1960年7月19日(第1次池田内閣発足)~1964年11月9日(第3次池田改造内閣総辞職) | 「日本の問題」について、大学生のリョウが考えるブログ

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 我が国、日本は様々な問題を抱えています。領土問題、歴史問題、そして日本国憲法…などなど。どうすればこの国は独立することができるのか。このブログでは、現在大学生のリョウが日本の問題について考え、その問題についてどう対処すればいいのかを綴ります。

日本の歴史 現代史編



1960年7月19日 第1次池田内閣発足

第58代内閣総理大臣 池田勇人 自民党総裁

(1960年7月19日~1960年12月8日)

第1次池田内閣=自民党政権

[日本全国を争乱の渦に巻き込んだ60年安保で岸政権が倒れると、1960年7月14日に自由民主党総裁選挙に立候補して当選し、自民党第4代総裁に就任した[。池田内閣の成立には、同郷の先輩政治家でもある政財界の大物・肥田琢司の工作が大きく貢献したとされる。5日後の7月19日、内閣総理大臣に就任し、第1次池田内閣が発足した。池田は第1次池田内閣で中山マサを厚生大臣に起用し、日本初の女性閣僚が誕生した。池田が総理となると、池田は政治的論争となりうる課題を極力避け、「所得倍増」をスローガンに掲げて経済重視の内政主義を打ち出した。沢木耕太郎は「所得倍増」を「戦後最大のコピー」と評している。そして国民の怒りを一身に集める結果となった前政権の反省から、池田政権は徹底した「低姿勢」と「寛容と忍耐」を全面に打ち出し、国民との対話を重視する姿勢をとることに務めた。「寛容」は宮澤喜一、「忍耐」は大平正芳の発案によるという。

 政権発足早々の同年10月12日、日比谷公会堂で行われた自民党、民社党、社会党の党首立会演説会の壇上、社会党の浅沼稲次郎委員長が暴漢によって目前で刺殺される浅沼稲次郎刺殺事件が起こった。この事件の直後に池田が衆院本会議で行った追悼演説は今日でも名演説として知られている。

 同年11月20日の第29回総選挙で自民党は60年安保の影響もなく議席数を伸ばし勝利する。これを受けて同年12月8日に第2次池田内閣が発足すると、以前から言及していた「所得倍増」を目指す構想を実行に移し、12月27日に所得倍増計画の閣議決定をする](出典:ウィキペディア)





内閣法制局長官 林修三 




1960年10月24日 解散



1960年11月20日 第29回衆議院議員総選挙

[日米安保条約改正に反対する安保闘争が激しく行われて間も無かったが、安保闘争は選挙への影響はほとんど無かった。逆に、社会党と民社党の分裂により、自民党が議席を増やした](出典:ウィキペディア)



1960年12月8日 第2次池田内閣発足

第59代内閣総理大臣 池田勇人 自民党総裁

(1960年12月8日~1961年7月18日)

第2次池田内閣=自民党政権




官房長官 大平正芳 (池田派)



内閣法制局長官 林修三


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1961年1月20日 

ジョン・F・ケネディがアメリカ合衆国大統領に就任

第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ
(1961年1月20日~1963年11月22日)

[父ジョセフ・P・ケネディ・シニアは政界入りさせるつもりだった長男「ジョー・ジュニア」」(ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア)が戦争中に不慮の死を遂げたため、次男の「ジャック」ことジョンを政界に送り込もうと決めた。そこでケネディはマサチューセッツ州選出下院議員に民主党候補として立候補して当選し、1947年から1953年まで下院議員をつとめた。次に上院議員選挙にも当選し、1953年から1960年まで在職した。1960年アメリカ合衆国大統領選挙に打って出たジャックは民主党指名候補として、対立候補だった共和党のリチャード・ニクソンを非常な僅差で破り、大統領に当選した。彼は大統領就任時43歳、合衆国の歴史上、選挙で選ばれた大統領としては最も若い大統領であった(副大統領からの昇格を含めればセオドア・ルーズベルトに次いで二番目になる)。

 ケネディは20世紀生まれの最初の大統領であり、カトリック教徒として初の(現在までで唯一の)大統領であり、アイルランド系アメリカ人としても最初の大統領となった。さらに(著作『勇気ある人々』で)ピューリツァー賞を受賞した唯一の大統領である。ケネディの在任中、ピッグス湾事件、キューバ危機、ベルリンの壁の建設、米ソの宇宙開発競争、公民権運動の高まり、ベトナム戦争早期撤退計画の発表など多くの歴史的事件が発生しているが、特にキューバ危機の対応においては「第三次世界大戦」「米ソ全面核戦争」の危機を回避したと評価される。

 ケネディは1963年11月22日、テキサス州ダラスで遊説中に暗殺された。犯人として捕らえられたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、わずか二日後にジャック・ルビーによって銃殺された。FBI、ウォーレン委員会、下院暗殺特別委員会(HSCA、House Select Committee on Assassinations)のいずれもオズワルドが犯人であるという結論を出している(HSCAのみが単独犯でなく共犯者のいる可能性を否定できないとしているが、特定の団体がかかわっているとはいえないと結論づけている)。数々の謎と共に、ケネディ大統領暗殺は歴史に残る事件となったが、若かったケネディは就任時からアメリカ国民に期待され、現在に至るまでアメリカ人の好きな大統領ランキングの上位に上がり続けている](出典:ウィキペディア)

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1961年7月18日 第2次池田内閣(改造)発足

第59代内閣総理大臣 池田勇人 自民党総裁

(1961年7月18日~1962年7月18日)
第2次池田内閣(改造)=自民党政権



官房長官 大平正芳 (池田派)




科学技術庁長官 三木武夫 (三木・松村派)





内閣法制局長官 林修三




1962年7月14日 自民党総裁選挙

[1962年7月14日に行われた自民党総裁選挙は、現職の池田勇人首相一人が立候補し、事実上、池田総裁の信任投票となった。池田は391票を獲得し再選したものの、無効票などを合わせると135票もの批判票が出て、内閣改造、自民党役員改選に影響を及ぼすこととなった。

 前の第2次池田内閣(改造)と比較すると、改造前は党内実力者を網羅したものであったのが、佐藤栄作、三木武夫、藤山愛一郎が閣外に去り、河野一郎が残留した。また、内閣官房長官の黒金泰美は河野に傾斜し、佐藤と河野の権力闘争が激しくなっていった。

 それ以上に重要なことは、外務大臣の大平正芳と大蔵大臣の田中角栄が外交と財政を掌握し、若手実力者として台頭する契機を作ったことである](出典:ウィキペディア)



1962年7月18日 第2次池田内閣(改造その2)発足

第59代内閣総理大臣 池田勇人 自民党総裁

(1962年7月18日~1963年7月18日)
第2次池田内閣(改造その2)=自民党政権



池田勇人 負の遺産 その1

大蔵大臣 田中角栄 (佐藤派) 

 池田勇人が部下の福田赳夫に嫌がらせをするために送り込んだのが田中角栄。

 「私は小学校出の文学文盲だ。仕事は秀才の君たちに任せ、責任だけ俺がとる」などと言いながら、コシヒカリを付け届け(謝礼や依頼などのために,他人に金銭や物品を贈ること)。

 大蔵省に〝私兵〟を養成。福田赳夫(岸信介・佐藤栄作)の牙城である大蔵省を壟断(利益や権利を独り占めにすること)。
 この後、大蔵省は福田派・田中派・大平派の三派に分かれる。



池田勇人 負の遺産 その2

外務大臣 大平正芳 (池田派)

「中国と仲良くしなくては!」と言い高碕達之助と共に中国貿易(LT貿易)を推進。

[LT貿易は1962年に日本と中華人民共和国との間で交わされた「日中長期総合貿易に関する覚書」(通称:LT協定)に基づき、両国間の正式な国交はないものの、互いの連絡事務所を設置し、政府保証の融資を利用して行われた半官半民的な貿易形態である。最盛期には日中貿易総額の約半分を占めた。覚書に署名した中華人民共和国側代表廖承志〈りょうしょうし〉(アジア・アフリカ連帯委員会主席、のち中日友好協会長)と日本側代表高碕達之助(元通商産業大臣)の頭文字であるLとTをとってLT協定、ないしLT覚書と呼ばれ、覚書に基づいて行われた貿易をLT貿易と称した。また1968年3月の第二次協定締結後は名称を「日中覚書貿易」(MT貿易)に改めて1年ごとに更新される形式となり、日中国交回復後の1973年まで続けられた]



建設大臣 河野一郎 (河野派)





内閣法制局長官 林修三



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1962年10月14日(~10月28日) キューバ危機

[キューバ危機は、キューバを舞台に、1962年10月14日から28日までの14日間に亘って米ソ間の冷戦の緊張が、核戦争寸前まで達した危機的な状況のことである](出典:ウィキペディア)
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1963年7月18日 第2次池田内閣(改造その3)発足

第59代内閣総理大臣 池田勇人 自民党総裁

(1963年7月18日~1963年12月19日)

第2次池田内閣(改造その3)=自民党政権





大蔵大臣 田中角栄 (佐藤派)




外務大臣 大平正芳 (池田派)





建設大臣・近畿圏整備長官・首都圏整備委員会委員長  河野一郎 (河野派)





北海道開発庁長官・科学技術庁長官 佐藤栄作 (佐藤派)



内閣法制局長官 林修三




1963年10月23日 解散 



1963年11月21日 第30回衆議院議員総選挙


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1963年11月22日 ケネディ大統領暗殺事件

[ケネディ大統領暗殺事件とは、1963年11月22日金曜日、現地時間12:30にテキサス州ダラスで第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが市内をパレード中に銃撃され死亡した事件である。犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドが2日後に警察署管内でジャック・ルビーに撃たれて殺され、しかも大統領が後方から撃たれたとする公式見解に反して前方から撃たれたとする異説も出て、白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な事件発生と犯人が殺害される意外な展開、そしてその後に暗殺の動機も背後関係も分からないまま多くの謎を残し、陰謀説も多い事件として半世紀が過ぎた現在でも論議を呼ぶ事件である]

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1963年12月9日 第3次池田内閣

第60代内閣総理大臣 池田勇人 自民党総裁

(1963年12月9日~1964年7月18日)

第3次池田内閣=自民党政権
[第30回衆議院議員総選挙に於いて、自民党が勝利を収め、総選挙後の第45特別国会で自民党総裁の池田勇人が首班指名を経て内閣総理大臣に再任された。

 尚、この組閣では、この年の7月に内閣改造(第2次池田内閣改造その3)を行ったばかりであったという理由から、解散前の内閣閣僚が全員再任された。ちなみに解散前の内閣閣僚の再任は戦後初のケースとなった]




内閣法制局長官 林修三



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Point 池田勇人はエコノミック・アニマルではない!

池田勇人

教育憲法をやり残した。軍隊を持っても国民に国を守る気がなければ意味がない。国民が愛国心を持てば、自然と憲法は改正される


 池田勇人はその信念のもと、病気の身でありながら自民党総裁選挙にのぞんだ。

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1964年7月10日 自民党総裁選挙

[池田勇人242票・佐藤栄作160票・藤山愛一郎72票。直後、池田勇人が病気退陣。話し合いで後継は佐藤栄作に]



1964年7月18日 第3次池田内閣(改造)発足

第60代内閣総理大臣 池田勇人 自民党総裁

(1964年7月18日~1964年11月9日)

第3次池田内閣=自民党政権




内閣法制局長官 林修三



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1964年8月2日、8月4日 トンキン湾事件

[アメリカ軍は、1964年8月2日と8月4日にトンキン湾で発生した北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃事件(トンキン湾事件)への報復を口実に、翌8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動を行った。この軍事行動はアメリカ国民からの支持を受け、8月7日には、上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が可決され、民主党と共和党の議員の多くがこれを支持しジョンソン大統領への戦時大権を承認、本格的介入への道が開かれた。

 1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手し、8月4日の2回目の攻撃については、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカが仕組んだ捏造した事件であったことを暴露し、マクナマラ国務長官も1995年に同様の内容を告白している。捏造は8月4日の事件であり、8月2日に行われた最初の攻撃は、アメリカ海軍の駆逐艦を南ベトナム艦艇と間違えた北ベトナム海軍の魚雷艇によるものであることが北ベトナム側も認めている](出典:ウィキペディア)

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1964年10月25日 

池田勇人が闘病生活に入ることを理由に退陣表明



1964年11月9日 

第3次池田内閣(改造)総辞職