おすすめ本の紹介(2)「歴史問題は解決しない」倉山満 | 「日本の問題」について、大学生のリョウが考えるブログ

「日本の問題」について、大学生のリョウが考えるブログ

 我が国、日本は様々な問題を抱えています。領土問題、歴史問題、そして日本国憲法…などなど。どうすればこの国は独立することができるのか。このブログでは、現在大学生のリョウが日本の問題について考え、その問題についてどう対処すればいいのかを綴ります。

白人中心史観に立たなければ、7世紀は世界史にとって重要な世紀



 ユーラシア大陸の東のはずれの島に、日本国が誕生した。




 それまで、中国人から「倭」と呼ばれてきた人々が自立を主張し、時に干戈を交え、時に文明を学び、そして交わりを絶った。




 いうまでもなく、聖徳太子が隋に送った国書であり(607年)、白村江の戦い(663年)であり、遣唐使による律令国家の建設(701年)である。そして菅原道真の建言(894年)で大陸との交わりを絶つ。




 その後、19世紀まで日本は世界史に登場せず、独自の文化を発展させていくこととなる。



 日本が交わりを絶つことことになったアジアには、2大帝国が出現した。このアジアはユーラシア大陸全土に広がる。




 1つは、618年に建国され、中国大陸から中央アジアを支配した唐帝国である。

唐(618年~907年)




 もう一つは、610年にムハンマドが創始したイスラム教がアラビア半島を支配し、100年も経たずに全盛期のローマ帝国以上の判図を築いたイスラム帝国である。

イスラム帝国



 この頃の東欧では、すでに東ローマ帝国の栄光に陰りが見えており、西欧ではやがてローマ教皇がフランク国王に西ローマ帝国の栄冠を授け(800年)、後に神聖ローマ帝国ができる(962年)のだが、あまりにも資料がなさすぎて内情は本当のところよくわからない。

神聖ローマ帝国(800年または962年~1806年)



十字軍はエルサレムから遠ざかれば成功する



 欧米世界において十字軍は、今でも正義の戦いとしての「正戦」、あるいはキリスト教的に正しい戦いとしての「聖戦」の意味を持っている。しかし、被害者のイスラム教徒からすれば、単なる一方的な侵略にすぎない。

1066年 十字軍遠征前の世界情勢




 第1回対エルサレム十字軍が行われた1098年、ヨーロッパから見て東方を支配していたのはセルジューク・トルコ朝である。ローマ教皇が聖地エルサレムの奪還を掲げて十字軍を宣言すると、現在の英仏独にあたる国々の国王や騎士たちは馳せ参じた。

セルジューク・トルコ朝(1038年~1308年)
1092年の最大判図




 エルサレム奪還の十字軍が行われたのは8度と言われるが、最終的にこの目論見は失敗した。西欧諸国が束になってかかっても、東方の帝国にはかなわなかったのだ。トルコに驚異を感じた西欧諸国は、トルコの背後にモンゴル帝国が出現した際は、彼らを十字軍として認定しようという、何のための十字軍か、目的を見失うようなこともあった。



 また、十字軍はエルサレムにだけ向けて発せられたのではない。むしろ皮肉なことに、エルサレムから遠ざかるほどに成功しているのである。



 たとえば、バルト海の先住民に対する北方十字軍である。後のアメリカ大陸のインディアン狩りと同じように、最初は生存圏を巡る戦いであり、布教は侵略の道具だったが、1193年にローマ教皇が十字軍を宣言してからは完全な制服戦争と化した。北方十字軍は16世紀まで続き、スェーデンやデンマーク、そして東プロイセンのドイツ騎士団を従えたポーランドが大国化していく。ローマ教皇の権威は北欧にも及んだ。

バルト海




史上最強のローマ教皇はインノケンティウス3世



 史上最強のローマ教皇は、間違いなくインノケンティウス3世である。

インノケンティウス3世(在位1198年~1216年)



 彼の治世における2つの十字軍の影響は大きい。



 1204年、十字軍は、なんとエルサレムへの通り道にある東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都・コンスタンティノープルを陥落させて滅ぼし、傀儡ラテン帝国を建国させる。



 ここにローマ帝国東西分裂以降初めて、ローマ教皇はヨーロッパの頂点に君臨することになる。



 西欧では、キリストとペテロの首位件を継承する初代ローマ教皇パウロ以降、ローマ教皇こそがキリスト教世界の頂点に君臨し続けているとの歴史観が正統とされる。しかし、ここには2つの明確な歴史歪曲がある。



 1つは、イエス・キリストはキリスト教の創始者ではないということだ。イエスは生涯を通じてユダヤ教の改革派にすぎない。それを後にパウロがキリスト教の創始者に仕立てた。キリストの筆頭弟子であるペテロを初代ローマ教皇とした理論家がパウロである。

パウロ(5年~67年)
ちなみに右がパウロね(・ω・)

 



 もう1つは、ローマ教会が常にキリスト教世界の頂点に位置したわけではないということである。ローマ帝国におけるキリスト教の国教化と東西分裂に伴い、権威と権力を同時に掌握する東ローマ皇帝が、キリスト教徒における信仰と世俗の双方での頂点となった。



 東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルこそがキリスト教の中心であり、ローマはアレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムと同格にすぎなかった。いわば、東ローマ皇帝を首領とする組織の四大幹部の1人にすぎなかったのだ。


 

 それをインノケンティウス3世は初めて打倒し、キリストやペテロ以来ローマが常にキリスト教世界の頂点に君臨していたという歴史歪曲を行ったのである。



 ビザンチンの皇族はニケーア亡命帝国を建国して抵抗し、60年後にビザンチン帝国を復興するのだが、かつての力を再び取り戻すことはなかった。ローマ教会の歴史歪曲を正す力は2度と持てなかった。



 さて、教皇権を絶頂に極めたインノケンティウス3世は、「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語した。事実、その通りだった。しかし、教皇・教会、皇帝、国王、貴族が常にせめぎ合いを続けるのがヨーロッパ中世である。暗黒の中世における混沌は続く。



「最初の近代人」フリードリッヒ2世

 インノケンティウス3世が育てた神聖ローマ皇帝が、フリードリヒ2世[フェデリコ2世]である。

フリードリヒ2世[フェデリコ2世](在位1220年~1250年)
フリードリヒ2世って評判いいよね…(・ω・)


 フリードリヒ2世は、インノケンティウス3世の死後、教皇グレゴリウス9世と激しく対立する。



 きっかけは、1228年の十字軍において、フリードリヒ2世が聖地エルサレムの奪還に成功したことであった。フリードリヒ2世はアイユーブ朝の第5代スルタンであるアル・カミールとの交渉により、戦わずして聖地エルサレムへの返還を実現する。



 なぜこれがフリードリヒ2世とグレゴリウス9世の対立につながるかというと、フリードリヒ2世が「異教徒を殺さなかったから」である。戦わずして戦争目的を達成したフリードリヒ2世に対して、グレゴリウス9世とローマ教皇庁は、「なぜ異教徒を殺してこないのか」と激怒した。そして皇帝を破門した挙句に、十字軍を差し向けるのである。こうしてグレゴリウス9世とフリードリヒ2世は、20年に及ぶ飽くなき殺し合いに突入するのである。



700年も戦い続けたキリスト教徒




 十字軍は、ただただ凶暴だったが、最も凄惨を極めたのはイベリア半島だった。地中海を制圧したイスラム教徒は沿岸のサハラ以北アフリカを領有し、さらに711年、西ゴート王国を滅ぼして現在のスペインとポルトガルにあたる地域を占領した。

700年頃の西ゴート王国の領域(イベリア半島)
711年にウマイヤ朝(イスラム勢力)に攻められて滅んじゃうんだね…(・ω・)


 そして王朝の興亡はあれど、700年の間イスラム教徒がイベリア半島を支配することとなる。それほどの間、異教徒民族に支配されていれば、文化的影響を色濃く受けないはずがない。現に、スペインは今でも建築を見ればわかるように、最もイスラム文化の影響が強いヨーロッパの国である。



 しかし、キリスト教徒は700年間、何度負けても戦い続けた。教皇庁は「失地回復(レコンキスタ)」(718年~1492年)を宣言し、何度もイベリア半島に十字軍を差遣した。




 実は、後ウマイヤ朝をはじめ、イベリア半島の支配者であったイスラム帝国は、キリスト教徒に信仰の自由を認めていた。貢納する限り、信仰の自由を認めるのが、ムハンマド以来の商人的伝統である。強制改宗させれば、貢納が少なくなるし統治が面倒になる。そういう理由で、イスラム帝国には信仰の自由があった。



 この合理性に、被支配者であるイベリア半島のキリスト教徒はどうしたか。ひたすら裏切り者を異端審問にかけ、拷問によって殺し続けたのである。よく知られる魔女狩りは異端審問の一種である。



 そして1492年、最後のイスラム教徒の支配地であるグラナダを攻略した。700年の屈辱を跳ね返し、勝ったのだ。



 韓国は「恨の民族」などと言われるが、果たしてここまでの歴史を持っているのだろうか。日本人が歴史問題を考える場合、真の「恨み」とはどのようなものか認識する必要がある。




十字軍という(イスラムにとっては)大迷惑な行いで、ヨーロッパに先進的な文明がもたらされた




 十字軍は、現代へとつながる西洋史と東洋史の邂逅ともいうべき事件である。十字軍の意義は大きく、現代世界にも影響を与えている。イスラム教徒にとっては非道な侵略以外の何者でもないが、欧米の白人にとっては東方世界に善戦した栄光の歴史である。



 そして先進的な文明が――十字軍という不幸な形ではあったが――ヨーロッパにもたらされた。イスラム教徒との戦いによって、ヨーロッパにイスラム圏の文明や思想が流入したのである。



 さて、十字軍の失敗により、教会の権威に陰りが見え、反カトリック的な思想が出現する。しかし、教皇(カトリック)の勢力もまだまだ強い。教会のくびきを脱しようとする潮流とそれを妨げようとする反動の衝突により、ヨーロッパは「暗黒の世紀」を脱し、近代へと向かう。



 よくある歴史の三区分は、古代・中世・近代である。日本人は、西欧の歴史分析を用られるこの枠組みを自国の歴史に当てはめて区分する。日本の場合だと、多少の停滞があっても、時代が後になるにつれ、文物は進歩する。




 しかし、西欧はこれまで記述してきたとおり、古代ローマの繁栄が、中世によって失われるのだ。西欧人にとって近代とは、「暗黒の中世」から脱し、再び古代の繁栄を取り戻そうとする衝動なのだ。この衝動を「再生(ルネサンス)」と称する。