1964年11月9日(第1次佐藤内閣発足)~ | 「日本の問題」について、大学生のリョウが考えるブログ

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 我が国、日本は様々な問題を抱えています。領土問題、歴史問題、そして日本国憲法…などなど。どうすればこの国は独立することができるのか。このブログでは、現在大学生のリョウが日本の問題について考え、その問題についてどう対処すればいいのかを綴ります。

日本の歴史 現代史編



1964年11月9日 

第3次池田内閣(改造)総辞職

→第1次佐藤栄作内閣発足

第61代内閣総理大臣 佐藤栄作 自民党総裁

(1964年11月9日~1965年6月3日)

第1次佐藤内閣=自民党政権

[第1次佐藤内閣は、前内閣総理大臣:池田勇人の病気退陣という事情が考慮されたため、内閣官房長官を鈴木善幸から橋本登美三郎に交代した以外は全て池田前内閣の閣僚をそのまま引き継いでの発足であった(居抜き内閣)]




大蔵大臣 田中角栄





防衛庁長官 小泉純也 



核武装、集団的自衛権、微兵制などを憲法解釈で違憲にした男

内閣法制局長官 高辻正巳(まさみ)

(1964年11月9日就任)



1965年6月3日 第1次佐藤内閣(改造)発足

第61代内閣総理大臣 佐藤栄作 自民党総裁

(1965年6月3日~1966年8月1日)

第1次佐藤内閣(改造)=自民党政権
[第1次佐藤内閣は、前内閣総理大臣:池田勇人の病気退陣という事情が考慮されたため、内閣官房長官を鈴木善幸から橋本登美三郎に交代した以外は全て池田前内閣の閣僚をそのまま引き継いでの発足であった(居抜き内閣)。従ってこの内閣は事実上の佐藤本格政権体制の第一歩となる組閣人事となった]



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1966年(~1977年) 文化大革命

[プロレタリア文化大革命、通称文化大革命は、中華人民共和国で1966年から1977年まで続いた、「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動]

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1966年8月1日 第1次佐藤内閣(第2次改造)発足

第61代内閣総理大臣 佐藤栄作 自民党総裁

(1966年8月1日~1966年12月3日)

第1次佐藤内閣(第2次改造)=自民党政権



1966年12月3日 第1次佐藤内閣(第3次改造)発足

第61代内閣総理大臣 佐藤栄作 自民党総裁
(1966年12月3日~1967年2月17日)

第1次佐藤内閣(第3次改造)=自民党政権

[1966年後半より田中彰治代議士の不祥事(国際興業会長脅迫事件)に端を発し、共和製糖不正融資事件にまで拡大した政界黒い霧問題の最中、12月1日、自民党は日比谷公会堂で第8回臨時党大会を開き、総裁公選を実施した。佐藤栄作総裁(首相)は289票を獲得して再選したものの、対立候補らに投じられた批判票が170票(内訳は、藤山愛一郎89票、前尾繁三郎47票、灘尾弘吉11票、野田卯一9票、小坂善太郎2票、岸信介1票、松村謙三1票、村上勇1票、無効票9票)にのぼる結果となった。 総裁選の結果を受けて佐藤栄作は党三役を刷新し、翌12月3日に内閣改造を実施した。しかし佐藤政権に対する国民の不信感の広がりを感じ取っていた佐藤は年の瀬も押し迫った12月27日に第54回通常国会を召集し、その日に衆議院解散(黒い霧解散)を断行し、第31回衆議院議員総選挙に打って出ることとなる]



1966年12月27日 黒い霧解散



1967年1月29日 第31回衆議院議員総選挙

1967年2月17日 第2次佐藤内閣発足

第62代内閣総理大臣 佐藤栄作 自民党総裁



1971年6月17日 沖縄返還協定調印

[沖縄返還協定は、日本国アメリカ合衆国との間で署名された協定。正式名称は、「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」。1971年6月17日に調印、1972年5月15日に発効し、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が復活した](出典:ウィキペディア)