第28代内閣総理大臣
若槻礼次郎 1931年4月14日~1931年12月13日 244日 立憲民政党
蔵相 井上準之助
1931年
中国では不平等条約撤廃、国権回収を要求する民族運動が高まり、1931年(昭和6)年には国民政府も不平等条約の無効を一方的に宣言する外交方針をとるようになった。(山川日本史343頁)
1931年9月18日 柳条湖事件から満州事変へ
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第29代内閣総理大臣
犬養毅(1931年12月13日~1932年5月16日) 156日 立憲政友会
蔵相 高橋是清(1931年12月13日~1934年7月8日)
世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた(出典:ウィキペディア)
高橋是清の経済政策
・金解禁停止 → お札を刷ってデフレ対策ができるように
・インフレ期待 → 円高株安
・金融緩和 → 日銀国債直接引き受け
1932年3月 関東軍、満洲国の建国を宣言
[犬養首相は中国との直接交渉をめざしたが、翌1932年(昭和7年)になると、関東軍は満州の主要土地を占領し、3月には清朝最後の皇帝溥儀を執政として、満州国の建国を宣言させた](出典:山川日本史345~346頁)
1932年3月
中華民国からの訴えと日本の提案で、リットン調査団が満洲に派遣される
[1931年、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。翌1932年3月、関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。同年3月、中華民国の提訴と日本の提案により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した](出典:ウィキペディア)
1932年5月15日 五・一五事件
[1932年5月15日に日本で起きた反乱事件。武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した](出典:ウィキペディア)
第30代内閣総理大臣
斎藤実(1932年5月26日~1934年7月8日) 774日
蔵相 高橋是清
1932年9月 リットン調査報告書が国際連盟に提出される
Point 実は日本の権益を相当に認めていた「リットン調査報告書」
1932年9月15日
斎藤内閣が日満議定書を取り交わして満洲国を承認
1932年12月8日
[連盟総会は日本に対して厳しい雰囲気の中、開催される。到着早々の松岡は12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの大演説を総会で行う。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果的だったともいわれる。もっとも、会議場での松岡の「十字架上の日本」と題せられる演説に関しては絶賛の拍手で渦巻いた。仏国代表ボンクール陸相が握手を求めたのを皮切りに、多数の代表・随員が握手を求め、英国代表サイモン外相、陸相ヘールサム卿が松岡に賛辞の言葉を述べた。これら各国代表の賛辞は、演説の内容もさることながら、松岡の英語能力に驚嘆し「日本にもこれほど外国語が堪能な人物がいたのか」と感心した面にもよるものだった。連盟総会において対日批判の急先鋒であったのは、中華民国、スペイン、スイス、チェコ、東南アジアに植民地である「オランダ領東インド」を有するオランダであった](出典:ウィキペディア)
1933年1月 熱河作戦
1933年2月
国際連盟が臨時総会にて日本が満洲国の承認を撤回することを求める勧告案を採択。これを受け、松岡洋右ら日本全権団は総会の場から退場する。
1933年3月
日本政府が正式に国際連盟からの脱退を通告(1935年発行)
1933年5月31日 塘沽(タンクー)協定が締結され、満州事変が終わる
[塘沽協定は、1933年5月31日、河北省塘沽において日本軍と中国軍との間に締結された停戦協定である。これにより柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止された。塘沽停戦協定とも呼ばれる]
Point 満州事変における外交上の失敗が、大日本帝国の命運を左右した