襲われ、護衛艦も間に合わず、たった駆逐艦4隻の兵力で輸送船5隻、掃海艇2隻が撃沈されました。ただ陸兵の損害はわずかで、輸送船を失ってもジャングルに慣れた坂口支隊はボルネオを横断し、3か月で全島占領しました。

 

🚢 ガダルカナル輸送船団

 

第2次輸送は、1個師団(1万数千人)を送るため、輸送船11隻で出て、途中空襲で6隻が撃沈され、1隻が引き返し、残り4隻はガダルカナルの海岸に乗り上げて、揚陸作業をしているところへ狙い撃ちされて全輸送船が失われました。まだ力のあったゼロ戦の護衛はあり、輸送船もハリネズミのように対空兵器を搭載したのですが、アメリカ軍の爆撃機が質量で優れていたのです。

 

この輸送船第2次輸送の失敗は、ルーズベルト大統領に「これでこの大戦の目鼻が付いたようだ」と言わしめました。ミッドウェー海戦などより大きい意義があったのです。これ以降、ドンと物資を送れる輸送船は出せず「蟻輸送」(小型舟艇)「鼠輸送」(駆逐艦)による細々とした輸送になり、部隊は飢えて撤退に向かいました。

 

(沈没した笹子丸)

 

🚢 ヘル・シップ

 

連合軍の捕虜を乗せた船です。設備は貨物船改造で劣悪。トイレすらない状態で居住性が悪かったからヘル・シップというのです。捕虜をあちこちの鉄道等の工事現場で使役するため運ぶ途中に、同じ連合軍の捕虜を乗せているとも知らず、連合軍の潜水艦、航空機が待ち構えていました。

 

そのうちの1隻「順陽丸」は、6,300人のうち5,620人が死亡し、終戦まで生き残ったのは100人程度だったといいます。1隻で海没した犠牲者としては、タイタニックや洞爺丸をはるかに上回る数です。「りすぼん丸」は沈むのに時間がかかりましたが、捕虜を船倉から出さず、1800人のうち800人が溺死し、戦犯裁判の対象になりました。

 

🚢 恨みは深しダンピール

 

ラバウルからニューギニアに新兵力を送り込むべく、輸送船8隻に、同数の艦隊型駆逐艦8隻という強力な護衛。1個師団の増派でした。しかし海軍部内では制空海権を握られ「無謀だ」と反対論が多いのを、「冒険してみる」「決まったことだ」と決行したのです。

 

運ばれる将兵の中には発狂者まで出ました。当然のように制海空権を持つ連合軍航空隊、魚雷艇や潜水艦などに狙い撃ちされ、輸送船全部と駆逐艦4隻を撃沈されました。

 

(艦隊決戦に用いる駆逐艦)

 

「敵機が海から湧いて出た」といわれた予想外のスキップ・ボミング(反跳爆撃)と、高空だけを警戒していた護衛機の空振り、船の他、日本駆逐艦の大きさの割に対空装備の少なさが招いた悲劇でした。

 

🚢 松輸送

 

サイパン島への防備輸送。11回船団が出、アメリカ潜水艦の跳梁をかわして、一応成功しました。1944年3~5月に投入された延べ100隻の輸送船のうち、沈没は3隻にとどまりました。その原因は高速優秀船を専用した、また島伝いの航路を外れた、護衛艦の犠牲によるなどがあります。

 

アメリカ側の潜水艦魚雷の不発や自爆があったという理由もあります。ペリリュー島守備隊が善戦したのは、この船団の間接的成功のおかげというのもあります。

 

 

🚢  ヒ71船団

 

空母や駆逐艦を含めた30隻近い重装備の日本期待の船団。フィリピンだから、日の丸だから“ヒ”というのです。台湾、マニラと経るうちに撃沈され小さくなり、最終的には10隻ほどがシンガポールに着きました。警戒用の飛行機を積んだ空母大鷹は、発着できない夜間、しかも暴風雨のうちにレーダーで忍び寄った潜水艦の魚雷を受けて火柱を上げて沈み、それで動揺し分散した船団も狙い撃ちされました。

 

4,700人を超える兵力が全滅した玉津丸はじめ8,000人が海没し、失敗に終わりました。アメリカの狼群戦法、沈没しても分散した護衛艦の救助がなかったのも原因でした。30隻あっても大西洋の米英の50隻を超える船団に比べれば中途半端に小規模で、護衛が行き届かなかったのです。

 

 

🚢 南号作戦

 

昭和20年1月から、沖縄が陥落する前に、何とかやせ細る本土に資源を運ぼうと、小単位の輸送船団をたくさん出して資源を運んだ戦争で最後の船団。10数回にわたり成功したものもありましたが、大多数は潜水艦の大群や大空襲で悲惨な最期を遂げました。

 

タンカー30隻のうち帰ってきたのは6隻、輸送船は45隻のうち25隻が生き残りました。船団側も沿岸航行や、意表を突く航路など工夫しました。軍艦を使った北号作戦は戦艦2、巡洋艦1、駆逐艦3が無事日本に帰りました。

 

🚢 最後のヒ88J船団 ホモ03船団

 

昭和20年3月、南方にあった輸送船や護衛艦をかき集めた最後の船団。輸送船7、護衛艦10。潜水艦に前部をもぎ取られた大型駆逐艦「天津風」もその中にありました。空襲に潜水艦で消滅し、何とか香港に着いたのは護衛艦3隻のみ。

 

香港からその生き残りと輸送船数隻で編成したホモ03船団(ホンコンと門司の意味)も日本までの間に、主に航空攻撃で次々撃沈され、日本に無事に着いたのかどうなったのか分からないありさまでした。「天津風」も香港までしか行けず、マカオで爆破されました。

 

(空母になる前に沈んだぶらじる丸)

 

欧米の輸送船団が、4~50隻の輸送船に1隻の護衛空母、7~8隻の護衛艦で横長陣を組み、Uボートの攻撃を防いで効率的な輸送をしていたのに対し、日本は小単位、縦長陣で狼が順繰りに獲物を選べるような隊形で輸送していたことも、脱出困難な貨物船改造の“旅客船”で将兵を運んでいたのも原因です。

 

戦局の悪化以上に日本の輸送船隊は戦争の悲劇の原因でした。シーレーン防衛の大東亜戦争80年前において勇戦し、鉄箱に閉じこめられて沈められ、苦しい思いをして無念の戦死をした幾多の船員・将兵に合掌。