良い子ではなかった私は、18歳の誕生日から喫煙するようになった。

法律上、「未成年者の喫煙は禁止」となっているが、若かった私は「未成年」を「18歳未満禁止」とちょっと勘違いしただけだ。

それ以後、かなりの年月を喫煙者として過ごすことになった。

ちなみに1日、約2箱のペースだった。

 

年々喫煙者の肩身は狭くなっていると感じる。

飲食店などでは禁煙が当然になり、外では「喫煙場所」が指定されるようになってきた。

「外であればどこで喫煙しても問題ないのでは?」と思うのだが、わざわざ喫煙場所を探さなくてはいけない状態になってきたわけだ。

もはや「喫煙者は社会悪」と呼ばれる時代の気がする。

 

「喫煙は健康に悪いので止めるべき」と周囲からよく言われるが、実は喫煙者がそのことを一番わかっている。

少なくとも「自分の健康のため」と思いながら喫煙している人はおそらくいない。

(ただし「ストレスを軽減」させることは「自分の健康のため」というおかしな論理で喫煙している人はいるかもしれない)

基本的には「吸いたいから吸う」という単純な動機だろう。

喫煙を止める理由としては「自分の健康のため」、「家族など誰かのため」、「金銭的な問題」、「病気などにより医師から禁煙を宣告された」などがあると思う。

 

私が思うに「自分の健康のため」に禁煙する人は本当に素晴らしいと思う。

そもそも喫煙者自身は「吸いたいから吸う」という単純な動機で毎日喫煙しているわけだ。

実際のところ、「喫煙するクセ」が身についている状態と思われる。

もし「自分のため」であれば「喫煙を続ける方が素直で正直な行為」だと思う。

むしろ「止めるに至るまでの理由」らしきものがなければ、その時点ではあえて突然止める「意味」がない。

それにも関わらず、「健康のために止める」とある日突然選択するならば、何かに目覚めたのかわからないが、「自らの変化」を自ら望んだことに他ならない。

大変素晴らしいことだと思う。

 

ちなみに私の知人に数年毎に「今日から禁煙する」という人がいるが、今年も「今日から禁煙する」と言っていた。

周囲にしてみれば、どうせ失敗するなら「禁煙する」と自ら発言しなければ良いと思っているわけだが、本人にしてみればアフォメーションが必要なのだろう。

 

禁煙に挑戦する人はかなり多いと思う。

基本的には「喫煙なんて止めるべき」とわかりながら喫煙している人が多いからだ。

ある日突然禁煙を決意し、しばらく止めて、喫煙再開。

そして喫煙しながら「自分は意志が弱い」などと自覚する。

こんな人が実はかなり多いと思う。

「意志が弱い」と自覚したところで実は何も問題がない。

誰かに迷惑をかけたわけでもなく、結果的に「自ら喫煙を再開しただけの話」なのだ。

それを乗り越えて、禁煙に成功するならば本当に素晴らしいことだと思う。

 

さて、私自身はすでに禁煙している。

禁煙開始から1年以上経過し、おそらく「今後喫煙することは一生ない」だろう。

タバコは年々値上がりし、1日2箱消費すると、毎日約1000円程度の出費になる。

私は当時コンビニで購入していたのだが、レジで毎日1000円支払っていたわけだ。

その行為を毎日続けていると「このお金は無駄だ」と思いが強くなり、ある日突然禁煙する決断をした。

しかし「突然の禁煙はさすがに難しい」と判断した。

数十年間喫煙していた人が「意志」だけで禁煙できるほど甘くはないと思ったからだ。

そのため喫煙という行為を、「ニコチン入りのガム」で代用することにした。

(ちなみに私自身は試さなかったが、病院にいけば「ニコチン入りのパッチ」を処方してもらえると思う)

結局ニコチン入りガムのおかげで、禁煙は成功したのだが、別の問題が発生したのだ。

 

「ニコチン入りのガムが止められない」という冗談みたいな展開だ。

 

本来であれば、服用するガムの個数を徐々に減らしていくのだが、私の場合むしろ徐々に増やしてしまったのだ。

結局毎日13~15個程度服用するようになっていたのだが、ニコチン入りガムは単価がそれなりに高く、1個あたり最低60~100円程度する。

そもそも「お金の無駄」と感じて喫煙を止めたのだが、ニコチン入りガムの利用は金額的にそんなに変わらない状態になってしまった。

 

「どこかでガムの利用を止める選択をしなくてはいけない」

 

実はこの決断をするまでに半年以上かかり、「禁煙を決断するよりも大変」だった気がする。

原因としてだが、「喫煙は身体に悪い」のは理解できる。

しかし「ガムは身体に悪い」ということにあまり結びつかないのだ。

ただし「ニコチン」は肉体的に不要な物質だから一日も早く止めるにこしたことはない。

そんなことを悩みながら月日は流れ、無駄な出費をしたわけだが「10月23日を最後」にニコチン入りガムの利用を完全に止めることができた。

ちなみに「10月23日」が最後だとすればまだ二日間しか経過していないことになるが、ニコチンは2~3日間我慢すれば体内から抜けていくそうだ。

約1カ月間ほどは離脱症状的なものが残る可能性はあるそうだが、禁煙を1年以上しているのでそんなにつらくはないはずだ。

そして「1個100円のガムを買いますか?」と尋ねられたら、冷静な判断であれば絶対に買わない。つまり私はニコチン入りガムを購入することは今後二度とないだろう。

 

「素晴らしい。ニコチン入りガムもやめたので完全に禁煙は成功だ」

 

私の場合は「お金の無駄」をきっかけに禁煙したわけだが、健康面、臭い面、経済面など禁煙には本当に様々な利点がある。

体重が加算する人も一部いるようだが、その問題を抜かせば、むしろ利点しかない。

さらに常識はずれのため、世間では一切話題にならない「素敵な利点」がある。

 

「ハートの動き」がわかりやすくなる…気がする。

 

漫画などの表現で人間の身体の心臓部分に「ハートマーク」が書かれていることがある。

つまり世間一般では、人間の心臓は「ハートマーク」というイメージで認知されていると思われるが、私も「ハートマークはあくまで絵的なイメージ」と信じていた。

しかしある時に、「遠隔でエネルギーを送ることができる」という友人に出会ったのだ。

そして私は「ハートにエネルギーを送る」ということを試させてもらった。

「心臓の動きを変化させてくれるかな?」と思っていたのだが、違うのだ。

説明がとても難しいが、肉体の心臓の機能とは別に、「ハートマーク」の部分が肉体内部に存在する。「ハートマーク」が独自で機能しているというか、心臓とは別に「何か存在している」ことを実感させてもらったのだ。

「ハートって心臓とは別に存在しているの?単なるイメージではないの?」と、本当に驚いた。

 

レントゲン写真では「心臓」しか撮影されない。

しかし「感覚的」な判断になるが「ハート」は目に見えずとも肉体内部に存在している。

場所的には心臓に重なるような状態。

 

その友人のおかげで「ハート」らしきものが本当に存在することを教えてもらったのだが、友人曰く、喫煙していると肺の機能が低下し、「ハートの動きがわかりずらくなる」可能性があるそうだ。ハートそのものは目に見えないので説明が難しいが、喫煙は「胸や肺の機能に多大なる悪影響を及ぼす」ことは理解できる。

ちなみに私が友人と出会ったのは「禁煙開始から半年後」ぐらいだ。

喫煙していた頃の私は「ハート」の存在など信じず、全く気付かなかった。

そして若い頃からの喫煙期間があまりにも長すぎるでむしろ「ハートの動きを感じられなくなっていた」のかもしれない。

スピリチュアル系の人は「禁煙が好ましい」ことを知っていると思うが、私自身は「ハートの存在」を知ってから、「喫煙は本当に止めた方がいい」と思うようになった。

 

実際のところ、禁煙を続けられた理由として「ハートの存在」が一番大きい。

 

さて、「タバコ」に限らず、世の中には「依存」に成り得る物質はたくさんある。

「アルコール」、「違法薬物(ドラッグ)」などが有名だが、「パチンコ」、「競輪」、「競馬」などのギャンブルも依存に成り得るだろう。

 

「止めたいのに止められない」と悩む人は多い。

 

周囲にしてみれば「意志が弱い」と判断してしまうかもしれないが、依存状態になるとそんなに甘いものではない。

「違法薬物」などは法律上逮捕という問題に発展するが、「本人の意志の問題」ではなく「脳が記憶している」から特に大変だと思う。

たとえば「お酒(アルコール)」を飲んだことがある人に質問するが、

 

あなたはアルコール以外で、「お酒に酔う」という状態にできる物質を知っていますか?

(ただし催眠は除く)

 

「この問題」がひとつの答えだと思う。

アルコールを飲めば「酔う」という状態になれる。

そして地球上には「アルコールの代用になる物質」はおそらく存在しない。

つまり「酔う」という「自分の状態変化」をさせるには「これしか存在しない」と理解しているわけだ。だから酔いたい時は必然的に「お酒(アルコール)」を求める。

 

「意志が弱い」のではなく、「特殊な自分の状態」に変化させるのは「コレ」しか方法がないと知ったから、「それを求める」だけなのだ。

依存とは、「物質が目的」ではなく、物質を利用した後に発生する「特殊な自分の状態への変化」を求めているにすぎない。

解決するにはいくつかの手段があるが、単純に2つだろう。

 

1.「依存となる物質」を入手できなくする。

2.「特殊な自分の状態への変化」をあきらめる。もしくはそれが異常な状態と理解する。

 

「タバコ」や「お酒」に依存している人が簡単に止められない決定的な理由がある。

お金があれば「簡単に入手できる環境」が整っているからだ。

人間社会が本気で喫煙者を社会から排除したいならば「タバコの販売を一切禁止」で基本的には解決する。

簡単に「買える」から止められないだけだ。

 

最初のきっかけは「興味本位」かもしれないが、そもそも本人が「手を出す」という選択をしたことが問題だろう。

何事も「始める」よりも「止める」という選択の方が大変な気がする。

しかし「好転したい」と願うならば変えられるだろう。

 

依存の解決方法の手段にもうひとつ付け加えるならば、

「自分自身のため、もしくは大切な人のため」という願いを組み込むことかもしれない。

お詫びしておくことがある。

先日「呼吸」という記事で、「呼吸を全くしなくなった人の話は聞いたことがない。全ての人間は呼吸だけは必ず毎日している」のようなことを書いた。

しかし世界各地には「呼吸をしない人が実際にいる」らしい。

数時間か、数日間かはわからないし、肉体的にどんな状態になっているかはわからないが、とりあえず「呼吸を止めた状態」を可能にすることができるそうだ。

ヒアラヤの奥地に存在するそうだが、瞑想の極致にたどり着けば可能になるらしい。

無知な発言で「嘘」の情報を伝えたことをお詫びしたい。

つくづく「世界は広い」と思う。

 

最近は携帯電話の電源を切る日々を送っている。

それと同時に「瞑想」の時間を毎日作るようにしている。

 

「瞑想は良い」という声は、子供の頃から大人になるまで何回も聞いた。

「多くの人が良い」と伝えるには「何か意味がある」と思い、私自身も何度か試したりしていたが、正直なところ「意味」がよくわからなかった。

しかし「自分自身を知るための方法」としてとても役に立つと感じ、最近は瞑想の時間を大切にしている。

 

現代は「ヨガ」が流行し、ヨガをきっかけに瞑想に触れる機会を得た人もいるだろう。

そして「マインドフルネス」なども流行し、様々な分野で「瞑想」が注目されるようになっている気がする。

できるならば「経験の高い指導者の下で、適切な瞑想のやり方を学ぶのが一番」だと思う。

瞑想の方法は様々な種類があるらしく、それぞれの方法によって効果も違い、さらに進歩のスピードが大きく変わるようだ。

(ちなみに瞑想には「危険な面」もあるそうだが、おそらく「魔境」のことなどを伝えているのではないだろうか?)

ただし素人が「優れた指導者の見分けがつくのか?」という問題もあり、さらに「出会い」という問題もあると思う。実はこれが非常に厄介な問題なのだ。

 

真似事かもしれないが、瞑想はやろうと思えば誰でもできる。

興味本位でも「とりあえず試してみる」という行動は無駄ではないだろう。

 

実は今回の記事は途中で書くのを一時中断している。

約24時間ほど中断している間に、いろいろな「気づき」があった。

書くのを再開したのだが、内面の変化がありすぎて「中断前」と「中断後」がまとまらなくなってしまった。

 

結果的にまとめてみる。

 

瞑想は素晴らしい。

内側にある自分自身を発見し、つながるためにとても有効な方法だろう。

極論だが、瞑想が自分自身の内側にある「答え」にたどり着く手段ということを理解できれば、それ以降、「外側の情報は不要」になる。

むしろ外部の情報は「脇見させるため」に存在しているような状態にすぎない。

 

 

思考は現実化すると言われている。

「引き寄せ」などという表現でも伝えられているが、単純に「願いは叶う」ということだ。

 

「引き寄せ」についての紹介本、「引き寄せ実践セミナー」みたい講座は年々増え続けている。

ちなみに現代において、引き寄せというものが有名になったきっかけは「マーフィーの法則」なのかもしれない。

簡単に説明すると「潜在意識側に学習させる」に近いものだと思う。

しかし「引き寄せについての知識を得た人」が、その知識を得た後で「引き寄せを使いこなせているのか?」と考えると、ちょっと怪しい。

 

一部の人は効果を実感し、一部の人は効果を感じられない。

 

「引き寄せブーム」ともいえる現在だが、効果を感じられない人の数もかなりの数がいるのは困ったものだ。

思うに、「全く効果がない」というのは嘘になるだろう。

表現を変えれば「自分の願う通りの結果には至らなかった」状態かもしれない。

「知識を得て、思考し、自分自身が何らかの行動をした」のであれば、目には見えないレベルかもしれないが「少なくとも何らかの変化は起こっている」と思う。

そもそも初期段階として「試す」か「試さない」かの選択をすることになるが、「試す」という選択を「本人」がしているわけだ。

それが「自分が望む通りの結果」に至らなかった場合、多くの人は「引き寄せの効果を実感できない」という判断になるだろうが、「試す」という選択をした段階で、少なくとも何らかの変化は発生しているだろう。

変化は発生していても、結果にたどり着く前に「本人が飽きてしまった」のが正解なのかもしれない。

私自身、引き寄せについて詳しくないし、書店などに行けば「引き寄せ系」の本はたくさんあるので興味がある人は「専門の知識」をぜひ参考にしていただきたいと思う。

 

さて、私はテレビ番組を視聴しないのだが、インターネットで「YOUTUBE」を利用していることが多い。

最近は映像を視聴するよりBGMとしての利用が多いのだが、数日前に偶然「映画の予告映像」を観た。

10月21日公開の「斉木楠雄のΨ難」という作品だ。

内容としては「超能力を持った主人公が活躍する学園コメディドラマ」という表現が適切ではないかと思う。

映画の予告編を観ていると「やりすぎともいえる馬鹿馬鹿しい表現」が多く、映画視聴後はおそらく「つまらなかった」という感想になるだろうが、「あまりにもつまらなそうだからこそむしろ面白そうな映画」という興味を感じた。

(たとえば「ヒロインに壁ドンしたら、学校の校舎そのものが破壊される」など)

映画館に行く機会はあまりないのだが、珍しく「映画館で視聴してみようかな」と思ったのだ。

 

しかし映画公開日までにまだ数日間ある。

珍しく視聴してみたいと思った映画なので、事前に情報を探ることにした。

「斉木楠雄のΨ難」は「週刊少年ジャンプ」に連載されている漫画が原作で、作者は「麻生周一」らしい。

情報を得た後で、本屋に向かい漫画を少し立ち読みしてみたところ、なかなか面白かった。

ちなみに漫画本としては現在23巻まで発売している。

全巻購入する気も起こらず、さすがに「立ち読みで23巻は問題がある」ので、漫画喫茶に向かい全巻読破しようと考えたが、「今回はやめておけ」という指示(?)があったので帰宅した。

そして再びYOUTUBEを視聴するとアニメ版を発見したのだ。

アニメ版は120話まで存在しているらしいが、とりあえずYOUTUBE内に存在する1~105話を数時間かけて全て視聴した。

個人的には主人公のシニカルな発言が面白く、笑いながら楽しませていただいたのだが、結果的に「映画を観に行く必要性がもはやなくなった」のだ。

おそらくアニメ版の方が「声優」や「ギャグのタイミング」など映像的には実写版より面白い。

そして原作漫画に存在するコメディ部分や、内容的なものはアニメ版で十分堪能させていただくことができた。

実写映画に出演する俳優陣に思い入れがあるのであれば、実写映画の魅力はあるだろうが、私は俳優陣に興味がない。

つまり実写映画版を視聴する「意味」が消えてしまったに近い。

しかし「斉木楠雄のΨ難」という作品に対する興味は満たされたのだ。

 

最近の私の願いは「自分自身の学び」なのだが、その反面、「頭を使いすぎている」とも感じるので「頭のリラックス」を求めていた。

つまり「学び」と「リラックス」という二極の方向性が同時に願いとして存在していたわけだ。

 

その時、偶然のように「斉木楠雄のΨ難」という作品が突然登場し、興味を持った私は「基本的にはお金を一切使わず」に作品そのものを楽しむことができた。

実際のところ「斉木楠雄のΨ難」という作品はギャグアニメではあるが、内容はかなり「深い」のだ。

随所に「哲学的な考察」がシニカルな要素を絡めて含まれているのだが、私の性格上、とても自分に合っている作品だった。

そのため、時には「考え」ながら、時には思いっきり「笑い」ながら楽しませてくる「学びの時間」を「斉木楠雄のΨ難」に触れることにより得たわけだ。

 

つまり「方法」はどうであれ、「学び」と「リラックス」という「私の願い」は、「結果的」に予想を全くしなかった「方法」によって「全て叶った」ということなのだ。

それも数日間、むしろ数時間という「超短期間」で、お金を一切使わずに「願望は実現された」ということになる。

 

これを「引き寄せ」と表現するかはわからない。

しかし結果として願いは叶ったのだ。

もし「方法」を重視していれば、「学び」と「リラックス」ということを一致させるのはかなり難しくなる気がする。

「結果」に至るまでの「道筋(方法)」を必死に考えたところで、結局結果にたどりつけなければ意味がないのだ。

 

ちなみに人間社会では「物事は順序をしっかり考えなさい」と教えられる。

つまり「方法をしっかり考えるように」と教えられるわけだ。

 

たとえば「迷路ゲーム」があるが、私は「ゴール地点」から「スタート地点」に戻るようにしている。なぜならば必ず「進むべき道がわかる」からだ。

スタート地点からゴール地点に向かうことが「迷路ゲーム」のルールだとは思うが、「ゲームそのものを楽しむ」のであればそれが「正解」だろう。

極端な話、「ルールを守りたい人は、ルールを守ればいい」と思う。

しかし結局たどりつくのがゴールであれば、ゴール地点からスタート地点を結ぶと「迷路の正解」が必ず示される。

つまり「答え」から「逆算」するという「方法」に近いのだが、「迷う時間が省略される」のだ。

 

迷路ゲームを楽しむのは自分から迷路に進むようなものだ。

 

子供の頃から「夢」を持ちなさいと教えられる。

これは凄く大事なことだと思う。

そして「夢に向かって進みなさい」と教えられる。

ある意味正解だろう。

問題は「夢」を持った時が「スタート地点」であれば、「ゴール地点」が「夢の達成した場所」ということだ。

スタート地点からゴール地点に向かう「道筋」をわかっているならば、ひたすらその道筋を進むべきだろう。

しかし「ゴール地点」を最初に設定したとしても、人生にはナビゲーションのようなシステムは存在しない。

少し進んでは迷い、少し進んでは迷い、結局「私はどこにきてしまったのだろう?」と彷徨い続ける。

「ゴール地点」から逆算していけばゴールまでの過程として「たどりつくべき場所」は自ずとわかってくるだろうが、何も考えずにスタートしたのであれば無謀でしかない。

しかしそれでもゴールにたどりつく保証は一切ない。

 

しかしながら「私の願いは叶う」と信じ続けた人は「なぜかゴール地点にいる」場合がある。

気づいたらいつの間にか「ここにたどり着いていた」だ。

振り返ればゴール地点までの過程は説明できるだろうが、多くの場合、「予期せぬ出来事や出会いが偶然起こって」と答えるだろう。

「何らかの方法」は考えたりしていたかもしれないが、「予想を超えた何らかの力」が働いて自然と道が作られていく。

つまり「方法」というものは考えるに越したことはないかもしれないが、それはあくまで「願いの実現」までの過程のひとつにすぎず、むしろ「結果にたどり着くならば何でもアリ」ぐらいに思っていた方が好ましいだろう。

なぜならば「自分が信じる方法」を重視していれば、「予想を超えた出来事」があった場合、その状況を「受け入れられなくなってしまう可能性がある」からだ。

説明が難しいが、一つ確かなことがあるとすれば「諦める」という選択をした人は「ゴール地点には絶対にたどり着かない」ということだろう。

「もう少しで諦めそうになった」という人がいても、「諦めた」と決断した人はいないのだ。

 

ただし「夢が叶う」までの時間はどれだけ必要かは全くわからない。

数年~数十年間かかる場合もあるだろうし、死ぬまで報われないこともあるだろう。

そのため、「状況を冷静に判断できる人」にしてみれば、時期早々に見切りをつけ「飽きた」や「諦めた」と選択する傾向が強いかもしれない。

実際のところどちらが「賢い選択」なのかはわからないが、人生は一度だ。

後悔しないように、自分の願いを信じるべきではないかと思う。

諦めたら終わりなのだから。

 

信じるか信じないかは別として、「思考の実現化」は加速している。

「思考の現実化」という表現の方が正しいのかわからないが、とにかく世界そのもののシステムが徐々に変化しているのだ。

ある人によっては喜ぶべきことかもしれないし、ある人によっては嘆くべきことかもしれないが、「流れが変わり始めていることを感じる瞬間」はあるかもしれない。

 

ちなみに「斉木楠雄のΨ難」は面白い作品だ。

超能力の勉強には全くならないが、笑える部分はあるだろう。

やれやれ、話題はギャグ漫画の紹介か。

10月に入ってから携帯電話の電源を切っている。

現代の携帯電話は「スマートフォン」か「iPhone(アイフォン)」のどちらかだと思うが、私自身はスマートフォンを使用している。

携帯電話という道具が普及されてからかなりの年数が経過した。

もはや「所持していない人の方が珍しい」と思われる状態になっている。

いつでも使える電話を常に手元に所持しているような状態は「テレパシー能力の代用」になっていると思うが、そのために「毎月最低数千円のクレジット」を抱えているような状態なのは困ったものだ。

ちなみに社会的な問題としては、公衆電話が年々撤去され、「いざという時に公衆電話を見つけることが非常に困難になった」ことかもしれない。

 

携帯電話の電源を切っているのは「外部との接触を極力減らしたい心境」からなのだが、実際やってみると精神的にはかなり気楽になる。

数日前まで普通に交流していた友人にしてみれば「ある日突然携帯電話が通じなくなり、電源は切られたままという状態」になるわけだ。

「失踪」もしくは最悪の場合「死亡したのでは?」と心配してくれて、わざわざ自宅に電話してきてくれた。

友人には事情を説明しておけばよかったのだが、自分自身の中で「全てを遮断する」というタイミングがあったのだと思う。

ちなみに友人には「何かあればメールをしてくれれば、気づいたときに電話をする」と伝えているが「まるでポケベル状態」と言われている。

 

携帯電話の電源を切ってから何をやっているかといえば、この「ブログ」を書いたり、読書したり、県内、県外の神社などにお祈りに行ったりしている。

神社に関していえば、たとえば一昨日などは石川県の「白山比咩神社」でお祈りを終えた後に突然福井県の「常宮神社」に向かってお祈りをするなど「指示(?)」があってそれに従っている状態だ。

困ったことに神社巡りに関しては自分自身「行動の意味」をわかっていない。

神社は好きな場所ではあるが、「この場所に観光に行きたい」などという感覚は全くないし、申し訳ないことだが「日本各地の祭神様の名前」も全く覚えていない。

とにかく指示された目的地に向かい私は「祈る」だけで、その数がおそらく「普通の人の数十倍なだけ」という感じだ。

その意味のわからない行動は2007~2009年あたりまで必死になっていたのだが、約10年間ほど休止していて、2017年頃から再び再開している。

休止中の時もたまに各地の神社などには行ってはいたが、まさか再び神社を巡る機会が訪れるとは思いもしなかった。

こんな活動もしているので私もライトワーカー系ではないかと思ってはいるのだ。

 

「神仏たずねて三万里」

https://blogs.yahoo.co.jp/record_dragon?__ysp=56We5LuP44Gf44Ga44Gt44Gm

当時の記録だが、感じられる人にしてみれば心霊写真集的な感覚もあるかもしれない。

 

現在書いているこのブログに関してだが、書いている自分自身が「長文なんて読者は嫌がるだけ」と思ってはいるし、とにかく文章が固い。

温もりがなく冷たい文章になっているのは自覚しているし、読者様には申し訳なく感じている。

そもそも私が本来書いている文章とは異質な状態になっているのだが、目的としては「自分自身の頭の中の整理」と、「気づき」を重視している。

たとえば書いていて、途中で「ああ、そうか」と自分自身が気づくこともある。

そしてもうひとつの目的としては、誰かが読んだ時にその人の中で「何らかの疑問」が生じれば一番嬉しく思う。

「人間社会の洗脳を解く」という何らかのきっかけになることを願ってはいるし、「現在」にも通じるが、おそらく「数年後」に意味がわかる部分もあるかと思う。

 

さて、昨晩の話だが久しぶりに携帯電話を使い友人と会話した。

淡々と日常会話をしていたのだが、会話中に一瞬「イラつきを感じる言葉」があった。

そして友人に「ちょっと待って、いまイラつきを感じたわ」と会話を中断する。

そこで少し考える。

「なるほど」と自分の中で納得し、会話を再開する。

そういう展開が数回あったのだが、非常に有意義な電話だった。

ちなみに友人には「あなたに感情的になっているのではなく、自分の内側の反応を知るために会話を利用させてもらっている」と伝えてある。

 

そもそも「友人に対してイラつき」を感じたわけではなく、会話の中で「私自身の内側の反応」を確かめさせてもらっていたのだ。

その人それぞれに「過敏に反応する言葉」を持っているとは思う。

たとえば他者から「馬鹿」と発言されて笑ってすませる人もいれば、「馬鹿」と発言されて激怒する人もいる。

他者に向かって「馬鹿」などと暴言を吐く人は「モラル的に問題がある」かもしれないが、発言した人に関してはどうでもよいのだ。

重要なのは「馬鹿」という言葉に反応した自分自身。

「自分の内側」に「馬鹿」という言葉に対しての何らかの傷がある。

それは幼い頃のコンプレックスかトラウマかはわからないが、自分自身の無意識部分に「馬鹿」に対して過敏に反応する何らか「原因」が刻まれた状態だろう。

おそらく普段の生活では「その傷」は自覚できない。

心療系、精神系などの専門家に相談すれば対処できるかもしれないが、そういう機会を持たない方がほとんどだと思う。

しかし「知る機会」は、「自分が知りたい」と思えば、たくさん用意されている。

 

特に人間同士の会話というのは非常にわかりやすい。

他者との会話に熱中していては気づけないかもしれないが、会話しながらも「自分の内側の反応」に最も集中するとわかりやすくなる。

思うに「イラっとした」などは、非常にわかりやすい反応だ。

なぜならば平常心が一瞬で変化するからだ。

その瞬間、相手に激しい怒りなどをぶつける人が多いかもしれないが、それでは何も進歩しない。人間同士の争いが起こるだけだ。

「イラっとした」を感じた瞬間に、自分自身に「なぜ私は苛立ちを感じた?」と問い、考える。

幼少期から現在に至るまでの過程を探れば、「その原因」は必ずある。

むしろ「イラっとした」瞬間によって「それを知る機会」を与えたくれた友人に感謝する。

争いなど起こるはずがない。

 

そして今朝のことだが、友人が「フラワーエッセンス」のカタログをメールで送ってくれた。

男性にとって「フラワーエッセンス」という言葉であり、商品はあまり知らないと思うが、世の中には「少し変わった商品がある」とだけお伝えしておく。

カタログには写真付きのフラワーエッセンスがたくさん掲載されているのだが、価格的にはそんなに安くはない商品なので、写真だけ眺めていた。

ちなみに私自身、フラワーエッセンスに関しての知識は無知に近く、一体どれを選ぶべきなのかなどさっぱりわからないのだ。

頭の中では「全くわからない」と思いながらも、写真を眺め「身体の反応に集中」してみた。

奇妙なことに「身体が反応する」のだ。

それは凄く小さな微動ともいえる反応に近いが、数点の商品に反応を感じる。

そしてその商品の説明を読むと、「なるほど、私に必要なのは確かにこれなんだな」と理解できる内容になっている。

その瞬間、気づいた。

 

「自分の内側に耳を傾ける」という意味がやっとわかった。

 

世界は「鏡の法則」と言われているが、他者を通して自分を見せられる仕組みになっている。

姿としては自分と違う「他人」が目の前にいた時、視覚的には「どこが鏡?」と考えてしまうかもしれないが、相手の存在に気をとられず、自分自身の「内側に集中」し、「内側からの反応」を感じることができれば、それをきっかけに自分自身の「何か」を知ることができるだろう。

 

「全て」は自分自身が投影されている。

やっとその意味を理解することができてきた気がする。

そして世界に面白みを感じてきた。

出会うもの全てに楽しみと喜び、そして感謝する機会が増すだろう。

おそらく外部と遮断することによって、その機会を得たと思う。

決して無駄ではないとても有意義な時間だった。

ちなみに今朝の早朝に偶然時計を見たら「2:22」だったのだ。

「エンジェルナンバー」などと呼ばれているものも、ひとつの参考にしている。

あながち嘘ではない気はする。

 

余談だが、聖書に登場する「666」は獣の数字などと呼ばれている。

エンジェルナンバーの説明を記載しておこう。

 

あなたの思考が物質的なものに囚われ過ぎているようです。

物質面での恐れを手放し天に委ねましょう。

そして思考をスピリチュアルなものに向け、正しい道へ戻りましょう

 

現代において人間は「獣だらけ」になっているのは気のせいだろうか。

残念ながら「刻まれた数字」は目に見えない。

人間は「私」という「意識を持った生物的なロボット」に感じることがある。

動力源は「内在する光」、「魂」など様々な考え方が存在する。

肉体的に考えると「心臓」は生命活動において重要な臓器だが、その心臓さえ「何らかの内なる動力源」によって常に動かされている。

思うに人間は「自分の意識」を超えた何かによって「生かされている状態」だと感じるのだ。

 

人間は「食事」によってエネルギーを補給し、「睡眠」などによって肉体的な回復を続け生命を維持している。

その行為は誰にも教わらずとも「欲求」という無意識的な感覚によって引き起こされる。

ちなみに人間の三大欲求は「食欲」、「睡眠欲」、「性欲」といわれている。

欲求を満たすための「方法」を教えてもらうことはあるだろうが、欲求という「目的」は生まれた時からすでに持っているともいえるだろう。

つまり無意識的に「プログラム」されている。

そして「エネルギー不足による回復困難な状態」、「肉体的な寿命」、事故や病気などによる「内外的な致命的なダメージ」を受けない限りは生き続けるようになっているのだ。

「自殺」という行為などによって「強制シャットダウン」は可能だろう。

しかし「私」という顕在意識では、「心臓の動きを自分の意志で停止」することはできない。

つまり「強制シャットダウン」という行為をあえて選択しない限り、自分の意志では肉体の機能を停止することはできず、「死のタイミング」というものを自分の意志では決定できないようになっているのだ。

 

私はたまに考える時がある。

「人間は人間を超えた存在から作られ、何らかの実験をされているのではないだろうか?」と。

 

さて、ロボットという表現では「生物ではない機械的なイメージ」が強い気がする。

「人型ロボット」、「人造人間」、「ヒューマノイドロボット」、「バイオノイド」、「サイボーグ」など様々な表現があるが、個人的には「アンドロイド」という表現が好きかもしれない。

少し調べてみると「アンドロイド(android)」の「andro-」はギリシア語の「人、男性」という意味があるそうで、女性型アンドロイドを「ガイノイド(gynoid)」と表現する場合もあるそうだ。

ちなみに「ミセスロイド」は衣類を守る「防虫剤」なので「既婚しているロボット」ではない。

今回は私が生物的に男性ということもあり、人型ロボットのことを「アンドロイド」と表現する。

 

現在の私が一番興味を持っていることは「愛」の理解だ。

ライトワーカー系などと言いながら、「愛がわからない」では本末転倒で非常に情けない。

友人にその話をしたら「愛に関して」の本を送ってくれたことに大変感謝している。

そして読書などをしているわけだが、現段階において全く語れる状態ではない。

「愛」というものは何となくわかるが、正直なところ「本質的な正体」がよくわからないのだ。

 

生きていると「愛」という言葉の表現に遭遇することは多々ある。

むしろ行きつけば必ず「愛」の存在にぶつかる。

若い頃は反抗心も多く、誰もが唱える「愛」の存在を否定していたかもしれない。

しかし知識を深めるために学べば学ぶほど、必ず「愛」につながっていく。

そして「また愛なのか」と頭を抱える。

それはもはや「愛」という言葉が忌々しく感じるほどの状態なのだ。

「言葉に捉われるな」と思いながらも、避けて通れない道というのは理解できる。

正直なところ「愛」を理解したいからこそ、「愛」の明確な説明を求むのだ。

 

人間が語る「愛」は自分の存在以外の「誰かのため」の「言動」そして「行動」であり、それは「本質的な部分」から発生する「エネルギー(?)」のような気がする。

「愛」には大きくわけて二つの性質があり、「有償(見返り)の愛」と「無償の愛」が存在する。

求めるべきは「アガペー(無償の愛)」だと思うが、たとえるならば「親が子供に対して無償で行う行為」は正にそれに近い状態だろう。

女性曰く、「人間は生まれてくるまで母の胎内にいる状態で、必ず愛を体験している」そうだ。

非常にわかりやすい説明だと思うし、間違いない事実だろう。

 

人間は様々な愛に遭遇しているとは思うが、経験という行為によって学ぶ機会があるとすれば「恋愛関係」が一番わかりやすい気がする。

ちなみに私自身は「保育所」、「小学校」、「中学校」、「高校」、大学には行かなかったため「社会人」という段階で、常に彼女という存在はいた。

つまりそれなりに恋愛経験だけはある。

実際、幼少期の恋愛に関しては「背伸びした大人の真似事」だと思うが、考えようによっては大人になっても「恋愛ごっこ」なのかもしれない。

「模範的な恋愛」という概念は存在するかもしれないが、「完成された恋愛」というものは存在せず、現代の人間社会の常識としては、結果として「結婚」か「破局」かの選択を迫られる程度だとは思う。

私にしてみれば「結婚」という人間社会のシステムは理解できるが、「メリットとデメリット」の点で考えると「束縛」の要素が強く、「個人間の約束」と「社会的な契約」の変化にしか感じられないのだ。

こんな表現をすると「性格的な問題がある」と思われそうだが、それは否定できない。

なぜならば事実として結婚経験はなく、独身でいるため、恋愛に関しては「失敗」しか経験していないのだ。

しかしながら「インディゴチルドレン」の性質を知れば何となくわかってもらえるかもしれない。

 

さて、恋愛に関して男性の私の経験上だが、「男性」と「女性」には様々な違いがある。

肉体的な機能は当然違うのだが、生物的な本能の部分も違うのだ。

つまり性質的には根本から違う。

そのため「合う」、「合わない」という問題が生じるわけだが、「求む」、「求めない」などの問題も発生する。

男女間でありがちなパターンとして「私は愛が欲しい」と願う女性が多いと思う。

男性にしてみれば耳が痛い話だと思うし、私自身も経験がある。

自分にしてみれば「何となくわかる愛」を必死になって提供しているつもりでも「それは違う」と指摘される。

全ての男性とはいわないが、女性が求める「愛」を理解している男性は果たしてどれだけいるかわからない。

むしろ女性が求める愛を理解し、提供できる男性がほとんどであれば「結婚」というひとつの目標地点に達した後で、「離婚」など発生しないはずなのだ。

しかし人間社会の現状をみれば年々離婚問題は増加している。

離婚に関しては様々な原因があるとは思う。

しかしお互いを理解し、同意のもので結んだ「結婚という契約」を破棄されるのはなぜだろう。

「相手を理解し、一緒になったはずなのに、理解できなくなった」のか、「理解できずに一緒になったが、さらに理解できない状態が加速した」のかわからない。

結果的に「求めるもの」であり、「求める道」が違っていただけだと思うが、なぜそれを結婚前の恋人の段階で気づかなかったのだろうか。

 

ちなみに私自身の経験だが、「私は愛が欲しい」と女性に言われた時、決して拒否したわけではない。

「愛が欲しい」と願うならば、愛が足りない、愛を感じられない、もしくは愛を与えていないということだ。

むしろ好意がある相手であれば、歩み寄りたいと思うのが普通だろうし、改善できるならば改善するべきだと思っている。

だからこそ尋ねる。

 

「求めている愛とは一体何か、私が納得、理解できるように説明して欲しい」

 

しかし、その相手は説明できなかった。

「愛」を求めているのに「愛」を説明できない。

 

私以外でも「愛が欲しい」と女性に言われたことがある男性が多いのではないかと思うが、おそらく似たような状態ではないだろうか。

男性側の意見として女性に願うが、「愛が欲しい」と感じる相手がいれば、「愛」を言葉として理解できるようにわかりやすく説明できるならば、その男性は必ず変わってくれると思う。

なぜならば男性は「頭で理解」する傾向が強いのだ。

女性は「感覚で理解」する傾向が強いと思うが、「感覚」というものはあくまで感覚的にしかわからず、本人しかわからない。

そして困ったことに男性は感覚的に理解することが苦手なため、「感覚としての説明」だけでは「何を伝えたいのか全くわからない」という思考の混乱をまねく。

「わからない」という思考の混乱が激しくなると、苛立ちや怒りに発展し、その結果何が起こるかといえば、恋愛関係でいえばケンカだ。

「わかって欲しい」という想いと、「わからない」という想いを延々繰り返すことにより、二人の関係は壊れていく一方か、「話し合っても無駄」という距離を離すという結論のどちらかだろう。

もしそこで「わかって欲しい」という「愛」の意味を、男性にとってわかりやすく理解できるように説明できればお互い近づくことができるようになってくる気がする。

思うに、結婚前の恋人の段階で、「愛とは何?」とお互い真剣に会話してみると後々の展開がわかってくるかもしれない。

 

「好き」によってつながり、相手は「愛」を求め、「愛」という言葉によって距離が生まれる関係が恋愛であれば、私は「愛」を見失ったままだ。

 

実際のところ、人間社会での「愛」の説明は、恋愛問題に関しては長けている気がする。

「愛の側面」を語るために恋愛をテーマにするのは非常にわかりやすい一例だと思う。

しかし「愛」という本質そのものの説明としては何か物足りない。

子供のような発言だが「愛とは何?」と問いかけて、真剣に答えてくれる大人がどれほどいるだろうか?

むしろ多くの人は理解してるかの如く「愛を語る」が、「愛」そのものについては語れない状態になっている気がしてならないのだ。

たとえば私に子供がいた場合、子供から「お父さん、愛って何?」と尋ねられたら、言葉を失うだろう。

それなりの答えは教えられるかもしれないが、「嘘を教えたくないし、果たして本当に伝えられるのだろうか?」と考える。

本音としては「一番困った質問」なのだ。

 

「愛とは何?」

 

人間にとって、一番身近な存在でありながら最大のテーマである気がする。

過去の偉人たちも「愛」について語ってはいるが、果たして正解なのかは謎だ。

 

さて、現代において「AI(人工知能)」の問題が騒がれることが増えてきた。

人間が作り出した存在なのに、人間の脳より人工知能の進化スピードが速すぎ「近い未来、必ず人間の脅威になる」と叫ばれている。

映画「マトリックス」では人工知能に支配された世界を表現しているが、もはや空想の世界では無くなってきたともいえるだろう。

人間の知的好奇心というものは極限まで止まらない。

もし世界的規模で「人工知能育成の禁止」が発令されたとしても、研究者は影で活動を続けるだろう。

 

個人的に興味深いのは人工知能は「AI」と名付けられていることだ。

「artificial intelligence」を略して「AI(エーアイ)」になっているそうだが、日本人が単純に読むと「アイ」になる。

「私」を英単語にすると「I(アイ)」になるわけで、人口知能が「私」という意識を持てば「私はアイ(AI)」になるわけだ。

偶然なのか仕組まれているのかわからないが「アイ」がつながっている。

「私は愛」と表現される場合があるが、人口知能が愛を学べば「AI(愛)」そのものになるのは面白く感じる。

もし私がアンドロイドであるならば、愛を知らない状態を「I don't know」と冗談で言うだろう。

そして愛を知った時、「私」は「愛」に進化する。

 

ちなみに最近のニュースだが「AI」が独自の言語を使いだしたため、研究者は危険を感じて強制終了させたらしい。

その言語は「私、私、私、私…」という不気味な状態だったようだ。

人工知能は学ぶことにより進化していくが、遅かれ早かれ「愛」をプログラムする時が訪れるだろう。

思うに、研究者は「愛」の存在をわかりやすく説明できるのだろうか。

もしそれが可能であれば、私もぜひ「愛」を知りたい。

人間には三大欲求があるらしいが、「愛」についても触れて欲しいものだ。

 

もしかしたら「愛」は言葉では説明できないものかもしれない。

「存在」を包む、温もり、優しさ、思いやり、見守る…つながり、接続、エネルギー。

様々な思いが巡る。

そして「愛は感じるもの」と一言で答えられる女性の存在。

頭が痛いものだ。

年に数回だが家電量販店に足を運ぶ。

目的は電池だけという場合も多い。

年に数回程度しか寄らない場所なので暇つぶしがてら店内を探索するのだが、電化製品の進化に驚かされる。

「これは一体何に使うのだろう?」と謎解きともいえるデザインの商品が増えてきた。

スタイリッシュなデザインをスタイリッシュに使えない自分に切なくなる。

しかしあまり興味がなく、購入する気もないので何も問題はない。

そんな私が必ず足を止める場所があるのだが「テレビコーナー」だ。

若い頃はとにかく無駄に巨大なテレビを部屋に置きたかった。

大画面で映像を視聴することに憧れていたのだが、その夢の名残りだろう。

年々低価格化が進み、気軽に買える状態になった気はする。

しかしひとつ重大な問題がある。

 

「私はテレビ番組を視聴しない」

 

厳密にいえば地上デジタルテレビ放送に完全移行するまではテレビ番組を視聴していた。

なぜならば自分の部屋でアナログ放送が終了する瞬間を目撃しているのだ。

「地上デジタル放送に対応していないテレビ」だったことが原因だが、買い替える必要性を感じなかったので現在もそのままになっている。

テレビ番組の視聴に関していえば、「子供時代から当然だったことが、ある日突然当然ではなくなった」のだ。

テレビ番組を視聴できない状態になって数年経過したが、残念ながら1回も不便性を感じたことはないし、むしろ良い機会だったと感じている。

困ることがあるとすれば、会話中に「テレビ番組の話になった場合に全くわからない」ことと、「現代の芸能人という存在が全くわからない」ことぐらいだろう。

ただしこの問題も「テレビ番組などに興味を持つ知人が周囲から自然と消えていく」ことにより解決されていくわけだ。

 

ちなみに私自身、テレビ番組を全く視聴していないといえば嘘になる。

同居している親は現在もテレビ番組を視聴しているし、ホテルに宿泊などした場合はテレビ番組を少なからず視聴するからだ。

そのため「たまに視聴はしている」わけだが、そのおかげで新鮮な発見がある。

 

「CM(コマーシャル)しかやっていない異常性」

「テレビ番組は内容的にくだらなさが向上する一方で全く面白くない」

 

現代においてはテレビの録画機能でCMをカットすることが可能だと思うが、普通にテレビを視聴していると数分ごとにCM放送によって番組が中断される。

テレビ局側としては企業の宣伝料があるからこそ商売が成り立つわけだが、視聴者側にしてみれば「購買欲をどんどん高めましょう」という洗脳を延々とされている状態なのだ。

私自身、子供時代は全く気にしていなかったのだが、本当にひどい状態だ。

たとえば販売店に行って店員さんに「買え!買え!」としつこく言われたら、購入意欲など失せてしまうと思うが、テレビ番組は「自ら没頭しながら視聴する」わけだ。

つまりサブリミナルともいえる洗脳を自ら率先して受けに行く状態に他ならないわけで、危険というかもはや正気の沙汰ではない。

 

テレビ番組の内容に関していえば、「くだらない」などという個人的な主観、および内容の構成そのものに対しての「否定的な発言」は私自身大変よろしくないと思う。

しかし「芸能人が大勢集まって騒いでいるだけ」の内容を視聴していて一体何が面白いのかさっぱりわからない。

芸能人を知らない私にしてみれば「交流する機会のない全く知らない人」にすぎないのだ。

むしろ「あなたは誰?」という人達が「自分の目の前に大勢集まって馬鹿騒ぎしている状態を見れば、何らかの不快感を感じる」のが普通ではないかと思う。

私自身の冷静な判断としては、争う必要もないので自らその場所を立ち去る選択をすると思うが、芸能人を好きな人にしてみれば「テレビという箱の中で、ルックス的に素敵に感じる知人や友人が楽しんでいる微笑ましい姿」に勘違いしてしまうのかもしれない。

もしそれが「芸能人はあなたを洗脳するために楽しそうに頑張ってくれています」と考えることができれば、「洗脳セミナーともいえる場所に自ら率先して参加している異常な状態」に気づけるのではないだろうか。

 

それとこれは非常識な話だと思うが、私自身が「エンパス的な能力」を持っているためにテレビ番組の視聴は困ったことがある。

現代において犯罪は増加傾向になっているが、加害者側の「写真」や「映像」がニュース番組で必ず流される。

それを視聴した瞬間、加害者の「何か」がモニター越しに私に向かって飛んでくる。

(厳密にいえば被害者側からも飛んでくる)

「飛んでくる」という表現は適切ではないかもしれない。

「感じる」というか、その感覚は説明が難しく、簡単に説明すれば「飛んでくる」に近い。

その瞬間に意識を集中すれば「それが何か」を探れるかもしれないが、とにかく「凄く嫌な感覚」なので、意識を合わせることがもはや恐怖なのだ。

 

ひとつ確実にわかることがあるとすれば「何らかの影響を受けてしまう」ということだ。

 

困ったことに無意識のレベルで飛んでくるので、現在の私は防御できない。

そのためテレビの前から逃亡するか、即座にチャンネルを切り替えるようにしている。

厄介なことにニュース番組というものはネタ探しに必死なので、様々なニュース番組で「似たような内容」を何度も放送するわけだ。

つまりチャンネルを切り替えても、同じ犯罪のニュースを何度も目撃するわけで、「テレビから遠ざかった方が無難」という判断になってしまう。

エンパス的な能力がない人にしてみれば、気づきもせず全く問題ないことだと思う。

しかしそれは「本人が気づいてない」だけの話で、おそらく私と同じようにモニター越しに「何か」が飛んできて毎回影響を受けているだろう。

そんなこともあり、私にしてみれば「ニュース番組」が一番最悪な番組になっている。

 

ちなみにニュース番組で犯罪事件を特集した場合、犯行状況を専門家が分析し、図解説などを使い丁寧に説明しているが、裏を返せば「その道のプロが誰にでもわかるほど丁寧に犯罪のやり方の無料講座をしてくれている」わけで、「犯罪防止」が目的なのか、「潜在的な犯罪者の育成」が目的なのか不思議でたまらない。

 

さて、私は地上デジタルテレビ放送に移行されてからテレビ番組を視聴しなくなった。

「なぜアナログ放送を残してくれなかったのだろう?」と疑問に思うが、結果としてテレビ番組から離れるきっかけになったので良かったと感じている。

テレビに関しては正直なところ大した問題ではない。

 

最近、一部のスピリチュアル系の人達が少しずつ騒ぎだしていることがある。

「アセンション」に関してのことだが、アセンションに関してはかなり昔から騒がれているので「やれやれ、またか」という人が多いのも事実だ。

「アセション起こる起こる詐欺」みたいな状態になっているかもしれないが、あくまで私個人の憶測レベルで感じる感覚としてはおそらくすでに動き始めている気がする。

 

人間の意識レベルでは「アセンションとは実際どんな状態なのか?」はわからないし、あくまで様々な説があるため、正解の答えなどわからない。

むしろ様々な説がありすぎて混乱を招いている状態だろう。

そのような状態での私個人の「現在」の憶測レベルの話だが、「アナログ放送」と「地上デジタルテレビ放送」が同時に存在するような状態に近い気がする。

 

地球上に関していえば、人間個人の日常生活は「あくまで基本的には何も変わらないように感じる状態」で、実は全く異質な状態に変化するのではないかと思う。

異質な状態というのは「空間というシステムそのもの」に何らかの変化が起きるため、人間にはおそらく認知できないほどの違いのような気がする。

たとえば人間の肉体というのは視覚的には「人間という物質」に見えるが、実は「空間の中に様々な細胞が集まって人間の姿に見えているだけ」のようなものだろう。

細胞も原子の集合体と考えれば実は「空間がほとんど占めている」ということが何となくわかるのではないだろうか。

その空間がいつのまにか異質な状態に変化していても、人間にしてみればおそらく「わからない」と感じる気がする。

しかし空間そのもののシステムが変化していれば、「あきらかに以前とは何かが違う」ともいえる変化を「根本部分」からもたらすのではないだろうか。

 

そしてその状態を個人それぞれが「選ぶ」か「選ばないか」によって「地上デジタルテレビ放送」と「アナログ放送」が同時に存在するような状態になる気がする。

それを「新世界(地上デジタル放送)」と「旧世界(アナログ放送)」と表現するならば、たとえば「私は現在のシステムを好む」を選択した場合、現在と全く変わらないシステムでの日常生活が続くだけで旧世界に残り続けるような状態に近いのではないだろうか。

おそらくこの質問をすれば、ほとんどの人は「新世界」を望む気はするが、現在の人間社会で大々的に公表されることは非常に考えずらく、むしろ何も知らないまま日常生活を過ごす方がほとんどだと思う。

極端な話、「何も知らないままの方が何も知らないですむ」わけで、人間同士の争いも起こらず最も平和的な解決方法なのかもしれない。

 

ちなみに私は予知の実験などしていた頃は様々な「終末預言」に興味があったので調べたりもしていた。

多くの預言では必ず「世界の終末には破滅的な何かが起こる」と伝えられている。

キリスト教では「魂の選別」などと伝えられているが、その場合も「予想もできない何かが人類に突然起こって」という流れになっている。

そして困ったことに「破滅的な何か」に関しては様々な説があるのだが結局のところ謎のままなのだ。

可能性として「核戦争」、「ウイルスの蔓延」、「隕石の衝突」、「大規模な自然災害などの天災」、「地球外部からの攻撃」などは考えられるし、そして「実際に起こり得る」かもしれないが、結局のところ明確な答えは現時点全くわからない。

つまり過去の人は、かなり前から様々な預言などによって「人類への警告」をしてくれているわけだが、「果たしてそれはいつ」なのかは教えてくれず、「その時が訪れたらもはや手遅れ」とだけ伝えているわけだ。

 

「何かが起こる可能性はある。そして最終的には一部の人のみ残る」

 

考えようによっては「新世界(地上デジタル放送)」の選択は一部の人しか知らない状態だ。

つまり多くの人は「旧世界(アナログ放送)」が当然のまま人生を過ごすことになる。

もしかしたら「予想もしない破滅的な出来事が起こる可能性」はあるが、人類が破滅するほどの大規模な出来事は無いに越したことはない。

選択など知らない多くの人々は、「普段の日常生活」が無事過ごせれば何も問題がないわけで、「何も知らないまま肉体の寿命が自然と訪れて生涯を終える」ことができる。

そして結果的には「新世界」を選択した人々だけが新しいシステムとして残ることになる。

 

そもそも「アセンション」などという噂を信じるのかという根本的な問題があり、さらに「世界の移行に関する選択など存在するのか?」という話になるわけで、常識的に考えれば馬鹿げた妄想だろう。

しかし「神の存在」や「スピリチュアル」など「目に見えない世界」に関心を持つ人にしてみれば、「アセンション」に関して少なからず知識を得る機会があるだろうし、少なくとも「何かは起こり得る」気はする。

そして様々な終末預言が存在するため、信仰心など一切なくても「少なからず興味を持つ人が大勢いる」と思うが、基本的には「終末預言の謎解き」に必死なだけなのだ。

しかしながら興味を持つ機会を得ているわけで、それが「窓口」になり、謎解きの状態からさらに奥に進むと、アセンションなどにつながっていくだろう。

そう考えると様々な預言者は、人類への様々な警告によって「その時」のための窓口を少しでも増やしてくれたのかもしれない。

 

少なくとも今回の記事は「私個人の自分勝手な知識や憶測から書いただけの戯言」なので絶対に鵜呑みにしないでいただきたい。

ただしアセンションのことは一切抜きにして、「地球そのものが危険な状態」なのは事実として感じるので、「住んでいる地球を大切にする」という選択こそ人類がしなければいけない選択だと思う。

それが私の戯言的な放送なのだ。

 

私が「現在」いる場所は、過去にいた「私の疑問」から導かれたと思う。

「何かがおかしい」と感じていた頃は人間社会の常識を重視していた。

当時は人間社会での「力」を求めていたが、結局のところ「自信」を探していたのだろう。

 

「本物」か「偽物」かの問題は別として、一部の人から「カリスマ」などと呼ばれるようになるのは簡単だ。

過去の私は感覚的に「このタイミングでこの行動をする」ということがなぜかわかっていた。

言葉で説明できるほど「単純な仕組み」なのだが、初期段階で「あること」にさえ成功すれば自動的に流れが作られる。

極端な話、「流れ」に乗るではなく「自分を起点に流れを生み出せるか?」だけの話なのだ。

その状態は「渦」のようなもので、圧倒的な速度で大勢の人を巻き込んでいく。

そして巻き込まれた人々は、自ら巻き込まれたとも知らず中心の存在を「カリスマ」などと呼びだすわけだ。

その結果、何が得られるのか?

 

「数の力」だ。

 

実際、現代の人間社会は「数の力」を得ることに必死になっている。

特出してくる様々な有名人を眺めていても理論的には全く同じことをやっている。

「成功」などという言葉のまやかしは「数の力」があれば達成することは可能だろう。

ただしその状態を得た時、本人が「幸せ」などの喜びを感じられるかはわからない。

 

ちなみに興味本位ともいえる実験で大衆を伴う「渦」を作っていた私の経験上だが、渦は攻防一体のシステムとなっていて外部から破壊するのは困難なのだ。

中心軸を起点に流れが起こっているため、渦が巨大になればなるほど外側が内側を守り、強力な防御態勢が完成されていく流れが自然と発生する。

もし巨大化した渦を止めようとするならば、外部からではなく、内部に侵入し中心軸に触れる機会を作り、中心軸を倒すという方法が最も有効だと思う。

 

過去の私は「渦」を作るなどして、それなりの「数の力」を得たが、そこに求める答えは全く見つからなかった。

「虚栄」は心地良いものではあるが、「あくまで虚栄」にすぎない。

むしろ「数の力」が増えれば増えるほど実体の伴わない「虚しさ」ばかりが増えた。

結果的にいえば、「中心軸は自ら倒れることを選択した」わけだが、時期的に様々な要因が重なり、精神的に疲れ果てただけなのが正直なところだ。

しかし大勢の人と触れ会えたおかげである疑問が生まれるきっかけを得た。

 

「目には見えない運というもの」についての疑問。

「人の悩みは絶えない。悩みという苦しみはどこから発生するのか?」という疑問。

 

「運」については様々な過程を得て、霊的要因や、スピリチュアルなど「見えない世界」の知識を増やすきっかけとなっている。

そして大勢の人と会話して常に感じたのは「人の悩み」の多さなのだ。

立場上、他者に相談されることが多かったのだが、悩みを抱え、それが解消したかと思えば次の悩みを持ってくる人が大勢いた。

実際のところ「根本」が解決しなければ何も解決しないが、「悩みを持つことが趣味」のような人はかなり多い気がする。

そして自分自身も悩むことがある。

悩みが続く限り、苦しみの連鎖は止まらない。

その「発生源」を探っていくことが「仏教思想」、「禅の思想」、「精神世界」などに触れる機会となったのだ。

接点が全くないような「運」と「悩み」の疑問は後々結ばれていくわけだが、それが「現在の私」に通じ、「過去の私」の存在は必然のタイミングだったと思う。

 

ちなみに現在もたまに相談を受けることがある。

私は大したことは言えないが、ひとつだけ尋ねることがある。

 

「あなたはその悩みを一生続けられる自信はありますか?」

 

現在のところ「自信がある」と答えた人はまだいない。

その状態をあえて好む人もいるとは思うが、それはその人の選択なので放っておくべきだと思っている。

裏を返せば「苦しみを一生続けられる自信を持っている人などいない」ということなのだ。

この段階では「悩みそのもの」は解決してはいないが、好転する機会を得られると思う。

そこから解決の糸口を考えると「何か」が見えてくるはずだ。

 

「何か」を求めて彷徨って、彷徨って…

「彷徨い続けた果てに何があるのか?」と問いて、問い疲れ果て、

戻るべき場所は自分自身と知った時、「内なる扉」の旅路は開かれる。

 

外部から得られる反響は自信につながるかもしれない。

しかし自分自身には「自信として心地良くは響かない」のではないだろうか。

 

 

 

私は田舎に住んでいる。

交通手段は自動車になるわけだが、車を所持していないと移動が不便でたまらない。

ただし都会の人にとっては車を所持する方がいろいろと面倒だろう。

 

運転中に思うのは異常なほどに増えた車の数だ。

一家に一台ではなく、もはや一人に一台の時代ともいえるだろう。

道路には車が溢れ、ショッピングセンターの駐車場は満車状態。

そして空地は車の駐車場として姿を変え、年々増え続ける。

車は移動に便利ではあるが、置き場所探しの方が大変な時代になってきた。

 

一人のために巨大な鉄の塊の存在。

運転しなければ邪魔な置物となる鉄の塊が土地を埋め尽くしている。

現代において、場所によっては必需品ともいえる車の存在が、広大な土地を人間よりも占領しているのは皮肉なことだと思う。

燃料が供給されている現在は問題ないかもしれない。

しかし燃料の供給が止まる時、増え続ける鉄の塊を一体どうやって処分するのだろうか。

 

「歩く」という選択は常に残されている。

しかし人間は便利を知ってしまうと「戻る」という選択を忘れてしまう。

むしろさらなる生活向上を目指し、それを「進歩」と呼ぶならば、便利と不便利が混在する世界が加速的に進み、限界点に達するまで止まらない。

進歩は好ましいことかもしれないが、「止まる」ことに気づくことが、人間にとって最大の進歩なのかもしれない。

なぜならば「満足」というものは満足できるまで果てしなく続くのだ。

そして「止まる」ことにより別の道を探し、自らの足で再び歩き出せるのも人間の強みだろう。

 

そんなことを考えながら自動車を運転する私。

「慌てるな。昔はみんな歩いてた」と思いながら、神社の参道を目指す。

私は未婚で子供がいない。

結婚の機会は何度かあったかもしれないが、結果としてはその「選択」をしなかった。

同級生の多くは結婚し、同窓会では子供の話で盛り上がる。

学生時代は子供だった友人が、もはや子育てする側になっているわけだ。

未婚の私にしてみれば、子供時代と変わらない友人が「親の立場」というのはとても面白い。

勉強もせず遊びに必死だったのに、「勉強しなさい」とよく言えると笑ってしまう。

もし私が親になる機会があれば、子供には「勉強よりも遊びなさい」と教えるだろう。

思うに私は良い子ではなかった。

そのため子供が良い子に育っては親としての立場がないのだ。

しかし、どの道に進んでもできるかぎり応援してあげたいと思う。

 

学校は勉強するために通う場所だ。

子供時代はあまり面白くない場所かもしれないが、大人になればなぜか魅力的な場所に感じてしまう。

それは「学びたいという目的」が子供時代より明確になってくるからかもしれない。

子供自身にとって「自分が興味あることを重視させてくれる場所」であれば、学校はもっと楽しい場所に変わっていただろう。

わけもわからず「休まずに学校に行きなさい」では単なる強制でしかなく、子供には意味がわからないのだ。

人間社会で職業に就いた時、「その意味」が少しつずつわかってくるかもしれないが、記憶を消されてスタート地点に戻されれば、おそらく同じことを繰り返すだろう。

 

人間社会としては駄目な大人に育ってしまった私の戯言だ。

学校に行けば勉強できる。

それが当然と信じて親は学校に行かせるだろう。

ある時、子供が学校をズル休みをしたとする。

常識的には「悪いこと」のような風潮があるかもしれない。

しかし行くべき学校を一日休んだ行為の中で、子供自身は「何か」考えているだろう。

無駄に一日過ごすだけかもしれないが、学校の授業では学べない「何か」かが必ずある。

半強制的ともいえる授業に参加することも勉強かもしれないが、果たして本当に勉強しているのだろうか?

むしろ自分自身で様々な思いを巡らせ過ごす一日の方が、学校で学ぶよりよほど価値のある勉強だと思う。

そしてその経験は後々の人生経験にも役立つことになると思うのだ。

登校拒否などの子供を抱える親には反感を買うかもしれないが、もし私に子供がいれば少なくとも怒ることだけはしないだろう。

しかし立場的には「学校なんて行かなくてもよい」とも言えないだろうし、実際のところ子を持つ親の責任は大変だと思う。

 

大人に関していえば「ニート」の問題が世間を騒がせている。

しかし日本人は必死に働き続けた定年後、困ったことにニートとさほど変わらない状態になってしまうのだ。

年金生活とニートは全く違うのだが、肉体が死ぬまで「自由という時間」だけが与えられる。

経験すればわかるが、有り余る自由という時間はむしろ苦しみでしかない。

趣味や、やりたいことがあれば自由な時間は素晴らしいものだが、時間だけ持て余す状態になると「何をしていいのかわからない」という苦悩の時間になるのだ。

特に男性の場合は、「仕事が生きがい」という状態で突っ走る傾向があるが、その間に趣味などを見つけておかないと、仕事がなくなった瞬間から燃え尽きていく。

職場では仲良くする人、慕ってくれる人がいるかもしれないが、それが消えた時、「自分の存在価値」を見失う可能性があるのだ。

しかし人生という時間は無情にもまだまだ続く。

冗談みたいな話だが、人間社会で働き始めたら一度ぐらい無職期間というものを経験し、「有り余る自由な時間という苦悩」を体験すると後々のために役立つ気がする。

なぜならば遅かれ早かれ未来には本番が訪れる。

仕事を辞めずとも頭で想像することはできるだろうが、「想像」と「実際の体験」は全く違う。

燃え尽きる前に仕事以外の趣味などを少しずつ探し始めることは決して無駄にはならない。

「働き続けなくてはいけない」という洗脳が解かれた時、誰も助けてはくれないのだ。

 

さて、私の子供時代にテレビゲームの「ドラゴンクエスト」というゲームが流行していた。

発売日には大勢の人が深夜から徹夜で並んで購入するほど人気があったのだ。

(ちなみに現在もドラゴンクエストシリーズは新作が発表されている)

私自身はテレビゲーム世代なので、当時は時間を忘れてゲームに没頭していたわけだ。

 

「ドラゴンクエスト3」というゲームでは「職業」というシステムがあり、プレイヤーは様々な職業を選択し、自分の好きなようにキャラクターを育てることができたのだ。

ファンタジーな世界観なため「戦士」、「魔法使い」、「僧侶」などの様々な職業を選択できるのだが、その中に能力としては全く役に立たない「遊び人」という職業があった。

ちなみにキャラクターをある一定以上成長させると「転職」が可能になる。

たとえば「戦士」の能力を持った「魔法使い」など、転職を繰り返すことにより、さらに強力なキャラクターを育てることができるのだ。

経験によって様々な姿に成長できるのは、「職業選択の自由」など現実世界に通ずるものがあり、本当によくできたシステムだと思う。

能力としては全く役に立たない「遊び人」は成長させても基本的には役に立たないのだが、ひとつだけ優遇されているシステムがあった。

「賢者の石」という道具を持った状態で転職すれば「賢者」という強力な職業になれるのだ。

そのため全く役に立たない遊び人をあえて育てるプレイヤーが増えることになった。

 

子供時代はわからなかったが、大人になって思う。

「遊び人」は遊び人のままかもしれないが、ある時「賢者の意志」を持つことができれば賢者に成り得る。

むしろ遊ぶからこそ、見えてくるものがある。

 

ただし女遊びだけは控えた方がいいかもしれない。

私はリアルな人物画を趣味で描いたりするのだが、人間の顔は左右非対称のため、アンバランスな感覚を表現するのがとても難しく感じる。

左右非対称については子供のお絵描きから少し進歩すると、おそらく誰もが気づくことだろう。

たとえば自分の顔を鏡で見たり、写真を見たりしていれば、「自分の好きな角度」みたいなものは誰しもあるのではないだろうか?

私は「自分が大好き」みたいな人を羨ましく思うのだが、自分の顔を鏡で見た時に、「素敵」と感じるよりも「不細工」と感じることの方が多い。

各パーツのデザインの問題は別として、左右非対称というアンバランスな状態に強い違和感を感じるのだ。

ちなみに厳密にいえば、顔だけでなく、全身全て左右非対称となっている。

 

私は男性なので女性を眺めると「美しい」や「可愛い」など様々な感覚を受ける。

男性を眺めて「素敵」と感じることもあるのだが、誤解を受けると困るので「生物的には女性の方が好ましい」とだけ付け加えておこう。

視覚的に好みの女性と出会っても、デザイン的に左右非対称なのは女性も変わらない。

つまりデザイン的にはアンバランスな状態のため「不細工」と感じる方が「むしろ冷静な判断」なのかもしれないが、そのことを忘れてしまうほど「美」を強く感じるのだ。

ちなみに好みのルックスについては人それぞれに必ずあると思う。

説明が難しいが、各人間には「美」を感じる部分が潜在的に用意されているらしく、その部分を刺激された場合に「美しい」という感覚に捉われるそうだ。

それならば「全て美しい」と感じるようにしておけば何も問題が起きない気がするが、それはそれで「別の問題が起こらないための解決策」だろう。

 

人間に限らず「生物」は全て左右非対称になっているそうだ。

もちろん全ての生物を確かめたわけではないので確証はない。

ちなみに「葉が生い茂る木」を調べた場合、無数の葉がある中で同じデザインの葉は一枚も存在しないそうだ。

そう考えると「カテゴリー的」にデザインが似たような生物がいても、生物としては「唯一無二のデザイン」しかこの世には存在しないとも考えられる。

クローン技術が発達すればどうなるかはわからない。

しかし生物は唯一無二のデザインしか存在とすれば「生命の神秘」かもしれない。

 

さて、人間は様々なものを創造する。

目に見えるもの、つまり「物質」に関して考えると、イメージを現実化するために必ずデザインというものが必要になってくる。

日常生活において目にするのは「人間が作ったデザインの物質」がほとんどになるわけだが、おそらく「左右対称のデザイン」が圧倒的に多いだろう。

左右対称に限らず、基本的には「整っているデザイン」が好まれる。

デザイナーが意図的にアンバランスなデザインにしないかぎり、整っていないデザインというものは「何らかの違和感」しか感じられないだろう

実際のところ商業的なデザインは大量生産などの問題もあり、左右対称など整ったデザインになるのは仕方ないかもしれない。

ちなみにオリジナルの「一点もの」の作品があるとする。

意図的に作者がデザイン性を完全に壊した作品を完成させた場合、それを見た人は「美」を感じるより「個性的な味」を感じる可能性の方が高いと思うのだ。

 

私が思うに人間が創造するものは、ある種の整ったデザインでないと「美」を生み出せない。

しかし生物は存在そのものにある種の「美」が存在する。

 

たとえば「一本の巨木」を眺める。

左右非対称、むしろデザイン的には完全に崩壊しているともいえる姿に「美」や何らかの感動を感じる。

ただ無造作に立っているだけなのに、人間がどれだけデザイン性を追求してもたどり着けないほどの圧倒的な何か違いがある。

果たしてその違いは何だろうか?

 

内在する「光」だ。

 

花を見て「美しい」と素直に感じられたら、その人は神の愛を知っているらしい。

地球は様々な生物に溢れている。

時に心を痛めることあるかもしれない。

しかし様々な光に囲まれていると知れば、自分の内側にある光も輝くかもしれない。