【転記】社会のルールについて考えよう | 矯正知力〇.六

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メモ的ブログ

以下、mixiの猫王さんの日記より転記。

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『校則(社会のルール)について考えよう』

「髪が耳にかかっていけない」
そういう校則に反しているので
卒業式に出させなかった

そういうニュースで日記を書き
そこのコメント欄に書いたものに
少し手を加えています


もう少し、この問題の論理を説明しましょう

その前に!

髪が耳にかかってはいけないことが
「宇宙の真理」だとしても
規則だか校則だか慣例だか知らないけど
それに反したからといって
卒業式に出させないというのは、筋違い

別の問題に、別の事柄をもってきている
嫌がらせみたいなもん

まず、この筋違いが分ってないと思う


じゃ~本題

私はモヒカンが大好きで
リアルでもモヒカン頭にしたいと思っているくらいだ

そういう私が
モヒカンは人の魂を浄化するという宗教を起こし
私立学校まで作ったとする
そこの校則は、「生徒はみんなモヒカンにしなきゃいけない」だ

これはこれで、全く問題がないとは言えないけど
今の社会では、それはまかり通る
判例とかみてもね
(※ただその判例の説明も、インチキくさいけどねw)

ただ、この場合であっても
その校則に疑義を申し述べても
校則の変更を求めても、そのこと自体は全く問題ない

逆に、そのことによって
罰せられては、絶対にいけない
これは、今の民主主義社会のルール(憲法)


公立高校は、文字通り「公」の存在

憲法が示すように
社会には、多様な価値観が存在することを認めている

公の公立高校には
いろんな考え方の生徒が集まるし
だから、それを受け入れることが大前提であり
いわば、ルールとなっている

だからこそ
私学とは違って

多様な価値観を持つ者同士の間のルールは
客観的、合理的なものじゃなければいけない

宗教とか「個人の好き嫌い」とか情緒的なものは
ルールには出来ない

髪が耳にかかってはいけないというのであれば
客観的、合理的な理由が必要



ましてや
それとは別問題である
卒業式に出す、出さないなどという問題にまでしてしまえば
教育者としての料簡も資質も問われる


理由もなく、主観、想像によって
「こうすればああなる」などと言ったところで
それはルールにならない

こうすればああなることが、必然であることを証明しなければいけない

じゃなきゃ~、なんとでもいえる

日本人は毎日、キムチを食べないと肥満になる
なぜなら、キムチに含まれているカプサイシンが脂肪の燃焼を助けるからだ

こういう、断片的事実をもってきて
屁みたいな理屈をたてて

本当にキムチを食べなければ肥満になるのか
証明もせずに
それを押し付けることだって可能になる

「髪を伸ばすと非行なる」という主張は
この屁みたいな理屈と、全く同質

断片的な事実を、都合よく寄せあつめているだけ
それが論理的に繋がるということを、証明していない

これを一言でいうと
「説明していない」ということになるわけだ

説明もできないことは
社会の公のルールには出来ない


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『移動中の“腰パン”の何が悪い?』

聖子団長、連盟と国母の処分協議へ


「着こなし」を強要すんなっちゅうの!

腰パンを、だらしないと思う人もいる
私は、スノボは相撲みたいに様式美のような
ファッションも含めての競技性だと思うので
ださい格好をしたボーダーなんてやだ

そんな風に、みんなそれぞれ価値観や考え方が違うんだよ
それを最大限に尊重するのが、民主国家でしょうが!


不快に思う思わないは
個人の心の問題、好き嫌いだから
それは別に構わないです

だけど、そういう基準のないものを
他人に強要したらダメという話
これこそ、人権侵害


靴下の色で、ピンク色を好もうがそんなのは
各人の自由
ピンク色が好きだという情緒も、その人の個性

お前はピンク色の靴下を履いてはいけない
白だけを履け

こういうのと同じ話であって
それが異常だということ

着こなしなんて、個人めいめいの好き勝手の問題
なんでそれを、強要されなきゃいけないのか

昔の中国の人民服じゃないんだから!


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仮にね
実は行儀の悪い人で、マナーを守れないような人であったとしてもだ

「着こなし」なんて本人の自由だろ!


大切なことなので、もう一度繰り返すが

「着こなし」なんて、個性だろがっ!


そういう個人の自由、個性の問題と
本人のマナーに対する態度は、全くの別問題

これが分らない人は
自分の主観に凝り固まっている


「みんなと一緒じゃない」
こんな理由で、人を叩く日本社会は
あまりにもおかしい
旧ソ連や、軍事独裁政権のミャンマーや北朝鮮
戦前の日本とか、ナチスとか、そういう国と同じ論理だ



この問題と同じ論理で
気持ち悪いファシズムのようなことが行われているのが
国旗と国家をめぐる、学校の卒業式の騒動だ


学校の卒業式の問題なんかでも
先生の方こそ、民主的で真っ当であるのに
彼らをバッシングする風潮が生まれるんだな

事実関係を逆立ちさせて

これまで自由な卒業式を行っていたところを
一切禁止してしまって
卒業式のかたちを押し付けてきた

これに、学校の先生や父母が反対して当然だ


【転記】国旗の掲揚、君が代の伴奏、起立は業務か?


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腰パンが、マナーが悪いと考えるか
そう思わないかは、人それぞれです

その格好がダメという、道理も同時に存在しません
あくまでも、それは個人の「好き嫌い」の範疇のことです

これを、国家や国民性などという
エクスキューズを使って
正当性があるかのように主張することは
やっぱり間違っておりますし

国を挙げての騒動のようにして
謝罪会見まで本人の意思に反して強要したら
それは、とてもおかしなことです


「けしからん」と思うのはいいし
そういう主観から、ブログなどで意見をいうのは勝手ですから
別に構わないのです

だけど、そこに「国」を持ち出すから
そしてそれを理由に、謝罪まで強要するから
「社会問題」になってしまうのです


この問題は、「男のひげ」なんかと一緒だよね

むか~しは
散々、男のひげはみっともないとか
汚らしいとか言われて
職場なんかで、ひげはダメって話もあった

でも、今ではフォーマルな場に
ひげを生やして行っても
その者の資格がなんであれ
誰もとやかく言わない時代になった

なぜかというと
「ひげがダメ」だという道理が、存在しなかったから!


同様に、移動中のボーダー流の着こなしが
ダメだという道理は存在しない
ただの主観なんだよね

んで!
繰り返しなんどもいうけど
誰かの好き嫌いという感情はって当然だけど
それを、他人に押し付けたら
とてもいけない事なのです

それを、人権侵害というのです




靴下の色で、ピンク色を好もうがそんなのは
各人の自由
ピンク色が好きだという情緒も、その人の個性

お前はピンク色の靴下を履いてはいけない
白だけを履け

こういうのと同じ話であって
それが異常だということ



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>制服を嫌がる中学生と言っていることがまるで同じですね。

>何もプライベートの衣服の話をしているわけではないのに。


制服にも、様々な考え方があり
問題もいろいろあるけれど

一応は、問題はあっても
学校の規則で、着こなしともども定められておりますが

五輪選手の移動中の「着こなし」については
どこにも定められておりませんし
ドレスコードも存在せず
腰パンをしたところで、誰にも迷惑をかけておりません


オリンピック憲章には
移動中の服装の規定などないし

スノボ選手は、銀行マンや営業マンではありません
スノボ選手とそれらの職業との間の
TPOは異なります

オリンピックの開会式の、選手の入場シーンですら
今年の冬のは見ていないので、夏の大会で見ましたが
諸外国の選手は
列もつくらなかったり
服装の着こなしも自由にしている人もいましたが

一度も!
それを批判したという話を、聞いたことがありません

これらのことが
ドレスコードなど存在しないことの証拠でもあります

スノボ選手の移動中の服装の着こなしを
強要されるような道理は、どこにもありません



個人の自由は
公共の福祉など、制限はああるけれど
最大限の保障するのが
民主国家のルール

その制限ですら、あらかじめルールとして定めていなければいけない


今回の騒動は、私や
ほかの方がコメントで明らかにしてきたひょうに
移動中のドレスコードなどない

そこで、着こなしを強要したら
これは人権侵害
そして、それを国家がやれば
ファシズムというのですよ


んで!
今回の話は
国母選手の着こなしを
「気に入らない」というのは個人の勝手
だけど、そこに「国家」を持ち出して
それを理由(言い訳)にして
個人の自由を制限しようとすれば
それは、ファシズムとなる

だからそういう事をいいだす人が一定数いれば
ファシズムとの親和性を示すという話


着こなしを強要してはいけないことは
すごく単純な、憲法の話だし
下手したら小学校の社会科でも学ぶレベルのこと

それすら分らない人が
ファシズムについて理解できなくても
なんら不思議じゃない

実はファシズムは、学問的にやれば
けっこう難しいんだけどね


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ルールや制度というのは、悪用も出来ます
そして、それを司る側が
必ずしも社会正義を伴っているとは限りません

ミャンマーの軍事独裁政権ですら
新しく憲法をつくり、それを利用して
独裁じゃないと、いい訳をします

そういう、時代や情勢によっては
よからぬ者たちが、国家権力を司る可能性もあるので
最初から、悪用されることがないような
ルールや制度を、作らないといけない
んですよね


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【『世の皆さんは国母さんの姿が"よい"とは感じなかった』ことについて】

●結論から言うと、、、
 世論の多数が批判的なのかどうかはわかりませんが、国母氏の例の服装について批判的であり、JOCなどの決定(式典辞退などのペナルティ)に肯定的な意見が、仮に多数派だとしても、それはJOCの判断が正しいという根拠にはなりません。

●一般論
 人権というものは、多数決原理で決まるものではないし、現代の健全な民主主義は多数決主義を意味しないからです。多数派というものは、一時の感情やメディアの誘導や情報操作によって流されて構成されることが多々あります。そういうときでも不当に侵害されてはならないのが人権なのです。(余談ですが)だからこそ、人権問題を扱う裁判所(司法)は、国会(立法)や内閣(行政)と違って民意(国民の多数意思)がほとんど反映されない仕組みになっているのです。ちなみに、裁判員制度は民意の反映が目的なのではなく(民意に従って選挙されるわけではなく無作為に裁判所が選ぶだけだから)、裁判の国民による監視が目的なので、依然として人権問題に民意が介入することは原則ふさわしくない、という考えは維持されています。

●事実との当てはめ
 さて、余談が長くなってしまいましたが、猫王さんはJOCの判断(式典辞退などのペナルティによって事実上服装を強制されたこと)によって侵害されたと思われる国母氏の人権を問題にしています。だから、憲章の文言である「よい手本」の解釈として、ドドド7さんの仰るように『世の皆さん(世論の多数派という意味ですね?)は国母さんの姿が"よい"とは感じなかった』、ということが世論の構成要素として仮に真実だとしても、多数派によっても侵害されてはならない人権を問題にしているので、世論がどうなのかはここではそもそも問題ではないのです。
 「常識」とか「習慣」とか「伝統」のようなものも、権威的で力を持つ概念なので、この「世論の多数派」と同視できます。多数派というのは強者でもありますから。

 したがって、もし反論するのであれば、国母氏がせめて移動中の服装ぐらいは自由にしたい、と主張することは果たして人権として認められるのか、認められないのだとすれば、移動中ですら一定の服装を強制する必要性と、強制できる許容性は何か、という視点でないと、有効な反論にはならないのです。もちろん、その中で「常識」のようなものが入り込むことはあります。しかし、それは常識そのものが根拠になる、という意味ではないのです。


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参照
【転記】+死刑では何も解決しない+