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「山川草木料理 須多」

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洞戸の春はもう少し先になるか。
峠の麓にある千本桜の並木道には人通りがない。
満開になれば綺麗ですよ。人もたくさん来ます。そう言って須多のご主人は綺麗に巻かれたおしぼりと昆布湯を出してくれた。
料理屋の周りには春を待つ山々がそびえて、その渓谷には6月の鮎を待つ板取川が流れている。
昆布はしっかりと醤油で炊かれていて、うつわを口に近づけた時の豊かな香りが、気持ちを急ぐ私の胃を落ち着かせてくれた。昆布が美味しい。妻は嬉しそうに私の顔を見上げた。


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今日はお祝いと聞きました。須田のご主人がにっこりと微笑みながらお盆を差し出す。
そうなんです。結婚7年目の記念でして。そう言って軽く会釈をしながらも私の心は向付の色合いに目を奪われる。
実は先生からお花もお預かりしているのですよ。どうぞ一献。細かな打ちが職人の仕事を感じさせる鉄瓶を持ちながら朱色の器に酒を注ぐ。
え、本当ですか?それは嬉しい。驚いた口を押さえながら妻と私は互いの目を見遣った。


フナクリサマーセミナーに行ったのは去年の6月のことだった。
胎内記憶を研究する池川先生のお話を聞きたいと思い、その一心で向かった会場には200人近い数の人が来ていた。私たちは後ろから3列目くらいの椅子に座り、船戸クリニックの院長先生と池川先生、ピアノ奏者であり作曲家であるウォンウィンツァンさんの話に耳を傾けた。
胎内記憶の話をするとね大体皆さんに不思議な顔をされるんですよ。どうして先生は生まれる前の記憶を知っているのですか?その話は科学的に根拠のある話なのですか?とかね、皆さん口を揃えてそんなことはありえないと言うんです。でもね私が逆にその人たちに聞きたいのはどうして否定するんですか?ということなんです。私は胎内記憶のある子どもたちの話を聞いたことを集めて皆さんにお話ししているんですが、生まれる前の記憶やお母さんのお腹の中にいた時の記憶があることがそんなに変なことなんですか?記憶があることであなたにどんな不都合があるのですか?とね聞いてみるんですけど、大体大抵の人は不思議な顔をして、私のことを怪しいものを見るようになるんです。その後、少し微笑みながら池川先生は言った。ですからね、この話に興味を持ってここにわざわざ聞きに来る皆さんたちはね、怪しい人たちなんです。

200人近い人たちからどっと笑いが溢れた。

岐阜県にある船戸クリニックという病院で行われたサマーセミナーの一環として池川先生やウォンさんがゲストとして呼ばれたらしく、院長の3人を含む会話を聞いているだけでとても面白い内容だった。
途中休憩を挟むお昼には事前希望者だけに2000円のお弁当が配られた。
私たちは「山川草木料理」という聞きなれない言葉に興味を持ち、妻と私と2人分お願いをしていた。
そのお弁当は私の想像をはるかに超えたものだった。
一品一品の盛り付け、色合い、風味、すべてが新鮮に見える。
私の考えの一つとして料理を盛り付ける時、食材と食材の間に空気を入れると美味しくなるという考えがある。
重なり合ったとしてもお互いが寄り添うように盛り付けると美しくなると思っている。がしかし、お弁当となるとその難しさは計り知れない。時間の経過とともに形を変えてしまうのがお弁当を作る上で最大の難所であることは私も重々感じていたが、このお弁当はそれを凌駕していた。
私はこの時、里芋を口にしただけで「参りました。」と呟いたのだった。


それから数ヶ月が経ち、私たちはあのお弁当にどうしたらもう一度出会えるのかを考えていた。
幾度となくお店のホームページを見ながら電話をしてみようと心がけたのだが、どうしても手が進まないのだ。
値段がどうこうとか、場所がどうこうではなく、そもそも私たちが入っていいのか?という未知なるものへの戸惑いがある。このお店に行くには私はあまりにも無知すぎると感じた。妻も同じ気持ちだった。


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食事をする部屋から日本庭園が見える。
もう少し暖かくなれば鳥の声も聞こえてきます。このお庭も少し荒れていたんですけどね、毎日手入れをしていると楽しくなるものですよ。先生のご実家も元々大変素晴らしい造りでしたから、ここでお店をやれることがとても嬉しいんですよ。私は本当に先生に感謝しております。ご主人はそう言って微笑みながらお盆を下げ、縁側を静かに歩いて行った。


向付で出たお造りの美味しさに余韻が続く。
すだちの香りとわさびの香りが華やかにお造りを彩る。
こんなに美しいお造りは経験したことがないな。と考える私の前で妻は良かったね。良かったね。と何度も喜んでいる。
いや、本当に先生が電話してくれたおかげだよね。そうじゃないと私たちここに来れなかったと思うもん。だってね、1日1組限定だよ。しかも結婚記念日の当日にこうして予約が取れたなんて凄いことだよね。ありがとうございます。ありがとうございます。妻は手を合わせて何度も先生に感謝していた。


妻は去年の健康診断結果に再検査のお知らせがついて来た。
身に覚えがない箇所の再検査に戸惑う妻は、家からは少し遠い船戸クリニックの病院を選んだ。
自分で車を運転して1時間かけて病院にたどりつくと、庭にはヤギがメェーと鳴き、待合室では猫が堂々と歩く病院だと私に教えてくれた。そして再検査の結果はなんでもなかったという事にホッとした。
船戸クリニックでは様々な診療を行っているらしく、その中でも妻が長年苦しむアトピーについても診療してくれることを知り、2ヶ月待ちの診療を予約し漢方薬によるアトピー改善を始めた。


診察室には頭の良さそうな犬が静かに座っているらしく、診察を行ってくれるのが院長の奥さんだと言う。
1度目の診察を終えて帰ってきた妻は、奥さんはとても素敵な人だったと私に教えてくれた。
その頃に私たちで話していたのは結婚記念日をどうするか?ということで、こういった話をするとき、どうしても思い出すのがあのお弁当であった。どうしたら予約ができるのか先生に聞いてみようか?と妻が言い、私はそうして欲しいとお願いをした。

こうして妻は2度目の診察のとき、先生にセミナーで食べたお弁当が忘れられないということ、結婚記念日にお店に伺ってみたいということ、予約した方がいいですよね?と聞くと、先生はこう答えた。それは絶対予約しなきゃだめよ。だって1日1組しか入れないんだから。あら、あなたあのお弁当を美味しいって思ってくれてたの?私も嬉しいわ。私からもぜひオススメするわ。いってらっしゃい。そうだわ、だったら私が電話してあげるわよ。ちょっと待ってて、もしもし須多くん、27日のお昼空いてる?あら?本当?行きたいっていう人がいるのよ。予約取れるかしら。じゃあお願いね。良かったわね、ちょうど27日は空いてるみたいよ。あなた達ラッキーだわね。いってらっしゃい。楽しんできてね。


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お椀を開けると鶴が舞いおりた。
しんじょうの入ったお吸い物からはお出しの香りが鶴とともに部屋中に広がる。
私は何度もお椀に顔を寄せてその香りを嗅いだ。
ああ、素晴らしい。良い香りだ。口に入れずともその美味しさが伝わるようだ。
ただいまお弁当をお持ちいたしますので。

お部屋から微かに聞こえるご主人の足音が私のワクワクを増幅させる。
次は何が来るのだろう。あぁ、来た来たとこの部屋に歩いてくる姿を頭の中で追おうと、まるで子供のように興奮してしまう。この人は初めてこういった料理を食べるのだな。と誰が見てもわかるような姿だったと思う。


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お弁当の蓋を開けると、そこには盛り付けの美しさ一つ一つが大事に作られ、どれをとっても主役になりうる食材たちの堂々とした姿があった。菜の花とこごみ、筍などが春の訪れを感じさせ、暖かな日差しがもう直ぐそこに待っているようなお弁当であり、ご主人が縁側を歩いて料理を運んでくる足音がワクワクする私の心とリンクした。

とにかく仕事が丁寧であり。食感が素晴らしい。
こんな筍があるのかと洞戸中を探したくなるような煮方だ。
これが山川草木料理か。と箸が止まらないのは妻も同じだ。

改めてこうして文章に書くとなれば落ち着いて言葉が出てくるものの、実際いただいているこの席でなんとご主人に伝えていいか、口下手な私は美味しいです。美味しいです。としか言えなかった。
今は驚きすぎて頭の中で整理できていませんが、作文を書きたいくらいの気持ちです。と私は伝えた。


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最後のデザートを頂く頃、ご主人である須田さんといろいろとお話しすることができたことが、何よりも貴重な時間だったと思う。知識のない私にわかりやすく料理の世界を教えてくれた。
そして、須田さん本人の経緯について話してくださり、料理を作っていたら山川草木という形になっていったのだと言っていた。茶道を勉強し茶懐石を覚え、ご自身の理想とする茶室を作りあげた。茶道の世界では料理は脇役でありお茶を楽しむための一つに過ぎないと聞いた時は衝撃的だった。
私は今まで知る由もなかった新しい料理の世界を少しだけ見ることができたのだった。



素晴らしい経験をさせてくれた須田さんと、その機会を与えてくれた先生、そして7年間飽きもせず連れ添ってくれた妻にありがとうと伝えたい。

美味しい料理をごちそうさまでした。
素敵な時間をありがとうございました。
必ずまた行きますので、宜しくお願い致します。