Empathization
ABC Newsで9.11テロ時の航空写真が一般公開された。
http://abcnews.go.com/Politics/slideshow?id=9763032
写真を見るだけで、巨大な噴煙、崩壊、瓦解の様子が分かる。映画「2012」実写版のようなシーンが、実際に起こったのだと思うとすごい。所詮一つのビルだが、ニューヨーカーには計り知れないくらいのインパクトだったのだろうなと思う。当時ニューヨークにいた友達が、9.11がアメリカに対して当然の報いだと言った人に対して、「あんな惨事に対して、報復心を満たしている人がいるなんて信じられない」と言っていた。それは、確かにそうなのだろうなと思う。高々3000人ほどの人の死でも、ヒロシマの10万人の死者数に匹敵するインパクトを持ちうることは十分あり得る。人の命の重さというのは量的な指標で比較できるものではないだろうし、そうすべきでもない。その後に10万人のイラク市民が死んだことに対する衝撃よりも、アメリカ人にとっては3000人の瓦解の方がインパクトが強かったに違いない。そのくらい9.11は象徴的であり、テロ組織の手法は巧妙だったと言える。
しかし、そもそも不特定多数の人間の死が一個人に持ちうる重さというのは、均質なものではないだろうか。実際に離れた国に住む第三者からしてみれば、数字の桁が一つ変わったところで受ける印象は変わらないし、むしろアメリカ人にとっての9.11もそうだろう。僕にとって、パキスタンのテロで死ぬ不特定多数の人間と、アフガニスタンのテロで死ぬ不特定多数の人間の重さというのは区別はできてもほとんど均質だ。不特定多数のソマリア人と京都人でも、実際のところ大して変わらないかもしれない。「不特定多数」という限りにおいて、物事は均質だ。それは、何も指定してはおらず、実際には誰も示唆されていないからだ。「~が死んだ」という、主語が確定している場合において初めて、その事実に重さが加わる。だから、不特定多数のアメリカ人が死んでいることに対して憤慨するというのは異様なことだろう。「我々アメリカが攻撃された」というのも変な言い方だ。「アメリカ」という国家概念には実体がなく、実際に死んだのはその中でも特定のアメリカ人であるにもかかわらず、憤って戦争をおっ始めるというのはなんだかおかしな理由だ。実際に自爆テロを起こすのは、戦争中に家族を殺された未亡人などが多いらしいが、そういう直接的な「~が殺された」という場合において、初めて事実が実質性を帯び、重みを持つのだと思う。そうでない場合、たとえば不特定多数のアフリカ人が死んでいることに対して本当に心から憤るなんてことができるのだろうか。もしできるとしたら、それは「不特定多数」という概念をなんらかのイメージ、あるいは具体的な人に置き換えて見ているのではないか。民族主義というのは基本的に「我々~人は」というスタンスであるが、不特定多数の「~人」という概念を作り上げ、それにイメージを付加することにより成り立つものだと思う。しかし、それはやはりいびつな考えだ。少なくとも僕は、僕の知らない人、集団に対して、自分が関わっているのでもない限り、心から何かを感じるなんていうことはできない。それは、一種の疑似体験であり、メロドラマを見ている時のあの感情移入に似たものなのかもしれない。
笑ゥせぇるすまん
小学生くらいの時に見たことがありなんとなく心象に残っていたが、こんな大人の話だとは知らなかった。
人間の弱み、せこさ、甘え等の「心のスキマ」をえぐり出す話ばかり100話以上。ドラえもんチックな絵で大人の世界を描く秀逸ぶり。登場人物もいかにも単純化された人物ばかりで面白い(実際に人の行為というものも、傍から見るとこんな風に単純化できるだろう)。この話の最後の女性の恐ろしい顔なんて、とても子供に見せられるものではない。
Academicism
卒業研究の発表があった。結構ちゃんと準備していたので、思っていたより卒無く終わった。卒業研究を初めてほぼ4ヵ月くらいだが、この間に以前に比べてすごく知識も実力もついた。数ヶ月でこんなに変わるのかと思うくらいだ。フランスでの怠慢な一年はなんだったのだろう、というより、それ以前の不毛な大学3年間はなんだったのだろう。実際に研究を始めてみると、以前の自分がいかに何もわかっていなかったか、他の人がいかに何もわかっていないかというのが分かり始める。逆に、先輩や先人の研究者たちがいかにすごいかをしみじみ感じる時もある。単純な経験量だけでなく、それに応じて理解力、考察力も高まっていくのだろう。理系の研究者同士の集いというのは一般に異様な雰囲気になるが、妙に格式ばったり賢ぶったりすることがない空気は、どちらかと言えば僕に合っている。議論にしても、お互い真実を突き止めたいという共通の信念があるために、変なプライドが介入しづらい。そういう場において初めて自由な議論というのが可能になるのだろうし、学閥的な境界、個人の人間性など重視し過ぎないことが逆に有意味な議論にとってはいいのだろうと思う。もちろん、実際にはある種の立場、スタンス等があるが、他の学問に比べればそれらは格段に少ないのだろうということを感じる。
そういえば、一週間くらい前に受けた英検の結果がwebで出ていた。一級になるとなぜかやたらと難しい語彙を問われる問題が全体の4分の1くらいあるが、そんなの真面目に勉強するのは阿呆らしいので(というよりそんな暇なかった)、そこは完全に捨てていたが、他がちゃんとできていたので受かっていた。実際に受けてみたら、長文や読解は大して高度なものではなく、簡単だった。リスニングも馬鹿みたいにゆっくりだったのでもちろん満点だと思っていたが、パート2あたりで3問くらい間違えていた。なぜかと思って振り返ってみると、会話文でも講義でもなく、スクリプトが読まれるのを聞いてその内容について問うというナンセンスな問題だった。英検の問題全体として、ナンセンスな傾向が強いと思う。作文もなぜか論理的構成力を問うのではなく、与えられたトピックに関して3つのキーワードを選んで、それらを用いて書くというものだ。全然対策をしていなかったので、これは出来がよくなかった。というより、久々にタイピングではなく手書きで英文なんて書いたので、非常にやりづらかった。そもそも高校生やおっさんに混じって英検なんて受けている時点で幾分阿呆らしかった。英検は2級と準1級を持っているが、2つとも二次試験ではやたらねちねちした発音の、高校教師レベルの英語力の試験官に、「ホワッツユアメイジャア?」みたいな教える筋合いなんて全くない質問ばかりされて辟易したので、二次試験は受けないかもしれない。というか、こんなに簡単なのだったら高校生くらいのときに取っておけば良かった。研究は、論文・テキスト・プログラムなど、ほとんど英語環境でやる時間が多いので、英語なんて使ってなんぼと思っている。英語のための英語学習のような、狭い了見のディレッタンティズムには興味がない。一般的に文系学問というのは、そういう傾向が強いような気もする。
Emmanuel Lévinas
2月になった。1月はなんだか長く感じた。気を磨いでいたからかもしれない。苦痛の時間が長く感じられるように、精神状態によって時間というものの尺度が変わるのかもしれない。つまり、完全に等質な時間というのは存在しないに等しい。等質な時間といものは感じることができないし、論じることもナンセンスだ。というのも、それ自体が何も意味してはいないからだ。
最近、レヴィナスの「時間と他者」を読み始めた。時間に対して自分が持っていた曖昧模糊とした考えを適切に説明していて、感動した。時間論、存在論、独我論、実存主義、構造主義、そういうあらゆる範疇をテーマにしつつ、それらを超越している。読んでいて楽しいというより、感動する。哲学というものの意味は、この種の感動にあるのかもしれない。感銘を受けたのは、以下のような部分だ。
< 「存在する何ものか]
位相転換という出来事、それは現在なるものである。現在は、自己から出発する、もっと適切な、言い方をすれば、自己からの出発(脱出)「である」。それは、<実存すること>という、始まりも終わりもない、無限の網目(トラム)に生じた裂け目なのだ。現在は、引き裂き、また再び結びつける。それは、始める。それは、始まりそのものである。それは過去をもつが、しかし、想起というかたちをとって、過去をもつのである。それは歴史をもつが、しかし、それが歴史であるのではない。>
なんとも適切な説明だ。つまり、「時間」というものはそもそもそれ自体で考察することはナンセンス(不可能)であり、主体と、すなわち実存者と<実存すること>との間の連関として捉えなければならない。「現在」は位相転換なるものによって生じ、実存者が<実存すること>と関わり合う状況に準拠している。「現在」とは、「実存者の出現は、それ自体としては本質的に匿名的なままであり続ける<実存すること>のうちに、支配を、そして、自由を設立することそのもの」なのであり、<実存すること>という無の海<イリヤ>の中に、自己(我)が出発していく事態である。それは、「<実存すること>という、始まりも終わりもない、無限の網目(トラム)に生じた裂け目」なのである。そして、「自我」という実体なきものは(それを精神性によって定義することは、何も言っていないに等しい)、<実存すること>と実存者の境界にあるもの、「可変的なものと恒常的なものとの対立の外に、いわば、存在と無との範疇の外に、位置することになる」ものなのである。すなわち、「我」はそもそも一個の実存者ではなく、<実存すること>の様態そのものなのである。
<なるほど、現在と「我」とは実存者に転化するし、また、人はそのことから時間を構成し、時間を実存者として所有することもできる。そして、この位相転換された時間に関して、カント的あるいはベルクソン的な経験をもつこともできる。が、しかし、その場合、それは位相転換された時間の、存在する時間の経験なのである。それはもはや、<実存すること>と実存者との間の、シエマティックな機能を果たす時間、位相転換という純粋な出来事としての時間ではない。現在なるものを<実存すること>に対する実存者の支配として想定(定立)し、<実存すること>から実存者への移り行きを探求することによって、われわれは、もはや経験とは名づけ得ないような探求の次元に身を置くことになる。しかも、現在なるもの位相転換は、位相転換のひとつの契機にすぎない。つまり、時間は、<実存すること>と実存者とのあいだのもう一つ別の関係を指し示し得るのである。まさに時間こそ、われわれの他人との関係という出来事そのものとしてわれわれに現れるものであり、また、そうであればこそ、われわれは時間によって、現在なるものの一元論的な位相転換を乗り越える多元論的な実存に到達しうることになる。>
Lame
Appleが27日にタブレット型PC「iPad」を正式発表した(http://www.apple.com/)。タブレット型のタッチパネルPCについてはiPhoneと同時開発していたのか、何年か前から毎年噂になっていたものの、ネットブックが市場を席巻する中Appleは、製品化するには「まだ完成度が足りない」として発売を見送ってきた。去年の3Gs発売以降iPhone市場も大分落ち着いてきたところ、Steve Jobsが無事手術を終えて復帰し、本格的に製品化に乗り出したらしいことは聞いていた。だが、これだけ毎年噂になって製品化に地団駄を踏んでいた割には、パンドラの箱を開けてみると実際はただの大きなiPhoneのようだ。OSもiPhone OS 3.2、正直Mac OS Xを期待していたので、これでは拡張性がなさすぎる。ディスプレイも有機ELディスプレイという噂もあったが、結局IPS液晶のディスプレイらしい(まあ、有機ELは現状ではまだかなり高いので、時期モデルに取っているのかもしれない。というか、普通にIPSで十分綺麗だが)。もう一つ期待していたのが最近Appleが買収したPA Semiによる、Apple独自のCPUプロセッサ。これは実際に搭載されていて、Apple A4プロセッサというらしいが、1 GHzで10時間の使用に耐える優れもの。動作もすごく早いらしい。時期iPhoneにも搭載されるだろうから、これは期待できそうだ。それと、もう一つの見どころは何といっても電子ブック。多分アップルが今年になって急いでiPadを製品化したのも、Kindleに電子ブック市場を独占させないためという理由も大きいだろう。実際は書籍の売り上げの70%はAmazonに入るらしいが、これからの主流となるかもしれないこの手のスマートな市場にAppleが乗り遅れるわけにはいかない。まあ機能面に関してはそんなところだが、一番驚いたのはその値段だ。下位機種が1000ドル前後と予測されていたにも関わらず、499ドルという低価格で出してきた。iPod touchよりちょっと出せば買える値段だ。これなら中途半端な使いづらいネットブックを買うより、メイン機の隣にiPadを置いて映画専用、またはメール専用のような形で使う方がよっぽど賢い。ただ、やはり位置づけとしては微妙な感が否めないし、今回これを買いたいとも思わない。iPhoneのように、一年後くらいに大幅にメジャーチェンジした型が出たら欲しくなるかもしれない。
最近はパソコンも驚くほど安くなったと思う。メモリも4GBくらいが普通になってきたし、それにプラスしてグラフィック専用メモリ(GPU)がついているくらいだ。クアッドコアも随分安くなったし、そうでなければクロック数3GHzくらいの機種が、それこそ数年前の半額以下の値段で買える。コアなゲーム好きなどではない普通のユーザーなら、どんな使い方をしても有り余るようなスペックだ。去年末に出たiMacの27インチモデルも、IPS液晶、Core 2 Duoの3GHz、メモリ4GB、ハードディスク1TB、新しいMagicマウスとキーボード付きで15万を切るくらいの値段で売られている。かなり物欲をそそられるスペックだ。DELLやACERの機種を買って自分でアップグレードすればさらに安く同じスペックを実現することはできるが、やはりMacのデザイン性と使いやすさ、クオリティは少し余分に払う価値が十分にあると思う。Mac OS Xもよく出来たOSだし、Macのモニターや音質は、外部周辺機器を取り付けなくても十分満足できるようなクオリティだ。今は17インチのiMacとポリカーボネートの黒いMacbookを使っているが、買ってから4年近く経つのでさすがに動作が緩慢に感じる時があるものの、それでも十分使えるといえば使える(Macbookに関しては、メモリが異常に安くなっていたときに4GBに増設し、ハードディスクも500GBにした)。フォントもWindows機よりもずっと綺麗で、研究室ではDELLのWindows機を使っているが、なんだかんだと創作活動をする気になるのはMacを使っている時だ(これはモニタの性能によるものだが、DELLのノートパソコンはモニタの解像度が悪すぎて、Webページなど読んでいるときに目が痛くなる。このブログに書いている斜体字も、DELLのモニタからではすこぶる見にくかった)。
最近はハードディスクもアホみたいに安いし、4GBのSDHCカードが980円くらいで売っていたりする。時期SDカードの規格として開発されているSDXCは、最大2TBまでの容量、300MB/sの転送速度を実現できるらしい。ここまでくると、そのままSSDとして使いたいくらいだ。テクノロジーは日々世界中で開発が進んでいて、1年くらい目を離していたら驚くほど進歩している。開発速度が早くなればそれだけ、それについていくことが難しくなり、理解している人は減っていくだろう。テクノロジーの流行に追随していることがすごいわけでもなんでもないのだが、世界中の人間がどんどん自分たちがしていること、使っているもの、利用していることを理解できなくなり、周囲がブラックボックスに溢れてしまうのは忌むべき事態だ。自分が使っているものがどのような機構で動いているのかを知らないというのは、社会の中でも、かなり文明が発達した段階でのみ起こりうることだろう。そこでは、人は周囲の物事に無関心になり、注意を払わなくなる。環境問題なんて言いつつ、地球の環境機構を知っている人というのはほとんどいない。そこで思うのは、このような周囲のものとの有機的なつながりの欠如は、結局人生を豊かにするのとは真逆の方向性を持っていないだろうか。開発が進めばそれだけ、生活が便利になればそれだけ自分の生活というのは地に足ついたものではなくなり、自分一人では何もできなくなってゆく。それは幸福とは無縁のものであるだけでなく、むしろ逆のベクトルを持ったものだ。Appleの製品はユーザーと製品技術の乖離をなくすように、努力を尽くして(拡張性を犠牲にしてでも)誰でも簡単に使えるような性質を持っている。生活の質というものを念頭に置いているからこそのクオリティだ。しかし、それは日常の中での擬態にすぎず、結局ユーザーがその技術に追いついているわけではない。加速する技術革新の中で、人の生活、精神構造の方が遅れをとり、自分で生み出した子供に追いつけない足が悪い大人のように、技術がそれ自体で発達していく。足の悪い人間は、技術の発展についていけなくなり、置いていけぼりになるだろう。30年後の技術状況なんて、正直全く想像ができない。人間生活と技術の発展との因果な関係は、一体これからどうなってゆくのだろうか。Steve Jobsがプレゼンテーションを終えてBob dylanの"Like a rolling stone"と共に去っていくのを見ながら、なんとなくそんなことを思った。

Modernity
「現代文明論」という授業の試験があった。佐伯啓思という人の授業を受けるのは初めてだったが、それなりに面白かった。西欧文明に端を発する現代文明の諸機構がいかにしてニヒリズムに帰着してしまうかを、キリスト教文化の分身としての「資本主義(市場経済)」、「民主主義」、「個人の自由」、「科学的合理主義」というテーマのもとに、ニーチェ、ツルゲーネフ、シュペングラー、レオ・シュトラウス、バーリン、ロールズ、ケインズ、トーマス・クーン、ファイヤ・アーベント、ヴィトゲンシュタイン等の20世紀を代表する社会思想家・哲学者を引き合いに出しつつ論じる。最終的には、東洋思想が西洋の没落を救済できるかもしれないとする、西田幾多郎率いる京大哲学派の考え方に共感を示して講義が終わった。グローバル経済市場の中で金融中心経済に収斂していく内実ない貨幣経済、マキアヴェリ→ホッブス→ルソーの系譜からなる「自由の獲得」と現代の頽廃した「権利としてのリベラリズム」、プラトンからなるギリシャ哲学的な「善」に基づく民主主義と現代の低落した形式的民主主義に対するニーチェの辛辣な批判、ヴィトゲンシュタインによる論理実証主義的世界観と現代の方法的アナーキズムに沈溺する科学的合理主義信仰、これらのテーマに関しては自分でも感じていたものが多かったので、聞いていて納得できる部分が多かった(議論の流れが粗いと感じることも多かったが)。東洋思想についてはこのような文脈で考えたことはなかったが、なんとなく佐伯啓思と言う人が保守派と呼ばれている意味合いが分かった。失礼な話、この人に対して漠然とあまり頭がいい人ではないというイメージを持っていたので、膨大な量の知識をちゃんと纏め上げているのを聞いて、感心に似たような気分に陥った。それに、精神分析学などの偏狭なカテゴリに分類されず包括的に現代社会を広い視点から見ようとする態度は真摯で、そういう姿勢は現代社会思想家の中では珍しい方ではないだろうか。ただ、考え方そのものや論理の展開にはあまり非凡なところを感じることはなかった(その点では大沢真幸の方が才能があると思う)。現代社会を包括的に捉える、文系論者が言及しづらい科学的合理主義や経済論等についてもちゃんとした知識を持っているのは良いが、東洋思想を波紋させるとする京大哲学派の考えはもはや実際的ではないだろうし、西洋哲学が受け入れるとも思えない(そもそも、東洋哲学の生みの親である東洋が、あたかも簡単に西欧化している)。その辺をもう少し突き詰めて論じて欲しい部分はあったが、立場的にある種のスタンスを取るというのは簡単なことではないのかもしれない。というのも、ある立場を強調してしまえばすぐさまイズムに染まってしまい、ニーチェ、ハイデガー、カール・シュミット等が後にナチズムに転嫁されてしまったように、西田幾多郎率いる京大哲学派も戦後には戦争加担者として職を失っている。僕の大学には過去の名残で全体主義の学生運動をやっている全体主義推進団体や、首になった後に正門横にプレハブを建てて住んでいる元非常勤講師などがいるが、そういういかにもイズムに染まった団体の行為・運動というのは、中立的な人間の冷静な一言よりもずっと相手にされにくい。彼等のイズムが激化して彼等が声を荒げればそれだけ、彼等の弾劾・主張を真面目に聞く人間というのは減っていく。結局、彼等は内実ない何らかのイズムにたいして日々無駄に邁進していて、そのイズムの内実のなさ、実質性の欠如は先に書いたキッチュの志向に似ているものとなる(はっきり言って自己満足に満ちたパロディーにしか見えない)。対して、冷静に黙々と語る佐伯啓示の論じ方は、なぜか共感を誘い、つまらないことでもなんとなく聞いていてしまう。経験的に培われたというより、これも一種の才能なのかもしれない。
そんな佐伯啓示も今年でもう退官らしい。大沢真幸もセクハラか何かで大学を辞めたし、保守派と自由派の両巨頭が抜けて人環はますますレベルが下がりそうだ。まあ、そんなことはどうだっていいが、本棚を見たら佐伯啓示のすぐに読めそうな本が何冊かあった。いつか暇な時に読んでみようかと思う。試験は簡単だった。
Kitsch
帰途につくと小雨が舞っていた。今の時期の雨は好きだ。夏の雨というのは好きではないが、なんとなく今の時期の雨というのは静かで優しい心地がする。そんなことを思って傘もささずに歩いていたので、家に帰った時にはびしょ濡れになっていた。
他の研究室に客員教授のような形で講演に来た先生を迎えて飲み会のようなものがあり、一緒に飲んでいた。時々、研究者などと話をしたり飲んだりしていると、こいつはなんてみみっちい、小さい人間なんだと思うことがあるが、大抵の人は頭がいいのでその点に関しては見習うべき部分かもしれない。全体としては、以前思っていたより人間も出来ている人が多いなという印象を持った。それでも、この人は社会ではいかにもやっていけなさそうだとか(社会に出たこともないのに)思ことはある。まあ、僕はどちらかといえばこういう場所は向いてないのだと思う。心から尊敬しているわけでもない人に気を遣うなんて自分でやっていていかにも滑稽に感じる。心から尊敬していないとか、そもそもそんなことは本来思うべきではないのかもしれない。僕はそのような立場にはないからだ。社会的な場において自分が望むような人間関係を築こうとすること自体が間違っている、というのが実際のところなのだろうか。
帰っていると、フランスにいたときに、Stage de terrainという野外実習のようなものに行った時のことを思い出した。僕はGrenobleというフランス南東の田舎の町にいたので、アルプスはすぐ近かった。地球惑星科学のクラスに配属されていたため、野外実習としてアルプスに2週間ほど泊り込みで研修に行った。その時でさえ僕の嗜好はGeologyではなくGeophysicsだったので、あまり勉強になったわけではないが、ただの勉強以上に有意義なものだった。そこで、馬が放牧されているようなよくわからない農家のゲストハウスに泊まっていたのだが、そこにパリからも学生の研修として同じ宿に10人ほど泊りにきた。Parisienはフランスだけでなく、ヨーロッパ中であまり好かれてはいないのだが、僕のクラスメイトたちはParisienを見るや否や「パリ公は帰れ」という歌を高々と熱唱していた。なんでそんなに嫌悪しているのかと聞くと「あいつらは観光気分で方方を荒らして行くんだ」というようなことを言っていた(実際、普通こういう研修に来るのだから僕たちは10人乗りくらいのバンで行っていたのだが、Parisien達はなぜかセダン3台で来ていた。しかも明らかに山に来る格好ではなく、教授らしき男は背広を羽織り、その周りにはいかにも顔で選ばれたような華奢でお洒落な女の子ばかりがいた。こんなこと言うのは失礼だが、男の学生はその教授の邪魔にならないような風貌を持つことが必要条件だったのだろうと思った)。研修も終わりに近づいた最後の夜、ちょうどParisien達もその日が最終日だったらしく(と言っても彼らは来てから2日しか経っていなかったが)、僕らがワインをがぶがぶ飲んでいるとちょうどParisienが夕食を摂っていたので、食後に一緒に飲むことになった。少し話を聞くとその日に来ていたParisien達は地学ではなく生物学の研究室らしく、本当に遊びに来ていたのだということが分かったが(古生物とかの化石がかなり露出している地域だったのでそれを見に来たのだろうが、まったく綺麗に掘り出されて露出しているので、そんなもの見るのに大した労苦は厭わない)少し飲み始めた時、Parisienの一人がギターを持ってきて、君たちの中で誰か弾けますか、と尋ねてきた。TAで一緒に来ていた院生がそこで弾くことになった。と言っても最初に弾くからには皆が静かになって集中するので、場が張り詰めた状況で緊張した面持ちだったが、彼が謳った"No woman, No cry"はなかなか良かった。そうすると今度はParisienの番といった状況になり、ギターを持ってきた男がそこでほら来たとばかりにギターを片手に取り、自分の実に見事な手腕を発揮しようと準備をした。滑稽だったのは、こんな場のために何度も練習してきたかのように、Parisien達はみんな揃って一緒に、フランス語ではなくスペイン語の歌を歌い始めた。しかも、例の了見の狭そうないかにも知性を品性を売り出しているような教授の周りを可愛らしい女の子たちが取り囲んで、完璧なテンポでいかにも楽しそうに歌っているのである。ギターも異常に上手く、僕らの代表の"No woman, No cry"は一瞬にしてかき消されてしまった。その後、自分達のショーに満足したParisien達は自前のiPodとスピーカーを出して、テクノミュージックを流してなぜか田舎の農家をクラブハウスにしてしまった。そこでは、例の若さというイメージを纏うためにはいかなる努力も惜しまない教授が、「フランソワ君、君は踊らないのかね」と言って華麗なステップを踏みながら、いかにも優雅に楽しそうに踊っていた(しかし、その後何故か僕のiPodを手にとると、「君、Eminemの曲は入ってないのかね」などと尋ねてきた。このおっさんはEminemで社交ダンスを踊ろうとしているのだと思うとさすがに笑えた)。
これがキッチュでなくてなんだろうか、とその時思った。ミラン・クンデラはキッチュを「存在への絶対的同意」というような言葉で表現しているが、「存在の耐えられない軽さ」の中ではキッチュ=糞として、分かりやすく例示している。俗悪なもの(=糞)をいかにも存在しないようなものとして扱うことがキッチュの定義であるが(キッチュという言葉自体は単に「俗悪なもの」を指す)、これが「存在への絶対同意」だと言うのだ。「たとえわれわれが出来る限り軽蔑しようとも、キッチュなものは人間の性に属するもの」であるらしい。これは人間の社会的な性質に依るものだと思う。つまり、ある共同体の中で生きるとき、その共同体の中に成立しているキッチュに同意することなしに生きることはできない。そして、あらゆる共同体と言うものはキッチュを孕んでいる。というのも、キッチュを排したある種の理想がなければ、我々はその共同体を持続させることができないからだ(イデオロギーや宗教の発端もここにあるのだと思う。つまり、キッチュの絶対的否定による理想化された抽象に)。そこで、「存在の絶対的同意」のためにあらゆる努力をするParisien達を見ていて、なんだか哀れっぽい気分になった。その頃は、「社会性」と言う名の不毛な不断の努力について考えることが多かったので、特にそんなあからさまな例を見ていると、嫌悪感と言うより子供を見て感じるような哀れみの気持ちに纏われた。こんな馬鹿馬鹿しいことに対して必死にならないとこの人たちは生きていけないのだろうと思うと、なんとも哀れっぽい。仏教の僧侶は一人で修行したり実社会から隔離された場にいることがよくあるが、「存在に対する絶対的同意」を避けるためにはそれほど徹底して社会から離れなければならなかったのだろう。ツァラトゥストラも、一人で孤独に山の生活を送ったからそういうキッチュ性を超克できたのだと思う。今の自分を見ていると、社会的なキッチュ性にまみれつつも、それを傍から見て自分で嘲笑しているような自虐的な状況がよくある。が、それも今では特に苦痛ではない。社会の中で生きていくために支払う馬鹿馬鹿しい代償と、割り切っているからだ。が、本当に思っていることというのは違う。本当はもっと怜悧な自分が大部分を占めている。
Plus Rien
今日は久しぶりの休暇だ。が、一日家にいるだけなのにやることがない。風邪気味で何もやる気が起きないのでパソコンの中身を整理したりしているが、なんだか時間を無駄にしているような気分だ。
他人の日記などを見ているといかにも下らないことをしているなと思う時があるが、以前の自分を顧みてもいかにも下らないことをして時間を無駄にしていたと思う。やるべきことを模索しようとしていたのだが、実際は何もやっていなかったし何の意味もないことばかりだったのかもしれない。最近は、勉強もちゃんとやろうと思うようになった。というのも、それらは確かに何か残るものだからだ。死ぬまで勉強し続けるというのもいいかもしれない。ただ、ある程度知識や実力が溜まったら、それを使って何か自分のやりたいことを成し遂げたい。今は知識も実力も無さすぎて何もできるレベルには至っていないと思う。現実には僕より知識や実力がなくても何かをしている人もいるが、きっとその人たちは才覚があり、運が良かったのだろう。下を見ればいくらでも馬鹿がいるように、上を見ればいくらでもすごい人はいる。上に登るには有意味なことを断続的かつ意識的に続けていかなければと思う。偏狭な学際的ドグマに耽溺する気も毛頭ない。

GRACE
卒業研究の中間発表があった。といっても本番は2月上旬なのでほぼ予行演習と言った風躰。
よく研究のことを人に聞かれるので少しまとめようと思う。と言っても真面目に書いても多分一般には分かりづらい話なので、話の概念的な大枠と今までにやったことを中心に。
僕は理学研究科の地球惑星科学専攻、測地学分科というところに属している(肩書き自体はどうでもいい)。測地学というのは従来的には地球の形状を決定するための測量術といった趣があった(航海術、地図作成、標高測定等がそれだ)が、近年では航空技術や造船技術の発達によって航空写真や海底地形の判別、衛星重力や海上重力の測定も可能となってきた。僕が興味があるのは、特にその中でも近年になって始まった宇宙測地という分野で、NASAやDLRといった宇宙研究機関が実施しているプログラムの一つであるGRACEというミッションを使った地球重力場解析だ。GRACEミッションでは、地球上の軌道500km程に双子衛星を飛行させ、両者の間の距離(220km程)を電磁波干渉計を用いて精密に測定することにより、地球重力場の空間的・時間的変位を観測することができる。地球上のグローバルな重力変位はその内外の質量移動によって引き起こされるので、地球の重力場を解析することによって、逆算的に地球内外の質量移動を見ることができる(逆に言うと、どのような密度・質量変動も、結果として重力値に必ず現れる)。これらの質量移動には、海洋の循環、氷床の体積変化、山岳氷河の融解、(雨、旱魃等による)陸水の変動、大気の密度構造、河川の流量、地震による重力異常など、ほとんどすべてのグローバルな地球物理学的現象が含まれる。結果的に、GRACEデータを他の陸水モデル、海洋モデル、TOPEX/PoseidonやCHAMP等の他の衛星ミッションと組み合わせることで、地球環境のモニタリングが可能になると言われている(実際にアマゾン川流域の河川量やチベットの山岳氷河の融解、南極の氷床体積変動などはそれなりの精度で解析されている。GRACEでは空間分解能がまだ十分に小さくないので日本のようなローカルな場所の変動を見ることはできないが)。こういう概略的なことはもう少し包括的に書かれている文献があるので下に載せることにする(たまたま僕が日本語で要約したものもあるので、重複するが載せておく)。
"The Earth is a dynamic system constantly undergoing change. As the processes of change affect the Earth's topography - the heights of land, ice, and ocean surfaces - they also modify the distribution of mass within the Earth and consequently alter its gravitational field. The unique contribution of gravity is to discriminate among causes of variation in topography - for example, between thermal expansion and mass inflow as sources of a rise in sea level. Studies of the Earth's static and temporally varying gravity field can yield improved understanding not only of the Earth's interior, but also of its external envelope - its ice, water, and air. However, time-varying effects are three to four order-of-magnitude smaller than the static field variations, so dense temporal and spatial coverage and highly accurate measurements are necessary. These can be obtained only from space.
The static (i.e., essentially constant in historic time) gravity field is affected by processes over a wide range of scales, from global (10000km) for mantle convection to regional (30 km) for tectonic, magmatic, and sedimentary processes, such as the structure and thermal state of ridges and trenches and the patterns of mantle convection. Additionally, a more accurately known geoid would lead to an improved mapping of the dynamic topography of the ocean, which would in turn allow an improved determination of ocean circulation and an enhanced understanding of ocean dynamics. An improved gravity field would also lead to better orbits and reference geoids for the lower-altitude-altimeters dating back to the 1985 Geosat mission.
The much smaller time-dependent component of gravity is also affected by processes on a wide range of scales, most of them entailing lateral transfer of water. Determining and understanding these transfers is a high priority of geophysicists studying climate and related phenomena; indeed, second only to stydies of the radiative balance of the atmosphere. Processes causing large enough transfers to be measurable include ocean circulation, annual cycles of snow pack and ground-water, post-gracial reboud, sea-level rise, and possibly melting of the ice sheets.
In the past few decades, the earth-science community has called for improved measurements of the global gravity field (e.g., Nerem et al., 1995; National Aeronautics and Space Administration [NASA], 1987; National Research Council [NRC], 1979, 1982.) The committee on Earth Gravity from Space concurs in that call and offers the following new findings, which address the committee's charge to examine new technological advances, the new scientific questions that could be addressed by a state-of-the-art gravity mission, and the benefits of complementary data (see Preface for detail). Our findings were based on the consideration of five generic mission scenarios, new modeling results, and a literature review.
-Executive Summary, "Satellite Gravity and the Geosphere", National Research Council"
("地球は恒常的に変化を続けている、一つの巨大なシステムである。地球内外の様々な変化が地表面に及ぼす変化(陸地の高さ、氷床、または海面の変化)は、地球内部の物質密度の変化、すなわちその重力場の変化に対応している。この重力場の変化はトポグラフィ(地表面の形状)の探査によって測定可能なので、重力場の空間的・時間的変化を測定することにより、地球内部だけではなく、地球外部の流体圏の研究にまで寄与することができる(地球内部の熱対流や、海水・大気の循環等)。しかし、重力場の時間的変化は、重力場の空間的変化よりも、3~4マグニチュードオーダーほど変化が小さい。そのため、時間的変化の測定のためには、かなり正確な重力場の測定が必要になる。それは、技術的には宇宙からの人工衛星によってしか得られない。 重力場の空間分布は地殻運動、マントル運動、堆積過程において、グローバルなスケールから地域的なスケールにまで影響を及ぼす(30km~1000km)。よって、重力場の空間分布の精緻な測定は、深部の地殻・マントル構造や、海溝や海峡などのマントル対流の熱的構造などのプレートテクトニクスにおける問題解決に寄与することができる。また、海水面の精緻なマッピングは、海洋大循環や海洋物理学の理解を深化させることができる。重力場の時間変化の測定もまた、幅広いスケールでの地球運動の理解に寄与する。中でも、海洋大循環、氷雪や地表面の水の年間サイクル、海水面の上昇、後氷河期の隆起、氷床の融解などの、現状の地球物理学で非常に重要な分野である水の循環の理解に大きく寄与する。過去数十年に渡り、地球重力場のより精緻な観測の必要が求められてきた(e.g., Nerem et al., 1995; National Aeronautics and Space Administration [NASA], 1987; National Research Council [NRC], 1979, 1982.) 。Earth Gravity from Spaceの委員会はその要望に応え、重力観測ミッションによる貢献、それによって換気されるであろう新たな問題点、等を以下にまとめた。以下の研究は5つの汎用的なミッションに基づいており、新たなモデリングの結果や論文などの文献の報告も考慮してある。")
で、まあそういう仕様説明書のように物事が上手く行けばいいのだが、理論的な仮定は大体いつも実際的な問題に妨げられる。この場合もまさにそうで、電磁波干渉計で精密に測った双子衛星間の距離を球面調和関数展開することで地球重力場に展開できるのは確かなのだが、実際のGRACEの生データには有意なシグナル以上にエラーが卓越している。これはCorrelated-error (stripe error)と呼ばれるエラーで、南北方向にストライプ状に卓越している(下図左)。その原因はまだはっきりとはわかっていないが(GRACEデータが極周しているので、緯度方向のデータは精緻に得ることができるのに対して経度方向のデータは疎らにしか得られないことに関係しているらしい)、定性的な性質は分かっていてそれを取り除くフィルタリングが考案されてきた。従来的には重み関数を球面展開する前の関数に掛け合わせることで、エラーの多い短波長成分を除去して全体を平滑化するGaussian Smoothingという手法や、それに類似したもの(optimal filter)が使われてきた。Gaussian smoothingを施した後のGRACEデータは右の図のようになる。


が、このGaussian filterやそれに類似したフィルターは、それによってストライプエラーを軽減しはするものの、短波長域の有意なシグナルも同時に除去してしまうという欠点がある(重み関数をかけて高いdegreeのGRACE値をエラーと一緒に軽減している)。これではもともと~1000kmのGRACEの空間分解能がさらに下がってしまうので、どうにかしてこのsmoothingによる平滑化を防げないかと考えた。そこで調べていくと、GRACEデータは、いったん3つのデータセンターに送られた後、それぞれのデータセンターでの解析プロセスを経て(大気効果の除去等)球面調和関数の係数(Stokes係数と呼ばれる)として一般に公開されているのだが、このStokes係数の中のdegree, order(60次(ないし120次)まである)がストライプ状エラーに関係しているということが分かった。そして、GRACEデータの(60次のうち)order=0のみの値を使って重力場を求めると、それは経度方向への平均(Zonal平均)となっていることがわかり、極域を結ぶように南北に走るストライプエラーは、これを各緯度において緯度方向に一周平均してやるとうまいこと相殺されることが分かった。もちろん、それによって算出された値は各緯度の平均値になっているので、緯度方向の空間分解能はなくなってしまうが、代わりに、経度方向への短波長成分を含めた密なデータを得ることができる(実際にはそれでも少なからずエラーが目立ので、さらにdegreeをtruncateする作業が必要だが)。重力値を実際の物理量として見るために質量(Gt)に換算すれば、これによって地球の南北半球の質量収支がわかることになり、その時間変化を求めたところ、南北半球での質量移動の年収変化が極めて対照的に見られた(北半球では7月に質量が増加し、南半球ではその逆)。さらに緯度平均を10°ごと、30°ごとの平均とすれば極域(南極全体や北極海)、赤道帯などの地域的な質量フラックスも見ることができる。こうして、2002年から2009年までの、地球の全的質量収支とその傾向が大まかにわかることになる。こういう大きな話はこれ以上あまり発展性がないが、僕が興味があるのは極域の環境変動なので、これからはもう少し地域的に絞って研究を進めていかなくてはならない。
GRACEのホームページ
http://www.csr.utexas.edu/grace/
球面調和関数
http://en.wikipedia.org/wiki/Spherical_harmonics
Jet Propulsion Laboratory
http://grace.jpl.nasa.gov/data/mass/
Cybele ou les dimanches de ville d'Avray
"This beloved 1962 film from the golden age of international cinema can't help but look terribly self-conscious now, full of ambivalent nods to the contemporaneous vitality of the French New Wave (an obligatory iris shot of star Hardy Kruger, for instance, as seen through something like a tiny knothole). There is also a fair amount of dragging and wasted motion in the overlong story, but even that is forgivable given this film's extraordinary, soulful portrait of a beautiful if impossible relationship. Kruger plays Pierre, a former military pilot whose plane crashed after a bombing raid in Indochina. Killing a little girl in the process, Pierre suffers a psychological trauma that is lessened by the company of a 12-year-old orphan named Cybele (Patricia Gozzi), herself an abandoned, luckless child in need of companionship. Meeting every Sunday, the two become immersed in a deeply affectionate world of their own, where nothing unsavory actually occurs yet a full range of emotional colors seems possible--much like two innocents reborn in each other's eyes. Cowriter and director Serge Bourguignon adopts a fairy-tale tone for both the central bond between Pierre and Cybele as well as the oddly harsh, uncaring social environment that inevitably condemns their union. Bourguignon is lucky to have a couple of important allies: Maurice Jarre for the musical score and legendary cinematographer Henri Decae behind the lens. While these artists can't save Bourguignon from his own trite excesses as a visualist, they enhance his considerable feeling for the redemptive poetry of an unlikely love."
--Tom Keogh
かなり前に観たフランス映画を再見。モノトーンの美しい映像と静かな音楽が浸透してくる作品。静止カメラながら、巧みな演出で観ていても退屈しない。特に、二人が映る水面に石を投げ込んで、縞模様ができるシーンはなんとも言えず幻想的で美しい。縞模様が広がって、水面に映った二人が縞模様の中に入ると、「私たちの家」に二人は帰り、二人の時間が始まる。その時間はあまりに純粋で、無垢で、一点の穢れもなく美しい。しかし、だからこそ粗野で悪意に満ちた社会からは受け入れられず、悲劇の最期に繋がる。戦争中にパイロットとして少女を殺したことにより記憶を失ったピエールと、親に棄てられ修道院暮らしをするシベールの束の間の物語。静かで、夢を見ているような映像。ヴィトゲンシュタインが「哲学宗教日記」の中で、「私には映画ほど適切な精神的休息を想像することはできない。観るものと音楽が、多分幼児的な意味での、だからといって決して弱くはない幸福な感覚を与えるのだ。私がしばしば考えたり、述べたりしているように、総じて映画とは夢に良く似たものであり、フロイトの思想を直接適用できる。」と書いているが、まさにこの映像は夢の中の情景のようだ。最近の映画が、直接的なストーリーで、単純な視覚効果重視(CGを使っている地点で、想像力に乏しすぎる)の大衆娯楽に堕落したにも関わらず、この時代の映画は小説との乖離し難い関係にあり、まだ映画が綜合芸術として一つの作品であったことが思い出される(そして小説という物語も、夢という下位テキストを基にしていると思わざるを得ない)。上の解説はAmazonの商品説明欄からの転載。Amazon Japanにも関わらず英語の解説で、輸入盤VHSしかない。現代の風潮では、こういった映画も消えていってしまうのかもしれない。下はある映画サイトで見つけた、匿名の人のレビュー。後半部分が自分も感じたことを書いてくれているのでそのまま転載。僕も、生涯で一番好きな作品の一つだと思っていた。
<これよりももっと感情移入のしやすい、わかりやすい感動作はたくさんある。もっと夢中になれる面白い作品はいくらでもある。しかし不思議なことに、これ以上に鮮烈に記憶に焼きついた映画はひとつもなかった。精神が壊れてしまった男と、感受性の豊かな少女の束の間の絆。あどけない彼らの姿はなんだか足取りも覚束ない小さな生き物を見ているようで、可愛らしさになごむ反面、いつ怪我をするかとひやひやしてしまう。あやういまでの繊細さが、最後には破滅が待っていることを予感させる。また映像の清らかさも本作を忘れ難いものにしている。湖に広がる波紋、空に入ったひび割れのように広がる木の枝、ガラスや水晶に砕かれた風景。自然物の上手な使い方にはタルコフスキーの『僕の村は戦場だった』を思い出した。しかしなんといっても衝撃的なのは、悲劇を悲劇のままに投げ出す結末だろう。おそらくこの映画に強く共振してしまう人は、ある種の痛みを知っている人だと思う。大切なものが砕けてしまう痛み、きれいなものが汚されてしまう痛み、誰かを守れなかったという痛み――決して取り返しのつかない、圧倒的な喪失の感覚。苦い絶望のなかに、ただ優しい記憶だけが残る。他にも同じような方がいらっしゃるので告白してしまうと、生涯で一番好きな映画を問われれば自分もこの作品を挙げる。もっと面白い、バランスの取れた映画は他にもあるとわかっているのだが、なぜかこの映画を選んでしまう。きっとこの映画が描くような痛みは、心のもっとも深い場所に眠っているもので、そこを突かれると自分が根本から揺るがされてしまうのだろうと思う。失うことの痛み。それは辛く哀しく、しかしけっして忘れたくない大切な痛みだ。>

