おすすめ本の紹介(2)「戦争論」クラウゼヴィッツ | 「日本の問題」について、大学生のリョウが考えるブログ

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 我が国、日本は様々な問題を抱えています。領土問題、歴史問題、そして日本国憲法…などなど。どうすればこの国は独立することができるのか。このブログでは、現在大学生のリョウが日本の問題について考え、その問題についてどう対処すればいいのかを綴ります。

日本の防大生の必読書は「孫子」、「戦略論」(リデル・ハート)、そして「戦争論」(クラウゼヴィッツ)である



 クラウゼヴィッツの「戦争論」は、分かりにくい。



 なぜ分かりにくいかというと、この「戦争論」が書かれた時代背景にあります。



 クラウゼヴィッツの「戦争論」の大部分は、彼が陸軍大学校の校長に任命された1818年からコレラに感染して死去する1831年までの期間に執筆されています。そして彼がこの「戦争論」で書こうとしたのは、当時まだ確立していなかった新しい概念、具体的にはナポレオン戦争以降における新しい戦争のパラダイムを構築することでした。これが、「戦争論」が現代を生きる我々にとって難しく感じてしまう理由のひとつです。



 ※パラダイムとは…その時代に支配的なものの見方のこと



 ここで、クラウゼヴィッツという人物について、簡単な紹介をしておきます。


クラウゼヴィッツ(プロイセンの軍人)



 クラウゼヴィッツは1780年にプロイセン王国(1701年~1918年)に生まれました。父親が軍人だったこともあり、クラウゼヴィッツは12歳でプロイセン軍に入隊します。そして21歳のとき当時の上官に推薦されベルリンの士官学校に入学。シャルンホルスト中佐の下で軍事学を学び、士官学校を主席で卒業しました。

プロイセン王国
青線で囲まれた領域は神聖ローマ帝国です(・ω・)




 その能力の高さをかわれたクラウゼヴィッツは、士官学校を卒業した23歳で、かの有名なフリードリヒ大王の甥であるアウグスト親王の副官として仕えることになり、宮廷社会に入ります。時は1803年でした。



 しかしこのとき、時代は大きな変革を迎えようとしていました。ナポレオン(フランス)の台頭です。フランス革命を発端とし全ヨーロッパの征服に乗り出したナポレオンの覇権は中央ドイツにまで及び、プロイセンの周りに軍を駐屯させ無言の圧力をかけはじめます。これに危機感を募らせた国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム3世は1806年、ついにナポレオンとの開戦を決意しました。

ナポレオン・ボナパルト




 そしてその結果、プロイセン軍はナポレオンによって壊滅させられます。ナポレオンは2倍の兵力差を誇るプロイセン軍をあっけなく撃破し、首都のベルリンを占領したのです。




 このことはクラウゼヴィッツに大きな衝撃を与えました。プロイセンといえば、フリードリッヒ大王の時代にオーストリア継承戦争(1740年~1748年)でオーストリア・ハプスブルク家から鉱物資源の豊かなシュレジェンを奪い、七年戦争(1756年~1763年)でオーストリア・フランス・ロシア連合軍から祖国を防衛した栄光の歴史をもつ国です。そのプロイセンが、フランスの雑軍に負けた。クラウゼヴィッツの受けた衝撃は計り知れないものでした。




 この敗北でクラウゼヴィッツはアウグスト親王ともども捕虜としてフランスに抑留されます。1年間の抑留生活の後、1807年11月にクラウゼヴィッツとアウグスト親王はフランス占領下のベルリンに帰還が許されました。このとき、クラウゼヴィッツは27歳でした。




 クラウゼヴィッツはベルリンに帰還してすぐに、士官学校時代の師であるシャルンホルスト将官を中心とする軍備再編委員会に参加し、プロイセン軍の人事・訓練・国土防衛など全面的な軍事改革に尽力しました。




 しかし、この動きに目をつけたナポレオンは国王に圧力をかけ、改革を中止に追いやります。さらにあろうことか国王はこれ以上のナポレオンの不興を買うことをおそれ、フランスとの同盟の締結を決定したのです。




 これにより、クラウゼヴィッツはフランス軍と戦うためにベルリンを離れ、同じくナポレオンを敵視していたロシア軍への入隊を決意します。フランス軍と戦うということは同盟国のプロイセンとも戦うということ。しかしクラウゼヴィッツはプロイセン国民として祖国の自由と品位を取り戻すため、愛国心ゆえにロシア軍に入隊したのでした。




 それから4年後の1812年、ナポレオン戦争の転換点となる出来事が起きます。これまでの戦いでヨーロッパ諸国に対して全戦全勝してきたナポレオン軍がモスクワ遠征で敗走したのです。この敗走を皮切りにナポレオンは没落の一途を辿ることとなります。




 しかしクラウゼヴィッツは、この勝利がロシア軍の実力ではなく、結果的に勝利を手にできたことにすぎないということを見抜いていました。ロシア軍は戦いでナポレオン軍に勝利したわけではありません。戦いに敗れたロシア軍はロシア国内に退却し、ナポレオンはそれを追いかけてモスクワの街を占領します。ロシア軍はその日、モスクワを焼きます(焦土作戦)。そしてその後の厳しい冬の到来により広大なロシアの地への物資補給は滞り、ナポレオン軍は夏装備のままモスクワに滞在せざるを得なくなります。こうしてナポレオン軍は飢えと寒さで大量に命を落とし、ナポレオンは命からがらロシアから脱出したのです。

ロシアから撤退するナポレオン
寒そうやね(・ω・)






 1812年12月、フランスとの同盟国なっていたプロイセンと、ロシアの間で停戦のためタウロッゲン協定が締結されました。ナポレオンの敗戦を知ったプロイセン国王はロシアと組み、フランスへ対抗するチャンスだと判断したのです。




 クラウゼヴィッツはこのタイミングでロシアからプロイセンに戻りましたが、国王は彼のプロイセン軍への復帰を許しませんでした。国王はいかなる理由であれ祖国を捨て敵国であるロシアへ従軍したクラウゼヴィッツのことを快く思っていなかったのです。クラウゼヴィッツは苦悩します。




 ナポレオンのモスクワ遠征の失敗はすぐさまヨーロッパ全土に広まり、抑圧されていた諸国民は反ナポレオンの意思を燃え上がらせます。そして1813年、ヨーロッパ諸国はプロイセン・ロシア・オーストリア等を主力とする反ナポレオン連合軍を結成。後に「解放戦争」と呼ばれる戦いが始まりました。




 ナポレオンはモスクワで軍を失ったにも関わらず急遽18万の兵を集め、連合軍に対抗します。しかしこの頃すでにフランス国民のナポレオンへの支持は薄れつつありました。ナポレオンの躍進とは裏腹に国民は長びく戦争に疲れ果て、徴役忌避者や脱走兵が出るようになったのです。

 



 さらにフランス兵はまだ訓練が不十分だったこともあり連合軍の前に敗走。連合軍はついに首都パリを占領します。敗戦したナポレオンはイタリアのエルバ島に追放され、その権限を失うこととなりました。




 しかし、ナポレオンの時代はここで終わるわけではありません。解放戦争の終結から1年後の1814年、ナポレオンは再びフランスに帰国し、皇帝に返り咲きます。




 なぜ、ナポレオンは再び皇帝に返り咲くことができたのか。この背景にはナポレオンが追放された後に皇帝に即位したルイ18世の横暴がありました。

ルイ18世




 ルイ18世は政治をフランス革命以前の絶対王政に戻し国民に対して圧政をしきます。これにより、戦争に疲弊していたとはいえ再び自由を奪われた国民はナポレオンの帰還を望むようになり、それを知ったナポレオンはフランスへ戻ることを決意したのです。ナポレオンの帰還を恐れたルイ18世は海岸へ刺客を送りますが全てナポレオン側に寝返り、ルイ18世はあっけなく国外へ逃亡。国民に迎えられたナポレオンは、より力を蓄えるため軍を編成しなおします。



 そして1815年、いよいよナポレオン対ヨーロッパ連合軍の最後の戦いが勃発します。復活したナポレオン軍の士気は高く、最後まで強力な戦闘力を誇っていましたが、この戦いにヨーロパ連合軍は勝利します。ナポレオンはセントヘレナ島へ流刑となり、ここにナポレオンの天下は完全に終焉を告げました。その後、かつての栄光が戻ることはなく、ナポレオンは1821年、セントヘレナ島にてその生涯の幕を閉じます。



 ナポレオン戦争終結から3年後の1818年、クラウゼヴィッツは少将に昇進し陸軍大学校の校長に任命されたました。クラウゼヴィッツはこの時期から自身が亡くなる1831年にかけて、「戦争論」の大部分を執筆したといわれています。



 1830年、クラウゼヴィッツは50歳になったことを契機に、校長を辞任してプロイセン軍の部隊に戻ります。同じ年に隣国のポーランドの情勢が悪化し紛争が起きたため、プロイセン軍が鎮圧に出ます。クラウゼヴィッツも参謀長として出兵しました。しかしその翌年、戦地からプロイセンに戻ったクラウゼヴィッツは、当時流行していたコレラに感染し、命を落とします。享年51歳。激動のナポレオン戦争の時代を生きた、波乱の生涯でした。




 その後、クラウゼヴィッツの書き記した手記は、彼の妻であったマリー夫人と軍関係者の協力により、遺作集として全10巻が刊行されます。その遺作集のはじめの3巻が、「戦争論」の部分にあたります。