「中国吉林省延辺朝鮮族自治州・延吉市に縁の深い人物として金学鉄(キム・ハクチョル)に着目しました。金学鉄は、朝鮮の独立運動家、中国朝鮮族を代表する作家です。日本軍の捕虜となり、八咫烏の反体制派工作員として活動してきました。八咫烏の現場部隊である日本軍は、現地の人を工作員に仕立てて利用してきたのです。」
2024年4月16日、栃木県那須町で宝島龍太郎夫妻の遺体が見つかり「宝島夫妻殺害事件」が発覚しました。宝島夫妻殺害事件の真相を追究した記事が《宝島夫妻殺害事件から繋がった満蒙開拓団と長野県軽井沢の地》です。宝島龍太郎夫妻が飲食店を経営していた東京都台東区上野と夫妻の遺体が発見された栃木県那須町が舞台となります。
東京上野と栃木県那須町は、本来、水のある大事な光の地でした。しかし、今は、どちらも多くの人々が集まる観光名所という華やかな闇の地に変わっています。観光名所の裏には、支配層の松利権が絡んでいます。観光は、多くの人々を集めて子どもをさらう支配層の裏の金儲けのトラップです。支配層のトラップがある場所には、現場工作員が多く存在します。
現場工作員は、古くからサンカと呼ばれる人たちです。エゴと金の闇に覆われた人たちです。水の場所には、裏世界に通じる大勢のサンカ工作員が潜んでいます。金のためならば何でもやるという反社、反グレ、チンピラと称される勢力に通じます。水の場所には、本来、光のエネルギーを有する目に見えない精霊が宿っていました。
しかし、観光名所は、"人集め子どもさらい"の典型的な支配層のトラップ場所です。古くは神社や寺院などの宗教施設に集まる信者を対象にした松取り(松果体収穫)が行われてきました。神社の祭りが、現在では観光名物の祭事になっています。宝島夫妻殺害事件の舞台である東京上野と栃木県那須は、いずれもサンカの拠点です。
本来は、水のある光の場所でしたが、松取りなどの裏の仕事が成されることで、光の精霊が闇に変えられ、暗闇の地になったのです。観光は、支配層の表裏の金儲けのツールです。観光に付随する人たちが現場工作員としてのサンカとなります。サンカの源流は、渡来人の支配層の配下にいる先住民です。本来の先住民は、純粋な光の人たちでした。
それが、強制的に裏の仕事である松取りの汚れた仕事を強いられて、純粋な魂が汚れて闇に覆われてしまったのです。エゴと欲が増大して、金の亡者に成り下がってしきました。それは、本来は純粋な光であった精霊と同じです。純粋な光の存在ほど、深い大きな闇に変わるのです。地球上の水のある場所は、深い暗闇の地になってきたのです。
支配層の松利権は、具体的には、高級麻薬として富裕層で売買されるアドレノクロムや遺骨ダイヤモンドに直結しています。東京上野と栃木県那須町は、支配層の松利権拠点になっているのです。《宝島夫妻の出身の中国吉林省延辺朝鮮族自治州と白頭山》では、宝島龍太郎夫妻の出身地である中国吉林省延辺朝鮮族自治州を追究していきました。
日本の富士山に相当する霊山である白頭山が聳える中国吉林省延辺朝鮮族自治州は、古くから日本の支配層が関係してきた土地であり、現在の北朝鮮の源流の地となります。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は、支配層の秘密結社でもある八咫烏に繋がる日本陸軍中野学校の出身者・金策(日本名・畑中理)がつくった国家だと言われています。
日本の支配層・八咫烏が日本と世界を暗闇にするため北朝鮮という闇の中心となる国をつくったのです。北朝鮮という真実が隠されたブラックボックスを置くことで、日本と世界の支配層が、永続的に金儲けできる仕組みがつくられてきました。北朝鮮の裏に隠された真実を追究して闇の本当の姿を明らかにしていくことが、重要です。
それが、日本と世界の暗闇に光を当てることになると感じており、中国吉林省延辺朝鮮族自治州に関連する人物と土地の調査とワークを進めてきました。前回は、《八咫烏の術師の役割を成した近代日本の東洋史学者・内藤湖南》にある、中国吉林省延辺朝鮮族自治州延吉市(えんきつ-し)を訪れた内藤湖南を追っていきました。
今回は、中国吉林省延辺朝鮮族自治州延吉市(えんきつ-し)に縁の深い人物について、引続き調査とワークを行うことにしました。延吉市-wikiの「歴史」には、以下の記述があります。『反右派闘争のあと「大躍進」がきた。3年間奮闘して共産主義社会を築きあげようという。それでね、各機関、学校も休みにして、鉄鋼が必要だというので、みな工場になった。
子供たちの背丈くらいの溶鉱炉を作って製鉄するというのだから驚いた。中国がみんな気違いになった。学校の鉄棒も、家庭の風呂がまも持っていって溶かした。結局は公式の統計では延吉で2,000人が飢え死んだという。それでいて新聞、雑誌、ラジオすべてが偉大なる「大躍進」をたたえた。
この家の前の道で毎日、「勝利隊」―勝利を報告する隊―がドラをならしラッパを吹きながら大躍進をたたえた。これは全部ウソだ」(「中国朝鮮族文学の歴史と展開」大村益夫 第3章(聞き書き)金学鉄―私の歩んだ道)』。大村益夫(おおむらますお)と金学鉄(キム・ハクチョル)の著書からの引用文です。
引用文の内容から、共産主義を批判し否定する工作員によるものだと感じます。これは、2つの勢力を戦わせて利益を得る八咫烏の工作の手法です。体制派VS反体制派のように、反対勢力を意図的につくって対立させ戦わせる工作です。この偽装工作の源流が戦争です。本来の戦いは、勝敗を決するために行うものです。
しかし、大規模の戦いである国家ぐるみの戦争は、人間のエゴに由来する狡さからいかさまの八百長が行われてきました。2つの軍隊の上層部が手を結んで、市民や現場の兵士たちを犠牲にした松工作による金儲けを行ってきたのです。戦争は、多くの犠牲者を生むために、遺体を原材料にした松利権に直結します。
松利権の象徴的な物が、若返りに効果があると言われる高級麻薬であるアドレノクロムです。こうした偽装の対立工作は、現在でも行われています。世界の自由主義VS社会主義、国会の与党VS野党、原発推進派VS原発反対派などの対立構図です。こうした対立構図の全てが支配層によるいかさま・八百長です。
一般大衆を騙して、真実を隠蔽しながら金儲けを行っているのです。こうした偽装工作はテレビの世界で言う「やらせ」「プロレス」と同じです。私を含めて多くの人たちが支配層の巧妙な工作に騙されてきましたが、もう気づいて目覚める時に来ています。延吉市-wikiの歴史に記載された「大村益夫」と「金学鉄」を追っていきました。
大村益夫の経歴はwikiに記されています。『大村益夫(1933年-2023年)は、中国・朝鮮文学者、早稲田大学名誉教授。[生涯]東京生まれ。父は童謡詩人の大村主計。1957年早稲田大学政治経済学部卒、1962年東京都立大学 (1949-2011)大学院中国文学専攻博士課程中退。1964年早稲田大学専任講師、1972年早大語学教育研究所助教授、教授。
2002年定年、名誉教授。2013年4月瑞宝中綬章受章。2023年1月15日、悪性リンパ腫により死去。89歳没』。大村益夫は、早稲田大学出身の早稲田大学名誉教授です。《仲間と共に明治維新をつくった早稲田大学の創立者・大隈重信とオランダ人工作員の建学の祖・フルベッキ》にありますが、早稲田大学の創立者・大隈重信は、明治期に活躍した支配層・八咫烏の代表的工作員の1人です。
早稲田大学は、歴史的にも支配層・八咫烏亀派に重きを置く工作員の養成学校の役割だったと捉えています。大村益夫の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。やはり工作員の役割だったようです。金学鉄(キム・ハクチョル)の経歴はwikiに記されています。『金学鉄(1916年-2001年)は、朝鮮の独立運動家、中国朝鮮族を代表する作家。
本名は洪性傑。「朝鮮義勇隊最後の分隊長」とも呼ばれた。代表作に1930年代に北間島で繰り広げられた抗日闘争を扱った「語れ、海蘭江」(1954年)、貧しい漁師の息子が民族解放の闘士に成長する「激情時代」(1986年)、毛沢東の個人崇拝を批判した「二十世紀の神話」等がある。反動分子として批判され20年余りにわたって「労働改造」に服し、文革中に10年間投獄された。
1977年釈放され1978年名誉回復。「二十世紀の神話」など代表作は1990年代に韓国で紹介された。[略歴]1916年11月4日、朝鮮の咸鏡南道・元山生まれ。中学時代にソウルで光州学生運動に参加して逮捕される。普成高等普通学校在学中に独立闘士を夢見て上海へ渡り、民族主義的な武装テロ組織「義烈団」に加入する。
1936年、創作を開始、朝鮮民族革命党に加入。1938年、黄埔軍官学校を卒業。1938年10月、漢口で結成された朝鮮義勇隊に加わり分隊長として活躍する。1940年、中国共産党入党。1941年12月12日、河北省石家荘市胡家荘で第108旅団(旅団長・洪思翊少将)と交戦して重傷を負い(胡家荘戦闘)、意識不明のなかで日本軍の捕虜となる。
1942年5月、石家荘の日本総領事館警察署に拘留された後、長崎刑務所(諫早市)に移送される。1943年4月29日、長崎地方裁判所で懲役10年の実刑判決を受ける。1945年2月、転向書を書かなかったという理由で脚の治療を受けられず、監獄で左脚を切断。1945年10月6日、GHQによる政治犯の釈放指令により釈放。
朝鮮に戻り、朝鮮独立同盟ソウル委員会の委員として政治活動に従事。1946年8月に短編「烟葉湯」を発表して認められる。1946年10月末、アメリカ軍政下で左翼運動が弾圧されるとソウルを脱出して平壌へ向かう。その時の護衛兵と結婚する。労働新聞記者、外金剛休養所所長、「民族軍隊」主筆などを務める。
1951年、朝鮮戦争時に、米軍に押し出されて北京へ入る。丁玲が所長を務める北京・中央文学研究所の研究員となり「文学修行」する。1952年10月、朱徳海らに招かれ延吉に移り住み、延辺文学芸術界連合会準備委員会主任を務める。1953年7月、延辺州教育局が組織した中学生の夏季キャンプで文学講義を行う。
朝鮮語の乱れ(漢語の影響)を批判。1954年、長編小説「語れ、海蘭江」を発表する。1957年、反右派闘争で「語れ、海蘭江」が反動的な作品として批判される。1961年3月、北京のソ連大使館へ亡命をはかるも捕らえられ延吉に送り返される。1964年3月、反右派闘争の経験にもとづいて毛沢東を批判した「二十世紀の神話」をひそかに脱稿。
日本で出版することを念頭に日本語に訳す作業をすすめる。1966年12月、文化大革命が始まると紅衛兵など造反派によって自宅が家宅捜査を受け、「二十世紀の神話」(現在も中国では発禁)の原稿が見つかる。朱徳海、崔采、裵克(延辺大学副校長)らが出入りしていた自宅が反革命分子の巣窟とされる。
1974年4月、延吉の文化宮殿で裁判にかけられる。弁護人はおらず群衆が参観。「自分で自分を弁護する」と言ったところ、市民兵らに縄で首を締め上げられ、金棒で雑巾を口に詰め込まれる。懲役10年の実刑判決、敦化の秋梨溝監獄に収監される。1977年12月、満期釈放。1977年、「二十世紀の神話」の原稿返却を求めて控訴。
1978年、名誉回復。1980年12月、「二十世紀の神話」について、「発表されていないから社会的影響力はなかったし、原稿を書くこと自体は犯罪を構成しない」としてあらためて無罪の判決を受ける。執筆停止が24年ぶりに解除される。1983年、抗日回想記「抗日別曲」を黒龍江朝鮮民族出版社から出版。
1985年、中国国籍を取得し、正式に中国作家協会延辺分会に入会、分会副主席を務める。「金学鉄短編小説集」を延辺人民出版社から出版。1986年3月、遼寧民族出版社から長編小説「激情時代」が出版される。1987年6月、「金学鉄作品集」を延辺人民出版社から出版。1987年、「二十世紀の神話」の原稿が当局から返却される。
1989年9月〜12月に韓国を、12月に日本を訪問する。1993年4月、眼の治療のため日本を訪問。1994年、韓国KBSテレビから「海外同胞賞」特別賞を受賞。1996年12月12日、ソウル・プレスセンター宴会場で「20世紀の神話」(創作と批評社)の出版記念会が開かれる。李壽成(国務総理)、高銀(詩人)、白楽晴(文芸評論家・ソウル大学校教授)が祝辞を述べる。
2001年9月25日、延辺で死去。2001年9月27日、遺言通り豆満江に散骨』。金学鉄の経歴から反体制派の工作員の役割を担っていたと感じます。日本の支配層・八咫烏は、現地の人を工作員に仕立てて利用してきました。中国朝鮮族の金学鉄は、八咫烏の現場工作部隊である日本軍の捕虜になっており、八咫烏の工作員だったと見ています。
中国朝鮮族である故に、中国派の八咫烏鶴派と朝鮮派の八咫烏亀派を対立させ戦わせる同和派の役割も兼ねていたと捉えています。金学鉄の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。やはり、八咫烏の工作員だったようです。八咫烏でもある日本軍は、中国吉林省延辺朝鮮族自治州延吉市の現地の人を工作員に養成して利用していたのです。
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