時をかける少女のように -2ページ目

時をかける少女のように

なんとなく生きることも良しとします。

とりあえず一週間続いた。
また一週間続ける。



今書いている物語が、途中でだんだん魅力的に思えなくなってきた。
というのも、わたしは長編の物語を書いたことがない。
いつもの物語を作るパターンとして、思いつくままに書き始めて、何度も何度も手直しをしながら何年もの時間をかけて仕上げるからだ。
それに、仕上がっていないまま、放ったらかしにされている物語の方が多い。

これではいつまでたっても物語が出来上がらない、と思って、最近になって始めてプロットと呼べるのかどうかは分からないけれど、ちゃんと計画をたてて物語を書くようにしてみた。
でも、そうしだしてから、余計に面白味がなくなってきた。
わくわくしない。
自分で物語の全体像が見えていたら、もう結末も分かっているわけだし、わくわくしないのは当たり前のことかもしれない。

思えば、わたしは「この先どうなっちゃうんだろう?」とわくわくすることが好きなのだ。
好きなのに、自分が書いてしまうと「この先どうなっちゃうんだろう?」が感じられないのは、矛盾している。

行き当たりばったりで書いていたときには、「この展開おもしろいかも!」と思いついた後で、物語の前半部分を大幅改訂することも多々ある。
そんなことをしているから、時間がめちゃくちゃにかかってしまうのだろう。


やりたいことはあるのに、それが矛盾をしてしまっているのが、難しいところだ。
あなたにも、そんなことってある?
ハリネズミのジレンマ、みたいな。




同じように物語を作っている人からは、行き詰まっているなら、無理に仕上げようとせずに別の物語を書いてみるのもいいかもね、とアドバイスをもらった。
そうした方がいいのかな。
今まで、あまりにも中途半端に放ったらかしにしてきた物語が多すぎるから、仕上げることから手を離してしまうことが怖いのかもしれない。

ああ、書いていて再認識したけど、そうだな。
わたしは、「この物語も、また放ったらかしにされてしまうのか……。仕上がらないままなのか」って思うことが怖い。

怖いことには、たぶん足を突っ込んでいった方がいいから、アドバイス通りにしてみよう。
何にしても、やらない後悔より、やった後悔の方がいいのは分かっているから。


良い情報を手に入れた。
人の中には最低でも11個のキャラクターが存在しているらしい。
と、いうことが研究結果で明らかになったんだとか。
何の研究だったかは忘れてしまったけど。

前々から、自分の中にはもう一人別の自分がいるような気がする、と思っていたこれは、あなた以外には絶対に言えないことだと感じていた。
なぜなら、あまりにも「厨二病」的発想だから。
誰かに話そうものなら、「もう一人の自分とか……(笑)」と笑われるに違いない。
めちゃくちゃ恥ずかしい考えだと思っていた。

でも、恥ずかしいと思わなくてもいいのかもしれない。
11個のキャラクターが存在しているのに比べたら、1個なんて可愛いものだ。

さらに、その研究によると、よりキャラクターがたくさん存在して、それをちゃんと認識し、コントロールができる人は、 より客観的に物事を捉えることができるという。
最近、客観的に物事を捉えられるようになればいいのに、と考えていたので丁度良い機会だ。
これを機に、自分の中にはどんなキャラクターがいるのかを考えて、書いてみたいと思う。

書き出すのにも、ちゃんと理由がある。
わたしは他人と話しているときに、「あ……今自分、こんな感じだな」と思うことは常日頃からしているけど、それだけではキャラクターの存在を明確にできない。
だから、しっかりと書き起こしておいて、日常的に「そういえばこういうキャラクターがいた。このキャラはこんな感じで……」と思い出す必要がある。
そうすることによって、よりキャラクターをコントロールできるようになるだろう。

せっかくだから、思い出しやすいように、キャラクターに名前も付けておくことにする。



今、ふと思い浮かんだのは、何者かになりたい自分だ。
めんどうなので、名前はそのまま「なにものちゃん」とかにしよう。

なにものちゃんは、自分が多くの人から尊敬されたり、注目を集めたりすることを妄想するのが好きだ。
そして、自分ならその妄想が何の努力もなく達成できてしまうんじゃないかと思い込む。

なにものちゃんは、動くのが嫌いで、じっとしていて受け身だ。
だから、妄想もするけど、いつまでも妄想の中に浸ったままでいる。

たまに妄想が達成できてしまうんじゃないか、と強く思い込みすぎると、何か新しいことを始めようとする。
始め方は、たいてい見切り発車。
細かい作戦を立てて動き出そうとすることはまずない。
なぜなら、「何の努力もなく」達成できてしまうんじゃないかと思い込んでいるから。
他の人がたくさん努力してきた、という経験談を聞いていても、自分ならそんな苦労はしない、と謎の自信と思い込みで突き進もうとする。

そうやって、フットワークが軽いところは利点でもあるけれど、やっぱり妄想は妄想にすぎず、すぐに打ち砕かれることになる。
聞いたことのある経験談と同じようなことが自分に訪れても、「自分はこうなるはずではないのに。おかしいな」「こんな現実は認めてはいけない」などと現実逃避をしようとする。
もっとエネルギーが低いときには、なにものちゃんにヒビが入って、「こんなふうに妄想をして、自分ってなんて痛いヤツなんだろう……」「そもそも自分なんかにできる能力があるはずない」と壊れてしまう。

なにものちゃんは、外見がキラキラと輝いているガラスみたいだけど、そのガラスは薄くて中身が空洞になっているから壊れやすいのだ。

なにものちゃんは、他人も自分と同じような外見をしているように見える。
他人が羨ましくて仕方ない。
それだけ、なにものちゃんは他人の良いところを見つけるのが得意で、見つけたらそこだけがキラキラと輝いて見える不思議な目をしている。

けど、なにものちゃんはそのキラキラと輝いているガラスが、自分みたいに薄っぺらくなくて、中身が詰まったものだと思っている。
ちゃんとその人が努力をしてきたことも、認められる。
だからこそ輝いているんだということも分かっている。

なにものちゃんができないことは、能動的に動くこと。
それに尽きる。


あるテレビ番組を見ていて、「おっ」と思った。
鳥が魚を捕まえて、自分の子どもにそれを食べさせている。
そこへ別の鳥が来て、魚を奪ってしまった。
魚を奪われた鳥たちは、何も言わない。
それも運命、という感じだ。

これって、動物の世界では普通のことなのだろうか。
普通だとしたら、その普通の概念ってすごいことだ。

動物は、人間と違って、命の使い方が合理的というか、賢いというか。
人間が同じように思えたら、おそらく戦争なんてこの世界にはないだろう。


人間がもし魚を取られた鳥だったら、必ず取り返すとか、文句の一つでも言うとかしていると思う。
だって、急に奪われたら腹が立つし、悲しい。
これは「自分のもの」という概念があるからじゃないか、と考える。

鳥には、たぶんだけど「自分のもの」という概念があまりないんじゃないかな。
さすがに自分の子どもを守ろうとはするけど、餌に対してはそこまで強くその概念があるように見えなかった。
少なくとも、あのテレビ番組の映像では。

わたしは鳥やその他の動物の専門家ではないので、こうだ、と断言することはできないけど、大抵の動物は「自分のもの」という概念が薄いような気がする。



あなたは、これを奪われたら困る、というものってある?
わたしは、やっぱり自分の身の回りのお金を出して買ったものや、大切なものは、奪われたら困る。
それに奪われたときには、ちゃんと返して欲しいと思う。
欲の塊だ。
わたしみたいなのばかりだったら、もう世界が破滅していてもおかしくないな、と思う。


欲がない、とまではいかないけど、もう少し「自分のもの」って意識が薄れたらいいのに。
とにかく、わたしがこれからできることはなんだろう。
できること。


食べ物に執着しないこと?
好きな食べ物を誰かに譲ることから始めてみようっと。


男女の関係で、恋愛に行き着かないものなどあるんだろうか。
わたしは前々から疑問に感じていた。

というのも、わたしは幼い頃から恋愛体質と呼べるほど、恋愛に関しては敏感だった。
恋愛というのは、自分が相手を好きかということに加えて、自分が相手からどう思われているのかを考えるものでもある。
他人からの目を気にするわたしにとっては、その考えをどこかへ放っておくことなど、大袈裟じゃなく、片時もなかったと言っても過言ではない。
いつも、誰かを恋愛対象として見ていたし、身近にそういう対象の人がいないときには、何かの物語の登場人物や、テレビに出ている俳優さんなんかが対象のときもあった。

もちろん、そんなことばかり考えているのは自分くらいだし、これは恥ずかしいことだというのも自覚していたから、常に誰かを恋愛対象として見ていたことなど、周りの人には秘密にしてきた。

中学生になると、ますますそれは恥ずかしいことだと感じた。
そもそも自分のような対して見た目も可愛くない女が、そういうことを意識しているというのが怖い。
そう思っていた。
だから、友達が真剣に好きな人の話で盛り上がる中、わたしは「あの人かっこいいね〜」とそこまでのめり込んでいないようなふりをして話を合わせていた。
本当は、四六時中妄想してしまうくらい好きだったくせに。
少しでもその人が視界に映ると嬉しかったくせに。

ただ、そんなに好きだと思う人がいるにも関わらず、そこまで好きでもない男の人も恋愛対象として見てしまうのが、面倒だった。
本当なら、「好きでもない男の人からはどう見られてもいいや」と思たら、気も使わなくて楽だろう。
でも、それが出来なかった。
それを考えてしまうのがわたしの体質だったからだ。

だから、興味もない話に延々と付き合ったり、好きでもないのに全力の笑顔を向けたり。
悪く言えば、男女問わず、八方美人だった。
でも、女はそれで恋愛に行き着かないからまだいい。
男との関係で行き着く先は、絶対に恋愛関係だと思っていた。


高校に入って、そうじゃない男の人もいるのかな、と思える人ができた。
この男の人なら、恋愛関係とか意識せずに、友達でいられるんじゃないか、と。
そう思った瞬間に、その男の人から告白された。
ますます、わたしは男女の関係なんて、行き着く先は恋愛しかないと思うようになった。

彼女がいる男の人も、恋愛対象として見てしまう自分が怖かった。
見てしまうだけで、好きというわけでもないから、そこから発展することが無いにしろ、そう見てしまう時点で、自分は気持ち悪いと思った。
でも、無意識に考えてしまうことは止められない。

結局今でも、同じようなことを考えてしまう。



他人の目を気にしてしまうからこその考え方だとは分かっている。
でも、男の人に対してそう考えてしまうことは気持ち悪い。
他人の目を気にしないようになれば、少しはこの考え方も変わるんだろうか。

誰にも、仲の良い友達や家族にすら話せないことだけど、あなたに話すことで、何か少しでも変わればいいんだけど。


たいてい映画というものは、物語を1〜2時間の映像におさめたもののことを言う。
その映像が自分だけの映像として脳内で作られるのが、小説の良いところだ。

でも、だからといって、映画がダメということではない。
わたしはこれまでに、素敵な映画にたくさん出会ってきた。
ダメとかダメじゃないっていうのは、言葉にするとしっくりこない。
別にダメってわけでもないんだけど……って、なんとも言えない気持ちになる。
わたしは、何かを否定することが難しいのかもしれない。
あなたは、「これはダメだ」とか、「良くない!」って判断をしたこと、ある?

よく他人の批評をテレビやネットで見ていると、こういう映画はダメだとか、こんな要素があると良くないとか、いろいろ言われているけど、わたしは、誰かが一生懸命力と時間を使って作ったものが、ダメとか良くないとは思わない。
たぶん、その見た人の好みに合わなかっただけだろう。

わたしにも、もちろん好みがある。
映画だけではなく、小説も、食べ物も、着る服も、いろいろなところで、人は自分にとって好きかどうかを判別しながら生きているんだと思う。

もしかしたら、わたしは、世界に何億といる人の中のたった1つの価値観で、何かをダメだと決めつけることが少し乱暴だと思っているのかもしれない。
だから、こんなに何かを否定するのが難しいと思うのかも。

それか、別の視点から見ると、こんな考え方もあるかもしれない。
誰かにわたしをダメだと否定されることが怖くて、とても嫌だと感じていて、そんな嫌なことを他人にするのは気が引ける、とか。

そうじゃない人、自分が否定されることを怖がらない人って、他人もズバズバと否定する傾向があるんじゃないかな、とたまに思う。
その否定が逆に有難いと感じている人もいるだろう。
否定されたことがさらなる自分の成長につながる、と。

たぶん、そう思える人は、自尊感情の高い人だ。
わたしは、自分すら認められない弱い人間だから、他人から否定されたら、それこそ世界で誰も味方がいなくなってしまいかねない。


自分に自信が持てるようになる、とまでは言わない。
でも、せめて客観的に自分自身を見ることができれば、もう少し自分を認めてあげられるんじゃないだろうか。
あなたは、自分を客観的に見ること、できてる?

これも案外、自信が持てるようになるのと同じくらい、難しいことなのかな。