「金正淑は、貧農の家に生まれ、満足な教育を受けられず、朝鮮語の読み書きができなかった。16歳でパルチザン部隊に入り、白頭山を拠点とする抗日パルチザンの指導者・金日成と知り合い結婚した。ソ連で金正日を出産した他、5人の子供をもうけた。白頭山の女将軍と呼ばれていた金正淑に光を降ろすと八咫烏と伝えられた。」
白頭山に関係する人物について調査とワークを進める前に、中国吉林省延辺朝鮮族自治州で気になった場所があり、光を降ろすことにしました。抗日運動家や共産党の活動場所だった「琵岩山(ひがんさん・ぴやんさん)」です。抗日活動などの政治活動は、支配層の工作と見ています。一般大衆を騙して利益を得るための嘘芝居の場合が多いです。
琵岩山の情報は、《Trip.com》に記されています。『ピヤン山は龍井市の南西部に位置し、龍井市の市街地から 3キロ離れており、交通が便利です。木々が生い茂り、川に囲まれた心地よい景色が広がる龍井市の自然山岳公園です。山中には新石器時代の文化遺跡や抗日闘争の活動拠点が残っている。
宜松亭風景区は碧岩山観光区の目玉です。崖の上に高い老松の木が立っており、その樹冠があずまやのようであることから「宜松亭」と呼ばれています。 50年以上前、この場所は崇高な理想を掲げる無数の人々や愛国的な若者たちが反日宣伝を行った場所だった。 2002年4月1日、「宜松閣」は龍井市政府により龍井市重点文化財保護単位に指定されました』。
琵岩山に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。次に、白頭山に関係する人物について調査とワークを進めました。対象は、白頭山のwikiに記載された重要だと思われる3人の人物「金正淑(キム・ジョンスク)」「佐伯宗作(さえきそうさく)」「大和由松(おおわよしまつ)」です。
金正淑は、白頭山の女将軍と呼ばれ、金日成の妻です。経歴はwikiに記載されています。『金正淑(1917年-1949年)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の人物。金日成の妻、金正日・金万一・金敬姫の母、金正男・金正哲・金正恩の祖母、金漢率の曾祖母である。ただし、本名は「金貞淑」である(金日成のいとこに同名の人物がいるが別人である)。
[生涯]貧農の家に生まれたため、満足な教育を受けられなかったとされる。一説によれば朝鮮語の読み書きができなかった。16歳でパルチザン部隊に入る。そこで金日成と知り合い、結婚した。1942年2月16日にソ連で金正日を出産した他、5人の子供をもうけた。
朝鮮帰国後に、北朝鮮に設けられた「朝鮮民主女性同盟(現在の朝鮮社会主義女性同盟)」の初代委員長として活動した経歴がある。称号は朝鮮民主主義人民共和国英雄。[経歴]1917年12月24日:日本統治時代の朝鮮の咸鏡北道会寧郡会寧面鰲山洞(現在の北朝鮮咸鏡北道会寧市東明洞)において、貧農の娘として小さい藁葺き家の中で生まれる。
1922年春:家族と共に豆満江を渡り、南満州(中華民国)とソ連の間で放浪する。1931年9月12日:少年先鋒隊に加入。1932年7月25日:朝鮮共産主義青年同盟(パルチザン部隊)に加入(数え年で16歳)。1932年11月:八区共青同盟委員会の委員に当選。1934年秋:延吉県(現延吉市)共青同盟委員会の職務へ異動。
1935年3月:三道湾遊撃区の能芝営(延吉市近郊)にて金日成と出会う。1935年9月18日:朝鮮人民革命軍に参加。1937年1月:中国共産党に加入。1940年暮秋:金日成と結婚。1941年2月16日:ハバロフスク郊外にあったソ連赤軍第88独立狙撃旅団の宿営地において、長男の金正日を出産。
(※北朝鮮の公式発表では、金正日の誕生を神格化するため1942年2月16日に白頭山山麓の小白水地区にある白頭山密営で出産したとしている)。1945年11月:赤軍占領下の朝鮮半島北部(現在の北朝鮮)に帰還。1949年9月22日:死去。享年32。北朝鮮の公式見解では心臓麻痺が死因とされているが、実際は前置胎盤(子宮外妊娠)と言われている。暗殺説もある』。
白頭山の女将軍で、金日成の妻である金正淑の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏」と伝えられました。暗闇にする役割の工作員だったようです。佐伯宗作は、1934年12月から翌年1月に京都大学山岳部のパーティで白頭山登山に同行した立山の山岳ガイドです。プロフィールは《初代 佐伯宗作》に記載されています。
『我が家の初代、佐伯宗作。宗作は立山随一の名ガイドと謳われ、立山ガイドの黄金期に活躍した。大正13年には秩父宮殿下立山スキー登山のガイドに選抜され、その後も立山剱岳を中心に様々なルートを踏派開拓し、その誠実な人柄は山岳ガイドとしてのみならず、多くの人々に愛された。
昭和9年末からは京都帝大朝鮮白頭山遠征隊に請われて参加、その実力を遺憾なく発揮したが、翌昭和10年の帰国後、5月4日、立山地獄谷で亜硫酸ガスの吹き出す穴に転落した、後輩ガイドを救出するためその穴に飛び込み、救出はしたものの自らが力尽き命を失った。若干38歳であった。
宗作の献身的な行為は、「山男の鏡」と当時から高く賞賛され、戦後も小学校道徳の副読本に載せられた』。有名な山岳ガイドは、京都大学の登山隊と同様に光の場所である山を封じる役割を担っていたと感じます。立山の山岳ガイド・佐伯宗作の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員。朝鮮人」と伝えられました。
大和由松は、1934年12月から翌年1月京都大学山岳部のパーティで白頭山登山に同行した大町の山岳ガイドです。大和由松は、《百瀬慎太郎と登山案内人たち》で紹介されています。『当時めずらしい “ スキーのできる登山案内人 ” で、岩場もたくみだった。出身地の大町市平から安曇野市穂高有明に移り住み、有明登山案内人組合の結成に携わります』。
大和由松の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。闇の時代、光の場所を封印する役割の人は必要でした。土地の中でも山は重要な光が放出される場所です。大和由松は、山の光を封印する役割の工作員の仕事を担っていたと感じます。白頭山は、北朝鮮や中国だけでなく、世界的に重要な光の場所だと捉えています。
次に、延辺朝鮮族自治州-wikiの「延辺を訪問した著名人」の項目で記述されている人物である「朱徳海(しゅとくかい)」「寺尾五郎」「安藤彦太郎」「畑田重夫」「小沢有作」「小田実」の6人をピックアップしました。朱徳海についてwikiには『1959年11月11日 ネパール共産党総書記マン・モハン・アディカリが延辺を訪問。朱徳海とともに延辺大学などを視察』とあります。
朱徳海の経歴はwikiに記されています。『朱徳海(1911年-1972年)は、中国の政治家、延辺朝鮮族自治州初代州長。朝鮮族であり、本名は呉基渉。[経歴]1911年、ロシア沿海州にある朝鮮人村の貧しい農家に生まれた。本籍地は咸鏡北道会寧郡八乙面で、祖父の代に朝鮮からロシアに移住した。
父親が土匪に殺害されて生活が困難になると、いったん咸鏡北道に帰郷した。1920年に豆満江を渡り和龍県に移住。小学校卒業後の1929年から龍井一帯で革命運動に参加した。1930年8月に中国共産主義青年団、1931年に中国共産党に入党。1930年から黒龍江省で地下党活動や抗日パルチザンに参加。
東北抗日同盟軍第4軍(東北抗日聯軍第4軍の前身)第2団後方留守処党支部書記。1936年、方虎山や李権武らと共に東方労働者共産大学に留学。1939年9月、延安に帰還。八路軍第359旅第718団特務連指導員と第718団供給処指導員に任命。1941年、抗日軍政大学東北幹部隊と中共中央海外委員会研究班朝鮮組で学ぶ。
1943年、朝鮮革命軍政学校総務処長。1945年11月23日、19名の幹部隊員と共にハルピンに入り、朝鮮義勇軍第3支隊を組織し政治委員になる。1948年4月、部隊から離れ東北行政委員会民族事務処長。1949年3月、中共延辺地区委員会書記兼延辺専員公署専員。延辺大学を設立、1972年まで学長を務める。
同年9月、中国人民政治協商会議第1回全国委員会委員。1949年6月、全国政治協商会議準備会に朝鮮族代表として出席。1949年9月21日~、中国人民政治協商会議第1次全体会議に朝鮮族代表として出席し、27日に発言。「朝鮮人民の今日獲得した勝利は、中国共産党指導の正確な民族政策と中国各民族人民の大団結によって、共同奮闘して得たものである!
よって、我々東北の人民は、必ず永遠に中国国内の各族人民と団結一致し、共産党と毛主席の指導の下に、まさに成立せんとする人民政府指導の下に、新民主主義の新中国を建設するために奮闘せねばならない!」— 宮崎世竜(編)「中華人民共和国の成立 中華人民政治協商会議第一期全体会議記録」 (朝日新聞調査研究室報告社内用15、昭和24)。
[人物像]1963年9月5日、延辺を訪問した日本朝鮮研究所代表団の日本人5人がホテル会議室で朱徳海と会談した。朱徳海は自身のパルチザン経験を中国語で4時間半語る。その時の印象を、代表団メンバーの、安藤彦太郎(研究所副所長・早稲田大学教授)は次のように回顧している。
「朱徳海州長は50歳あまりで豪放磊落、といって豪傑風ではなく、一見茫洋とした風格の人で、前夜の宴会では悠然として舐めるように酒を味わい、ほとんど酒の話と、冗談めいたことしか口にしなかった。ところが、「座談会」では、東北への朝鮮族移民の歴史から説きおこし、1919年の3・1運動とその後の闘争の推移。
9・18事変以後の東北抗日聯軍の活動、さらには闘争内部の矛盾、日本の民族離間政策まで、メモも見ずに理路整然と説き、しまいにはズボンの裾をまくりあげ、左脚を椅子に組みあげながら熱心に語って、4時間半、すなわち午後の2時間半までかかった。朱氏は、延辺の朝鮮族がすべてそうであるように、朝鮮語と漢語の両語を解するが、このときは漢語を用いた。
雄弁とはいえず、むしろ訥弁に近い飄々たる話しぶりだが、私たちは時のたつのを忘れた。— 「私の日中関係史「忘れ得ぬ」人々 東北・朝鮮族を束ねた朱徳海州長「卓抜」の指導力」・安藤 彦太郎・「Decide」サバイバル出版 ・2006年1月』。朱徳海は、中国吉林省延辺朝鮮族自治州の初代州長です。
日本朝鮮研究所代表団の日本人5人と会談しており、八咫烏の工作員だったと推測します。朱徳海の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。やはり朱徳海は、工作員の役割を担っていました。「寺尾五郎」「安藤彦太郎」「畑田重夫」「小沢有作」「小田実」については、wikiに下記のように記述されています。
『1963年9月 日本朝鮮研究所代表団5人が延辺を訪問。メンバーは寺尾五郎(研究所理事)、安藤彦太郎(研究所副所長・早稲田大学教授)、畑田重夫(国際政治学者)、川越敬三、小沢有作(東京都立大学教授)』。《冷戦下の日朝間の学術交流の在り方》には、日本朝鮮研究所の有用情報が記載されています。
日本朝鮮研究所(1961-1984)は、1960年代に日朝友好のための実践的な歴史学を目指し、戦後、日本で初めて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と学術交流を行った民間研究団体です。しかしながら現実的には、支配層の工作団体だったと見ています。寺尾五郎は、元日本共産党党員で、元日本朝鮮研究所理事です。
経歴はwikiに記載されています。『寺尾五郎(1921年-1999年)は、元日本共産党党員で、歴史学者。元日本朝鮮研究所理事。筆名吉武要三。[略歴]北海道室蘭市出身。1938年、早稲田大学文学部哲学科に入学後、共産主義運動に参加。1940年に治安維持法違反で検挙。
1943年に召集されるが、1945年に満洲のチチハル航空部隊で反戦活動を行ったかどで憲兵隊に拘束され、東京憲兵隊総本部へ送還。8月15日の敗戦の2日後、警視庁特高課に身柄移管され、治安維持法最後の被告となる。10月10日に豊多摩刑務所から出所し、以後日本共産党本部の専従活動家となる。
1950年にコミンフォルムの「日本の情勢について」をめぐる対立に巻き込まれて「国際派」として除名されるが、「国際派」と「所感派」の統一(日本共産党第6回全国協議会を参照)により5年後に復帰。1958年に北朝鮮建国10周年記念式典に訪朝使節団として訪問し、同国の発展を大々的に描いた「38度線の北」を著す。
1960年代は平和運動、日中・日朝友好活動に奔走し、両国をたびたび訪問する。1961年に日本朝鮮研究所を設立してその理事に就任し、北朝鮮関連の書物を多く著す(1967年に退任)。1966年に中国で文化大革命が起こるとこれを熱烈に支持し、1967年の善隣学生会館事件の際にも中国共産党側に立ち、日本共産党に抗議して「日中不戦の思想」を著した。
そのため、1968年に「中国派」として日本共産党を除名された。その後は日本共産党(左派)の結成に関与する一方、吉田松陰や親鸞・安藤昌益を研究し、特に昌益の研究については、「安藤昌益全集」(農山漁村文化協会、1983年 - 1987年)の監修・執筆を務めるなど、これを後半生のライフワークとしている。
1999年、大腸癌で死去。死後、蔵書は農山漁村文化協会に寄贈され、協会図書館内で「寺尾五郎文庫」として公開されている。[訪朝時の事件]1960年8月、寺尾は朝鮮解放15周年慶祝日朝協会使節団の秘書長として北朝鮮を訪れた。その際の8月27日、清津へ向かう急行列車で、彼の1959年に書いた本「38度線の北」を見て北へ渡ったという3人の男たちに取り囲まれた。
「お前の本に騙されて、こんな生き地獄へ連れてこられた。俺たちの人生をどうしてくれる」と迫られた。しかし、寺尾は彼らを愚連隊と決め付け、まともに取り合おうとしなかった。その後、彼らは安全員により列車を降ろされて逮捕された。KBSの専門委員であった呉基完によると行方不明になったという。
寺尾の事件後に、金日成が北朝鮮の一般国民が党の許可なく、帰国同胞との交流を禁止する通達と出したとされる』。寺尾五郎(元日本共産党党員・元日本朝鮮研究所理事)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員。八咫烏」と伝えられました。やはり八咫烏の工作員でした。
安藤彦太郎は、元日本朝鮮研究所副所長で、元早稲田大学教授です。経歴はwikiに記されています。『安藤彦太郎(1917年-2009年)は、日本の日中関係史学者、早稲田大学名誉教授。[経歴]1917年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業。「中国の会」は、尾崎秀樹が普通社主宰で1960年ごろに立ち上げた。
野原四郎、竹内好、橋川文三、安藤、新島淳良、今井清一らをメンバーとした。早稲田大学政経学部教授を務め、文化大革命の際は新島淳良や野村浩一とともにこれを礼賛した。1988年に定年退任、名誉教授となった。また、日中学院長をつとめ、のち名誉学院長。現代中国学会幹事を長く務めた。
2009年10月27日、膀胱癌で死去、享年92歳。[家族・親族]妻:岸陽子は中国文学者・早稲田大学名誉教授』。安藤彦太郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。DSの工作員の役割を担っていたようです。DS(ディープステイト)は、アークが構築した支配層の松利権網としてのトカゲ・レプタリアンから成る米国派工作組織です。
畑田重夫は、元国際政治学者・平和運動家です。経歴はwikiにあります。『畑田重夫(1923年-2022年)は、日本の国際政治学者、政治評論家、平和運動家。平和・民主・革新の日本をめざす全国の会代表世話人。1980年代から1990年代にかけて東京都知事選挙に出馬したことでも知られる。
[来歴]京都府生まれ。東京帝国大学に入学し、在学中20歳で学徒出陣となるが、その際学友の乗っていた船が撃沈され全員が死亡した。1945年9月、東京大学法学部に復学し卒業。内務省を経て1962年まで名古屋大学助教授を務め、以後は労働者教育協会会長や勤労者通信大学学長などを歴任。
1987年、1991年の各東京都知事選挙に無所属(日本共産党推薦)で出馬するも落選。1987年には都政問題研究所を立ち上げ所長となる。2021年の時点でも、平和及び労働運動に関する講演を全国各地で行っていた。「しんぶん赤旗」紙上にてエッセイ「憲法と生きる」を連載。2022年11月22日に老衰のため死去したことが、「しんぶん赤旗」によって報道された。
[人物]シベリア抑留について「強制労働という言葉を使う人がいますが、働いてノルマをさえはたせば食糧を配給してくれるというのが実態であり、それを日本にいた当時は、土方のような仕事をしていた人や、失業者であった人たちは、"ソ連という国は天国だよ。働きさえすればちゃんと食えるんだから"といいます。
仕事もしないで親のスネをかじっていたオ坊ッちゃんめいた人は"強制労働をやらせやがった"という表現をとるのです。」と発言した』。畑田重夫(元国際政治学者・平和運動家)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「中国」と伝えられました。中国派の工作員だったようです。中国派工作員は、八咫烏・鶴派の工作員と捉えています。
【関連記事】
○北朝鮮をつくった陸軍中野学校出身の金策の過去世
○ひろゆきが工作活動をほのめかす「沖縄辺野古基地の座り込み抗議」
○米国LAに置かれた八咫烏の鶴亀の拠点となる2つの寺院