先日、最先端のロボット技術を研究している人と話をした。
「やっぱり未来は、お手伝いさんとかもロボットに
なっちゃうんですかね」
冗談のように口にした。
でもよく考えたら、すでに今だってそうだった。
ネットカフェにいけば、
押せば自動的にとびだしてくるジュースやコーヒー。
勝手に読むことのできる雑誌やマンガ。
電源を入れれば、きちんと立ち上がるパソコンにDVD。
仕切りの向こうにいる人は、顔も姿も見えないし、
匂いもしないし、何をしているのかもまったく分からない。
「おタバコはお吸いになりますか」
「女性専用席にご案内してもよろしいでしょうか」
「フロント裏手になります」
「お会計は1260円です」
「またお越しください」
こちらがハイかイイエと意思表示すれば、
いや別に意思表示しなくても、
勝手に自動的にすすんでいく仕組みになっている。
気づけば、どこでも、あそこでも、同じ台詞がくり返され、
同じ応対をくり返し、そして意外と心地よく生活している自分がいる。
ネットカフェは静かだし、禁煙喫煙に分かれていてクリーンだし、
長くいても白い目で見られないし、隣の人に干渉されなくて好き。
スタバやエクシオールは、どこでも同じような店内で、
どんな応対されるか決まっていて、明るい雰囲気だし入りやすい。
はじめての店に行ったときの
「どこに座ればいのかな」とか
「長くいても嫌がられないかな」とか
「明るい席はどこかな」
とか、そういうことを考えることが億劫になっている。
「人はそれぞれだ」「人の生き方はいろいろだ」「それを認めたい」
なんて頭では思っているのに、
そういう、「いろいろ」を経験するのが面倒になっている。
だから昔に比べて、いろいろへの免疫がなくなっている気がする。
いろいろに対応できなくなっていると思う。
今のわたしがいろいろを受け入れているのは、
「そうしなければならない」という義務感、知識のなかだけだ。
なぜなら、明らかにいろいろを避けて生活しているもの。
いろいろと無関係でいたいと思っているもの。
だったら、ロボットでいい、と思っていることと同じだよね。
……続く。