あなたはひとつの使命を与えられた。

「担任教師」という職業に就いて、「子供が40人いる教室をまとめなさい」という内容だ。

ただしひとつだけ絶対に守らなくてはいけない条件がある。

 

「全ての子供には、個人の自由があるので一切手出ししてはいけません」

 

個人の自由を守られやりたい放題の子供たち40人を、担任教師1人がどうやってまとめることができるであろうか?

「先生の言うことを聞いてください」と伝えたところで一体何人の子供たちが聞くだろうか?

そして個人の自由を妨げるような「叱り」や「注意」という行為は許されない。

つまり「恐怖でまとめることはできない」ということだ。

「子供1人1人に丁寧に説明をして納得をしてもらう方法」はあるかもしれないが、個人の自由を守られている以上、「拒否」されても一切手出しできない。

様々な答えが思いつくかもしれないが、「40人をまとめる」ということが前提にある。

単純に40人を全滅させれば教室そのものはまとまるが、手出しは禁止なので問題外だ。

最終的には2つの選択を迫られるだろう。

 

「40人全ての意識が注目するほどの目的、目標を与える」

「教室そのものが崩壊せざるを得ない状況という事実を知る」

 

さて、40人全ての意識が注目するほどの目的、目標とは何だろうか?

理想的には「個人」が自分以外の全員(全体)のことを考え、「全体の健全さ」を優先させる状態かもしれないが、はっきりいえば自分自身のメリットがほとんどない。

人間の性質上、個人というものは基本的に自分の生活向上を重視し優先する傾向がある。

現代において個人の生活向上には何が必要なのだろうか?

単純な答えとしては「お金」だ。

常識的に考えれば必ずそこにいきつくだろう。

信仰心を持つ人は「神」や「愛」になるかもしれないが、多くの人は私利私欲に従って生きているのだ。

 

教室をまとめる話を、「日本という国」で考えてみる。

 

「国民という子供」たちは「個人の自由」が与えられ、「教師であるべき政治家」はまとめることなどできはしない。

「お金」という目標、目的意志を掲げて、国民の意識を「釣る」しかできないのだ。

「素晴らしい日本という国のために」という思想を掲げてはいるが、結局のところ税金面などの問題を騒いでいるだけにすぎない。

しかし、それはもはや仕方ないことなのだ。

 

「日本そのものが崩壊せざることを得ない状況が最初から仕組まれているからだ」

 

それはいつから?

走り出してしまった以上、気づいた時にはもう手遅れだろう。

なぜならば「国民の自由」を国が守ることを許されたスタート地点からだ。

 

「木を見て森を見ず」というが、個人は全体など見はしない。

むしろ気づくはずもなく、知る由もないのだ。

個人は何も考えず、ただ自由を喜んでもらえれば成功する。

 

一丸の「ひとつの梅干し」は内部から崩壊した。

 

目的は達成され、個人は自由を喜ぶ。

微笑ましい日常の出来事だ。

もしこれを「陰謀」と呼ぶならば、誰がこの仕組みに気づけるだろうか?

 

戦争は敗戦国に「この仕組み」を受け入れさせるために用意されたと思うが、おそらく後々の「目的のための準備」なのだ。

そもそも国を内部崩壊させるためだけであれば、手の込んだことをあえてする必要性がない。

少なくとも私であれば「次の手」をすでに考えているだろう。

 

こんな私の「冗談」を自由に書くことが許される日本国憲法は本当に素晴らしいと思う。

ひとつ戯言を加えておこう。

 

日本人の霊性、そして神国日本を太古から守り続ける神々をあまりなめるな。

大人であれば何となくわかるだろうが日本は法治国家だ。

「日本国憲法」が基盤となっている。

 

日本国憲法は学生時代の授業で少なからず教えられていると思う。

しかし果たして日本人の何人が内容を詳しく知っているだろうか?

少なくとも私はさっぱりわからない。

興味や関心がないのが正直なところだが、全く知らなくても日常生活は問題なく続けられる。

 

おそらく多くの国民が敏感になる「法律」があるとすれば「犯罪」に関してだと思う。

しかし実際のところ、自らすすんでよほどのことをしない限り逮捕されることはない。

なぜならば「私は犯罪者になりたくない」と思って生活していれば基本的に問題なく過ごせる。

そもそも「犯罪に関しての法律」を詳しく知っている人は何人いるだろう?

冗談みたいな話だが、法治国家なのに国民の多くは法律に関して無知なのだ。

それでも日常生活が普通に続けられる理由がある。

 

「基本的人権の尊重」により「個人の自由」が守られている。

 

極端な話、犯罪行為によって逮捕されない限りは、ある程度何をしていても自由が許される。

税金を支払う義務などはあるが、支払う能力が一切無くなった場合でも国から命を奪われることはない。

私が思うに、完全に金銭的には無一文になった人こそ「無敵の人」なのだ。

当然、日常生活は一日生きるだけでも大変になるのだが、事実として一切誰にも手出しできない状態になるだろう。

 

日本人は「日本国憲法の話題」になるとかなり敏感に反応するようになる。

特に戦争に関しての「第9条」の改正問題は世間をたびたび騒がせるが、日本国憲法については「そもそも触れてはいけない存在」のようになっているのだ。

愛国心的なものを持つ人たちが多いのか、「憲法の話題をする人を排除せよ」という洗脳的なものなのかはわからない。

しかし私が思うに、「日本という国を本当に大切に思うなら、日本国憲法に仕掛けられている陰謀に危険を感じる人がなぜいないのか?」と不思議でたまらないのだ。

 

 

日本人であれば日本の国旗のデザインは知っているだろう。

「白色の色地」の中心に「紅色の一丸」だ。

法律上では「日章旗」と呼ばれるらしいが「日の丸」の方がわかりやすい。

 

ちなみに敷き詰めれたご飯の真ん中に「梅干しひとつ」という「日の丸弁当」は有名だと思う。

弁当のデザイン性を維持するために梅干しひとつというのは、「食べる楽しみ」よりも、製作者は「弁当を広げる瞬間の視覚的な楽しみ」の方を重視したと思われる。

冷静に考えれば「梅干しの数」を増やした方が、食事という目的としては実用性が高いと思うが、それでは「日の丸弁当とは全く違った弁当」になってしまう。

そこで私は閃いた。

 

「日の丸弁当は私にとって全く重要な問題ではなく、自分の思い通りに作りたい」

 

弁当から「梅干し」を排除すれば、「どのように料理することも可能」になるだろう。

そして弁当を食べる側は、「日の丸弁当が実は全く違うものに変えられていた」という裏の事実を知る由もない。

大切なのは「食べる側は何も考えず、ただ美味しいと喜んでもらえれば成功」なのだ。

 

私の目的は達成され、食べる側は喜ぶ。

微笑ましい日常の出来事だ。

もしこれを「陰謀」と呼ぶならば、誰がこの仕組みに気づけるだろうか?

 

 

 

 

インターネット上でライトワーカーなどの活動が増えている。

一体何年前からかはわからないが凄い数になっているようだ。

実際は地球上で様々な活動をしていると思われるが、目にするのはやはりインターネット上での存在だ。

私自身も自分の勘違いでなければライトワーカー系だとは思っているし、こっそり活動は続けているのだが、なるべく人間らしくいるようにしている。

 

もともと人間社会の一般常識を信じてある年齢まで育ったのだが、「この世は何かおかしい」と探り始めてから非常識な知識を深めていったわけだ。

しかし実際に活動しているのは人間社会。

そういう意味では常識と非常識の狭間にあえているようにしている。

なぜならば多くの人が理解できないと思われる非常識なことを日常会話で話すと、単なる異常者扱いになることを理解しているからだ。

別に隠す必要もないと思うが、自らあえて波風を立たすのは得策とは思えない。

 

一般常識を重視していた頃からインターネット上で活動をしているライトワーカーの存在は知ってはいたが、その頃から現在も感じることがある。

 

「発言や行動が何か怖い」

 

おそらく普通の人間してみれば「異常者」にしか感じないだろうし、ある程度理解できるようになった私ですら「異常者」にしか感じないほどの人が多いのだ。

ただし全てのライトワーカーではなく、一部の方に限っての話だが。

 

たとえば活動上のハンドルネームはあったとしても、レベルアップしたのでさらに強力な名前に改名する人がいる。

気分的に突然改名することは私自身もあるし、別に悪いことだとは思わないが、目に見えない世界で「名前」というのはあまり意味がない気がする。

極端な話、私自身は「無名」で全然構わないと思っている。

なぜならば無名だろうが、一切存在を知られなくても、やるべき活動には何の支障もない。

それが神々や、天使など有名どころを名乗りだすと「この人は大丈夫なのだろうか?」になってくる。

さらにヒーリングを商売として活動する方がいるが、あまりにも様々なヒーリング名が増え続けている状態になっていると思う。

ヒーリング自体は様々な種類があることは知ってはいるし、派生的に様々な姿に増えていくことは全然ありえると思うのだ。

有名な「レイキ」なども源流が分派しているわけで、ヒーリングの手法がたくさんあっても、それをきっかけにヒーリングというものに触れるきっかけが増えるのは素敵なことだと思う。

実際のところ特別なヒーリング方法など一切知らなくても、ヒーリングという行為は少なからず誰もできると思うのだ。

しかしヒーリング名が、「漫画に登場するような必殺技」みたいになってくると、ヒーラー自身が「何かおかしい」と思わないか不思議でたまらない。

「インパクトのある名前のヒーリング」の方が効果があるような気はするが、実際効果としてはどうなのかというと謎だ。

 

ライトワーカーが目覚めていないライトワーカーの参加を求める活動は良いことだと思う。

ライトワーカーがスターシード的な地球外の魂なのかはよくわからないが、そういう役目の魂が地球上にたくさん来ているのも何となくわかる。

しかし活動の参加を促す内容が、普通の人にしてみれば「頭のおかしい異常者の発言にしか感じない」のはちょっと危険な方向の気がする。

「ライトワーカーだけで地球を変えましょう。わかる人だけ私についてきてください」という状態に近いのだが、目覚めのための準備(ヒーリング)や、参加費などのお金が絡んでくれば、少なくとも冷静な思考の人は「何か怖い」と思うのが普通だと思うのだ。

 

そしてこれは私個人の勝手な意見だが、「ライトワーカーの活動だけで地球が変わるほど甘くはない状態に気づいた方が良い」と思う。

地球人が大勢いる状態で、地球人に関して目を背けながらするだけの活動であれば、根本的に愛が欠如していると思うのだ。

私自身は未熟なので大したことはできないが、少しでも多くの人が良い方向に向かえることを願ってはいるし、何かできることをしたい。

 

ちなみに私自身は光を放っている自信はないのだが、ライトワーカーとして活動している人の写真を見ても、光を放っている人は限られている気がする。

お金を稼ぐことは決して悪いことではないと思うが、実際のところお金が絡んだ活動をしている人は光るどころか暗くなっている場合が多いのだ。

それは無自覚なためおそらく本人は気づかないと思う。

ただし素晴らしい光を放っている人もいる。

スピリチュアルブームの時も自称スピリチュアル活動家みたいな人が大勢いたが、実は光っていない人が大勢いたのは困ったものだ。

 

人間は自由を好む。

しかし完全な自由にはなれない。

「私」が存在する限り、私が私に何らかの制限を作っているだろう。

 

全ての人間は表現者であり、誰もがアーティストだと思う。

なぜならば常に何かを創造し続けている。

私は人間社会の職業としてはアーティストではないが、誰かに尋ねられたら「アーティスト」と冗談半分で答えるだろう。

誰かを笑わせることが好きなので、会話中も常に冗談を考えている。

頭の中で思いついた冗談が「言葉」として私の内側から外側に表現された瞬間、それは「私の内なる想いが込められた芸術作品」そのものなのだ。

たとえそれが「つまらない」と一蹴されることが多くても、それでくじけるほど私は弱くない。

言葉は瞬間的な表現方法だが、私が創造し私が表現している。

つまり冗談を抜きにして、「冗談半分のアーティスト」として活動しているのだ。

 

芸術作品は物質である必要はない。

 

ほとんどの人は日常生活で当然のように言葉を発して会話している。

言霊などの深い話を抜きにすれば、内なる想いを外側に出すことになるので言葉というものは本当に大切にするべきだと思う。

常識的な話として、現代の多くの人はテレパシー能力を使えない。

そのため他者との交流は言葉によってつながっていくのだ。

むしろ言葉なくしてつながらない。

単純な話だが、言葉使いが荒い人と接した時、その人の印象に好感が持てるだろうか?

性格的な面はわからないが、自らの言葉使いに無自覚で活動している人は、人間社会を生きていく上で、自ら自分の首を絞め続けるような状態に気づくべきだろう。

むしろ日常生活で言葉使いに気をつけることにより、必ず人生は変わる。

なぜならば人のつながりの中で生きていく中で、つながりのツールを自ら変化させることができたら当然つながりも変化していくのだ。

引き寄せなど波動、波長などの難しい話を抜きにすれば、言葉というのは誰でも簡単に人生に変化をもたらす素晴らしいきっかけだと思う。

 

芸術作品に関してあくまで個人的な戯言だ。

美術館などに行くと様々な絵が飾ってある。

私自身は素人ながら絵を描くのが好きなので、絵を眺めるのは好きだ。

ただし、絵に関しての技法や、素晴らしさの観点などはさっぱりわからない。

「何となくこの絵は好き」みたいな楽しみ方だが、私の場合、絵から放たれる光を見る。

絵は平面だが、平面的に捉えるのではなく、たとえるならば立体的に見るのだ。

説明が難しいが、絵の奥側につながろうとすると作者の内面を感じることができる。

デザインや、色彩などは正直どうでもよいのだが、奥側を覗くことが楽しいのだ。

アーティストは職業上少し変わった人が多いと思うが、絵の奥側を覗くとやはり精神的に少し変わった人が多い気はする。

平面の絵としては風景画なのに内側には苦悩があるなど、直接作者と会話する機会はないので実際どうなのかはわからないが、葛藤を抱えている状態の人が多い気がするのだ。

ちなみにヒーリング系の絵についてだが、全ての作品とはいわないが一部の絵は本当に絵から何らかの光が放たれている。

静止画なのに脈動するかのように動いていたり、絵から温かいものが放たれていたりなど、何らかの癒しの効果が本当にある絵が存在するのは素晴らしいことだと思う。

 

絵に限らず様々な芸術作品が世に存在する。

作品としての成功を問うならば、少しでも大勢の人に人気が出る作品だろう。

むしろ商業的に考えれば、ヒットしない作品は単なる駄作とみなされる。

しかし私が思うに、製作者の想いであり、伝えたい何らかのメッセージが本当に込められていない作品であれば、それはもはや芸術作品ではなく商品にすぎない。

おそらく製作者は必ず何かのメッセージがあるからこそ表現しようとするのだろうが、そこに何からの商売的な要素が加わることで作品そのものの純度に変化が加わる可能性がある。

ちなみに現代の娯楽においては「どちらかといえば簡単に使い捨てできるほどのもの」が好まれる気がする。

たとえば視聴者が「楽しかった」と一瞬満足さえできればその作品はもはや用なしとなり、次の使い捨てできる作品を求められる。

それが大勢の人に楽しまれれば成功とみなされるだろうが、その結果、本当に素晴らしい作品が生き残れない状態になっている気がするのだ。

現代は芸術作品ではなく商業作品ばかり溢れる世の中ともいえるだろう。

 

事実としては「本物」は必ず残る。

しかし製作者が「想いを込めた純度の高い作品を完成させようとする意思」を邪魔されるような環境になっているのは困ったことだと思う。

矛盾するが、作者が内なる想いを込めて一冊の本を作り上げたとしよう。

その本は誰かが手に取り、表紙をめくらない限り物語は始まらない。

つまり誰かが手に取るまで「本という物質」にすぎないのも事実なのだ。

理想としては、最高の作品が少しでも大勢の人に触れられることだろう。

なかなか難しい問題だ。

 

世に必要な作品であれば必ず天の意志が働き、味方する。

信じれば戯言ではなくなるのだ。

 

 

 

 

占いにはいろんな種類が存在する。

数字や、統計学的なものから情報を得るのあれば、やり方さえ覚えればおそらく誰でもできる方法だろう。

ただし複雑すぎるものは専門知識が当然必要になるので誰でもは無理だと思う。

ちなみに個人的には子供時代から親しむ「星座別占い」や「血液型占い」みたいな単純なものが実は一番当たっている気がするのが困ったものだ。

 

霊感的なものを使う占いについてだが、有名なのはタロットカードだと思う。

人によってタロットカードの相性が合うかどうかの問題もあるのだが、個人的には直感力が強い人ほど占いが当たりやすいと感じる。

タロットカードは占いが当たる当たらないは別として、やり方さえ覚えれば子供から大人まで誰でもできるほど窓口が広いのが利点だろう。

学校の休み時間に友達のことを占ったりしている姿を一度ぐらい見かけたことがあるのではないだろうか。

ちなみに私の子供時代の記憶だが、「当たりすぎて怖い」とタロットカード占いに恐怖を感じて封印する友人も何人かいたわけだが、もしかしたら純粋な子供の方がプロの占い師よりよっぽど凄いかもしれない。

 

あくまで興味本位だが「タロットカードはなぜ当たるのか?」を考えてみた。

タロットカードそのものに何らかの力が少なからず働いているとは思うが、それであれば誰でも似たような占いの結果を出せるはずだ。

では占い師側の霊的な能力が重要なのだろうか?

占い師それぞれの能力の差が必ず存在するのは否定できない。

しかし、たとえば占い師が100人集まって「同じ人」を同時に占った場合、100通りの全く違う結果が出たとすれば占いそのものが破綻する。

全く見当はずれの結果が一部で出たとしても、おそらく「ある程度の似たような結果」が出るはずなのだ。

ではなぜある程度似たような結果にたどり着くのか?

たどり着く「何か」が存在しているからではないだろうか?

実際にタロットカードを使用している占い師でも「なぜかカードが教えてくれる」程度でしか考えていない人が多いと思うのだ。

 

これはあくまで私の憶測だが、占い師がタロットカードを媒体にして一時的にアカシックレコードにアクセスし、アカシックレコードからの情報をタロットカードに降ろし、それがテーブルの上に展開されるような状態が、タロットカードを使用した占いの仕組みではないだろうか。

そこで重要なのが、占い師の能力の差によってアカシックレコードにアクセスできる領域に違いが起こり、得られる情報量の差が生じ、占いの結果に多少の変化が起こるというわけだ。

アカシックレコードについての説明は省くが単純に説明すればこんな感じではないだろうか。

そう考えると、もしかしたら純粋な子供の方がアカシックレコードにアクセスしやすいのかもしれないが、子供にアカシックレコードの話をしても「なにそれ?」になるだろう。

 

余談だが、占いに興味を持ってタロットカードをはじめたばかりの人と最近会話をする機会があった。

占って欲しかったわけではないが、練習相手として私が相談者側になったわけだ。

結果として占いはかなり当たっていて驚いたのだが、少なからず私自身も占いをする側なので占いについて相談された。

テーマは「占いの上達の仕方」なのだが、そもそも素人の私に相談することが間違っていると思う。

しかしせっかくの機会なのでひとつだけ伝えた。

 

コツとしては自分は「できる」と信じること。

 

おそらくアドバイスとしてはこの一言に尽きる。

占いの技法や知識を高めることも大切だと思う。

そしてとにかく数をこなし経験を増やすことが最も重要だと思う。

しかしそれは「できる」と自分自身の中で確信に至るまでの過程にすぎず、むしろ自信がなければいつまでたっても「できる」に至らないのだ。

自分自身の中で「できる」になった瞬間、なぜか「できる」ようになる。

特に占いなどは目に見えない世界ともいえるので、初心者は「私の占いは本当に大丈夫なのだろうか?」という不安感があるだろう。

しかしそのうち「占いが当たっていた」という相談者の声が増え、「私の占いは当たるかもしれない」と自信が増えていき、「私にもできる」になっていく。

これは占いに限らず様々な分野で通じることで、それぞれの分野で習得の時間差はあるだろうが、最後は「できる」になると思うのだ。

 

ちなみに私自身の占いに関していえば「多少できる」と精神的な保険をかけている。

小心者は占いが当たらなくても大丈夫なように逃げ道を用意しておきたいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

友人などから頼まれた場合のみ、私は占いをやっている。

基本的にお金は受け取らないのでプロの占い師で活動しているわけではないが、占いをした後で、他の友人から「お互いのエネルギーバランスが崩れるので何らかのお礼はむしろ受けとるべき」と注意されるわけだ。

理屈はわかるのだが、私自身のマインドブロックなのか見返り的なものを受け取るのが苦手なのが困ったものだ。

 

私の占いに関してはあくまで霊能力の興味からの延長線だ。

そもそも占いを学ぼうとしたわけではなく、予知能力の実験をしていた時に「これは占いなどにも使えるかもしれない」と思ったのがきっかけだ。

予知能力の実験に関しては、「何か」が起こる予定日を事前に調べた後、結果的に前後2~3日間のズレまではそれなりに当たるようになった。

ただしはっきりいえば全く当たらない場合も当然ある。

そもそも私自身が未来予知に関して見当違いのことを調べていた場合もあるわけだ。

そしてこの世は「パラレルワールド(並行世界)」的な状態になっていて、未来が無数に分岐している。

これは予知の実験などをしていると何となくわかってくるのだが、単純にいえば「起こる未来」と「起こらない未来」みたいなものが「すでに同時に存在」している。

(ちなみにパワレルワールドに関していえば少なくとも人間の頭で理解できるレベルの話ではなく、あくまで「並行世界の概念的なイメージ」しかわからないだろう)

つまり起こる未来が存在していたとしても、起こらない未来にたどり着けば、予知としては「当たらなかった」という結果となるわけだ。

「過去に向かって情報をたどることも可能」ではあるが、詳しい情報を知りたければ専門のプロに相談するべきだろう。

 

そもそも私はプロの占い師ではない。

予知的なこと以外にも様々な情報を調べたりするわけだが、あくまで自己流のため、「これは占いなのか?」となると難しいところだ。

ちなみに過去に相談にのった友人に関してはそれなりに当たったりしてはいるが、結果的に全く占いが当たっていなくても一切責任が持てない。

そのため本当に悩んでいる方には「プロの占い師に相談した方がよい」とはお伝えしている。

実際のところ、占いはあくまできっかけにすぎず、私にしてみれば人生相談をしているだけなのだ。

常識、非常識を絡めた私のわかる範囲のことを相談者にわかるレベルで伝える。

占いであれば「当たる」ことが重要視されるのは当然だとは思うが、最終的には「相談者自身が今後どうするのか?」だと思う。

占いで素晴らしい未来があったとしても、相談者自身がそこに向かって少なからず動かなければ、おそらく素晴らしい未来は訪れないだろう。

 

あくまで興味本位で占いをしている私の意見だが、占う側から感じる注意点がある。

たとえばタロットカードを使用する占い師がいたとしよう。

 

1.占い師がテーブルの上にタロットカードを展開する。

2.占い師がタロットカードの情報を読み取る。

3.占い師がタロットカードからのメッセージを伝える。

4.相談者がメッセージを受け取る。

 

おそらく占いの一連の流れとしてはこんな感じだろう。

さて、1~4番の流れで、一番正解に近い情報はどれだろうか?

これが占いの困った問題だと感じるのだが、一番ダイレクトな情報としてはテーブルの上にタロットカードが展開された状態だと思う。

タロットカードに全く詳しくない相談者にしてみれば、展開されたカードのメッセージはわからないだろうが、「答え」が表示されている。

しかしカードは言葉として語ってくれない。

そこでカードが伝えている「答え」を占い師が読み取るわけだが、この段階で占い師がカード情報を読み間違えれば「答えにズレ」が生じる。

そしてカードを読み取った占い師が相談者にメッセージを伝えるわけだが、「占い師独自の解釈」が必ず生じたメッセージとなるため「答えにズレ」が生じる。

そして最終的に相談者は占い師のメッセージを受け取るわけだが、そのメッセージに「相談者の勝手な解釈」が生じるのだ。

つまり相談者は「一体何を信じるべきなのか?」も考慮すべきかと思う。

「占いという行為そのもの」、「タロットカード」、「占い師」、「自分自身」など、一度よく考えてみると占いに関する考え方に変化があるかもしれない。

ちなみに私はタロットカード(トート)を所持しているが覚えるのが面倒で占いには全く使用していない。

私は子供の頃から霊の存在や宇宙人の存在に興味があった。

小学生の頃にはすでに気功について触れていた気がする。

雑誌の記事に気功のやり方が紹介されていて面白そうと興味を持ったのだ。

考えてみれば興味本位で両掌の間に気の玉を作っていた小学生はかなり変だと思う。

当然のことだが同級生などは誰もやっていなかった。

子供ということもあり気功にはすでに飽きてしまったのだが、数十年後になって「あの頃もっと真剣に知識を深めればよかった」と後悔している。

表現が適切ではないかもしれないが「オカルト系の話」に関心が強い子供時代だった。

 

大人になって、ある出来事がきっかけで精神世界、スピリチュアル系などの知識を独学で吸収するようになった。

仏教思想、禅の思想、宗教的な思想に興味を持ち、探っていったら結果的にスピリチュアル系にたどり着いたともいえる。

宗教や精神世界の知識を深めたのは私の中の「何か」を探していた間の過程であり、はっきりいえばどうでもよかった。

ちなみに約10年ほど前はスピリチュアルが流行していた気がするが、個人的に「スピリチュアル」という言葉そのものに嫌悪感を感じ、流行に流される人が苦手なため、当時は見向きもしなかったのが皮肉なものだ。現在もスピリチュアルという表現はなぜか苦手だが。

 

オカルト系の話に関心が強かったこともあり、独学で知識を深めている間は正直楽しかった。

霊の存在や宇宙人の存在の知識にも触れることでき、霊能力などの分野にも触れることができたからだ。

残念なことは精神世界系の会話をできる人がほとんどいないのだ。

むしろ一般常識を重視する人にしてみれば「頭のおかしい人」にしか思われなくなってしまう可能性が強い危険性もある。

そして精神世界系やスピリチュアルなどの知識を深めた人は必ずいきつくと思うが、大きな壁が登場する。

 

「様々な本に書いてある内容は表現方法が違ってもほとんど同じことを伝えている」

 

ある面で特出した部分があっても、だいたい似たような知識しか得られなくなってくるのだ。

そしてその結果何が発生するかといえば「飽きる」ということだ。

むしろ知識を増やしすぎたため情報の混乱が起こり「一体何が正しいのか?」という迷いだけが深まっていく。

「覚えた」ことは「忘れる」ことが簡単にできなくなる。

思うに知識を深めるのは良し悪しなのだ。

 

そしてある時期から精神世界系やスピリチュアルなどの知識を深めることをやめたのだが、その頃に興味を持ち、現在も興味がつきないのが「催眠」という分野だ。

様々な過程を得て私自身はなぜかここにたどり着いたともいえる。

顕在意識と潜在意識、そして変性意識、自己催眠。

確証は持てないが「催眠」に関してもっと深く注目されるべきではないかと思うのだ。

 

 

 

全ての人間が必ず毎日していることがある。

単純に思いつくとすれば食事、睡眠ではないだろうか。

食事に関しては様々な理由で絶食状態を経験する人が世界中にいる。

睡眠に関しては様々な理由で不眠状態を経験する人が世界中にいる

ごく稀なケースで数年~数十年間全く睡眠できなくなった人も存在するらしい。

 

食事、睡眠以外に何をしているのだろう?

私の経験上だが呼吸を全くしなくなった人の話は聞いたことがない。

様々な理由でしばらく呼吸が止まることはあるかもしれない。

しかし数時間呼吸が停止すればおそらく肉体的に死が訪れるだろう。

 

つまり全ての人間は呼吸だけは必ず毎日している。

単純な答えだ。

むしろ必ずそこにたどり着くともいえる。

 

私は霊能力や超能力などに興味があり、様々な知識を得たりした。

普通に生きていくならば特殊能力など全く必要ない。

しかし特殊能力という面でも呼吸の問題は少なからず関与してくる。

ちなみに呼吸によって特殊能力を使えるようになるわけではなく、意識の状態を切り替える導入段階で呼吸が関与してくる場合が多い。

呼吸法はいくつかあるが、瞑想が好きな方であれば意味がわかるだろう。

 

呼吸は「空気」を吸って、吐くだけの行為だが、重要なのは「気」という点だ。

日本語には「気」に関する様々な言葉が多い。

「元気」、「病気」、「勇気」、「根気」、「気が合う」、「気が合わない」など数を上げたらキリがないが、普通に生きていくだけでも「気」は必ず関与してくる。

 

呼吸は「気」と密接な関係がある。

全ての人間は呼吸だけは必ず毎日している。

つまり呼吸について追及していけば、浅くも深くも人生に変化をもたらすと思うのだ。

 

 

あなたに簡単な質問する。

 

あなたの右手は「誰」の右手ですか?

あなたの着ている服は「誰」の服ですか?

あなたの肉体は「誰」の肉体ですか?

あなたの脳は「誰」の脳ですか?

 

おそらく「私の」と答える人がほとんだと思う。

むしろ誰もがわかりきっているようなくだらない問いだ。

 

最後に質問しますが、あなたの本体は「脳」ですか?

 

脳は様々なことを思考しているが「私」は脳ではない。

たとえば右手を切断しても「私」は私の右腕を失っただけだ。

肉体がある程度損失しても、肉体的な完全な死が訪れぬ限り「私」は存在する。

感覚的にいえば肉体の内部に潜むように「私」が存在し、肉体を含んだ「全て」を「私が」所持していると勘違いしているだけの状態だろう。

盲点は生まれた瞬間から「すでに私は人間の肉体の内部に存在していた」ということだ。

「私は人間」という生物的な存在を子供の頃から教えられてきたとしても、人間の肉体に包まれて潜んでいる「私の存在」について教えられる機会はあまりない。

たとえるならばロボットを操作する運転手が、生まれた瞬間から運転席に座っていたとすれば、「私はロボットの運転席にいつの間にか座らせていた」という事実を知る術がない。

あえて特別な操作を学ぶ必要もなく、「私の思い通り」にロボットが動くならばなおさらだ。

それに気づけば「私」は肉体の様々な機能を使い、様々な外部情報を認知、判断、解釈し、「これが現実世界」と信じているにすぎない。

 

たとえばあなたは食器を買いにお店に出かけたとする。

目の前に「コップ」という物質を発見した。

あなたは手を使い、コップを持ち上げる。

視覚を使いコップのデザインを眺め、手の触感からコップの感触を実感する。

そして肉体を使い得た情報から「この物質はコップ」と「私」が認知、判断、解釈する。

手に取ったコップという物質をとても気に入った「私」は「私の所有物にする」と決めた。

お金を払い購入した瞬間、コップは「私」の物になった。

そこでひとつの疑問が浮かんだ。

「私」の肉体は「私の所有物」と信じているが、その肉体のさらに外部にある物質は本当に「私の物」になったのだろうか?

もしかしたらコップという物質の「情報を得ただけ」ではないだろうか?

肉体のどこかの機能に異常が発生していれば「この物質はコップ」と信じてしまった「肉体からの情報」は本当に正しいのだろうか?

コップという物質は「私」の目の前に本当に存在しているのか?

いままでに「私が得た」と信じた地球上の物質は肉体を含めて何ひとつ「私自身の物」になってはいないのではないだろうか?

そして究極的な疑問が湧いてくる。

 

「私」は肉体に包まれて存在し、肉体を通じて様々な情報を得ているが、果たして世界は本当に存在しているのだろうか?

「私」がいままで現実と信じてきた世界は、肉体の中に潜む私が「これが現実世界」と疑うことなく信じるほど精巧に作り上げられた幻想であり夢の中のようなものではないだろうか?と。

 

仏教などでは悟りを求め「六根清浄」と必死に唱え続ける修行者がいるが、誰が誰のために唱えているか気づけば光明が開けるのではないかと思う。

神秘体験を求めるならば別だが、修行など一切しなくても「すでにある」のだから。

 

(今回は顕在意識、潜在意識などさらに深い部分は省く)