前回及び前々回アーリーリタイア後の支出削減の為には、いわば固定化された支出の削減の影響が大きいことについて記載した。

しかしながら、頭で固定費の削減が必要とわかっていても実際には実行できない場合が多いと思う。

参考になるかわからないが、私が固定費用を削減したケースを取り上げてみる。
私の場合、自分が大学時代にどのような生活をしていたか思い返してみて、それとの対比で現在の固定費用を削減していったのだ。

まったく経験したことのない生活なら実行可能か否かについて判断できないが、既に大学時代に経験している生活なら実行可能だろうと判断した訳だ。

私の大学時代は、宿舎は下宿・移動手段は自転車・携帯電話、インターネットなどまったく無し(というか存在していなかった)という生活であった。
日々の生活はというと、日中は自分の大学あるいは他の大学に聴講にいったり、図書館で本や論文などを読んでいた。娯楽はまだビデオが普及していなかったので学生会館や名画座で映画を見たり、お金がなくても公園や寺社の境内でのんびりしていたものだ。
食事は自炊するか学食がほとんどだった。

こうした生活は大学生活を送った人なら皆経験があるだろう。特にお金がなくても充実した生活ができていたはずだ。

その時点と全く同じ生活を送れといってもそれは難しいかもしれない。
しかしそうした生活と比較すると、自分がいかに贅肉のついた生活をしているかわかるだろう。

アーリーリタイア生活を大過なく過ごしていくには、会社勤めをしている間についてしまった、身体・精神の贅肉を落としていくと同時に、生活そのものの贅肉も同じように落としていく必要がある。
前回記載しているように、支出削減の為には、日常の節約をどうするかというより、いわば固定化された支出をいかに削減するかによる。

例えば考えられるだけでも、上記に該当するものとして、不動産(家)、車、携帯電話、保険、自己投資という名目の様々な習い事等々がある。

またこれらの削減について一律的な解答なないものの、それを保有することによりかかるコストとその為の効用の上昇はどのような関係になっているかによって整理してみることが重要である。

いわば保有することは財務諸表でいう資産の部に計上されている状態であり、保有せずに貸借するというのは資産の部ではなく、損益計算書の費用の部に計上されていることになるのである。
また保有すると資産の部に計上されているだけでなく、保有するために毎年かかる経費というのがあり、これは損益計算書上の費用にも計上される。
株式投資の銘柄分析では、資産の効率(ROA)を重視する企業が株価の上昇の点から有意な結果を示すことが報告されている。ところがそれにもかかわらずず自社ビルや社用車を持ちたがる企業があるが、これは「企業の見栄」というものでしかない。ポートフォリオマネジャーからはこうした固定資産の削減を強く要求される。

同じことが個人においてもいえるのである。

自分のその「見栄」にかけているコストが、いかに自分の財務諸表を傷つけているかよく見直したほうがいい。

ただ「見栄」というのは心理的満足感であるのでこれを全く否定することはできない。

要はいかに自分の中でバランスをとるかであり、そうした意味でこうした固定化された資産を持ちながら、日常の生活費の節約術に没頭するというのは、全く優先順位が違っているといえるであろう。

また固定化された資産に心理的満足感(見栄)以外の価値をみいだすとしたら、それはその人が何らかのファイナンシャルリテラシーを欠如していることが原因であることが往々にしてあり、そうした人の場合はアーリーリタイアすることがそもそも難しいであろう。



アーリーリタイア後の支出額のコントロールをどのように行っているか尋ねられたことがある。

質問の意図はリタイア前の支出額から考えると、リタイアに不安が残るということであった。
こうした支出のコントロールについては、アーリーであろうとなかろうと必要となることであろう。

まずいえることは、ちまたの「節約術」とは大きく異なるというのが私の考えである。
ちまたの「節約術」は、「いかに安い食材をさがすか」とか「光熱費をいかに削減するか」とかであり、デイリーの日常費用の節約である。
これは企業会計から見れば、各部署単位でやっている備品等経費削減によK似ている。

しかし企業会計から見ればこうした経費削減より財務上コストを削減するのは、こうした日常経費の削減より固定費化されているものの費用の削減である。
例えば固定資産の購入からリースにする、会議をすべて電子会議化する、よりコストの安い場所に工場・オフィスを移すなどである。

これを家計に置き換えてみればよい。
今の自分の家計で固定費化されているものの内、本当に必要なものはなんだろうか?
いいかえれば、>それを保有することによりかかるコストとその為の効用の上昇はどのような関係になっているだろうか?
逆からいえば保有することをやめることによるコストの削減とその結果としての効用の低下に納得できるのはどの部分になると考えられるかということである。

本当に必要なものというのは人によって異なる為、正解というものはない。

ただ私からみれば、なんでこんなものもっているのという対象は多い。
例えば、不動産(家)、車、携帯電話、保険等々である。

これらをどう考えたらいいかまたどうすればいらないと思えるのか記述していきたいと思う。

外国資産投資を行いたいが、為替変動リスクがあって躊躇されている人も多いであろう。

為替リスクを低減させるためには、為替のエクスポージャーを低減させればいいのだが具体的にはどのようにすればいいのだろうか?

最も単純で何も考えなくてもいいのは、円ヘッジをするという投信を購入することだ。
これには、>そもそも長期投資向きの投資内容を行う投信があるのかどうかという点と、売買手数料と信託報酬が長期投資に向いた水準であるのかという問題点がある。
個人的には円ヘッジベースの投信で上記の点をクリアしているものは見出しにくいと考えている。


次には、外貨売り円買い(外貨売りヘッジ)を行い外貨のエクスポージャーを減らすことが考えられる。
これまでだと個人投資家が、銀行を相手に外貨売り円買いのポジションを取ることは困難であったが、FXを利用すれば同様のポジションを取ることができる。しかも銀行相手とは違って非常に低廉なコストで実行することができる。
通常ならばこの手法をとることがよいだろう。

しかしもう一歩進めば、更なる簡便な方法がある。
先ほどのFXを用いるという方法は、実のアセットはETFを含む外貨資産を購入し、その外貨ポジションに対してFXを利用した外貨の売りポジションを作るというものだ。したがって拘束される現金ベースでは、現物株の購入以上にかかることになる。

しかしそもそも外貨資産の購入に先物を用いればどうなるだろうか。この場合の外貨エクスポージャーは先物代金そのものではない。ポジションを建てた時点では、証拠金の額だけが外貨エクスポージャーとなるのである。その後の価格変動で含み益がでればその分が外貨エクスポージャーに加算され、含み損となれば外貨エクスポージャーを減ずることになる。
したがってこの証拠金±含み損益が外貨エクスポージャーとなり、これは現物で外貨資産を持つ場合と比較するばかなりの低額となり、資金拘束額も現物ベースより大きく下回る。
例えば、証拠金率が30%とした場合(株式の場合)、10万ドルの外貨資産購入には3万ドルの証拠金が必要となり、3万ドル売りの証拠金には9000ドルが必要となる。したがって合計では4万ドル弱の現金が必要となる。また債券の場合はもっと証拠金率が低いのが通常である、例えば10%とした場合は1万ドルの債券先物証拠金と3000ドルFX証拠金となり、合計1万3000ドルが必要である。このように当初ベースでは4万ドルで10万ドルベースのヘッジされた外株エクスポージャーを、1万3000ドルで10万ドルベースのヘッジされた外債エクスポージャーを取ることができるのである。



10月1日時点での来春卒業予定の大学生の就職内定率が昨日発表された。
内定率は前年より4.9ポイント低い57.6%で、「就職氷河期」と言われた2003年の60.2%を下回り、調査を開始した1996年以降で最低となっている。

リーマンショックの後遺症や円高の影響などともっともらしい理由がつけられているが、新卒一人を採用するとそのコストが給与ベースで3億円、社会保障負担を加味するとトータルコストは6億円近くかかることが本質的な問題だ。

ご存知の通り日本の雇用慣行及び判例では、ゴーイングコンサーン状況にある企業が正社員を解雇することは実質的には困難である。

したがって新卒一人を採用することは、6億円の設備投資をすることと同様の負担を会社にもたらすことになる。

雇用を増やすには雇用のコストを弾力的にするしかないのであるが、現在の民主党の政策は正社員の義務化など全く逆の方向を向いているようだ。

また若年労働者の採用を増やすには、雇用のコストを弾力的にし、新規雇用の為のチャレンジコストつまり一度採用した労働者の解雇を簡単にできるようにすればいいのである。
現在でこれを実行するとおそらく惰性であるいは過去の栄光にすがっている中高年労働者がまず大きく解雇されることになれるであろうから、一人こうした中高年労働者が解雇されれば、人件費から見れば少なくとも二人以上の新規雇用枠が生まれることになる。

解雇される側から不満は出ようが、そもそもその人が行っている仕事と報酬が国際比較の上バランスが取れている、あるいは報酬が仕事より安い状態になっているか考えてみる必要がある。

新興国が経済成長を遂げていく過程においては、従来日本が欧米から既存のコストに見合わない仕事を奪っていったように、日本もまたそのコストに見合わない仕事は新興国に移っていくと考えるのが当然だ。

よって自分の仕事のキャリアの成長が、新興国の成長より遅い場合、時間の経過により仕事内容と報酬の関係が報酬をもらいすぎというという方向性に動く。

しかも時間が経過すれば報酬がもらいすぎになるというのに解雇ができないというのであれば、そもそも日本で新規雇用をせず、仕事の内容と報酬がバランスがとれている海外で雇用をしようとするのは当然の発想であろう。




アーリーリタイアメントして頻繁に利用するようになった場所が図書館である。

会社勤めしていた時には、仕事関係の資料探しの為国会図書館を利用していた程度である。

ところがアーリーリタイアしてからはその利用頻度は急増し、まるでアーリーリタイアメントの友といった感がある。

またその収蔵内容も、新聞に関しては4大紙+日経に加え、ニューヨークタイムズ(米)やタイムズ(英)といった英字紙、ルモンド(仏)・フランクフルター・アルゲマイネ(独)といった英語以外の外字紙もおいてある。週刊誌も東洋経済やエコノミストといった日本語雑誌だけでなく、タイム・ニューズウイークといったメジャー雑誌に加えエコノミスト・フォーリンアフェアーズといった硬派な週刊誌もおいてある。

単行本もさすがに新刊本は予約がいっぱいでなかなか借りることはできないが、いわゆる古典的な本についてはほぼまちがいなく借りることができる。

自習室を併設している図書館もあるので、調べ物がてらこうした雑誌・単行本を広げてじっくり読むことができる。

なかにはビジネスとしての利用を意識してか、PC用の電源をデスクに備え付けていたり、インターネット接続環境にある図書館もチラホラでてきた。

またこうした公立の図書館に加え、昨今では身分証明書や公立図書館の利用カードを示せば、大学(院)の図書館まで利用できるようになっている。

アーリーリタイアするまでは図書館は、小説や文庫本などを借りに行く場所というイメージであったので、その落差にびっくりすると同時に、もっと早くから利用していればと思うことしきりである。


最近木曜深夜(25:15から)に放送されている屍鬼を見ている。

原作は小野不由美の小説であるが、基本ストーリーはジャンプSQ連載の藤崎竜の漫画によっているようだ。

これまでのストーリーは屍鬼により吸血されて殺された人間が屍鬼としてよみがえり、またそよみがえった屍鬼も他の人間(たいてい生前よく知った人間)を襲うという流れなのである。

その屍鬼の数が一定以上増えてくると彼らも隠れているのではなく、夜間堂々と通常の人間と同じように行動し社会生活を営みだす。

ここまで見てどこかで見た映画が頭をよぎった。

それは「ボディ・スナッチャー」(1956年)だ。この映画は、ソラマネ状の物体から自分そっくりの生物が現れ本人と次々と入れ替わっていくストーリーである。

自分の周りの人間がどんどん入れ替わっていき、次は自分の番かも知れないという恐怖がリアルに描かれていた作品だ。

またこの後、小説原作では人間側が屍鬼を殺していく話となっていく。

屍鬼となっても外観や性格は人間と同じままなのに、それを今度は逆に生前よく知っている人間の側が彼をを殺していくのである。

この話を読んだとき漫画版「デビルマン」(永井豪)の恐怖にかられた人間が、主人公のヒロイン家族を虐殺するシーンを思い出した。

小説では非常に後味が悪い作品(この点では「ボディ・スナッチャー」も同様)であったが、アニメ版ではどのようになるのであろうか。

尖閣諸島での中国船と海上保安庁の衝突ビデオの流出について、神戸海上保安部海上保安官が国家公務員法の守秘義務違反で事情聴取を受けている模様だ。

私が気になっているのは、これを報道する新聞・テレビといった古典的メディアが、報道の自由という観点から今回の捜査について異議を申し伝えてないことだ。

これはこのビデオが流出したのがYouTubeというインターネットであったことがこのような態度になっているのであろう。

もしこのビデオが新聞・テレビに直接提供されそこから流れた場合、こうしたメディアに対し国家がこの情報提供元を教えろといった場合、彼らはすんなりと教えるだろうか?
おそらくは「報道の自由」を縦にとり、そうしたビデオの提供すら拒むのではないかと想定される。

ではなぜ新聞・テレビといった古典的メディアは、今回の捜索について異議を表明しないのであろう。憶測するに彼らは根本的にインターネットに対して嫌悪しており、又インターネットメディアは「報道」というものではないと考えているのでいくら捜査してもそれは「報道の自由」を侵すものではないという理屈だろう。

インターネットでは誰もが情報にアクセスできまた意見を表明することができる。これは古典的メディアがこれまで独占的にもっていた、というより関係者からもらっていた「情報」や彼らから耳打ちされた解釈を権威的に「表明」するといういわば特権を剥ぎ取るものであるからだ。

古典的メディアにおいて、今回自分達にこのビデオを渡さずに直接インターネットに流された今回のビデオ流出問題はまさしく自分達のこうした特権を剥ぎ取る行為であったわけだ。

彼らには、Webにより、国家が情報を隠すことができなくなっているのと同じく、古典的メディアによる
情報の独占も不可能となっていることに気がついていないのである。

日本では知性というものを学歴と同一視する傾向があるが、日本の学歴は暗記をいかに要領よくできるかあるいは決まったやり方にあてはめて短時間で処理するかというものであり。知性あるいは知的水準とは全く異なるものである。

親を見て子供は育つという言葉どおり、親に知性を磨こうという意識がなければ子供の知性も磨かれない。

ところが日本の親には自分の知性を磨こうとする意識が乏しい。
読書といえばゴシップ週刊誌を読むだけだし、メディアを利用するにしても「お笑い」や「バラエティ」しか見ない親の子供の知性が磨かれるとはとうてい思えない。

親が子供と過ごす場所で何がある?例えば古典といわれる書物や百科事典はおいてあるか?一緒に芸術番組や歴史番組を見て子供に解説ができるか?

子供に図書館の使い方を教えたり、美術館・博物館につれていったりしているか?

あるいは全く逆にそうしたことに子供が時間を使うのは受験勉強を妨げると考えていないか?

このように考えると受験勉強ではない日本人の知性水準は著しく低下傾向を示しているのではないだろうか?そして受験勉強=知性と勘違いしている現在の親世代を考慮すると、今後もこの傾向は継続していくだろう。

これは例えば外国人とビジネス以外のいわば損得勘定がない場面で、あなたはなにをコミュニケートできるかということに関係してくる。

特に欧州ではいわゆる「一般教養」というのがあるか否かがその人の「クラス」に大きな影響を与える。
日本人として彼らがシェイクスピアを語るのと同様に源氏物語を語れるか?
また印象派を彼らが語るのと同様に浮世絵を語れるだろうか?

こうした点からも日本人にはビジネス以外に語るものがないとして、あるいは日本人と語っても知性を興奮させるものはないとして、ジャパンパッシングが進むのではないかと危惧するのである。

週末「国宝 源氏物語絵巻展」を開催中である、五島美術館(上野毛)を訪問した。

「源氏物語絵巻展」は毎年行われているが、今年は会館50周年記念特別展として、名古屋の徳川美術館所蔵の源氏物語絵巻もすべて展示しており、これは東京では十年ぶりとのこと。

$自由人のアーリーリタイアメント生活

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ちなみに「源氏物語絵巻」は、紫式部が著した源氏物語本文を書き写した「詞書」とその場面を描いた「絵」とを交互に繰り返す形式で作られており12世紀に製作されたものだ。なお作者は藤原隆能といわれているが確証はないようである。
またもとは絵巻物であったが、現在では断簡され「詞書」と「絵」それぞれ額装されている。

「源氏物語絵巻」は成立当初は54帖十巻程度であったと思われますが、現在ではその約4分の1、巻数にすると約四巻分が現存しており、そのうち三巻が尾張徳川家を経由して徳川美術館が、一巻が阿波蜂須賀家を経由して五島美術館が所蔵している。


かなり人気の展覧会で待ち時間もあるようであるが、現存する「源氏物語絵巻」全体がなかなか見れるものではなく、一度鑑賞に出かけられることをお勧めする(11/28まで 尚この後2年間五島美術館は休館となる)。