答えのない数式を解き明かす鍵 | 酒の友は我が友也

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酒好きで女好きとの評判な筆者が、意外と適当じゃないことを綴るブログ。
きっと何か発見がある。たぶん、本を買うより安上がり。
合い言葉は、『愛だろ?愛』

最初は、ボールひとつで満足していた。
けど、気付けば、それは二つ三つと増えていき、
最後には段ボール一杯のボールが欲しいと言う。

人間の欲求は際限がない。
どんな素敵な言葉も、愛情たっぷりの態度も、
いつしか慣習化し、心に響かなくなる。
※勿論、感覚タイプに左右されるが、その話は今回は割愛する。

慣れは人の心を蝕む。
例えば、「愛している」の言葉に慣れてしまった心は、
最上級の「愛している」を求めるようになる。

最上級の「愛している」
それは自分の心の中を蠢く闇が求める光。
愛を感じられない自分への苛立ちが、それを渇望する。
そして、それはおそらく恐怖に似ている。

愛されていないのではないか。
その疑念が、恐怖の渦となり、人の心を支配する。
確実に愛していると解る証拠が欲しいと言う。
それは答えのない数式のようなものだ。

“自己中”
そう、これは自己中の為せる業だ。
ある人は言った。「何故苦しみを感じるのか?」
「それは自分のことしか考えていないからです」
愛を求めるより与える。数式を解き明かす鍵はここにある。
愛されているかよりも、愛しているかが大事なのだ。

本当に相手のことを愛しているなら、
相手の立場を考慮出来るようになる。
自然と相手の立場を理解出来るようになる。
そして、相手の喜ぶことをしようという気持ちになる。
だから、相手も自分も満たされる。
それが愛というものだ。

「愛は求めるなかれ」

自分でも相当臭いことを書いている自覚はある。
愛だの恋だの、俺には似合わないことも自覚している。
けど、こういう記事も書けるというアピール(笑)
誰にアピールしているのは謎。

まあ、総括すると、自分の心を満たすより、
相手の心を満たすことにフォーカスした方が幸せになれるってことよね。
※相手のことを愛しているという前提
これって、広義の解釈をすれば、何も恋愛に限ったことじゃないと思う。
人間関係全てに言えることじゃないかな。
そう思う今日この頃(否、数年前から