伊勢神宮に絹織物の神御衣を運ぶ「赤引糸の旅」と中央構造線 | 輝くあなたを取り戻して

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「伊勢神宮に絹織物である神御衣を運ぶ儀式の赤引糸の旅は裏で生贄していた経路だと感じます。赤引糸は赤みを帯びた艶のある絹糸で、血やエゴを暗示します。浜松から渥美半島沿いに伊勢神宮までの赤引糸の旅のルートは中央構造線と重なり、生贄・松取りの闇による封印と捉えられます。」

 

田原市のwikiには『4月の伊良湖神社の御衣(おんぞ)祭りは、伊勢神宮との古くからの関係があり沢山の人が集まる』と記されており、「御衣祭」について調べていきました。《渥美半島観光ビューロー公式サイト》の2024年の記事には御衣祭の情報が記載されています。『伊勢神宮の神御衣祭にちなんで行われる祭り。

 

今年度は神事のみの開催となり露天商等はありません。おんぞまつり(御衣祭)は、長い歴史をもつ由緒ある祭です。三河地方で取れた蚕糸を織って、伊勢神宮のおんぞ料に献じたのが始まりとされています。昭和42年(1967)まではおんぞまつりは伊勢神宮で「神御衣祭」が行われるのと同じ日・旧暦4月14日に行われていましたが、現在では毎年、4月の第3日曜日が祭礼の日と決められています。

 

おんぞまつりの行われる伊良湖神社は、その昔、伊良久大明神と呼ばれた大変古い神社で、宮山に位置していました。古くから、この地は伊勢神宮領伊良湖御厨(みくりや)であったので、渥美半島の地にありながら伊勢神宮とは縁が深く、外宮から禰宜(ねぎ)が来て神事を執り行っていました。

 

祭の当日は、午前11時からご祈祷が行われるほか、漁夫歌人・糟谷磯丸の供養祭なども行われ、地元の人々はもちろんのこと、伊良湖を訪れた観光客や参拝者で沿道はにぎわいを見せます。また、この日は付近の人々が針やはさみを手にしない習わしとなっています』。「御衣祭」とは、養蚕の絹糸を織った衣を伊勢神宮に奉納することが源流のようです。

 

上記の「伊勢神宮の神御衣祭(かんみそさい)」については《コトバンク》に説明されています。『伊勢神宮で天照大御神に絹(和妙(にぎたえ))と麻(荒妙(あらたえ))を、毎年5月・10月の14日に奉る祭典で、皇大神宮(内宮(ないくう))と荒祭宮(あらまつりのみや)に限って行われる。

 

皇大神宮鎮座のとき、五十鈴川のほとりに宇治機殿(うじのはたどの)を建て、天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)の孫、八千々姫命(やちちひめのみこと)をして天上の儀式に倣い和妙を織らしめたという古伝承に基づく。すでに「大宝令(たいほうりょう)」に国家の常祀(じょうし)と定められ、神嘗祭(かんなめさい)とともに、格別の由緒のある祭典である』。

 

伊勢神宮の神御衣祭は、天照大神に絹と麻を奉納する祭典です。また、「この(伊良湖神社)地は伊勢神宮領伊良湖御厨(みくりや)であった」とあります。御厨(みくりや)については《コトバンク》に説明があります。『古代・中世の皇室や伊勢神宮などの大神社に付属する,食料品調達にかかわる所領。

 

平安時代末から鎌倉時代ごろには荘園とほとんど変わらないものとなったが,本来は荘園のような所領ではなく,厨は台所を意味し,むしろ供御(くご)物や神饌を調達するために,皇室や神社に所属した山民・海民集団の構成する機関とでもいうべき実態のものであった』。「御厨」や「荘園」は、神仏、天皇など地位の高い権力者に提供する生贄を行う場所だと捉えています。

 

「山民・海民集団」とは、渡来人に支配されて松取りの現場仕事を強いられた先住民であり、「サンカ」と呼ばれている人たちのことです。正確には、山民集団が「山窩(サンカ)」であり、海族集団が「海人(海女・アマ)」と言います。山窩や海人は山と海における松取り集団です。天皇や大名などの支配層トップに提供する生贄の捕獲の現場仕事をしていました。

 

「6で知る」のヒントが導く「安倍晋三の背後」と「統一教会の血分け・6マリア」からの子供の松取り工作の闇》には、御食国(みけつこく)のことを書いています。御食国は、若狭国(福井県)・志摩国(三重県)・淡路国(兵庫県)などで、天皇に赤子など食人のための生贄を献上していた国なのです。

 

伊勢神宮の地は三重県であり、海産物が豊富な伊勢志摩のある志摩国が生贄の提供場所とされてきた土地でもあります。それは、重要な自然の光が生贄や松取りの闇で封じられてきたことを意味します。《渥美半島☆自然感察ガイド》には『伊良湖神社は、以前、伊良湖岬の宮山原始林の中腹にありました。

 

しかし、大砲の試射実験距離が延びたため、1905(明治38年)に伊良湖試砲場が建設されることになり現在の場所に移りました。祀っている神様は 「タクハタチチヒメノミコト」織物の神として信仰されています』とあります。伊良湖神社が元あった宮山と宮山原始林が重要な光の場所であり、生贄・松取りが成される神社や軍事施設が置かれ封印されてきたことが分かります。

 

「御衣祭」を調べていくと、浜松の地から渥美半島を通って伊勢神宮まで神御衣(絹織物)を運ぶ「赤引糸の旅」の存在を知りました。《赤引糸の旅と伊勢神宮》には、赤引糸の旅の詳細情報が記されています。『先週訪れた新城市、別所街道沿いの大野宿。そこで訪れた「大野神社」の敷地内に、「服部神社」なるものがありました。

 

服部神社は「赤引糸の神様」を祀っていて、大野地区は古代から、伊勢神宮に奉納する神様の着物、神御衣=おんぞ作りに欠かせない養蚕を通して伊勢神宮と大きな関わりがあることを知りました。その赤引糸のストーリーの続きにあたる神社が、浜松市の三ヶ日町にあります。実は、昔の三ヶ日は「浜名神戸」と呼ばれ、伊勢神宮⛩の領地でした。

 

伊勢神宮は周辺に多くの領地を持っていましたが、三ヶ日もそのうちの1つです。(天皇や伊勢神宮が持つ荘園のことを、神戸(かんべ)とか、御厨(みくりや)とか、御薗(みその)とか言います。磐田市に新しくできたJR御厨駅のあたりは鎌田御厨と呼ばれ、そこも伊勢神宮の領地でした。供物を納める代わりに、税が免除されたのです) 

 

新城市・大野地区で取れた赤引糸は、①まず浜松市三ヶ日町にある【初生衣(うぶぎぬ)神社】に運ばれて機織りされ、②すぐ近くにある【濱名惣社神明宮(はまなそうしゃしんめいぐう)】にて保管され、③さらに豊橋市の【湊神明社(みなとしんめいしゃ)】まで運ばれて神事を行い、④渥美半島・伊良湖港より船で伊勢神宮に奉献されます』。

 

「赤引糸の旅」は、表面上は、浜松の地から渥美半島を通って伊勢神宮まで神御衣(絹織物)を運ぶ儀式ですが、裏では天照大神に捧げる生贄を運ぶ儀式だと感じます。生贄の犠牲になるのは、子どもかもしれないし巫女の可能性もあります。《赤引糸の旅と伊勢神宮》には、「赤引糸の旅」のルートの地図が掲載されています。

 

これを見ると「中央構造線の通る場所だ」と感じました。ネットで確認すると《中央構造線の旅(2)-愛知県・三重県》に掲載されている中央構造線の地図がありました。江戸時代以前と以降で赤引糸の旅のルートは多少異なりますが、中央構造線と同様に、渥美半島に沿って浜松市の辺りまでのルートに成っていることが分かります。

 

中央構造線などの断層・構造線は、マグマの火である光のエネルギーが放出される場所と理解しています。中央構造線の光の地を封印するために、生贄を隠して運ぶ赤引糸の旅という儀式が始まったと感じます。封印された断層や構造線を自由にすることが暗闇を終わらせることになります。赤引糸の旅に関係する5つの神社の闇の解除・統合を目的にして光を降ろすワークを行いました。

 

新城市・大野地区で取れた赤引糸を機織りされる赤引糸の旅の始点となる「初生衣(うぶぎぬ)神社(静岡県浜松市北区三ヶ日町)」、初生衣神社での機織りの絹糸を生産する場所となる「大野神社(服部神社鎮座地・愛知県新城市大野)、初生衣神社で機織りされた赤引糸の布を保管する「濱名惣社神明宮(はまなそうしゃしんめいぐう・静岡県浜松市北区三ヶ日町)」。

 

そして、赤引糸の神事を行う「湊神明社(みなとしんめいしゃ・愛知県豊橋市湊町)」、御衣祭(おんぞまつり)が行われる「伊良湖神社(愛知県田原市日出町)」の5社です。初生衣(うぶぎぬ)神社の宮司・鈴木栄男と所在地(静岡県浜松市北区三ヶ日町岡本696)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ワニ」「いいです」と伝えられました。

 

大野神社は、宮司が分からなかったので所在地(新城市大野字奥林54)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。濱名惣社神明宮の宮司・鈴木好司と所在地(静岡県浜松市北区三ヶ日町三ヶ日122)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ」「いいです」と伝えられました。

 

湊神明社の宮司・大村昭人と所在地(愛知県豊橋市湊町)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ」「いいです」と伝えられました。最後に、宮山と宮山原生林を封じる役割の伊良湖神社(宮司名不明)の所在地(愛知県田原市日出町骨山1407)に宮山原生林が開かれるよう意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。

 

水石の美を求めて》のブログ記事「東三河の秦氏 その37 養蚕と機織り」には、赤引糸の旅、秦氏、養蚕と機織りについての有用な情報が記されています。重要と思われる箇所を纏めたのが以下になります。『桓武天皇(737年~806年)の頃に八名郡大野(鳳来町大野)の生糸(赤引の糸)を、渥美神戸の名によって伊勢神宮に奉納した。

 

清和天皇(850年~881年)の頃から、八名郡大野の糸を伊良湖神社に奉納し、ここで機織りされてから伊勢神宮に献上するようになった。八名郡大野の服部宮は繭や糸を供え、神事を行うために創建された。神服部氏が伊勢神宮に神御衣を奉献する前提には、赤引の糸があると理解されます。

 

と言うことで、まず八名郡大野(鳳来町大野)の生糸(赤引の糸)発祥地に鎮座している服部宮(=服部神社、かつての服部郷に鎮座)を見ていきます。「鳳来町誌」によれば、服部郷に関して、秦氏など帰化人で機織りを伝えた服部部にちなんだ地名と推測でき、新城市八名井にある旗頭山古墳群はその関係かもしれない。

 

一方、鳳来町大野に古来より服部神社が祀られ、「赤引の糸」を作り、遠州三ケ日の神服部家(初生衣神社)に送り、ここで伊勢神宮の神御衣(和妙)を織る原料とした…以下略。と記載あります。あくまで「鳳来町誌」の推測ですが、ようやく秦氏が出てきました。服部神社は大野神社の境内に鎮座しており、この一帯が「三河赤引の糸」の発祥地と考えられます』。

 

「赤引糸の旅」という名称が真実を探求する上でのヒントになっています。蚕の糸は絹糸であり白色の糸なのに、何故、「赤引糸」と名づけたのか、です。《コトバンク》には、『あかひき‐の‐いと【赤引の糸】神御衣(かむみぞ)を織るのに用いる、赤みを帯びてつやのある糸。伊勢神宮の陰暦6月と12月の月次(つきなみ)の祭に奉納する。あからひきのいと』と記されています。

 

実際に、赤引糸の旅で運ぶのは赤みを帯びた艶のある糸です。「赤(赤色)」は、血の色であり、エゴの闇を意味します。裏で生贄を行っていることを暗示するものだと捉えています。また、養蚕で使う蚕の糞から、黒色火薬の主原料となる硝酸カリウム(焔硝・えんしょう)がつくられます。

 

第81回 床下で火薬を育てる~世界遺産「白川郷」と謎の焔硝生産》には『江戸時代に火薬の原料である焔硝(塩硝・硝石)を人尿、蚕糞、野草などを材料とし、土壌微生物のはたらきを利用してつくっていたという驚くべき事実だった』とあります。実は、黒色火薬の主原料となる硝酸カリウムは、松(人肉・内臓)の保存料にもなるのです。

 

新しい人生という光を道を歩む転機となる闇の経験》には『五箇山は、塩硝(えんしょう)の産地としても有名です。塩硝は、硝石でもあり、硝酸塩鉱物の一種(硝酸カリウム)で、一般的に黒色火薬の製造に必須の火薬材料です。もう1つの用途が肉の塩漬けの際の保存料です。現在でも、硝石はハムやソーセージの保存料、発色剤として使用されています』と記されています。

 

五箇山は八咫烏の拠点でもあります。戦争は支配層の松取り工作です。表の戦争の銃の火薬の原料であり、裏の松の発酵塩漬けの保存料の硝酸カリウムを五箇山の民家で伝統的につくっていたのです。これは八咫烏の重要な叡智の1つです。養蚕・生糸業・繊維業の裏には支配層の松利権があり、松利権網という裏の金儲けの仕組がつくられてきたのです。

 

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