中国・四国地方旅行の6日目は広島から岡山に向かった。
岡山での目的は足立美術館に次いでミシュラン三ツ星庭園の後楽園を訪問する為だ。

岡山後楽園は、金沢兼六園・水戸偕楽園と共に日本三名園といわれており、江戸時代岡山藩主池田綱政によって造園された大名庭園で、藩主の静養の場としてあるいは賓客接待の場として用いられていたものである。

先の足立美術館の庭園がただ眺めるためのものであるのに対し、後楽園は庭園を歩きながら移り変わる景色を眺めることができる回遊式庭園である。またその為、広い芝生地や池・築山(唯心山)・茶室が園路や水路で結ばれている。
ちなみに後楽園は旭川から曲水(全長640メートル)を引き園内に水を引き入れている。その水を池や滝に利用し優れた水の景色を作り上げた後花交の池からまた旭川に戻している。

またハス池(花葉の池、井田)、花菖蒲畑、モミジ(千入の森)、梅林、桜林など四季それぞれ美しい景色を堪能できる。

私は見て美しい庭園より自分の足で歩き季節季節の移り変わりを感じることのできる庭園を好む為、足立よりこちらの庭園を高く評価する。
また庭園全体は広大であるが、庭園の部分部分はは見る角度見るであろう状況を意識した繊細でデリケートな作りなのである。このことも足立よりこちらを好む理由でもある。


中でも一番感じ入ったのが、流店から花菖蒲畑につながる景色である。ここでは伊勢物語の東下りにちなんで「八橋」とカキツバタが植えられている。
先日見た根津美術館「燕子花図」(尾形光琳)・出光美術館「八つ橋図」(酒井抱一)と同じ意匠がリアルに作られているのである。



(岡山 後楽園 八橋)
宮島の次は広島へと向かった。
目的は世界遺産となっている原爆ドームである。
この原爆ドームは人類の愚行を後世に伝えるという意味で世界遺産に指定された、いわゆる負の世界遺産である。
同じ意味での指定は、ポーランドのオシュベンチム(ドイツ名アウシュビッツ)強制収用所等がある。私はまだ冷戦下1980年代半ばここを訪問した記憶がある。

さてその原爆ドームであるが、ドーム及び平和記念資料館を訪問後気分がむかむかした。

その「むかむか」は一般の人の感覚とは逆の感覚だ。

原爆を落とされたのは事実であるが、それのみを捉えて自らを悲劇の人として捉えているその感覚にむかむかしたのだ。

「自らを」といったのはいわゆる市井の個々人のことである、当時の一般の日本人は本当に悲劇の人だったのだろうか?
そこには戦争は政府高官・軍部などの一部よって引き起こされたもので、一般の日本人は戦争の被害者であるという感覚が強く感じられる。日本でもマスコミはその論調が強い。

私の母は大正末生まれで女学校(いまの高校)に通っていたが、当時の学校・マスコミ・市井の人の考えなどについて、子供のときから彼女の記憶やまだ保存してあった当時の新聞・雑誌から知ることができた。

そこからは政治家・官僚・軍部などが戦争を主導したというより、一般民衆が戦争を望んでいたということが見て取れた。

決して一般民衆は悲劇の人ではないのである、自ら戦争を望みその結果大敗し原爆を落とされただけのことである。

私は一般民衆が戦争を望んだことを非難するつもりはない、戦争は違法ではないのであり、国際紛争を解決する為に戦争を起こすことはハーグ条約等に基づき全く合法的であるからだ。
またそもそも国際法というものは普遍的に存在するものではない。存在するのは各々の条約でありその条約を締結するには国内法に基づく必用があるのである。加えて国内法を裁く強制力のある裁判所にあたるものは国際的には存在しない。国際司法裁判所で裁判をするには双方の同意が必要で強制力はない。またその判決を強制することもできないし、強制する為の警察力もないのである。
つまり国際関係の問題を解決するには、有形無形の力でのみしかありえないからだ。別にこれは軍事力のみを指しているのではない、外交交渉力や経済力も力の一種であり、その中で何を選択するかは個々にまかされているのである。

そうして選択肢の中から戦争を選択し、結果が悲劇になろうがそれは自己決定の結果でしかない。嘆くならば冷徹に状況を判断し決定を行えなかった自らの能力の不足を嘆くべきであって、それを原爆というものに転化すべきでない。

こうした考えについて一般民衆は騙されていたのであるとする現在のマスコミの論調もあるが果たしてそうであろうか?
時代を振り返ってみると、戦国時代戦争を欲し領土拡張を望んでいたのは戦国武将というより末端の農民であった。かれらは戦争で自分の耕地を拡張することや、子供という生産力を生む女性や奴隷という労働力を確保する為、領主に戦をすることを要求したのである(したがって合戦は農閑期に起こっていた)。
まだ第一次産業が主要産業であった当時の日本で、戦国時代と同じ意識は働かなかったか?
一概に否定することはできないであろう。

こうした主体性の無さは皮肉にも以下の言葉で表されている。
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」(原爆死没者慰霊碑)
主語が全く不明であるが、公式見解は主語は人類一般だそうだ。
こうして特定の誰とするのでなく、責任を拡散しふわふわとした空気のようなものを責任としてしまうことこそが、今後へと続く大きな問題ではないか?


このむかむかした感覚は戦争や原爆ドームにのみ発せられるものではない、現行において原子力発電問題で自らを被害者のように訴える人々を見聞きすると感じられるものと全く同じである。


中国・四国旅行の5日目は萩から新山口を経て宮島(厳島神社)へと向かった。

宮島はご存知のとおり松島・天橋立と並ぶ日本三景の一つであり、ユネスコ世界遺産に1996年に登録されている。またその社殿は国宝に指定されているだけでなく、保有する宝物の多くが国宝・重要文化財に指定されている。

その宝物の一部は最近では2012年江戸東京博物館等での「平清盛」展や2013年東京国立博物館等での「大神社展」などで公開されている。


過去宮島を訪れているがいずれも干潮の時のみで、まるで海上に浮かぶと評される満潮時の社殿を拝見するために再訪した。

(干潮時)

今回は満潮時にあわせて訪問を予定したが、加えて朝から雨がふっている。
雨天かつ満潮時の厳島神社は、天と地から水が湧き出てくるように見え風情がある。

(雨天かつ満潮近くの厳島神社)

午後を回ると雨が止んでしまったが、雨天かつ満潮時に厳島神社を訪問できて幸いだった。

尚、宝物館は開館しているものの主な宝物は展示してあってもレプリカのみ。国宝類収納の収蔵庫は少なくとも来年まで修理中で入館できないので、厳島神社保有の宝物拝観を目当てに訪問される場合は肩すかしとなるのでご注意を。
中国・四国旅行の4日目は萩に向かった。

津和野・萩(秋吉台・秋芳洞含む)は、1970年台から80年台いわゆるアンノン族による旅行でブームとなった場所である。

当時と比べて現在はどうなっているのであろうかという興味で今回訪れてみた。

結論からいうとかなり衰退が目立っている。

東萩駅に隣接していた萩ロイヤルホテルは倒産(その後萩ロイヤルインテリジェントホテルとして再開)、また東萩駅近くで城の石垣のような外観の旅館一二三も破綻。

こうした旅館は修学旅行や個人客の減少で経営が悪化し破綻したとのこと。

萩で宿泊して秋吉台・秋芳洞を含めた萩市内を観光というのではなく、新幹線の止まる新山口駅をベース基地とするというのが現在の主流のようだ。

新山口から萩へは一日20便以上バスがあり早い便だと1時間強で萩に到着する。

又萩から秋吉台・秋芳洞に行くバスは一日2便であるのに、新山口からは一日9便もある。

必然的にお金は萩には落ちない仕組みになっている。

かといって新しい産業が育っているわけではなく、そうすると必然的に若壮年層が流出し人口も減少する。するとますます町が衰退していくというサイクルになる。2010年の国勢調査では5年前と比較し人口はマイナス7.3%、年齢中位数は57.1歳となっている


中国・四国旅行の3日目は松江から大田市を経由して石見銀山に向かった。

石見銀山は2007年に「石見銀山遺跡とその文化的景観」としてユネスコの世界遺産に登録されている。

その理由として以下の点が普遍的価値をもっているとされた。
・石見銀山の銀生産は東アジア及び欧州の貿易国と日本との間における重要な商業的・文化的交流をもたらした。
・金属採掘と生産における技術的発展は優れた運営形態の進化をもたらし、それが採掘から精錬に至る技術の全体を包括するまでにいたった。
・一方鎖国により産業革命後の技術導入が遅れ、明治以降は銀鉱石の枯渇により鉱山活動が停止され、結果豊富で良好な状態の下に考古学的遺跡が残った。
・銀の鉱山経営に関する豊富な痕跡は、今では広い範囲が山林の景観に覆われ、その結果残存する景観が顕著な価値を持つ歴史的土地利用のあり方を証明している。

単に世界的な銀産地であったというだけでなく、自然との共生の中で栄えた銀鉱山であるということが評価されたということであろう。
ただそれは意識してかどうかは不明で、たまたま鎖国の時期に産業革命が起こり明治維新でその技術を導入するころにはすでに銀鉱石が枯渇していたという偶然によるものではないかと思われる。
その点では、はたしてユネスコ世界遺産に指定されるほどのものかということには疑問が残る。

ただそうして決定された経緯からか「石見銀山方式パーク&ライド」という方式が採用されている。
これは自家用車の場合は世界遺産センターの駐車場のみ駐車可でそこから路線バスに乗り継いで石見銀山地区に入るという方式である。また観光バスは予約制となっており2箇所でのみ乗降できるようになっている。

自家用車でバスにのりかえるにせよ観光バスで降車するにせよ最寄は銀山公園となりそこから公開されている銀山跡である龍源寺間歩まで2.3kあるのでここからは人力でということとなる(タクシーも通行不可)。

したがって観光バスが連なっているというのはここでは観れなく、ある意味世界遺産登録で観光客を積極的誘致という最近見かけられる皮算用が少ない分ゆっくりと歩いて(あるいはレンタサイクルで)こじんまりとした江戸時代の街並みや鉱山跡地を散策することができる。

一般的には銀山跡である龍源寺間歩と大森の町並み(熊谷家住宅、大森代官所跡)を回るのだろうが、私は清水谷精錬所跡の方が印象に残った。

ここは藤田組(現DOWAホールディング)が明治28年から巨額(現在の価値では20億円以上か)を投じて建造したものであるが、銀の質が悪くわずか1年半で操業中止となったその跡地である。現在では、精錬所そのものは残っていないものの、跡地は石垣が残っておりまるで城跡のようである。


(清水谷精錬所跡)
神魂神社を参拝した後和菓子を堪能する為松江中心地に戻った。

松江が和菓子で有名となったのは、松江藩七代目藩主松平不昧公が、独自の茶道流儀「不昧流」を確立した大名茶人であったからである。彼は多くの茶器を収集しその一品一品にランク付し著作として残す一方、茶会に用いられる和菓子も彼の茶人としての活躍に伴いいわゆる「不昧公好み」として銘品と呼ばれるようになるものが数多く生まれ、現在でも松江には「三英堂」や「彩雲堂」などの有名な和菓子処が数多くある。

その中で私は店を構えている訳ではないが、松江歴史館内にある喫茶きはるに行きたかった。

ここの職人である伊丹二夫氏は、「彩雲堂」で長年和菓子職人として働かれた後独立され喫茶きはるで腕を振るわれている。また黄綬褒章や厚生労働大臣賞「現代の名工」などを受賞されている。
彼の作る上生菓子は和菓子というよりアートとも評されており、実際工芸菓子としてパリなどにも出展されているとのこと。

喫茶きはるでは、伊丹二夫氏に目の前で上生菓子を作ってもらい、それを抹茶とともに庭園を眺めながらいただくことができる。

きはる以外ではチルドパック(冷蔵)の宅配便で送ってもらうこともできるが、生ものであり作ったその場でいただくほうがいいにきまっている。





ここ以外では彩雲堂にもいってみた。ここでも和菓子が抹茶とともにいただくことができる。


(写真は彩雲堂、奥にみえるのは「若草」)

松江は、大都市にもかかわらず町の中に茶の湯が根付いたところであった。
中国・四国地方旅行の二日目は山陰の大都市松江に向かった。

ここでの目的は未見の国宝建造物 神魂神社本殿を拝見することと、京都以外では金沢についで和菓子の本場といわれている松江の和菓子、その中でも現代の名工といわれている伊丹二夫さんの和菓子をいただくことである。

まず神魂神社であるがここは松江の中心街からかなり外れた郊外の「八雲立つ風土記の丘」と名づけられている場所の一角にある。またこの地方では縁結びの神社として慕われている八重垣神社から神魂神社まで歩くのもお勧めコースとされている。

「八雲立つ風土記の丘」というのは、このあたり一帯が「出雲国風土記」のくにびき神話を起源とする意宇郡(おうぐん)の中心にあたる地域であり、又多くの古墳や出雲国造(くにのみやっこ)家にゆかりのある神社や寺があることからこれらの遺跡を整備し保存活用する目的で作られたものだ。

その中で中心になっているのが「八雲立つ風土記の丘展示学習館」であり、2012年京都国立博物館「大出雲展」(東博では「出雲―聖地の至宝」展として開催していたが、展示内容が京博の方が圧倒的に充実していたので、京都に数回赴いた記憶がある)でマスコット的存在であった「見返り鹿」が常設展示されている。


神魂神社はこの一画にある神社であるが、ここの本殿は出雲大社の約半分の大きさであるが現存する大社造としては最古のものである。
またその内部のつくりは女造となっており出雲大社とは神座の位置と向きは逆になっている。これは神魂神社は女神であるイザナミを祀っている為とのことである(出雲大社は男神である大国主命)。
(神魂神社本殿)
三佛寺奥院を拝観してから倉吉に戻り、安来にある足立美術館を目指した。

ここの日本庭園はミシュランのグリーンガイドブックで三ツ星の評価を受けている。
今回の旅行の目的のひとつは、ミシュランが三ツ星をつけている庭園(足立美術館、後楽園、栗林公園)を訪問し、西洋人の尺度からみた日本の庭園はどのようなものか見てみるということがある。

ここ足立美術館の日本庭園はミシュラン三ツ星というだけでなく、アメリカの日本庭園専門誌「SUKIYA LIVING MAGAZIN」で11年連続庭園日本一に選ばれたということをPR材料としている。

また山陰地方の旅行パンフレットにもここを訪問するツアーは多数掲載されており、山陰旅行のちょっとした目玉にもなっている。

そういった前評判のある美術館であったが、結論からいうと私は高い評価とはならなかった。

確かに庭園そのものは広大で例えば高さ15Mの人工の滝を作るなどスケールは大きい、また庭園の種類も枯山水、苔庭、池庭、白砂青庭など六種類もありバラエティーに富んでいる。

加えて庭園の見せ方も館内の窓をそのまま額縁や掛軸にするなどして趣向をほどこしている。

庭園そのものも手入れが行き届いていてゴミひとつ落ちていない。
ちなみに前述の日本庭園専門誌が足立美術館を評価したのは、「美術館職員一人一人が日常的に参加する庭園管理のプログラム」という点である。

こういった点(でかくて、多様で、面白みがある)が西洋人からみて評価が高くなっているのだろうが、私の感覚にはどうもあわない。

一番違和感があるのは、庭園はあくまでも美術館の窓越しに眺める仕様となっており、庭園を自分の足であるき、庭園の中に自分をおくことができないことだ。

そこからは、「オレの庭に足を踏み入れるな眺めるだけで満足しろ」という創設者(足立全康氏)の高慢な意識が私には感じられた。

また庭園全体は大きくて又多様であってももいいのだが、個々の庭にはミクロの繊細さが必要となる、いわば利休の茶室のような感覚が個々の庭には必要となると考えているが、ここの庭園にはそうした繊細さが感じられないのだ。

むしろここの庭園は秀吉の大茶会のイメージにだぶる、それは創設者が不動産事業で一代で財を成したワンマン経営者であり、以下の彼の言葉からもそれがうかがえる。
「わしの人生は、絵と女と庭や」
「美術館の目的は、金儲け、社会への還元、道楽の三つすべてに該当する」

自分の成功を見せびらかしたかったのがこの足立美術館であろう。まるで秀吉の大阪城のように。

これが私がこの美術館を評価できなかった理由なのである。

先週一週間かけて中国・四国地方を旅行してきた。

ルートは下記の通りである。

倉吉→三佛寺奥院(投入堂)→足立美術館→松江(神魂神社)→石見銀山→津和野→萩→秋吉台・秋芳洞→宮島(厳島神社)→広島(原爆ドーム)→岡山(後楽園)→阿波池田→かずら橋→大歩危→大田口(豊楽寺)→善通寺→坂出(神谷神社)→高松(栗林公園)

今回の旅行の目的は以下の通りだ。

1 中国、四国地方の未見の国宝建造物を見ること(三佛寺奥院(投入堂)、神魂神社本殿、厳島神社社殿、豊楽寺薬師堂、神谷神社本殿)
2 中国、四国地方の世界遺産を見ること(石見銀山、宮島(厳島神社)、広島(原爆ドーム))
3 ミシュラン三ツ星の三庭園を見ること(足立美術館、後楽園、栗林公園)
4 定番の観光地の変容(萩・津和野、かずら橋・大歩危)


初日は倉吉に夜行バスで到着後、ローカルバスに乗り換え三佛寺を目指した。

三佛寺は三徳山の山裾に建っており、奈良・平安時代から修験者が集う山岳佛教の霊場である。
またここの奥院は断崖のくぼみにはりつくように建っており、役行者が法力で岩屋に投げ入れたことから投入堂と呼ばれている。

三佛寺奥院は三佛寺本堂そばの参拝登山事務所で受け付けをする必要があるが、単独入山は許されていない。また靴のチェックがあり少なくともスニーカー程度の靴を履いていないと入山が許可されない。

過去には死者もでたことがあり、今年のゴールデンウイーク中も滑落が数件あり、ヘリコプターの救助要請が必要だったといわれた。こうしたことから上記の入山チェックがあるとのことだ。

同じ国宝に指定されている奥院でも醍醐寺(薬師堂、清涼殿拝殿)は登るのは苦しいが、こうした事故はまず起こらないことから、ここ三佛寺奥院は国宝建造物の中でも訪問することが物理的に困難なもののひとつとなる。

こうして奥院目指して登り始めるのであるが、距離は大したことはなく1時間もかければ十分登れる。但し途中、木の根っこをよじ登ることが必要なカズラ坂、巨岩をクサリでよじ登る必要があるクサリ坂などがある。

クサリを使って登るのは、大峰山(奈良)に登って以来であるが大峰山と比較すると容易だと感じられた。総じて言えば注意さえすれば事故はまずおこらないレベルと思っておけばよい。

カズラ坂は入山して間もなく、クサリ坂はほぼ中間にあるが、ここをすぎれば難所というところはなく、奥院まで到達できる。

ただ奥院は岩肌から眺めるしかできず、奥院そばまで接近したりすることは許されていない。
したがって三徳山からの絶景を楽しみたいのなら途中の文殊堂から絶景を楽しむことができる。



(三佛寺奥院投入堂)

三佛寺奥院から倉吉に戻る途中には三朝温泉がある、公衆浴場(たまわりの湯、株湯(源泉))で汗を落とすことも可能だ。
言いそびれた事については何点かあるがその一つに、4/2のブログに記載した「またこの中間にあてはまるものとして継続的には発生しないものの、何年かに一度(あるいは何十年に一度か)定期的に発生するキャッシュフローを想定しておかなかったというものがある」、という一時的か否かという分類に関する中間的に発生したキャッシュフロー相違をどうのように扱っておくかということである。

中間的なキャッシュフロー相違は、「固定資産的資産」に関して発生するキャッシュフローの未想定が主な原因となる。
「固定資産的資産」とは厳密な意味での固定資産ではなく、1年以上に渡って使用している資産の意味で考えている。
具体的には、家電・住居付帯設備の買い替えや修繕(家電等)、不動産関係費用、その他生活関連支出である。

こうしたものに関して長期キャッシュフローの見積もりを想定しておかなかった場合、考え方として固定資産的ととらえ長期に渡って償却するやり方とでは、過去の意思決定の甘さを修正させることはできずまた同じ過ちを犯しがちであるが、とはいっても継続的に発生しないものにたいしてその対処方法をあてはめるもの難しい。

またそもそもこうしたキャッシュフローの相違が発生する原因は、「固定資産的資産」は、寿命があり経年劣化あるいは陳腐化による買い替えあるいは修繕が必要になってくる。いいかえればこうしたものを保有するということは、その保有を継続することに伴う将来キャッシュフローを想定しておかないといけない。にもかかわらず目先キャッシュフローが発生するわけではないため、その見積もりを怠り勝ちになるのだと思う。

あるいは修繕あるいは買い換えに伴うキャッシュアウトフローが発生する時になれば、保有をやめることが自分はできると過信していることが原因かもしれない。
いままで何回かいったことであるが、一度習慣づいてしまうとそこからは簡単に脱却できないし、「いざとなればできる」(今は本気ではない)などという甘い考えは捨て去っておくべきだ。

原因は、「わからなかった」かあるいは「わかったいたが実行力がなかったか」かのどちらかである。「わからなかった」のなら次回以降の対応を今後考えていくべきであるし、「わかっていたが実行力がなかった」場合、頻度の問題から先述の外部強制力を用いることは難しい為、現存する「固定資産的資産」は今後の存在するという前提で考えたほうがよかろう。

ではその対応であるが、この「固定資産的資産」に伴うキャッシュアウトフローは、発生はするものの頻度が少ないというところに特徴がある。
従ってこの頻度を多くして対応を行うのがひとつの考えとして取りうることができる。
頻度を多くするとは、「固定資産的資産」の耐用年数割額をあたかも減価償却額とみなし月々費用化し、その額を積み立てておくすることだ。

この手法のメリットは二つある。
ひとつは、計画的に「固定資産的資産」のリプレイスのコストを積み立てておくことができること。
もうひとつは、前者より重要であるが「固定資産的資産」を保有することで、月々かかってくる費用を見える化し認識させることができるということだ。

そしてこの費用化した減価償却対応額を毎月別途勘定(専用の銀行口座があればベスト)に積み立て、この額を含めて毎月の生活コストを再計算し、アーリーリヤイタが可能かどうかあるいは今後どのようなアーリーリタイヤ生活を送る必要があるか再検討すべきだ。