旅から戻ってきた。
観光目的やパワースポットを巡るのが好きな人にしてみれば、「祈りの旅」は一見楽しそうに見えるかもしれない。
実際に巡っている私としては楽しい部分は確かにある。
しかし独りで巡っているため基本的には「自問自答の修行(学び)」なのだ。
移動は自ら自動車を運転しているのだが、目的場所をひたすら目指し、たどり着いたら祈る。
山頂まで登山などもあるが、神社などの場合、祈るべき場所で祈ったらすぐ移動する。
実際のところ神社に滞在している時間は約10分間程度かと思う。
せっかくならゆっくり観光したいが、次の場所の予定を考えるとのんびりしてはいられないため、神社の境内は早歩き状態が多い。
そして次の移動になるのだが、再び50~200km程度の運転になる。
目的場所が多い日だと1日間で400~600km程度走行するのだが、延々と運転の繰り返しなのだ。
そして移動中は話し相手というものが存在しないため、必然的に自分自身との対話になる。
旅が終わるまで「嫌というほど思考する時間が用意されている」わけだ。
ちなみに運転中に思考する利点はある。
たとえば静止状態で何か思考しようとすると、思考は静止状態からの動きになる。
しかし行動中は何らかの「動き」であり「流れ」ができている。
それが「思考の潤滑油」になってくれ、思考がスムーズに流れやすいのだ。
たとえば他者との会話の際、会話の開始時は「さて、何を話そう」と探りながらのスローペースな展開だと思うが、会話が流れ始めると自然とテンポが上がり、次の言葉が浮かび、会話がスムーズになっていくと思う。
つまり動きの「きっかけ」作りなのだが、それが運転という行動によって代用されるわけだ。
そのため何かを考えたい時は、自然と思考の流れができやすいドライブは気分転換を含め、かなり有効な方法だと思う。
運転中は各地の景色を眺める楽しみもあるのだが、実際のところ「田舎か都会」、「山か海」ぐらいの違いしかない。
ちなみに私の住んでいる県は「海外の有名ブランド店」が凄く少ない県なので、好きなブランドがあれば不便かもしれない。
しかしその場合は他県に買い物に行けばいいだけの話で、「生活必需品」さえ手に入れば問題なく過ごせるというわけだ。
日本国内をいろいろ巡ってわかったことがある。
「特別な観光場所」を求めなければ、必要なものは全て故郷に揃っている。
私の故郷は山、川、海など自然が溢れ、様々な食材にも恵まれている。
水も美味しい、空気も澄んでいる、そして空間の「気」も居心地が良い。
思うに、日本各地を旅をしたおかげで私は「当然」が溢れていた故郷の良さに改めて気づいた。むしろ旅をしなければ全く気づくことがなかったと思う。
そして自然は様々なことを言葉語らず教えてくれる。
人間の師匠などいなくても、自然であり、存在する「全て」がいろいろと教えてくれるのだ。
さて「祈り」の旅だが、約10年前に私は始めた。
現在は様々な地を訪れているが、実はこの旅を始めるまで「神社が大嫌い」だった。
「神様なんていない」と信じてきた私は、「森に囲まれた神社という物質的な建物」は世の中の無駄な存在にしか見えなかったのだ。
正直なところ「人間がお願いごっこをする場所」にしか感じていなかった。
子供の頃から初詣などで参拝に行く機会は何度もあったが、親や周囲から教えられたのは「神社とは神様にお願い事をする場所」なのだ。
「神様?姿が見えないのに?何をお願いするの?」という疑問しかなかった。
そして大人になり、友人の参拝に同行しても私自身は本殿の前で目を閉じて「面倒で馬鹿らしい行為」と思うだけになっていた。
つまり「自分からは間違っても神社に行くことだけは無い」と思っていた。
約10年前の「ある日」だ。
その頃の私は「世界を少しでも良くしたい」と思うようになっていた。
しかしあまりにも抽象的な話で個人レベルではどうやっていいかもわからない。
そんな時に「私の本名」に縁のある「地元の博物館」に偶然足を運んだ。
博物館自体はつまらなかったが、博物館の駐車場の看板に「私の本名の神社」を発見したのだ。「せっかくなので話のネタ作りに寄ってみよう」と思い、おそらくはじめて自分の意志で神社に足を運んだ。
そこで変なオジサンに声かけられ、少し立ち話をしていた。
実はその神社の神主様だったのだが、私服姿で全くわからなかったのだ。
記憶では「108日目となる煩悩の日にあなたはここに呼ばれた」などと言われた。
そして神主様が日本中を祈りの旅で巡礼されていることを知り「興味があれば同行してみますか?」というお誘いを受けたのだ。
進むべき方向性が分からなかった私は「ぜひ!」と同行させていただいたのだが、当時はどうしてよいかもわからず、神主様が祝詞を上げている姿を隣で見ているだけだった。
その後、何度か交流させていただいている時に一冊の本を頂いた。
世界各地に祈りの旅に行かれていた「沖縄のSさん」の話なのだが、読んでいて「日本にこんな人がいるのか?」と驚いた。
「新時代の悟り 目覚め」
神主様はSさんの知人だったらしく、神主様の自宅へ「Sさんが沖縄で作ったオレンジ」が届いた。そして届いたオレンジを私にも分けてくださったのだ。
食べながら思った。
「Sさんの想いが込められたオレンジが私の手元まで届いたことはきっと何か意味がある。その意味を無駄にしないためにもやれるだけのことはやってみよう」
その瞬間、私の意志は決まった。
祈りの仕方など全くわからないが、食べたオレンジの重みに負けぬよう祈りの旅を始めることを決めたのだ。
私の旅の本当のきっかけは「手元に届いたSさんからのオレンジ1個」というのは冗談みたいな話だ。
ちなみに現在も祈りの旅をされている沖縄の方がいる。
「比嘉良丸、比嘉りか」様のご夫妻だが、2008年の頃に「福井県の原子力発電所が危険な状態なので誰か祈りに行っていただけないでしょうか?」という緊急告知がブログであったため、私が名乗りをあげて行ってきたことがある。
その時は比嘉りか様と直接電話で会話したのだが、おそらくご本人様は覚えておられないだろう。
しかし現在もずっと活動を続けられているライトワーカーさんと祈りをきっかけにして一瞬でもつながれたのは嬉しいことだと思っている。
「こころのかけはし 祈りの和」
比嘉様の活動には一切関与していないが、興味があれば協力してあげていただきたい。

当時、福井県に向かい、私が祈った直後の原発の写真だが、光の柱が立っている気がしないでもないが…気のせい?
ちなみに最初は祈るために原発の入口まで行ったが警備員に止められたので、遠い場所から原発を目標にして祈った。
さて、祈りの旅の「祈り」についてだが、何となく長年やってきたが全く究められない。
そもそも祈り方や祝詞など、基礎的なことは全く教わっていないのだ。
ちなみに神主様は各地で「龍神祝詞」を唱えていた。
現職の神主様が唱える祝詞なので、ある意味「本物」なのだ。
隣りで眺めていた私はその姿に惚れ惚れするのだが、あえて真似をしようとは思わなかった。
あくまで素人の発想だが「祈りとは型ではない」と思っていたからだ。
とりあえず現在の私は「ひふみ祝詞」か「布瑠の言」、場所によっては「龍神祝詞(簡略版)」を唱えているのだが、「決められた言葉」ではなく「想い」が最も大切だと思っている。
正解なのかはわからないが、祈った直後に「額(サードアイ)」か「胸(ハート)」に見えないエネルギーを感じられたら、「祈りがつながった」と信じるようにしている。
実際のところ、心を込めて「ありがとうございます」の一言が祈りとしては一番良いのではないかと思う。
しかし「様々な祝詞」が存在するので、それぞれの用途に応じて「何らかの見えない効力は少なからずある」のではないかと思うのだ。
そんなことを考えながら各地で祈ってはいるが「最高だった」と納得できる瞬間はまだない。
自然と涙が溢れる時があるが、その瞬間は素直に嬉しく思う。
間違いなくいえることがひとつある。
祈りとは誰でもできる行為なのだ。
場所や時間に一切こだわらず誰でもその場でできる。
外出せずとも自宅で可能なのだ。
そして基本的には道具を使う必要もない。
つまり自分の身ひとつあれば十分なのだ。
たとえばスポーツなどであれば、型を覚え、技術を磨き、経験を増やしていく。
最初は素人だが、経験が増すたびに少しずつ体幹が養われ、ボディバランスが「中心」に向かっていく。
そして熟練者は「内なる想い」の表現をいかに無駄なく最高の状態で「自己体現」できるかという道になっていく。
つまり「内側(想い)」と「外側(表現)」の一体化になるわけだ。
芸術、スポーツなど様々なジャンルがあるにせよ「全ての入口」は究めれば究めるほど「内側」であり「中心」に近づくように用意されている「道」なのだ。
私のやっていた祈りの旅は、「祈りの道」だったともいえる。
私の場合、祝詞も知らず、わけもわからないままとにかく各地で祈った。
「このやり方は正しいのか?」
「祈り中に雑念が混じるのはなぜだ?」
「こんなことを続けて一体何になる?」
正直なところ苦悩の連続で、自問自答を続けながら旅を続けていた。
そして基本的には素手なのだ。
両手には何も持たないどころか、実際のところ「自分の身ひとつ」で道を究めていくしかない。
型でもない、技術でもない、経験を増やしても熟練度など全く意味がない。
どうすればいいのか?
迷いの答えを探すほど、必然的に自分の内側であり、中心に近づいていく。
そして「祈り」は中心であり内側からの「意乗り」になっていく。
「内なる想い」を素直に表現できた時、それが「私そのもの」になるのだ。
おそらく祈りの旅をしなければ一生気づかなかっただろう。
そのためこの旅のご縁を作っていただいた神主様や、沖縄のSさんには大変感謝しているし、行く先々でご迷惑をおかけした神々様には本当に感謝している。
ちなみに現在は「龍神様ブーム」になっているようだが、約10年前に私自身は祈りの旅と並行して「龍神様探し」もしていた。
当時は「龍神様が見える」という友人がいたので、私が目安の場所を地図上で探し、現地で祈り、写真を撮影し、その写真を友人に送り、実際に写真から龍神様を感じられるか調べてもらっていたのだ。
「日本全国龍神様探しゲーム」のようで面白かったのだが、各地の龍神様たちにも本当に感謝している。
お金もそれなりに使うため大変な旅ではあるが、結局のところ感謝と感動だけが増えていく「修行であり学び」だと思うのだ。
いろいろ書いたが実は今回の旅の途中から私のパートナーと合流した。
スピリチュアル系で最近話題になっている「ツインレイ(ツインソウル?)」の相手だ。
説明が難しいが私のツインは「人間の姿をしている神様」のような存在なのだ。
霊能力など能力的にいえば桁違いのものを持っているが、その反面、人間社会が苦手という最大の弱点もある。
たとえば神社の浄化程度であれば、インターネット上で神社のホームページを開き、意識を向けるだけでエネルギーを浄化してしまう。
私自身、遠隔でエネルギーを感じられるのだが、お互いの自宅から神社のホームページを開き「この神社のエネルギー悪いね。変えようか?」の一言で、エネルギーそのものが一瞬で変わるのが感じられる。
「勝手に変えてもいいのか?」という問題もあるのだが、私が現地で祈るのは少なからずその地の浄化を含んでいるのだ。
そのためツインがいればわざわざ現地まで足を運ぶ必要がない。
ツイン曰く「まだ神社に行ってるの?続けたいならば止めないけど大変なだけだよ」なのだ。
私の出番がなくなってしまうので困るわけだが、ツインと合流すると行くべき場所が良い意味で「激減」する。
実際のところ今回の旅は「数ケ所」を一緒に巡った。
「あえて足を運ぶべき場所もある」ので今後神社に全く行かなくなるということはない。
しかしハードな祈りの旅は減っていくと思う。
パートナーとは2017年の初頭からやりとりしていたが、今回の旅でやっと真につながることができた。
そういう意味では「魂の回帰」の旅になったわけだ。
私の性質が「地」で、相手は「天」の性質を持っている。
それ以外にも面白いほどに「全てが真逆の性質」になっているわけだ。
しかし真逆な二人なのに不思議なほど違和感がなく、むしろ居心地が良い。
そしてお互いの能力を合わせれば穏やかながらも凄まじいことが可能になると思う。
むしろそのために仕組まれた「魂の縁」なのだ。
少し前まで「愛とは何?」と悩んでいた私が「全ては愛」と感じる。
ツインと和合し、男女一体となって世界に「ひとつの愛」を伝えていく。
約10年前に「世界を少しでも良くしたい」と思ったことがやっと実現の可能性を帯びてきた。
あの時と違うのは最強のパートナ体制が遂に整ったのだ。