ほとんど自分のことは書かない。でも、珍しくそういう機会が与えられたので、思い切って書いた。印刷物になったと聞いた。意外なことに、自分でもけっこう気に入っている。なぜ書いたか。数年前、東京であった大学関係者の集まりに好奇心だけで初めて行ってみたら、「あんた、確か留年したよねえ。」と、笑いながら、それだけを言ういやあなおっさんに会ったから。(笑)当日もらった参加者の名簿によると、同じ学科出身で、私より1年ぐらい先に卒業したヤツがいたらしかった。どこかのクラスですれちがってたかもしれないけれど、こっちは、そのおっさんのことは何も知らないのに、なあんでぐちゃぐちゃいわれなあかんねん、とものすごく腹が立った。大学なんてもう50年も前のことや。どうでもいいやん。そんな小さなことを、開口一番というか、それだけを言い残してエレベーターに乗り込んでいくような小さな男、ぶっとばしてやる、と思って書いた。留年していません。2度と大学関係の集まりにはいきません(笑)おい、おっさん、ニュースレターが家に届いたら、ちゃんと読めよ。(笑)もう一つの理由は、もう20年ほど前、雑談で思春期の娘のことをぶつぶつ言ってたら、「どうせ連れ子でしょ」と、いやなおばはんに言われたから。(笑)びっくりして、はああ???と思い、一瞬反撃の機会を失い、否定しなかったばかりに、どうもシカゴ近辺の日本人コミュニティのあいだでは、いまだに娘は「連れ子」ということになっている可能性もありそう、と思ったから。(笑)回転寿司屋をやってたおばはんだから、顔は広く、一度言われたら、狭い日本人社会にあっというまに広がり、そういう噂を「引き継ぐ」のが大好きなのも日本人の証拠、みたいな部分も今だにあるのでは。あのおばはん、偉そうに「どうせ」なんて言ったけど、聞くところによると、あのおばはんこそ子供はいなかったらしい。ふん、だ。土地を所有し、レストラン経営ではかなり儲けたらしいが、嫉妬心まるだしのあの女も小さかったなあとは思うけれど、日本に帰ったと聞いてだいぶ経つ。もうあの世かもね。どなたか、あのおばはんに「差し入れ」してあげてください。娘は私がカリフォルニアで産みました。(笑) すでに公表されたので、ご参考までに。
「住めば都」とは言い難き地でー私に力を与えてくれるもの
古稀を迎えた今、大学時代を振り返ると、もったいないことをしたなあという思いが募ります。ダメ学生でしたが、留年することもなく卒業させてもらい、社会に出ました。非生産的な大学生活を送ったのは、大学教育が人生の目的、とりわけ職業意識に組み込まれていなかったからでしょう。人生の目的どころか、「女が国立大学へ行くのは税金の無駄使い」だの、「25歳を過ぎた女はクリスマスケーキ」「行かず後家」といった言葉が、平然と飛び交う社会と時代でした。その息苦しさから逃れるように、縁あって1986年に渡米、カリフォルニアからサウスダコタ、イリノイと移り住み、今や在米生活のほうが長くなりました。
カリフォルニア州バークレーで生まれた娘も今は、渡米時の私の年齢を超えました。あまり自覚していませんが、いろいろなことがあったのでしょう。先日、カリフォルニア大学バークレー校のキャンパスを歩いていると、思いがけず涙がこぼれそうになりました。乳母車に娘をのせてキャンパスを歩いていた若かった自分が目の前に浮かんだのです。そして、アメリカのことは何も知らず、楽しい夢を描いていただけの自分の未熟さが急に身に沁みてきて、その恥ずかしさにいたたまれなくなり、もうこのキャンパスには2度と来るまいとまで思いました。といって私は、アメリカで、いや人生で、自分で口を糊したことは一度もありません。ある意味、のほほんと生きてきました。在米生活は、渡米時の年齢と動機、英語能力、職業生活、そして何よりも個人の性格と、さまざまな要素で形成されます。イリノイの州立大学の人事部で働いたのは、アメリカを学ぶいい経験にはなりましたが、アメリカやアメリカ人が好きになることはありませんでした。
今、私の日常生活で大きな部分を占めているのは書くことと、町のごみ拾いと、そして週に一度、シカゴの高齢者センターでボランティアをすることです。書いているのは、これまで誰も書いていない「戦前シカゴの日本人」についてです。日系移民史といえば、これまでハワイや西海岸での経験のみが主に論じられ、「カリフォルニアの東」は無視されてきた感があります。その結果、日系移民にたいする固定化されたイメージがアメリカに根付いています。私の仕事がそのステレオタイプのイメージを壊し、アジア系アメリカ研究に貢献できることを願っています。
通りや駐車場でのごみ拾いからもアメリカをいっぱい学びました。通りがかりの見知らぬ人からの「ありがとう」は、とりわけうれしいものです。町で小さな賞をもらったとき、ラジオ局の人に、何か言いたいことがありますか、と水を向けられましたが、他人からの助言を嫌い、耳を傾けようとしない傲慢なアメリカ人に、とりわけブラウンの人間が何を言っても意味はないと思いましたから、何もありません、と答えました。ところが、驚いたことに、このごろ町から確実にゴミが減ってきました。時々、道でゴミを拾っているアメリカ人すら見かけるようになりました。「アメリカ人のすることはしない、アメリカ人がしないことをする」をモットーに、嫌がらせをされても続けてきましたが、アメリカ人は、言われるのは嫌いでも、黙ってゴミを拾い続けるおかしなアジア系の“ばあさん”の姿から何かを学ぶ能力はあったようで、ほっとしますねえ。たった一人でも、人を、コミュニティを変えることができることに、ほんのちょっとだけ、アメリカ人とアメリカに希望を持つことにしましょうか。
13年ほど続けている、片道1時間半を運転してのシカゴでのボランティアは、私にとって珠玉の時間です。私がピアノを弾いて、日本人、日系人、白人、黒人、フィリピン人、プエルトリコ人と、さまざまな背景のクライアントたちが歌を歌ったり、踊ったりするのです。アルツハイマ―を患っている90歳の白人女性とのピアノの連弾は、医者すら驚かせました。音楽の力を実感し、クライアントたちからは人生のかけがえのないギフトも受け取りました。高齢者センターでの出会いへの感謝は、自分のこれからを思索する時間にもつながっています。人生をどう最後まで生ききるのか。人はなぜ今日まで生きてきたのか。私には、生きる指針にしている「三位一体」があります。美と強と優(美しいものは強い、強いものだけがほんとに優しくなれる)です。「優しく」聞こえるだけの空虚な言葉が氾濫する今、「美しい」ものを探す気持ちをアメリカで生きるエネルギーにして、残された時間と向き合っていきたいと考えています。