小原庄助さんは

合いの手、囃し言葉として

ある頃以前より(少なくとも50年前には参加していたそう)。

桐生まつりの八木節に登場してきた人物です。


(小原庄助氏が参加する囃し言葉は以下参照です)


なぜ福島の人物が八木節に参加して来たのか、

桐生の人でも不服に思う人もいれば、不思議に思う人もいるわけです。


不服に思う理由としては盆踊り唄としての既存の囃し言葉が土着文化として存在していた為です。(こちらは踊り手でなく、現在桐生市では八木節の唄い手を含む囃子方に僅かにですが伝わっています)

(以下参照)

M自身も小原庄助さんに関しては何故桐生八木節まつりに居着いているのかと、長年不思議には思っていましたが

「民謡会津磐梯山」の合いの手で面白い所を取り入れたのかな位に考えていました。


先日ふと思い立ち

本件をインターネットで調べてみました。

そこで面白い記事があったので要約紹介します。


要約すると「民謡会津磐梯山」も昭和初期の新民謡運動(民謡の価値を見直す為に歌詞などをわかりやすくした)の時に「会津盆唄」から名称を含めて生まれ変わり、昭和9年にレコード化された経緯があるそうです。その時に、それ以前より存在した、全く別のレコード「俗謡:小原庄助さん」の歌詞が当時の福島のお東山お座敷文化と馴染み、「会津磐梯山」に組み込まれたのでは、との事。

面白い記事です。


この説での、

小原庄助さんが俗謡としてすでに存在していた事と

小原庄助さんのレコードが東北関東でなく、大阪の国立民俗学博物館に収蔵されている事から考えられるのは

小原庄助さんは福島出身では無いという事です。


実証は出来ませんが八木節で考えてみましょう。

八木節は大正3年にレコード化され盆踊り唄に名称がつきました。つまり「民謡 会津磐梯山」以前です。なのでレコード化の時期から考えると小原庄助さんが福島からやって来たのは考えにくいのです。


桐生に盆踊り唄としてではなく、

八木節という形で伝わったのはレコードとして流行ってからとの説もあります。


元々盆踊り歌としては古くからの囃し言葉がありました。

そこに「俗謡:小原庄助さん」から取り入れた囃し言葉を、当時踊っていた一部の踊り手が面白がり、盆踊り唄の囃し言葉として使用していた事も考えられます(仲間内などの小さなコミュニティでしょうがすでに小原庄助さんは来訪していたという考え方です。)


それが流行りのレコードとしてやってきた八木節とも相性がよく、組み込みこまれ徐々に広まり、祭りの中で現在のように定着したと言う説も考えられます。

(この背景として、八木節は囃子方として伝承されているものと、踊り手として伝承されているものでは、文化の違いや認識の違いが現状あります。また囃子方も各地区で微妙に違いがあり、発祥論もですが土着文化が原型な限り黒白つけられない混沌さがあるわけですね。)


ともかく本説から考えると

小原庄助さん、福島出身で無く、全国を放蕩していた様子。たまたま桐生市に立ち寄ってそのまま居着いたのでしょう。

仮に福島出身だったとしても桐生織の工女達と楽しく踊り明かしていたのでしょうね!


なんて考えるとまたまた八木節の面白さが増えるななんて思います。