時をかける少女のように

時をかける少女のように

なんとなく生きることも良しとします。

とりあえず一週間続いた。
また一週間続ける。

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ある日目覚めると蜘蛛になっているというのは、カフカの『変身』という有名な小説だ。

小説の世界だからこそ、そんなことが起こるのだけど、もし現実で起こるとしたら、どういう場合が考えられるのだろう。
やっぱり、最後は「夢だったのか……」になるのが現実的かな?

だって、蜘蛛に変身してしまうなんて、日常的にあったらたまらないし、生活に支障がある。
いや、変身するのが普通の現実だったとしたら、人間はそれに対応した生活を確立していくのかもしれない。

まず、蜘蛛だけではなく何に変異してしまうか分からないとすると、いつ何時変身してもかまわないように対策を練るだろう。
魚や水の中で暮らす生物に変身してしまっても構わないように、人間は今よりもずっと近くに水を置いておかなけれなならない。
海水も、真水もだ。
道路みたいに張り巡らせる必要がある。

また、踏み潰されてしまうような小さな生き物に変異した場合にも命が保証されるように、どんな生き物であっても殺すことは許されない決まりができるかもしれない。
蟻も踏んではいけないとなると、外を出歩くのは難しくなりそうだ。

もしくは、人間は人間と分かるように、専用のチップみたいなものを身体に埋め込んで、近づけば人間だと分かるような仕組みにしておけばいいかもしれない。
そうすると、「この生き物は今は蟻の姿をしているけど人間なんだ。間違って踏んではいけないな」と事前に注意を払える。


家の中にいるときに大きな動物になってしまうのも、家を損壊しかねないから大変だ。
突然変異に備えて、人間の住む家は、ゾウや鯨でも入るような大きさにしておかなければならない。

特に、寝ているうちに変異してしまうことが一番恐ろしい。
意識が無いわけだから。
寝室の環境は一番整えておくべきだろう。



ところで、あなたは変身するならばどんな動物がいい?
わたしはもしできるならば、手近な動物がいい。
あまり見慣れないような動物になっても、どう過ごして良いか分からずに戸惑ってしまいそうだ。

猫なんかちょうどいい。
猫になることを夢見て、今日は寝ようっと。


反抗期って、どんなものだろう。
ネットで調べると、「自分が受け止めにくいと思ういろいろなもの」に対し、拒否反応を示したり、違和感を覚えて抵抗したりするようになる時期のことだと書かれてあった。

あなたには、反抗期の記憶ってある?
それはいつ頃で、どんなふうに反抗した?

今日、こんなふうに気になったのはそもそも、わたしに反抗期はあったのだろうか? と思ったからだ。
わたしはこれまで、大抵の受け止めにくいものとも向き合って、向き合って、とことん向き合おうとしてきた。
そうしてきて、今初めて、職場にある「受け止めにくいもの」に拒否反応を示して休みをもらっている。

じゃあ、今がまさに、反抗期ってことなんだろうか。
ネットでいくら調べてみても、反抗期というと子どもの頃にくるものみたいだけど。 

わたしは、受け止めにくいと思うものって、あるのは当たり前のことなのに、それを拒否すると反抗期だとか言われてあしらわれる子どもって、ちょっと可哀想だと思う。
特に、人から命令されたり指示されたりして動くことって、あまり気持ちのいいものじゃない。

脳が疲れているときなんかには、何も脳を働かせずに言うことだけ聞いていればいいから、楽なんだろうけど、楽と楽しいは違う。
人間は楽に流れがちだけど、子どものときに反抗するのは、大人になってからよりも子どものときの方が「楽に流されるもんか!」ってパワーに溢れているからなんじゃないだろうか。

脳や感情を殺したままで流されていくのは楽だけど、自分の大事な時間を削ぎ落としてゴミ箱に棄ててるようなものだと思う。



そうは言っても、下手に反抗してばかりでも、自分の体力が削られていく。
楽しみながら生きている人は、たぶん上手な反抗の仕方、つまり、受け止めにくいものとの折り合いをつけるコツを獲得したのだろう。

上手な反抗の仕方は、どのように学べばよいのだろうか。
理不尽なもの、受け止め難いような辛いことに対して、上手に反抗をする方法を知り、さらに実践しながら上手な反抗の仕方を獲得するには。
まずは、周りで上手な反抗をしている人を探してみる必要がある。


今日はもう眠いから、とりあえずおやすみ。







わたしの中には、他人を支配しようとするキャラクターがいる。
名前は「支配様」だ。

他人は自分の思い通りになることはない。
分かっているはずなのに、支配様はお構いなしで支配をしようとする。
そして、支配ができないと怒り狂う。

例えば、わたしが他人にアドバイスをするのも、支配様の一部だと思う。
アドバイスをして、その選択肢を選ぶかどうかは他人が決めればいいことなのに、そのアドバイス通りに他人が動かないとむっとする。
支配様が、「わたしのアドバイスを聞いて当然だ」と思っているからだろう。

支配様にとっては、自分の言葉を聞いて素直に従う人は、自分を受け入れてくれる人、という認識らしい。
だから、素直に従わない人は、自分を認めてくれない人も同然だ。
支配様は人から認めてほしくてたまらないのだ。

他人を支配したい、他人に認めてもらいたいという二つの欲求に従って、支配様は動いている。


支配様の立ち位置は、人よりもいつも少し上にある。
猫が床ではなく、必ず床から少しでも上の場所で寝ようとするのと似ていて、他人と比べて少しでも優位に立とうとする。
それは、相手を支配するために必要なことだと思っているからかもしれない。
支配様の支配方法は、基本的に力で押し込める、というやり方なのだろう。

でも、たまに優位に立とうとしてデタラメなことを口走ったりするので、浅はかだ。
そもそも、他人を支配したいという欲求とと人に認めてもらいたいという欲求は、相反しているように思う。
支配の仕方によっては、認めてもらえるのかもしれないが、大抵の場合、力で支配したところで、本当の意味で他者から認めてもらうことなどできない。

矛盾する二つの欲求が、支配様の中に存在することで、支配様は浅はかに見えてしまうのかもしれない。



わたし自身が、自分ってなんて浅はかなやつなんだろう……と落ち込む時は、この支配様を客観的に見つめたときが多い。
でも、支配様も気持ちも分かる。
もしかしたら、支配様の本当の目的は他人に認めてもらいたいという一点に尽きるのかもしれない。
その手段として、支配様は他人を支配するという手段しか持ち得ていないのかも。


キャラクターがどんどんと分かっていくことによって、もしかしたら支配様を救ってくれるキャラクターも判明するかもしれない。
キャラクターを書き起こしていくことって、キャラクター同士の関係性を知るためにも、結構良いことなのかもしれない、と思う今日この頃。


自分の中にいるキャラクターの続き。
人間誰しもが最低11個はキャラクターを持っているということらしく、じゃあどんなキャラクターがいるのか書き起こしてみよう! って話だ。

補足情報だけど、このキャラクターはネガティブとポジティブがだいたい半々の割合になるように見つけるといいらしい。
前回のキャラクターが「なにものちゃん」っていう、スコシネガティブ要素の強いキャラクターだったので、今日はポジティブキャラクターを書いてみよう。


わたしが滅多に自分自身に対してポジティブな感情を抱くことがないから、見つけるのが難しい。
でも、「想像くん」は、一応ポジティブの枠に入りそうなので書いてみることにする。


想像くんは、よく他人の気持ちを想像しようとする。
おどおどしたところはあるけど、相手の顔色やちょっとした仕草、発する言葉などを敏感に感じとって、今どんなことを考えているのか、何を言ってほしいのかを考える。

想像くんは、元からわたしの中にいたけど、たぶん漫画や小説、映画、ギャルゲー、乙女ゲー、SNSなど、人間の心理描写を扱う様々な場面を見て、試して、たゆまぬ努力と勉強をしたため、すくすくと成長していった。

もちろん、現実の世界でも想像くんは働き者だ。
相談をされたら、よっぽど親しい人以外であれば、今相手がどんな言葉を求めているのかを想像して答える。

ただ、親しい人のときには、想像くんよりも強いキャラクターが前に出てくるので、想像くんは、大人しくしている。
想像くんは、他のキャラクターにまで気を遣って、出番を譲っているのかもしれない。
もしくは、おどおどしているか。


想像くんは、悪巧みをしない。
相手にいかに嫌な思いをさせるか、ということは絶対に想像しようとしない。
いつも誰かや自分のためになることだけを考えて動く。
おどおどしているのに、ネアカというか、心の底からポジティブ。前向きだ。


それから、想像くんはもしかすると、第六感のようなものを持っているのかもしれない。
第六感といっても、慣れや経験がなせる技なのか。
とにかく、霊的な何か、というわけではなく。

何なのか分からないけれど、信用できる人とそうではない人が、第一印象で分かるときもある。
もちろん、分からないときや外れるときもあるけど、良い意味で外れるのでほっとする。

自分自身を守るために、たぶん、わたしの人間関係のデータを蓄積した全てを総動員させて、今目の前にいる人がもしかしたら危ないかもしれないと警告をしてくれるのだ。
だから、その人が関わっていく中で良い人だよ分かればほっとするし、警告通りであれば慌てずにすむ。


あなたには似たようなキャラクター、いる?
まわりの人にはこんなこと、聞きたくても聞けないな。













 


小説を読んでいて、面白いと思うことがあった。

「なぜ?」と問いただす内容は、大抵悪いこと、というものだった。


「なぜ、こんなことをしたの?」
「なぜ、これをしなかったの?」
確かにこう聞かれると「だって……」と返したくなる。
完全に自分が悪くないことを主張するべく訳を話そうとする姿勢だ。
だっての後が続かなければ、自白するしかない状況だろう。

逆に、「なぜ優しくしてくれるのですか?」なんて、良い行為に対してあまり言わない気がする。
優しくしてもらったら「ありがとう」で済むから。

そう考えると、「なぜ?」と問うときには、ある程度自分のなかでのラベリングができていて、それに反する事態が起きてしまったため、ラベリングの調整をしたいと思っているのかもしれない。
調整をしたい、じゃなければ、自分のラベリングに間違いはないと信じ続けるために、相手を疑いたい、とか。

良いことに対しても、なぜ?と聞く人は、この人が自分に理由もなく優しくしてくれる訳がない、と思っているからこそ、ラベリングの齟齬により聞いてしまうのかもしれない。


幼い頃にも「なぜ?」とか「なに?」とか訊ねまくる時期がある。
通称「なぜなぜ期」。3歳児あたりで訪れるらしい。
なぜその現象が起きているのか、その原因や目的(大体の場合目的)を知りたくて訊ねるそうだ。


結局は、子どもも大人も、目的に予測のつかないものや自分の想定外のことを明かしたいということなんだろうか。

良いことをしようとする目的について聞かれないのは、その目的がはっきりしているから?
あなたはどう思う?
良いことはどうして、その目的を問いただされないんだろう。