おすすめ本の紹介(1)「常識から疑え!山川日本史 近現代史編」倉山満 | 「日本の問題」について、大学生のリョウが考えるブログ

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 我が国、日本は様々な問題を抱えています。領土問題、歴史問題、そして日本国憲法…などなど。どうすればこの国は独立することができるのか。このブログでは、現在大学生のリョウが日本の問題について考え、その問題についてどう対処すればいいのかを綴ります。

「常識から疑え!山川日本史 近現代史編」倉山満

常識から疑え! 山川日本史 近現代史編 下 「研究者もどき」がつくる「教科書もどき」 (Kno.../ヒカルランド
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日本近現代史 歴史年表



Point 近現代史の大前提「当時の中国は内戦状態にあり、力が支配する無法地帯だった」「当時の中国は国際法違反の常習犯であり、まともな国家ではなかった」


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1924年1月20日(~1927年) 第一次国共合作

[第一次国共合作は、軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であった。国民党は1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。

1925年孫文が死去し、1926年に中山艦事件で蒋介石が共産党員を拘束するなどの軋轢があったが、その後国民革命軍総司令官になって実権を握った蒋介石が同年北伐を開始し、1927年に南京に国民政府が成立。1927年4月の上海クーデターによって国共合作は事実上崩壊。7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し第一次国共合作の終了を宣言、国共内戦に突入した](出典:ウィキペディア)


1926年 蒋介石が北伐を開始

[辛亥革命後の軍閥割拠状態になった中国において、孫文や蒋介石指導の国民党による全国統治を目指して戦われた北京政府や各地軍閥との戦争。特に1926年から1928年のものを指すことが多い](出典:ウィキペディア)

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第25代内閣総理大臣 

若槻礼次郎(1926年1月30日~1927年4月20日) 446日 憲政会


外相 幣原喜重郎  協調外交(内政不干渉主義)



1927年3月14日~ 金融恐慌

[日本経済は第一次世界大戦時の好況(大戦景気)から一転して不況となり、さらに関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。1927年3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した(若槻内閣は不良債権を抱えた台湾銀行を緊急勅令によって救済しようとしたが、これに枢密院が反対し総辞職する)。これに対して高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努め、金融不安は収まった]





1927年3月24日~ 南京事件

[1927年(昭和2年)3月、蒋介石の国民革命軍が南京に入城した際、その兵士たちによってイギリス・アメリカ・日本などの外国領事館や居留民が襲撃された事件。アメリカ・イギリスは、長江上の軍艦から報復の砲撃を加えたが、日本はこれに加わらなかった]



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1927年4月12日 上海クーデター

[上海クーデターは、1927年4月12日中国国民党右派の蒋介石の指示により、上海中国共産党を弾圧した事件のことを指す。四・一二事件ともいう](出典:ウィキペディア)


→実態は上海大虐殺。蒋介石は「無関係な人間を千人殺しても、一人の共産党員を逃がすな」と述べた。

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第26代内閣総理大臣 

田中義一(1927年4月20日~1929年7月2日) 805日 立憲政友会


蔵相 高橋是清(1927年4月20日~6月2日)

1927年の金融恐慌をあっという間に解決した



1927年 田中内閣が東方会議において満州における日本権益を実力で守る方針を決定



Point 「田中義一内閣の時期に、日本の外交は中国政策をめぐって強硬姿勢に転じた」(山川日本史341頁)は正しいか?

 日本史の教科書でよく言われるのが、「幣原協調外交(民政党)田中義一に代表される武断外交(政友会)」という構図ですが、実は両者の政策にはあまり差はありません。

 違いがあるとすれば、幣原外交が不干渉を徹底するのに対して、田中義一は中国大陸の日本人居留民保護を優先するという点です。当時の中国は内戦状態にあるわけですから、現地の日本人を保護するためには軍隊を介入させることもやむを得ない、ということです。

 大して差はないからこそ、田中義一内閣は、後に満州事変を起こす関東軍(満州駐屯軍)からは「軟弱外交」と批判されていたのです。田中が陸軍の山県有朋直系の長州閥のドンだからというイメージで語ると間違えますが、陸軍は一枚岩ではないのです。むしろ、陸軍出身の田中は、上層部を抑えているので誰も逆らえませんが、中堅どころは「政党政治家に媚びて出世した裏切り者」とすらみなしているのです。東京の田中内閣と現地の関東軍の思惑はまったく違います。

 帝国議会はどうかというと、衆議院は政友会と民政党の二大政党に割れています。貴族院はどうかというと、これが実は民政党寄りなのです。田中内閣の末期には、予算以外の法案は全部否決したこともあるほどです。




1927年~1928年 山東出兵

[山東出兵は、大日本帝国が1927年から1928年にかけて、3度にわたって行った中華民国山東省への派兵と、その地で起こった戦闘。日本政府は、北伐を再開した国民革命軍が華北に近づくと、日本人居留民の生命・財産を保護(いわゆる現地保護政策)するため、北伐の勢いが華北・満州に広がることを抑えようとした]


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1928年(~1932年) ソ連が、第一次5カ年計画によって重化学工業と農業集団化を推進し、急速に国力を高める

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1928年6月4日 張作霖爆殺事件

[1928年6月4日、中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で、関東軍によって奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された事件]



Point 関東軍(満州駐屯軍)は何を考えていたのか?

 現地の関東軍は、無法地帯になっている中国大陸で、日本人居留民が中国の匪賊(ギャング)らによって拉致・強姦・殺人とひどい目に遭わされているのを目の当たりにして我慢の限界まできていました。だからこそ、田中義一内閣の「軟弱外交」を批判するのも彼らにとっては当然だったのです。そこで、何かあるたびに居留民保護のために軍隊を派遣するのでは間に合わない、満洲を占領してしまったほうがいい、との考えが出てきます。



第27代内閣総理大臣 

浜口雄幸(1929年7月2日~1931年4月14日) 652日 立憲民政党


外相 幣原喜重郎  協調外交(内政不干渉主義)


蔵相 井上準之助 

狂ったように緊縮財政を進め、海軍の予算を親の敵のように削った人



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1929年7月~12月 奉ソ戦争

[中東鉄道を巡りソビエト連邦と張学良軍の間で起こった軍事衝突である。中ソ紛争中東路事件とも呼ばれる。北伐を終えて統一された中国にとって外国との初めての交戦であった。紛争の発端は、中ソの共同管理下に置かれていた中東鉄道の利権を、中国が実力で回収しようとしたことにある。自衛を理由にソ連軍が満洲国境地帯に侵攻し、中国軍は大敗した。原状復帰を内容とする停戦協定が結ばれてソ連軍は撤収したが、その後も中国側は協定の無効を主張して再交渉を要求し続けた]

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1930年1月21日~4月22日 

日本、ロンドン海軍軍縮会議に参加

[1930年に開催された列強海軍の補助艦保有量の制限を主な目的とした国際会議。イギリス首相ラムゼイ・マクドナルドの提唱により、イギリスのロンドンで開かれた。当初、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの五大海軍国により会議がもたれたが、フランスおよびイタリアは潜水艦の保有量制限などに反発し、結局部分的な参加にとどまった。軍縮会議では、主力艦建造禁止をさらに5年延長することと、ワシントン海軍軍縮条約で除外された補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)の保有量が取り決められた。当初の日本の要求のうち、補助艦の総トン数の対イギリス・アメリカ約7割は認められたものの、大型巡洋艦の対米7割は認められないまま、政府は条約調印に踏み切った(ロンドン海軍軍縮条約)]



Point ロンドン海軍軍縮条約は、日本の外交上の大きな成果である

 長い英米対立が続くなかで、1927年に開かれたジュネーブ軍縮会議では日・英・米の補助艦制限についての条約交渉が決裂していました。

 その反省から、英米が歩み寄り、フランス・イタリアは無理でも日本だけは巻き込もうということで結ばれたのがロンドン軍縮会議です。

 ここで日本は、「なんとか英米70%を切る数字を認めてくれ、そうでないと議会が納得しない」というアメリカの求めに応じて補助艦全体の保有量を対英米比69.75%まで譲歩します。つまり、0.25%はアメリカのメンツを立てるために譲歩して、実質的には7割を認めさせたわけです。

 この外交交渉の成果が、日本史の教科書では何故かまったく語られません。

ロンドン海軍軍縮条約が統帥権干犯問題に発展する

[日本の内閣としては、提案した7割に近い6.975割という妥協案を米から引き出せたことで、この案を受諾する方針であり、海軍省内部でも賛成の方針であった。当時の日米における工業力の差が桁違いであったことを考慮すると、対米7割弱という条件は破格に近いものであったが、軍令部は重巡洋艦保有量が対米6割に抑えられたことと、潜水艦保有量が希望量に達しなかったことの2点を理由に条約拒否の方針を唱えた](出典:ウィキペディア)

[ロンドン海軍軍縮条約に対し、野党の立憲政友会・海軍軍令部・右翼などは、海軍軍令部長の反対をおしきって政府が兵力量を決定したのは統帥権の干犯であると激しく攻撃した。しかし政府は枢密院の同意を取りつけて、条約の批准に成功する](出典:山川日本史345頁)





1930年11月14日 

浜口首相が東京駅で右翼青年に狙撃されて重傷を負う