東日本大震災で法律問題に関してはもうひとつ注目していることがある。

それは生命保険会社とりわけ株式会社化した第一生命だ。

生命保険の約款には、その免責条項として保険会社は地震や戦乱による場合は保険金支払い義務を免ずるという条項が盛り込まれている。

これは生命保険は大数の法則にしたがって保険料が計算され、その法則があてはまらない状況の場合は保険金を支払わなくてもよいとする考え方だ。

日本に多い相互会社であれば、保険契約者=社員(株式会社の株主のようなもの)であるので、その利害が一致し、たとえ免責されていても保険契約者に保険金を支払うことは理解できる。

しかし株式会社を選択した第一生命においては、保険契約者は株主ではない。
会社の経営に対して大きな影響を与えかつ約款に従えば支払う必要のない保険金を、なぜ株主の議決も受けずに支払うことができるのか非常に疑問である。


確かに生命保険協会は免責条項を適用しないとしたが、会社の経営を行うのは協会ではなく個々の会社であり、その会社は株主のものである。

なんら株主の意思を確認することなく約款に従えば支払う必要のない、多額の資金を流出させることは株主の利益を害する行為となるのではないか。

私は「保険金を支払うべきではない」といっているのではない、当然今回第一生命だけ保険金を支払わなければ、顧客の流出につながりひいては長期的に会社の不利益になることは考えられる。しかしそうした決定は約款上支払う必要がないと考えられる状態にかかわらず保険金を支払うわけであるから、株主の意思を問うべきであると考えているのだ。

単に苦しんでいるからかわいそうというだけではいけないのである。
約款という契約が優先されるのである。




海外から見れば約款という契約があるにもかかわらず、なぜその条項を主張しないのか理解に苦しむことであろう。

ここでも東電問題と同じ法治ではなく人治主義的な日本が見える。
昨日の続き。

また東京電力は補償をする必要もないと考えている。

原子力損害賠償法では「異常に巨大な天災地変」による場合は免責を認めているからだ。

今回の地震及び津波が1000年に一度というのであれば、まさしくこの免責条項が適用される。

仮に政府が免責を認めないといったとしても、政府は司法ではなく法律の解釈は政府が行うべきではない、東電は堂々と司法の場で免責を主張すればよい。

私は東電の肩をもとうというのでない。

我々は法と契約による法治国家あるいは契約国家の一員であるからこう考えるのが当然だと考えているのだ。

東電の免責を認めたくないのであれば、そもそもこうした免責条項をいれなければいいだけのことである。

東電に債券・融資や株式投資を行うものは、こうした免責条項を踏まえ東電の最大逸失利益を考えて投融資を行い、その際予め定めてある契約や法律が適用されるものとする。

こうした契約や法律が守られなければ法治国家ではなく独裁者(党)による人治国家と同じだ。

これではいくら日本株に投資をといっても、まともな投資家は見向きもしないだろう。

東電が企業としてグッドかバッドかは別として、たとえバッドであったとしても法と契約は守られなければいけないのだ。そしてそれを決めるのは政府ではなく、司法の場なのである。
東日本大震災から1ヶ月が経過した。

この間私も東北の被災地にいって微力ながら復興の手助けをしてきた。

ただ被災地を一絡げにして「復興の手助けを」とするのには違和感を感じている。

津波の被害を受けいのちからがら避難して人達の中でも、同じ時期に日々の食べ物・飲み物に事欠くエリアとそうしたものは既に足りておりプラスアルファを要求するエリアがあったことがある。
後者のエリアはむしろ被害が少なくマスコミに登場しやすいエリアだったりする。またマスコミに登場することでますます援助物資が集まりやすくなっていた。
こうしたことから援助物資に対してもトリアージュ的な発想がいるのではないかと活動しながら考えた。
つまり必要最低限度が満たされているエリアについては後回しにし、その分の余力を他のエリアに振り分けるということだ。

それにも増して地震の被災地においても直接的な被災により避難を余儀なくされているエリアと福島原発によるエリアとでは全く異なっていると思う。
地震の直接の影響をうけたエリアはそれこそ天災により避難を余儀なくされたエリアでありこれまで何ら経済的メリットを享受してはいないが、>福島原発の立地場所近辺においてはこれまで多額の補助金がいろいろな名目で投じられてきたエリアである(一説によると年収1000万クラスがゴロゴロいるとか)。

にもかかわらず自分達が一方的な被害者であるという振る舞いをするのは納得しがたいものがある。
「東京電力は安全といっていた」などという主張をするかもしれないが、世の中にフリーランチはあるわけがない。何らかの経済的メリットを受けるのであるなら、それに見合うリスもあると考えるのがまともな人間の考えることだ。被害者面した彼らは経済的メリットは受け取り、その対象となるリスクは自分達が存命中には発生しないだろうと考えただけにすぎないのだ。
いわゆるオプションを売り続けてプレミアムを受け取り続けていたが、オプションが行使された瞬間に自分達の義務の履行については、被害者だと主張しょその義務の履行を免れようとしているにすぎないように見える。彼らは「こんな事故がおこると思っていなかった。こんな事故がおこるなら原発の建設を許さなかった」などというが、これは「こんな価格が下落すると思っていなかった。こんな価格の下落がおこるならオプションの売りはしなかった」といっているのと同義語であり、彼らを救済する必要は私には考えられないのだ。

先週末大阪藤井寺市の葛井寺・道明寺を訪問した。
両寺とも毎月18日が、本尊のご開帳日となっておりそれにあわせて訪問した次第だ。

そもそも藤井寺は葛井寺の門前町として発展した町であり、現在においても近鉄の駅から葛井寺まで昔ながらの参道として整えられている。

葛井寺の本尊は奈良時代に作成された「千手観音坐像」である。一般に千手観音といっても本当に千の手を持つ観音像は少ないのだが、当寺の千手観音坐像は本当に千本の手をもっている(唐招提寺の千手観音も千手あるらしい)。
秘仏であるので、当日だけに限って本堂内に入ってお顔が拝見できる。というものの内部は薄暗くてまた接近することはできないので遠くから観るといったことになる。

道明寺であるが昔は隣の道明寺天満宮と一体であった(神仏習合)が、明治維新後の神仏分離令により寺と神社を分離せざるえなくなり、現在の道明寺となったものである。
当寺の本尊は平安時代に作成された「十一面観音立像」である。この像は金箔等を押したり色を塗ったりしない木質(カヤの木)を生かした素地仕上げというもので作られている。ただ細かい部分の表現もすべて彫りだすことで現している為、その表現の技法には眼を奪われるものがある。
また葛井寺とは異なり、堂内は比較的明るくまた眼前まで接近してお顔を拝むことができるので細かい部分までゆっくりと鑑賞できる。

今回は藤井寺周辺を旅行したが、この辺りは古市古墳群といわれている場所でもあり大小さまざまな古墳群がある場所でもあり、次回はこのあたりの古墳群を訪れることとしよう。
いわゆるサブプライムショックの理由について、ウオール街の強欲資本主義が問題であるとか格付け機関が安易にAAAを与えすぎたなど取りざたされている。

しかし私にはそうした投資銀行や格付け機関が問題であるとはとうてい思えないのだ。

なぜならいくらジャンクな住宅ローンであってもAAAを付与することは理論上可能であり、本当の問題の根っこはそうした有価証券に投資した投資家サイドにあるとしか思えない。

そのように考える理由として以下の点がある。

●住宅ローンであれ何であれ投資を行う際には、格付け機関の格付けに頼るのでなく、自らリスク分析をするのが当然であること。

●証券化商品であっても、投資前にインフォメーションメモランダムあるいはプロスペクタスを見ることができる。そこから自分なりの分析及び格付けを付与することができる。

●また格付け会社の格付けが付与されていれば、格付け会社の格付けについてその考え方についてヒアリングすることも可能だ。

●そこで格付け会社の考え方と自分の考え方が異なっていれば投資を行わなければいいだけの話だ。


例えば今回の米国のサブプライムローン型RMBSについて分析したことがあるが、一般に考えられているようなデフォルト率を甘く見積もったということはない。

ただ大きく異なったのはローンの、Average Lifeである。格付け機関等の考えあるは過去のヒストリーではサブプライムは加速度的に償却される(つまりAverage Lifeが短いとする)とみなしておりそこが全く異なっていた。(加速度的に償却されるということは、上位のトランチが同様に加速度的に償還されるということになる)

また加えて、組み入れ資産の相関度が本数や地理的に離れていれば分散がきいているとして、相関度合いを低く考えているきらいが見受けられた。この相関がリーマンショックでAAAも簡単にデフォルトしてしまった理由である。(「相関」という数値を扱う際には期間をどのようにとるのか等大きな問題があるのは、アセットアロケーションを考えた際記述したのがあてはまる。)

こうして考えた場合、問題点としてはデフォルト率ではなく、Average Lifeを中心とするウオターフォール及び相関によるローン集中度(集約度)を低く見積もりすぎていたということにより、AAAが付与されていたことが判る。

後は投資家として自分がその考えに納得しうるかまた簡単に方向転換が可能かということを考慮して投資すればいいだけのことになる。

私の考えでは、デフォルト率が甘くてAAAが付与されているなら住宅ローン市場に問題が起こった場合、投資判断を変えることはそう難しくない。しかし数値に出てきにくいこうした相関が問題となっている場合は、投資判断を変えることは非常に難しい。

したがって投資の後の継続的フォローのし易さを考えた場合、相関度合い(ローン集約度)が自分の考えと異なっている場合、フォローは非常に難しく、投資としてはかなり躊躇する案件となる。

またこうしたサブプライムローン型RMBSだけでなく、きちんと分析すれば投資家として躊躇するであろう案件としては以下のものがある。

・ABS OF ABS(ABS スクエアー)の場合のようなABS間の相関度合いがほとんど「おき」の世界となっている案件あるいはキャッシュフローがブラインドとなっている案件

・住宅ローンのオリジネーターと投資家の利害が異なっている案件(オリジネーターが投資家とセームボートに乗っていない案件)

つまり投資家が投資前にリスク分析をキチンとして「味噌とくそ」を判別しておけば、証券化市場において選別機能が働き、うけいれられるべき住宅ローンのみが証券化対象となっていたはずである。
仮に強欲資本主義的に劣後した住宅ローンの証券化を図ろうとしても、市場から受け入れられなければ消えうるだけである。
つまり被害者づらをした投資家がきちんと分析をしていたら、サブプライムショックは起こらなかったのである。


またこの投資家の態度を後押ししたのは、実は新BIS規制である。
新BIS規制においては、一般の貸し金については自行でのデフォルト確率及びそれを利用した社内格付けを用いろとなっている一方、>証券化商品については、格付け機関の格付けをそのまま用いてかまわないとなっているのだ。
いわば、証券化商品については当局が格付け会社の格付けを金科玉条のように用いることについて、お墨付きを与えてしまっているのだ。

そうした意味では当局の策定した新BIS規制がサブプライムショックの真の原因ともいえよう。







11/17エントリーの記事で大卒新卒者の内定率の低下している理由として、社員一人雇う際にかかるコストの高さが原因であることを記述した。

今回それに加えて、そもそも「内定率」という数字そのものにも問題があることを今回記載したい。

日本の大学進学率は1990年に25%程度であったものが、2009年には51%を超えるところまで進んだ。
また大学の定員は増大し現状数値の上では、大学進学を希望すればどこかの大学には入学できるところまでになっている。
それと同時に、例えば従来専門学校レベルであったものも「大学」となり、大学の質は著しく低下している。

つまり従来の「大学生」というレベルに達していない学生も、現在の数値上は「大卒新卒者」となっているのだ。

一方会社側においては、PC等の機械が代替できる範囲は年々拡大しているのであるから、従来よりも大卒新卒者に求める能力は質的・量的に変化している。

したがって労働力の供給において数と能力で見ると能力に劣る者の数が増加しており、一方需要側においては求める能力として必要な労働者の数は減っているのであるから、内定率は低下して当然である。

また直近こうした「内定率」の低下を防ぐため、新卒後3年までを「新卒者扱い」してはどうかという話があるが、それは大学卒業レベルに達していない新卒者の数は増えるだけで問題の解決に役立たつとは到底思えない。

どんな不況化にあっても企業は人的資本の観点からは必要な人的投資を行うのであり、やるべきことは自らの価値を高めるしか道はないのである。それも他の新興国の貪欲な学生よりも早いスピードで。そうでなければインフレで価値の低下した日本の学生の就職率が上昇することは考えがたい。

(ちなみにこれは日本だけではなく中国でも同じ現象が見受けられる、中国では大卒進学率は1993年には5%であったものが2010年には推定で25%まで上昇した。その結果大学は卒業したもののまともな職につけない「蟻族」という新たなグループが出現し社会問題化している)


日本において、既存の仕事に対する賃金が上昇に転じることはあるのだろうか?

この問題を考えるには、毎年新入社員(ニューカマー)が入社してくる能力主義の企業で働いている労働者(オールドカマー)のような状況を考えてみるとよい。

こうした企業においては、過去自分が保有していたスキルが必要な仕事は相対的低賃金であるニューカマーがどんどん奪っていってしまうので、既に当該企業で働いているオールドカマーは毎年新たなスキル・技術を獲得しないと、自分のポジションがなくなってしまう。

ではこうしたオールドカマーはどうするか。
ひとつはニューカマーに追いつかれないようスキルを磨くというのがある。

もうひとつはこうしたスキルを磨くのをやめて、現状と同じ賃金でいいから現状のスキルでやれる仕事につき続けるというものだ。例えば単純労働というのがそうである。コンビニの定員からいわゆる「事務」といわれているまでその種類はさまざまである。また「昔ながら」というかしら言葉がつくやり方を行っている仕事のほとんどがそれにあてはまる。

はたして後者が成り立つのか?
仮に成り立つとしたら、それはそれでハッピーな生活を送ることができるかもしれない。

おそらく過去においてはそうした生活も成り立っていたのかもしれない。
なぜならそうした生活が成り立っていたのは、毎年やってくるニューカマーが少なかったからだ。

ニューカマーが毎年続々と参入する昨今においてそうした生活は成り立たない。
これらのニューカマー達は毎年既存のコストより低コストでスキルを提供しようとする。このことにより労働対価に対してダウンサイドの力が働くことになる。
なぜこのような低コストで提供するかというのは、そこから得られる収入が、既存より低額であったとしても、彼らの属する地域では相対的高収入となるからだ。

ではこのニューカマーの賃金が上昇し、オールドカマーの賃金が上昇した時点でブレイクイーブンとなってそこからは低下しないのか?

そんなことはありえない。例えば、いままでは中国沿海部がニューカマーであってその賃金が上昇した場合、内陸部・ベトナム・インドといったようにニューカマーがやってくるのである。

したがって既存のスキルの仕事をやり続けていたいと考える人の賃金は、永遠に際限なく下がり続けるのである。

それがいやならニューカマーが可能な仕事はさっさとあきらめるしかない。

ところが現実の社会では、最低賃金制度をはじめとする各種の規制があり賃金が永遠に際限なく下がり続けることはない。ではどうなるかというとそうした最低賃金制度のない所に仕事そのものを移すことになるだろう。そうすれば失業という国家のコスト=国民の税金が使われることになる。

つまり最低賃金制度を含む労働者保護といわれる規制・補助金が結局のところ、国家の赤字を拡大させまた増税となるのである。
しかもこれが一時的ないわゆる激変緩和措置的ならまだしも、上述した通りニューカマーが毎年続々と現れる社会では、賃金が上昇に転じることはなく、そうした下支えをすればするほど低下し続けている価格と下支えをする価格とのギャップが大きくなっていくだけである。

まるで農業に対する新規参入規制と農業関係予算の拡大と同じ構図である。

したがってこのように継続的ニューカマーの参入が考えられる社会においては、ニューカマーが可能な仕事(年々その範囲は広がるが)からできる限り速やかな退出を促す仕組みが必要なのである。

大学時代、刑法を勉強する際なぜ国家は個人に刑罰を課することができるのか考えたことがある。

そこではその課する刑罰は何の為のものかということにより答えは大きく異なってくる。

ひとつの考え方は、刑罰は個人を矯正し改新させるために課するというものである。
もうひとつの考え方は、犯した行為に対するペナルティーとして刑罰を課するというものである。

旧来日本の法律関係者においては、前者の矯正の為に刑罰を課するという考えが主流であった。
その為、矯正されれば服役期間が短縮され、死刑は矯正が不可能な場合のみ課せられることになる。

またその為、個人の意思というものが刑罰を課す場合に重要なファクターとなってくる。
つまり故意でなければ原則として刑罰は課せられないということだ。
(殺人罪の場合、人を殺すという意思があれば殺人罪を問えるが、殺す意思がなければたとえ結果として人を殺しても殺人罪は問えないということになる)
また刑罰の軽重においてもこの個人の意思は大きな位置を占め、例えば先ほどの殺人罪でも計画性があればより重くなり、逆にたとえばその場でカッとなって殺した場合は軽くなる。

未成年の犯罪においても同様である。未成年者は今後の矯正が成人より見込めることから成人より刑罰は軽くなる。あるいは矯正すべき考え方ができあがっていないのであるからそもそも刑罰は課さないということになる。

人の矯正を重視したこの考え方では、ここでは社会の平穏と罪を犯した者の権利ということでは、後者の方がより重視されていることになる。

しかしこれは一般人の考えとあまりに乖離しているのではないか。

先ほどの例でいえば、周到な準備の下ある特定の個人数名を殺した場合(その特定の人物以外には全く無害の人とする)と、一方突然誰でもいいから殺したくなったとし、たまたま通りかかった人を1人殺した場合とではどちらが罪が重くなるであろうか。
今まででは前者の方が刑罰が計画的殺人として刑罰が重くなる傾向があったが、これは平穏に暮らしたい一般人の考え方とは隔たりが大きすぎる。

一般人の考えはむしろ犯した行為に対するペナルティーというのが刑罰ということであろう。

司法もこの隔たりについて認識があり、これを埋めるために裁判員制度を導入したのではないかと思う。
しかし罪刑法定主義の下では限界がある。なぜなさ刑法自体に刑罰を課すことができるのは、原則故意あるいは重過失の場合のみとなっているからだ。

私は、本来なぜ刑罰を課すのかというのは、こうしたなぜ刑罰を課すのかも含めて各コミュニティーが決定していいと私は考えている。
もしそのコミュニティーの構成員が自分達の社会の平穏を重視するのであれば、後者の犯した行為に対するペナルティーとして刑罰を課せばよい。自分達のコミュニティーを自分達で守る、いわば自衛するとはそうゆうことだ。

国家が刑罰の性格を決めて、それをコミュニティーあるいはその構成員一人一人に押し付けるものではない。

加えて「意思」というものを刑罰の重要なファクターとするということは、個人の意思に国家が大きく関与することだ。そして刑罰を通してその意志を強制的に変容させるということを国家が行うのである。

人はその意思によってではなくその行動に基づく結果責任を問われるべきである。



日本の個人金融資産の特性として預貯金の占率が高いことがあげられる。
特に資産が数年間の支出額を超える状況であっても預貯金を選好し、その比率が高いということに特色がある。

一般的に預貯金のイメージは「安全で元本割れしない」ということであるが、日本において預貯金の占率が高いということは、この「安全で元本割れしない」ということを選好しているということであろう。

では預貯金は本当に「安全で元本割れしない」のか?。ここでは金融機関がデフォルトに陥ったことは論じないことにするが、それでもこの預貯金のもっているイメージは正しいのだろうか。

現実論として確かにノミナルベースべは預貯金は元本割れしないが、物価変動を考慮にいれた場合預貯金は長期的には確実に元本割れする。

それにもかかわらず預貯金は元本割れしないと考えて、それに投資している人が多数いるのだ。

もちろん相場見通しの結果、今後物価は上昇せずあるいは物価は下落する。したがってキャッシュを保有することが好ましいと判断しているのなら、それはそれでいい。しかしこれは相場見通しをたててそれにポジションをかけているという点では、有価証券投資を行っているのと変わりないことをやっているのだ。しかし預貯金を選好している人が、相場見通しをたててその結果預貯金にしているということはめったに聞かない。むしろそうした見通しをたてることに対して嫌悪感を持っている人に預貯金を選好する人が多い。

おそらく過去においては、終身雇用の下物価上昇率を上回る賃金の年功的上昇が見込まれ、その結果金融資産が預貯金に偏っていても賃金の上昇により物価上昇を超える資産の蓄積が可能となっていたであろう。

ところが現状こうした年功的に賃金が上昇するなどありえない状況であるにもかかわらず、過去の行動に捕らわれ預貯金を続けるということは、将来的には購買力が著しく劣化するというリスクにベットしていることに気がつかないといけない。

これに対し物価上昇すればその分賃金も上昇するから預貯金でも問題はないのではないかとする意見があるかもしれないが、今後賃金というのは物価に対して変動して支払われる状況ではないということを肝に銘じておく必要がある。加えて、賃金はあくまでも国際的に見て同労働=同賃金として支払われ、かつ同労働に携わる人の数は国際的にはどんどん増加している為、同労働を継続的に行っている人の賃金は上昇することなどありえず継続的に低下することになるのだ。

したがって、親の代から同じ仕事をコツコツとやるという日本的美的な仕事のやり方をやっており、蓄えたお金は預貯金へ、という日本的ロールモデルでは将来的には購買力の低下により社会の底辺層とならざるをえないのだ。

ところがこうした層ほど、預貯金を選好しながら同時に期待値が大きくマイナスな宝くじを買っていたりするのだから始末に悪い。

彼らの頭では宝くじは有価証券投資よりリスクリターンが高いということになっているのだ。

こうした人が社会福祉を求めたとしてもそれは本人自身のリテラシーの不足の結果であり、彼らに税金で福祉を与える必要は全くないと私は考えている。



前回の続き

個人の金融資産が銀行預金や保険から資金を引き出すことになれば、その結果その資金を消費に使おうが他資産に直接投資を行おうが、結果他人の資金(個人の資金)で日本国債を購入している日本の金融機関は国債を購入し続けることができないどころか、既存の日本国債を売却するはめになる。

また他資産に投資を行った場合は、個人金融資産の総額は変わらないことから、日本の個人金融資産が日本国債の残高を上回っているから問題ないとする説明は、不正確であることがわかる(「日本の個人金融資産が日本国債の残高を上回っておりかつ彼らが日本の金融機関や生保に貯金しつづけていれば」ということになる)。

では国債を増発できないとすれば増税するか社会手当ての削減ということになる。


私は国と国民の関係は、一種の会員制クラブのようなものと考えており、クラブの年会員費にあたるものが税金だと考えている。ただしこの年会費は一律ではなく収入によって逓増する仕組みだ。

またこのクラブに属することにより、所属員全員に防衛・警察・医療といった安全に暮らせる社会制度サービスが給付され。またクラブの会員で社会的弱者」と判定されるものには金銭的あるいは物質的給付がさされことになる。
つまりクラブの年会費を払う額が多ければ社会制度サービスしか給付されないが、支払い年会費が少ないものがこれに加えて更なる給付をもらえるという仕組みとなっている。

相対的高収入者がこの仕組みに納得感をもつのは、共通項である社会制度サービスがそのクラブの年会費に見合うと考えているからである。

ここで増税した場合どうなるか。その税が共通項部分に投入されるのであれば増税対象者にとって納得感があるであろう。しかしその税がちまたいわれているような「社会的弱者」に対する給付にあてられるとしたらどうであろう。

その場合相対的納得感は大きく減じられ、他クラブの社会制度サービスの対比により他クラブの方が好ましいと判断すれば、現在属しているクラブを脱退することになろう。

したがって増税のつかいみちが共通項である社会制度サービスにあてられず、「社会的弱者」といわれるものの給付に当てられる場合、高額なクラブ年会費を払うメンバーが減少することにより、その目的は達成されないことになる。

では社会手当ての削減であるが、これは相対的に共通項の社会制度サービスの価値部分が高まることになるので、高年会費を支払うメンバーの定着率を高めることになる。

よって結論としては、増税するなら共通項である社会制度サービスの拡充、又は社会手当ての削減ということになる。もっとも避けるべきは、自称「社会的弱者」に対する給付を増加させることだ。この層の給付を削減を第一に考えなければならない。

こうした層に対する給付は国家がするのではなく又国家が誰を社会的弱者と認定するのではなく、各会員が自分達の意思に基づき、寄付などしたいと考えれば行えばいいのである。