よく日本国債の発行残高が膨大になっているが、一方日本人の金融資産の膨大で後者が前者を上回っているので、いわゆる両建ての形となっているだけなので問題ない。とする意見を目にする。

私ははっきりいってこの理屈がよくわからない。

よく会社の連結決算にたとえて資産と負債が両建てで膨らんでいる状態と同様であるなどと説明されるが本当にそうか?

日本国債は生保含む金融機関や年金が8割以上保有しているが、彼らは自己資本で日本国債に投資しているのではなく、ほとんどが預金等であつめた他人資本(ほとんどが日本人だと思うが)により投資しているにすぎない。
したがって預金等の出してである個人が預金を減らし、日本国債以外へ自分達で直接投資するようになれば、金融機関は新規で国債を購入できなくなるどころか保有国債を売却する必要にせまられる。


つまり日本人の個人資産が国債残高を上回っていれば無条件で日本国債を発行し続けることができるのではなく、その発行上限は日本人の貯蓄・投資行動に依存すると考えられる。

このように考えることは特にとっぴなことではない。

歴史を振り返ってみれば、政府は第二次大戦の戦費調達の国債消化の為、「日本人であれば貯金をしましょう」・「国債を買いましょう」などというスローガンを行っていた。

現状この第二次大戦時におけるすりこみがまだ続いている状況であり、日本人はせっせと銀行預金や保険にお金をつぎ込んでおり、その結果日本国債が消化されているだけだ。

では仮に銀行預金の取り崩しや保険の解約が発生したら次はどうゆう手段をとりえるのだろうか。
(この場合でも日本の個人金融資産が減少しているとは限らない、なぜなら彼らが消費せず日本国債以外の金融資産に振り替えていれば個人金融資産は減少していないことになる)


国債の増発ができないのであれば、収入を増やすためには増税・支出を増やすためには社会手当ての削減ということになる。

ではこうした策が機能するのだろうか?
次回はこれを考えてみたい。



一ヶ月に一度は関西にでかけているが、この週末京都国立博物館で開催されている「筆墨精神(中国書画の世界)」を見に行った。

$自由人のアーリーリタイアメント生活


この展覧会は、朝日新聞社の創業者の1人である上野理一氏が収集されていた中国書画をその子息が京都国立博物館に寄贈して50年たつのを記念して催されているものであり(上野氏は東洋古美術研究史「國華」の創刊者でもある)、寄贈され現在京都国立博物館蔵となっているものに加え、上野家個人蔵となっているものも出品されている。

またこうした中国書画において、特に中国古典の写本については、中国本土では宋代以降版本となってしまった関係でほとんど存在しておらず、写経や漢籍として日本に残っているものが中国を凌ぐ存在となっており、そうしたものも多数出品されている。

また展示ジャンルとして「文人の世界」と称するセクションもある。
「文人」とは本来学問を修め文章をよくする人のことである(現代でもこのような意味だと思うが)が、中世においては単なる文章をよくする読書人ということにとどまらず、詩文・書画等の芸術活動に優れている人のことをいう。

私がアーリーリタイアした理由のひとつに、絵画/書画・文学(東西含む)・宗教/哲学といった一般教養をもっていないことに気づき、こうした一般教養を取り戻したいということがあり、この「文人」というのが、現在の私のアーリーリタイア後の希望像のひとつでもある。

また京都大学文学研究科主催の市民講座「関西中国書画コレクションと京都大学」が1/29(13:30~16:30)に品川の京都大学オフィスにて開催されるので興味ある方は出席されてはどうだろうか。
日本国債の話を続けます。

日本の金融機関が日本国債を購入し続ける状況は前回までに記述した。

しかしながらこれらの原資は日本国民の「貯蓄」である。
つまりいくら日本の金融機関が国債を選好しようとも、その原資である「貯蓄」が減少してしまえば金融機関の国債購入額が減少する。
こう考えれば、日本政府のいう「貯蓄から投資へ」というスローガンが本気ではないことがよくわかる。

仮に本気で「貯蓄から投資へ」という流れになってしまえば、個人の金融資産が「貯蓄」を通じて金融機関に流れその金融機関が国債を購入するという、現在の大量の国債を消化できる仕組みがワークしなくなってしまうからだ。

つまり口では「貯蓄から投資へ」といいつつ、実際は国民の資金をずっと貯蓄に縛り続ける政策が官僚にとっては好ましいのだ。
例えば、リスク・リターン関係及びそこから合理的と考えるアセットアロケーションを取るといった、ファイナンシャルリテラシーを国民が高めるということは、政府にとっては困るということだ。


要は今までどおり国民に貯蓄が一番と思っていてほしいのだ。


その為には何をするか。
例えば、社民党系や共産党系の主張「株式投資をするのは金持ち」「新規の投資勧誘で損をする人が出たからそうしたものは取り締まれ」に国民の保護という名目でのっかり、投資は怖いものという意識を植えつける。

また彼らにとっては、BIS規制やその他金融規制も国債消化という観点からは好ましいものとなる。なぜならこうした規制は金融機関が国債に投資すればするほどリスクウエイトが軽減され健全であるとみなされ、その結果国債の投資量を拡大させることになるからだ。

このように国債の大量発行の継続を中心に考えれば、「貯蓄から投資へ」というのは、彼らの本音ではなく、米国等からいわれたのでしかたなくいっているというのがよくわかるのである。
前回(1/17)のエントリー(年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の債券組み入れ比率は下がるか)に引き続き、今回は日本の金融機関が国債を買い続ける理由について記述する。

日本の金融機関について国債を買い続けるその理由については、一般には「融資の貸出先がないから」などといわれている。

ただこれはもっと正確にいってしまえば、単に「貸出先が存在しない」という状態のことではない。
貸出を実施するには、当然リスク・リターンがコスト控除後で国債を上回っていなければならないということが必要である。

これに加えて、現状のBIS規制においてはリスクウエイトがゼロの日本国債に対してはたとえリスク・リターンが同程度であっても、一般融資と比較して選好度が高まる仕組みとなっている。

最後にALMの考え違えがある。

これらにより日本の金融機関は日本国債を購入しつづけているのだ。
(その結果、日本の国債は消化しつづけられている)

まず最初のリスク・リターンがコスト控除後で日本国債を上回ることについては、一般には各金融機関の社内格付け別デフォルト率とそのデフォルト率のぶれから判定される上乗せ率が用いられる。
まずリターンに関しては、日本国債に対するリターンの上乗せ率の低さが目立つ。日本ではA格レベルであっても十数ベーシスあればいいほうだ(ひどいのになると10ベーシス以下だ)。米国では一般産業でも70~80ベーシスあり、業種によっては三桁のベーシスも見受けられる。

加えてコストという意味では、日本国債に対してかかる総経費が重荷になってくる。
日本の金融機関は大手であればその能力に関係なく年収1000万円を超えるのがほとんどである。たとえかれらが収益に直接的タッチしてようが駅前支店の一般行員であっても同じだ。このコストがリターンに減算される形となる。一方日本国債の場合は、電話一本で兆単位の取引が可能である。

このように考えれば、日本の大手金融機関では大手企業以外の企業(中堅以下の企業)向け融資で、日本国債に対してコスト控除後のリスク・リターンで有利になるとは到底思えない。

つぎにリスクウエイトであるが、上記のリスク・リターン的に日本国債より有利だと判断されても、現場から総括、つまり全社レベルになると優先されるがBIS規制だ。
BIS上日本国債のリスクウエイトは0%、一方一般企業融資は100%のリスクウイエトとなる。資本比率が低くかつその質も劣後性負債の持ち合いで水ぶくれとなっている日本の金融機関は、そもそもトップダウンで融資を増やさないことが優先課題となっていると考えたほうがよい。
この解消の為には、資本比率を上げかつその質を向上させる必要がある。

最後のALMの考え違いがある。
これは特に生命保険会社にその傾向がある。
本来ALMは、負債サイドと資本サイドを常に時価評価し、かつ流動性についてもそのキャッシュアウト率についてシミュレートし、そこから戦略としてどの部分のリスクをどれだけ保有しようと自分達で考えそれを実行することである。
ところが日本のALMについては、単に四半期に一度事後的に測定するという数値管理ツールとなっているだけであり、自分達の意思決定ツールとなっていないのが現状である。ちなみに日本の金融機関では自分達の負債の時価価値について全く評価できていない。ただそれを隠すために某最大手生保は「我々は長期契約だからうんぬん」といいつづけている。長期契約と意思決定は全く別物だ。
したがって彼らは、事後的測定において「ALM上、間違いはありませんでした」という報告の為に用いているわけであるから、当然時価評価が必要な資産は「リスク性資産」といいかえできるだけ圧縮しようとする。これに加えて一般融資は上記の理由でリスク・リターン上みあわないのだから結局日本国債に投資するしかなくなる。

このように日本の金融機関は日本政府に直接指示されることなく、日本国債を買い続けているのである。

さてここで考えてみたいのは、金融機関が日本国債を買う原資は何かということである。

それはいわずもなが日本国民の「貯蓄」である。次回はこの貯蓄に関して「貯蓄から投資へ」という日本国の本気度について記述する。

本日、展覧会「室町三井家の名品」を開催中である三井記念美術館(日本橋)を訪問した。

三井記念美術館は三井各家から多くの美術品の寄贈を受けているが、今回の展覧会はその中で室町三井家が当美術館に寄贈したものをあらためて紹介するものだ(ちなみに室町三井家は昨年最後の当主夫人が他界され、子供がいなかった為絶えることとなった)。

室町三井家が当美術館に寄贈したものに多くの茶道具があり、今回の展覧会も茶道具に多くのスポットがあてられている。有名な国宝 志野茶碗 銘 卯花墻もそのひとつである。
$自由人のアーリーリタイアメント生活-志野茶碗

日本には国宝にされている茶碗は八碗あったと記憶しているが、そのうち日本で焼かれたものは二碗しかなく、この志野茶碗はそのうちの一碗である(もうひとつは本阿弥光悦の楽焼白片身替茶碗 銘 不二山でサンリツ服部美術館が保有している)

今回の展示ではこの志野茶碗にとどまらず、長次郎の黒楽茶碗 銘俊寛や大名物唐物肩衝茶入 銘遅桜などすぐれた茶道具が一堂に展示されている。

このように私設の博物館であるにもかかわらず、三井は名品を保有しており、三井家の伝統の重みを感じさせる展覧会となっている。


日本の早期の財政破綻はありうるだろうか?

私はないと考えている。
しかしその理由は他の方とは異なっており、日本の金融機関及び年金資金とりわけGPIFが国債を購入しつづけるのがその理由と考えている。


今回はなぜGPIFが国債を購入しつづけるかについて記載する。

2010/5/8のエントリーにあるように年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)はアセットアロケーション(基本ポートフォリオ)において、国内債券67%と非常に国内債券にベットしたポートフォリオとしている。

この国内債券に偏重したアセットアロケーションが変わることはあるだろうか?

残念ながら変更されることはないと考えている。
これは現在のGPIFのアセットアロケションが妥当なものと考えている訳ではない。
考えとしてはむしろ逆で国内債券は引き下げるべきと考えている(理由については過去のエントリー2010/5/8~5/13を参照)。

ではアセットアロケーションが変わらない理由はなにか?
日本の国債は国内投資家に保有されているから安全だという議論があるが、国債は個人投資家が保有しているのではなく、銀行・生保・年金基金といった機関投資家がほとんどを保有している。
その中でGPIFは一社あたり残高も大きく又他の年金基金のアセトアロケーションもGPIFのポートフォリオを参考にしている例が多い(理由はいろいろあろうが、天下り役員を受け入れている場合エクスキューズが一番容易となるのがその理由)。
このように長期資金である年金資金で購入し続けてくれるGPIFが国債の比率を引き下げると発表した場合どうなるだろうか?

政府の意向を色濃くうけているとみなされているGPIFですら日本国債の比率を引きさげたとなれば、横並び意識の強い日本の年金資金及び金融機関は一斉に比率の引き下げに走るであろう。

そう考えた場合、GPIFが自分の意思決定により日本の財政破綻を惹起させるような日本国債の比率を引き下げるということは、自分の親である日本政府に真っ向から反することであり、公的機関である彼らにとってありえない選択となる(その結果として低利回りという機会損失は将来の年金受給者に押し付けられる)。

仮にGPIFがそうした政府の意向と関係なく純粋に投資理論で行動していると考えている人はお人よしだ。なぜなら現状のGPIFのアロケーションを正当化しているのも、5/12のエントリーで記載したように年金財政の基本前提(例の「100年安心」という為の前提)を所与として用いているからだ。

彼らは日本政府に逆らって独自の考えに基づいて日本国債の比率を引き下げるなど決して行いはしない。


新年明けましておめでとうございます。

正月は伊勢志摩に出かけ、外宮内宮その他伊勢の神社群をめぐってまいりました。

基本的に新聞はノイズと思っており購読していないので世間の情勢にはうといのであるが、世界が自助で立ち直っていこうとする情勢とは関係なく、日本だけは自助ではなく他助を主張するようである。

他助を主張するということは、現状の状態にあるのは自分ではない他の誰かに責任があるという考えの表裏一体の考え方だ。
したがってそこからは、「就職口が見つからないのは企業のせい」(だから法人税減税してやるから雇用を増やせ)、「物が売れずシャッター街となるのは大規模店のせい」(だから大規模店は進出するな)などである。

また特定の「だれだれのせい」にできなければ、自分達を「弱者」と主張し自分達に補助を与えることを要求し、既存の援助は既得化させている。これらの代表は老人・中小企業・町の商店・農家などであろう。

こうした「他助主張者」、自称「弱者」が日本を借金大国にしているのであり、国民主権の名のもとに彼らにおもねる政策を続けていく以上、日本は当初はゆっくりとそして臨界点をこえると急激に衰退していくしかない。

私にこうした衰退国家と運命をともにするつもりは毛頭ない。
その為現状の、国・企業に縛られない生活を続けていくつもりであるし、心・技・体の自己鍛錬を今年も継続していくつもりである。





インフレ状況になると資産が知らないうちに減価してしまう。

数値でいうならFV(将来価値)=PV(現在価値)*(1+R)^N/(1+r)^N 式の「r」がインフレ率だ。(Rは運用利回り)
仮にR=0とすれば、rが上昇すればするほどPVと比較しFVは低下することになる。

FVがPVと比較して増加するためにはR>rである必要がある。

つまり運用利回りがインフレ率を上回らない限り、自分の資産は減価してしまうのだ。

定期預金といった短期金利は元本は確保できているものの、その利回りはインフレ率を下回るためインフレ状況では目減りしてしまう(ただしデフレ状況下では逆でキャッシュの価値が高くなる)。

ただインフレ率を想定してそれを目標利回りとすることは、マクロ経済のあてっこになるのでそうした絶対水準を目標利回りとすることはインフレヘッジにならない。

むしろインフレ状況においても価値が減価しない資産を組み入れることでインフレによる資産の減価を食い止めることができる。

インフレ状況下でも価値が減価しない資産としては、株式・ある種のコモディティが考えられる。また債券ではインフレ連動債(TIPS)もその対象となりうる。そしてこれらを組み合わせてポートフォリオを作る。
(ポートフォリオの作成方法の詳細はここではふれないが、興味のある方は過去のブログ記事「運用計画」を参照してもらいたい)

こうしてインフレリスクからのアプローチによるポートフォリオと資産価格の下方変動性からアロケーションを決定するポートフォリオとを比較し、調整を加えていけばポートフォリオは完成する。
アーリーリタイア後の資産運用において最も重要なことは何であろうか?

アーリーリタイアする時点においてある程度資産の蓄積ができていることを前提とすれば、それはインフレに負けないことだと考えている。

現時点においてはむしろデフレであるからインフレを考えるのはばかげたことではないかという考えもある。
しかしアーリーリタイア後に何が一番自分にダメージを与える現象かを考え、その状況においても資産の保全をはかることが最重要ではないだろうか?

アーリーリタイア以前とリタイア以後との違いは労働により定期的なキャッシュフローがなくなるということである。リタイア以前に獲得していた労働収入はすくなくともインフレに連動して上昇する傾向があり、インフレ状況下においても資産目減りのクッションとなりうる。
ところがリタイア後は労働収入はゼロになるわけであるのでインフレによる変動が自分の生活力(購買力)にダイレクトに響くこととなる。

ところがメディアではリタイアした高齢者が現状のデフレによる低金利に対して不平をもらしている画像をよく放送し、デフレは高齢者をいためつめているという図柄を提供している。
これはとんでもないことで、デフレになれば収入は変化なくとも購買力は増えるのであるから、年金のような固定収入を得ている高齢者はメリットを最もうけとる世代である。一方デメリットが一番大きいのは負債を抱えている層だ。代表的なのは住宅ローンを抱えている中年層となる。

したがって現状のデフレ化においても、インフレに対して自分の生活力(購買力)を維持するための資産運用が重要となってくるのだ。

そうした意味では、現状の年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)のポートフォリオはそもそも低金利が続くという前提を置いておりインフレに対するリスクヘッジがなっていないといえよう(その結果日本債券の比率が大きなポートフォリオとなっている)。

ではインフレヘッジの為にはどのような資産運用となるのだろうか。次回以降それを記載する。


先日紅葉鑑賞に市川市にある真間山弘法寺を訪れた。

弘法寺は位置からいえば千葉県市川市に在するが、江戸時代には「真間の紅葉手古那の社継はし」(ままのもみじ てこなのやしろ つぎはし)として名所江戸百景にも描かれている紅葉の名所だ。

$自由人のアーリーリタイアメント生活

ちなみに「手古那の社」にある、「手古那」というのは、下総の国の国造の娘であったといわれている容姿端麗な女性のことで、彼女はがその容姿端麗ゆえに多くの男性から求婚され(彼女に会いにくるのに「「継はし」を渡りたいという和歌がある)、その結果現在でいうところのノイローゼとなり入水自殺を図ったといわれている。その彼女を供養する為に建てられたのが真間山弘法寺で、後に同時の上人が彼女の霊をさぐさめる為に建てたのが「手児奈霊神堂」(手古那の社)である。

現在はJR市川駅から真間山弘法寺にいく参道沿いに、こうした逸話を踏まえた和歌を埋め込んだプレートが設置されていおり、古の人と同じ道を踏みしめながら弘法寺にいくことができる(また途中におそらく復元された「継はし」がある)。

残念ながら紅葉のピークは今月の20日過ぎだったようでかなり落葉がすすんでいた。
しかし夕刻、人が少なくなった境内を、残りの紅葉やいちょうの黄色にかこまれながらベンチに座って思いにふけるのも風情があっていいものだ。