輝くあなたを取り戻して

輝くあなたを取り戻して

輝くことを忘れてしまったあなたが、もう一度、光を取り戻すための一助となれば幸いです。

私たちは魂がより輝くために暗闇の地球で体験しています。地球を暗闇にするために真実が隠されてきました。しかし、地球は、今、光の幕開けを迎えています。地球も人も闇を卒業するために、隠蔽されてきた真実を探求していきたいと思います。読者の皆様が幸せを感じられるお手伝いができれば嬉しいです。

「社会福祉法人賛育会は、ワークの結果から支配層の松利権という裏の金儲けの仕組の拠点に成っていると見ています。賛育会病院は今年から赤ちゃんポストを始めました。赤ちゃんポストは、子どもの命の救済と母親の支援という慈善行為と思われますが、実は、支配層の松システムの一環だと捉えています。」

 

早稲田奉仕園から繋がった「社会福祉法人賛育会」の歴史を振返り、設立者や代表者の調査とワークを続けました。前回の記事で、賛育会の設立者・藤田逸男(第3代理事長)について光を降ろすと「松喰い」と伝えられました。自ら松を食す支配層の工作員の役割だったようです。次に、賛育会設立者で、賛育会病院の初代院長である「河田茂」に焦点を当てました。

 

河田茂のプロフィールは、賛育会の公式サイトに記載されています。『1890(明治23)年1月2日生まれ、埼玉県出身。熊本の第五高等学校に入学、在学中に千反畑教会(現材の錦ケ丘教会)にて受洗。その後、東京帝国大学医科大学医学科へ進学。東京帝国大学学生YMCAに入会し、多くの知己を得た。

 

1917(大正6)年、東京帝国大学学生YMCA「大学青年会医院」が開設され、近隣の人びとへの無料診療に医師として中心的な働きを成す。1918(大正7)年、その働きを拡大すべく木下正中・吉野作造らと共に同志的団体の「賛育会」を設立し、賛育会妊婦乳児相談所を開設。賛育会常務理事と相談所の医師として下町の母子の為に一身を捧げた。

 

翌年、土地の事情により本所区柳島梅森町(現、太平3丁目あたり)に「賛育会本所産院」として移転開設。1923(大正12)年、賛育会本所産院院長に就任した。同年9月1日に関東大震災にて罹災するも、宮内庁へ赴き交渉の結果、壱千円の救済金を下賜され、賛育会を復興の途につけた。

 

この賛育会の再生にあたり、その働きを善意に依存する従来の救貧慈善事業から、実費徴収方式の社会事業へと転換し、1926(大正15)年の財団法人化へと発展する。これは、患者を「施される立場」から、「自立への支えを必要とする立場」へと昇華させただけでなく、必要な運営費を自ら賄うことで賛育会運営を自立させる契機となった。

 

やがて1930(昭和5)年に本所産院は、鉄筋3階建ての賛育会病院と発展し、その初代院長に就任する。その後、1959(昭和34)年に天に召されるまで賛育会病院院長として、賛育会内外を問わず社会事業に情熱を注ぎ続けた。紫綬褒章(1944年)、勲五等瑞宝章(1960年)が授けられた』。賛育会の設立者で賛育会病院の初代院長の河田茂の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松喰い」と伝えられました。

 

自分で松や松製品を嗜みながら松利権という裏金の恩恵を得ていた工作員の役割だったようです。支配層の松利権工作員は、最終的には天皇に対する寄与を成したことで、褒章などの栄誉を授与されます。河田茂にも紫綬褒章や勲五等瑞宝章などの勲章が授けられました。現実的には多くの人が勲章を受けることが栄誉で素晴らしいことと理解しています。

 

しかし、支配層の松利権や松システムを理解すると、勲章が密かに闇の仕事を成した工作員の証だと分かってくるのです。次に、賛育会の設立者で元理事長の「片山哲」に移りました。片山哲の経歴は《コトバンク》に掲載されています。『片山哲 かたやまてつ(1887-1978) 社会民主主義右派の政治家、クリスチャン。

 

明治20年7月28日和歌山県に生まれる。東京帝国大学独法科を卒業し、弁護士となる。1920年(大正9)法律の民衆化を唱えて星島二郎と中央法律相談所を開設、日本労働総同盟、日本農民組合などの法律顧問も務め、無産者の訴訟に尽力した。1926年社会民衆党(委員長安部磯雄(あべいそお))の創立とともに書記長に就任、1930年(昭和5)第2回普通選挙で神奈川県から衆議院議員に当選。

 

1932年社会大衆党結成に参加したが、1940年日中戦争批判の演説をした民政党斎藤隆夫(さいとうたかお)代議士の除名に反対し、社大党から除名された。第二次世界大戦後、日本社会党結成の中心となり書記長に就任(委員長は空席)、1947年(昭和22)社会党首班の三党連立片山内閣を組織し、新憲法下で民主化政策を推進した。

 

しかし、炭鉱国家管理法案が与党民主党などの反対で骨抜きになり、平野力三農相罷免問題から社会党左派が党内野党化し、わずか8か月で総辞職した。1950年社会党委員長を辞任。1955年の左右社会党統一後は党最高顧問となったが、1960年民主社会党結成時に脱党し、民社党の最高顧問となった。

 

また1954年以来憲法擁護国民連合議長を務めていたが、1960年には民社党系の憲法擁護新国民会議を結成し、その議長に就任した。1963年11月の総選挙は民社党公認で立候補したが落選、1965年に民社党を離脱し、政界の一線から退いた。その後も護憲と日中友好に力を尽くしていた。昭和53年5月30日死去、90歳』。

 

片山哲は、中国派(八咫烏鶴派)の政治家として活動していたようです。中国派は朝鮮派と対峙する勢力で、支配層・八咫烏鶴派(欧州・中国・ロスチャイルド・創価学会)に属します。それに対して、朝鮮派は、八咫烏亀派(米国・朝鮮・ロックフェラー・統一教会)の勢力に属します。

 

中国派(八咫烏鶴派)と朝鮮派(八咫烏亀派)が対立・戦うことで深い闇の日本がつくられてきました。この鶴亀の2勢力を包括する同和派も存在しています。八咫烏鶴派と亀派の上層部が、鶴亀の2派を戦わせる、二枚舌を使う重たい汚い闇の同和派として暗躍してきました。賛育会の設立者で元理事長の片山哲の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。

 

「同和」と伝えられました。片山哲は、八咫烏鶴派に重きを置く同和派の工作員の役割だったようです。次に、賛育会の設立者で元理事の「星島二郎」を追跡していきました。星島二郎の経歴はwikiに記されています。『星島二郎(ほししまにろう・1887年-1980年)は、岡山県児島郡藤戸町(現・倉敷市藤戸町)出身の弁護士、政治家。衆議院議員。

 

元衆議院議長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。[来歴・人物]岡山中学校、第六高等学校、東京帝国大学卒業。政界入りする前は弁護士であり、東京・日比谷に片山哲らと中央法律事務所を開設し、森戸事件等を担当した。戦前は普通選挙運動、婦人参政権、公娼廃止に熱心な自由主義的・進歩的な立場を貫き、 母性保護連盟の委員として母子保護法の成立(1937年)にも尽力した。

 

戦時中も議会政治擁護の立場を変えなかった。戦後は山崎首班工作に関与したこともあった。あと4年議員を続ければ名誉議員の資格である議員在職50年の表彰を受けることができる状況で、秘書の加藤六月を後継者に指名し、政界を引退。政界引退後は自民党顧問、共立女子大学理事を務めた』。

 

賛育会の設立者・元理事の星島二郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松喰い」と伝えられました。やはり自らが松を食した支配層の工作員の役割だったようです。賛育会の設立者・元理事長・元理事などの歴代の要人の調査とワークを行った後は、現在の理事長などの幹部の調査とワークに移ります。

 

社会福祉法人 賛育会の理事長・理事・評議員の役員一覧は公式サイトに掲載されています。賛育会の役員の中からワーク対象の要人として、理事長・平野昭宏、常務理事・中村基信を選びました。賛育会の理事長・平野昭宏の経歴は、理事就任時に自らが記したプロフィールとして公式サイトに記されています。

 

『このほど理事を拝命しました、公認会計士・税理士の平野と申します。日頃は東大YMCAのOBとして理事長特別顧問を拝命しております。出身は長崎県五島列島の出身で、隠れキリシタンの末裔です。1800年頃長崎外海の迫害から逃れ移り、私で七代目になります。

 

この百年以上歴史のある東大の若者が作った賛育会の病院施設等の立て直し時期に呼ばれたのは、ご使命なのかと思います。先祖が清財を持ち寄って作った教会の立て直しと似たところがあります。少しでも皆様のお役に立てれば幸いです』。また、平野昭宏自らが所長を務めている平野公認会計士税理士事務所の公式サイトにも経歴が記述されています。

 

『名前:公認会計士・税理士 平野昭宏 出身地:長崎県 生年月日:昭和33年 趣味:囲碁 所有資格:昭和52年4月東京大学文科3類入学 昭和57年3月東京大学法学部卒業 公認会計士 経歴 ・昭和57年 ~平成2年 三井信託銀行にて、預金信託・外為事務・国内融資(三菱重工グループ担当)・新規開拓・スワップ付外債販売・外国株式デイーリングに従事。

 

・平成3年 ~平成5年 森田義男税務会計事務所にて、相続税・譲渡所得税を中心とする資産税業務に従事。・平成5年10月公認会計士2次試験合格・平成6年 ~平成9年 太陽監査法人にて、監査業務(4社)・法人税務(8社)・資産税・コンサルティング業務(延べ4社)に従事。山梨学院大学商学部非常勤講師兼務。

 

・平成10年~現在 平成9年公認会計士3次試験合格し、平野公認会計士事務所開設、税務・コンサルティングの他、太陽監査法人非常勤勤務、他多数法人の監事等兼務。平成22年7月1日より、新所長に就任』。賛育会の理事長・平野昭宏は、元々は公認会計士・税理士であり、賛育会のトップになったことは金の闇が色濃くなっていることを暗示します。

 

社会福祉法人 賛育会の理事長・平野昭宏、常務理事・中村基信本部所在地(東京都墨田区太平3丁目17-8)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「統一。半島」「半島」「いいです」と伝えられました。やはり賛育会のバックには、統一教会の闇が潜んでいるようです。《日本の光を封印する朝鮮半島・韓国の松果体収穫の闇の仕組》にありますが、統一教会は、支配層・八咫烏亀派の胴元工作組織です。

 

統一教会と対抗する宗教団体が八咫烏鶴派の胴元工作組織の創価学会です。統一教会は、支配層の松利権という裏金の金儲けとなるアドレノクロムなどの松製品の製造販売を担っていると推測しています。それ故に、アドレノクロムなどの松製品の原料となる子どもの松果体を定常的に入手しているのです。その拠点の1つが賛育会や賛育会病院だと見ています。

 

賛育会は支配層の松システムの重要拠点の1つになっていると推察します。次に、社会福祉法人 賛育会が運営する「賛育会病院」に焦点を当てました。賛育会病院の情報はwikiに記されています。『社会福祉法人賛育会 賛育会病院は、東京都墨田区太平三丁目にある医療機関。社会福祉法人賛育会が運営するキリスト教系病院である。

 

もともと産院として発足したが、のちに他の診療科も発展して総合病院の承認を受けている。東京都の地域周産期母子医療センター(NICU6床)の機能を有するほか、1998年6月には区東部保健医療圏(墨田区・江東区・江戸川区)の先駆となる緩和ケア病床(22床)を設置している。病院の理念は、「キリスト教の「隣人愛」の精神に基づいた医療・保健活動を行い地域社会に貢献します。」

 

設置母体である賛育会(墨田区太平三丁目17番8号)は、東京都のほか、長野県、静岡県で病院事業、訪問看護事業、高齢者福祉事業を手がけるほか、指定管理者として墨田区や中央区の特別養護老人ホームの運営を行っている』。賛育会病院については、「いのちのバスケット」という赤ちゃんポストを始めたことで話題になっています。

 

2025年4月1日の日本テレビの記事《「赤ちゃんポスト」都内に初設置、全国で2か所目 遺棄や虐待防ぐため…課題も》で賛育会病院の赤ちゃんポストについて詳細を伝えています。『親が育てられない赤ちゃんを匿名で受け入れる「赤ちゃんポスト」が、東京都内の病院で始まりました。緑のランプのついたドアの先。

 

中にあるのは、大きなかご。様々な理由から親が育てられない赤ちゃんを、病院に匿名で託すための場所です。3月31日、東京・錦糸町駅の近くにある病院が発表したのは、いわゆる“赤ちゃんポスト”と、一部の病院職員にのみ身元を明かして出産する「内密出産」の開始。賛育会病院 賀藤均院長「昨今の予期せぬ妊娠や、孤立出産の悩みを抱える女性の増加や、虐待死などの痛ましい事件が後を絶ちません。

 

赤ちゃんの遺棄や虐待を回避するための、緊急かつ最終的な手段であると認識しております」匿名性を守りつつ、預けた人が最後に病院職員に相談できる機会を持てるように、病院の中に専用の部屋を用意。医療機関運営の“赤ちゃんポスト”は、全国で2か所目です。国内で初めて設置されたのは、熊本にある慈恵病院。

 

2007年に始まり、179人が預けられました。1人で悩みを抱えた様々な母親が“赤ちゃんポスト”を頼ってきました。「妊娠し同棲(どうせい)しようとした矢先に、婚約者が行方不明となった。1人では経済的に育てられない」「同級生との間で妊娠したが、交際の支障になると考え妊娠を告げていない。1人で自宅出産」そして、熊本にあるにもかかわらず、15パーセント以上が関東から来た人でした。

 

東京に“赤ちゃんポスト”ができることは、救える命が増える一方で、“想定以上”の預け入れが生じるおそれも。専門家は…。千葉経済大学短期大学部 柏木恭典教授「需要は大都市にある。これは1病院で抱えきれる規模のものなのかという心配」賛育会病院は、“赤ちゃんポスト”のほかに、内密出産も受け入れますが、その費用50万円ほどは“原則”自己負担に。

 

これについて、すでに内密出産の取り組みを病院で行っている熊本の慈恵病院は…。慈恵病院 蓮田健理事長「内密出産を求める女性は、ほとんどお金がなくてきます。あまりにもこれは非現実的です」課題も山積みですが…。賛育会病院 中村基信常務理事「様々な課題やリスクを伴うことではありますが、将来このような取り組みが必要のない社会になることを願って」

 

赤ちゃんポストや内密出産は、あくまでも“最後のとりで”。そこに向かわずに済むように、賛育会病院は妊娠をめぐる相談窓口を設けています』。赤ちゃんポストの闇については、過去に調査とワークを実施ています。《熊本の慈恵病院や世界各地に置かれている赤ちゃんポストの闇》に詳細を記述しています。

 

赤ちゃんポストは、支配層の松システムの1つだと捉えています。赤ちゃんの命を救い、お母さんを助けるという善意を前面にして、実は裏で支配層の松利権の仕組となっていると見ています。弱者を前面に出して裏で利益を得る"同和の工作"を成しているのです。光に見せかけた汚い闇です。こうした裏工作が成され人々を騙すトラップやトリックが世の中には沢山あります。

 

一人ひとりが、経験と感覚から嘘に騙されないで、真実を見抜いていくことが大事になります。社会福祉法人賛育会賛育会病院の病院長・賀藤均の経歴は《ホスピタルズ・ファイル》に記されています。『1981年新潟大学医学部卒業後、東京大学医学部小児科学教室入局。トロント大学医科学研究所留学 、東京大学医学部小児科講師などを経て、2008年国立成育医療研究センターに赴任。

 

2014年から2021年度まで院長を務めた。定年退職後、2022年より賛育会病院副院長を務め、2024年院長に就任。専門は小児循環器病学で世界水準の医療の推進に努めてきた』。社会福祉法人賛育会賛育会病院の病院長・賀藤均所在地(東京都墨田区太平3丁目20-2)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「松喰い」「いいです」と伝えられました。

 

やはり自らが松を食す支配層の工作員の役割のようです。最近、東京都墨田区で赤ちゃんのバラバラの遺体が冷蔵庫から見つかったという事件のニュースが流れました。これは賛育会や賛育会病院の隠された闇が浮上したと感じます。2025/12/18の毎日新聞の記事《風俗店の乳児遺体 母親で従業員の22歳、死体損壊・遺棄容疑で逮捕》で詳細が伝えられています。

 

『東京・錦糸町の派遣型風俗店で冷蔵庫から切断された乳児の遺体が見つかった事件で、警視庁捜査1課は18日、母親でこの店の従業員、小原麗容疑者(22)=住所不定=を死体損壊と死体遺棄容疑で逮捕した。「出産した時に泣きも動きもしなかった。隠さなきゃと思ってバラバラにした」と供述しているという。

 

逮捕容疑は、3月上旬に東京都内で、生後間もない女児の遺体を切断。その後、発見された12月6日までの間に遺体の頭と両手足をポリ袋やプラスチック容器に入れて、墨田区内の店事務所にある冷蔵庫の冷凍室に隠したとしている。警視庁によると、遺体が入っていたポリ袋から検出された指紋が小原容疑者のものと一致した。

 

またDNA型鑑定でも、乳児と親子で矛盾がないとの結果が出たという。事務所は女性従業員の待機場所としても使われており、小原容疑者は調べに「待機所で産んだ」と説明。出産後にしばらく気を失い、「目が覚めたら赤ちゃんは変色していた」とも供述している』。乳児や子どもの命を犠牲にして支配層の松利権という裏の金儲けの仕組が終わりに成ることを願っています。

 

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「早稲田奉仕園から社会福祉法人賛育会に繋がりました。賛育会は、赤ちゃんポストを設置した賛育会病院を有する東京都墨田区にある社会福祉法人です。1918 年(大正7年) 3月に東大YMCAの特別会員有志である木下正中、吉野作造、藤田逸男、河田茂、片山哲、星島二郎らの有名なキリスト者によって設立されました。」

 

早稲田奉仕園の評議員・大江浩が事務局長に就く「社会福祉法人賛育会赤ちゃんのいのちを守るプロジェクト」が気に成って追跡していきました。社会福祉法人賛育会の「赤ちゃんのいのちを守るプロジェクト」の情報は、公式サイトに記載されています。『〈賛育会の沿革と「赤ちゃんのいのちを守るプロジェクト」の開始について〉賛育会は現在、東京都、長野県、静岡県で医療・高齢者福祉・保育を行っています。

 

1918 年に東京大学 YMCA(キリスト教青年会)の有志が、東京下町の貧しく、弱い立場にあった母子の保健・保護のために無料の医療相談を始めました。この慈善事業が賛育会の始まりです。日本初の一般庶民向け産院や訪問看護を始めながら、慈善事業から財団法人、社会福祉法人へと形を変えて107年間、地域の皆さんとともに生きています。

 

錦糸町にある賛育会病院でこれまでに産まれた赤ちゃんは延34 万人になります。戦時中、患者に疎開をお願いしていた長野と、戦争で焼失した孤児院の移転先を探す中で紹介された静岡でも医療を始めました。また、1964年に東京都町田市に特別養護老人ホームを開設し、その後、長野と静岡でも高齢者福祉事業を行うようになりました。

 

現在では東京都江東区で保育園も開設し、賛育会の理念であるキリスト教の「隣人愛」を実践しています。 創立から百年過ぎてもなお、行き場のない母子がいて、赤ちゃんがコインロッカーや公園、海岸に置き去りにされることが繰り返される現実を踏まえると、母子の保健・保護の充実の必要性は現在も増していると考えています。

 

コロナ禍で計画が進まない時もありましたが、賛育会は約5年の歳月をかけて、各所の見学、検討を重ね、コロナ禍後からは行政にも相談をさせていただきながら、本日、錦糸町の賛育会病院で「内密出産」の受け入れと匿名による赤ちゃんの預け入れを「ベビーバスケット」として開始することとしましたので、皆様にお知らせいたします。

 

賛育会病院では現在も、複雑な事情や背景をお持ちの妊婦さんや外国籍の方を含めた一定数の飛び込み出産、特定妊婦を受入れています。内密出産とベビーバスケットは、これまでの病院の働きの延長上にあるものとして開始しますが、本会組織全体で、行政や関係機関と連携して母子の命に寄り添うものです。

 

様々な課題やリスクを伴うことではありますが、賛育会は将来、このような取り組みが必要のない社会になることを願って、赤ちゃんのいのちを守る最後の砦として、内密出産とベビーバスケットを始めます。 最後に、法制度のない中でも賛育会の相談に乗ってくださり、私たちと一緒に母子の命・保護を最優先に考えてくださる行政の皆様、関係機関の皆様がいることに感謝いたします。

 

弱い立場にある母子の保健・保護のために、内密出産とベビーバスケットへのご理解、ご協力をどうぞ宜しくお願いいたします。 2025年3月31日 社会福祉法人 賛育会』。「赤ちゃんのいのちを守るプロジェクト」とは、具体的には「ベビーバスケット」と呼んでいる「赤ちゃんポスト」のことです。

 

wikiには、「赤ちゃんポスト」の詳細が書かれています。『赤ちゃんポストは、諸事情のために育てることのできない赤ちゃん(新生児や子ども)を親が匿名で託すための施設、およびそのシステムの日本における通称である。日本では、医療機関で設置されたものとしては熊本県と東京都の2カ所に設置されている(2025年4月時点)。

 

熊本県熊本市西区にある慈恵病院では「こうのとりのゆりかご」という名称を使用している。慈恵病院は「こうのとりのゆりかご」の活動により、公益財団法人社会貢献支援財団より2014年度社会貢献者表彰「社会貢献の功績」を受けている。東京都墨田区にある賛育会病院では「いのちのバスケット」という名称を使用している』。

 

熊本の慈恵病院や世界各地に置かれている赤ちゃんポストの闇》にありますが、「赤ちゃんポスト」には、支配層の松利権工作の闇が潜んでいます。表面的には、実の親が育てられない赤ちゃんの命を助けるという慈善行為ですが、その裏には、支配層の裏の金儲けという子どもを犠牲にした松利権の闇があるのです。

 

社会的弱者を前面に出した「同和」の手法工作と言えます。同和の手法は、社会的弱者を助けるという名目のために、人々の反対や批判が出来にくくする効果があります。こうした「赤ちゃんポスト」は、日本のみならず世界各地に存在します。wikiには、『日本国外でもこうしたシステムを採用している国や地域が多数存在する。

 

現代においての設置数の上位国は、ドイツで100箇所、パキスタンで300箇所以上である』と記されています。現在も尚、子どもの命を犠牲にした支配層による金儲けが密かに行われているのです。早稲田奉仕園の調査とワークを行うタイミングで、私の左手の小指に軽痛のサインが来ていました。

 

小指は、子どもを意味する指であり、明らかに子どもを犠牲にした松取り・松利権だと直感していました。早稲田奉仕園を調べ始めた時は、分かりませんでしたが、「賛育会」の「赤ちゃんポスト」に辿り着いた時点で、小指の軽痛のサインは、賛育会病院の赤ちゃんポストだと感じました。

 

古くから隠された、支配層の裏の金儲けの真実を明らかにするためにも、隠された闇・松利権の闇のエネルギーを解除する必要があります。そのために、賛育会の歴史を辿って、幹部・要人・関連の土地を調べて、光を降ろすワークを行っていきました。「社会福祉法人賛育会」の情報は公式サイトに記載されています。『名称:社会福祉法人 賛育会 設立:1918年(大正7年)3月16日 代表者:平野昭宏(ひらのあきひろ)(理事長) 

 

目的:この社会福祉法人(以下「法人」という。)は、キリスト教の趣旨に基づき、多様な福祉サービスがその利用者の意向を尊重して総合的に提供されるよう創意工夫することにより、利用者が、個人の尊厳を保持しつつ、心身ともに健やかに育成され、又は自立した生活を地域社会において営むことができるよう支援することを目的として、次の社会福祉事業を行う。

 

1) 第一種社会福祉事業 (イ)特別養護老人ホームの経営 (ロ)軽費老人ホームの経営 2) 第二種社会福祉事業 (イ)無料又は低額な料金で診療する事業の経営 (ロ)無料又は低額な費用で介護老人保健施設を利用させる事業の経営 (ハ)無料又は低額な費用で介護医療院を利用させる事業の経営 (ニ)老人デイサービスセンターの経営 

 

(ホ)老人介護支援センターの経営 (ヘ)老人デイサービス事業の経営 (ト)老人短期入所事業の経営 (チ)老人短期入所施設の経営 (リ)老人居宅介護等事業の経営 (ヌ) 認知症対応型老人共同生活援助事業の経営 (ル)障害福祉サービス事業の経営 (ヲ)保育所の経営 法人事務所:東京都墨田区太平3丁目17番8号 

 

施設事業所:東京都墨田区太平3丁目17番8号 東京都( 墨田区・中央区・江東区・町田市) 長野県(長野市) 静岡県 (御前崎市・牧之原市) 事業内容:ー高齢者福祉 特別養護老人ホーム 介護医療院 ケアハウス グループホーム 高齢者在宅サービスセンター ヘルパーステーション 地域包括支援センター 居宅介護支援事業所 

 

ー医療・保健事業 病院 診療所 介護老人保健施設 訪問看護ステーション 健康診断施設 ー保育事業 認可保育園 職員数〈2025年4月1日 現在〉全体 1,965名 ・正職員 :969名 ・契約職員 :996名 事業のご案内:社会福祉法人賛育会』。公式サイトの沿革には、賛育会の設立・運営に関係した幹部・要人の関係者の氏名が記されています。

 

『・1918 年(大正7年) 3月16日東京帝国大学学生基督教青年会(東大 YMCA)特別会員有志である木下正中、吉野作造、藤田逸男、河田茂、片山哲、星島二郎氏らにより、 キリスト教の趣旨にもとづき、婦人と小児の保護、保健、救療の目的を持って「賛育会」を創立』。また、賛育会の沿革で目を留めたのは、天皇・皇族が不定期に賛育会の福祉施設を訪問している点です。

 

『1949 年(昭和 24 年) 2月7日高松宮殿下、賛育会病院をご視察。・1949 年(昭和24年)4月7日高松宮殿下、豊野病院をご視察。・1951年(昭和26年) 10月10日天皇・皇后両陛下、賛育会病院をご視察。・1955 年(昭和 30 年) 5月23日高松宮殿下、東海病院をご視察。・1967年(昭和42年) 6月 21日高松宮・同妃殿下、清風園ご視察。

 

・1967年(昭和42年) 9月20日皇太子・同妃殿下、清風園ご視察。・1970年(昭和 45 年)10月29日常陸宮妃殿下、清風園ご視察。・1971年(昭和46年) 4月14日高松宮殿下、東海清風園落成式にご臨席。・2004年(平成16年)9月8日天皇皇后両陛下がマイホームはるみをご訪問。・2018年(平成30年)9月21日皇太子同妃殿下が東京清風園をご訪問』。

 

天皇・皇族は、支配層の上層部の権力者であり、松を食す役割のために社会福祉施設を訪問していたと推測しています。賛育会病院-wikiの沿革に「賛育会の創設」に関する情報が記されています。『賛育会は1888年5月13日に結成された東京帝国大学学生基督教青年会(東大YMCA)の会員有志によって、1918年に創設された。

 

当時の医療は庶民には手の届かないものであり、東大YMCAは庶民に医療を提供するために、まず1917年に無料診療を行う診療所(青年会医院)を設置した。苦情等で医院の継続が困難になると、当時の東大YMCA理事長で東京帝国大学法科大学教授の吉野作造の指導の下、下層の母子に医療を提供することを目的として妊婦及び乳児の相談所を開くことになった。

 

吉野は病没するまで夫妻で賛育会の活動に参加し、指導的役割を果たした。会については「婦人と小児の保護、保健、救療」を目的として、1918年3月16日に第1回総会を開き、設立を決定したとされるが、実際のところは定かではないようである。会の名称は、初代理事長である木下正中(元東京帝国大学医科大学産科学婦人科学講座教授)が「中庸」の第21章にある「天地ノ化育ヲ賛ク(てんちのかいくをたすく、万物の発育を助けるの意)」からつけた。

 

賛育会は1918年4月1日に本所区太平町一丁目27番地の古工場を借りて、「賛育会妊婦乳児相談所」を開設した。これが賛育会病院のはじまりとなった。翌1919年8月1日に本所区柳島梅森町55番地(現在の墨田区太平三丁目20番2号)に相談所を移転する形で本所産院が開設された。これは「日本において庶民を対象とする産院の最初」だったという。

 

医務は木下や河田茂(賛育会専務理事)など、経営面は藤田逸男(賛育会専務理事、東大YMCA主事)、吉野作造(賛育会理事)、星島二郎(賛育会理事、弁護士、後に衆議院議長)、片山哲(賛育会理事、弁護士、後に内閣総理大臣)が参画した。1923年の関東大震災で病院は罹災したが、職員は救護班を設置して救援活動にあたった。

 

しかし、それまで木下の主張などにより原則無料診療であった病院は、それまで経済的に支援してきた木下の病院が同時に焼失したため、自立を要請され、無償の慈善事業から有償の社会事業に転換することになる』。「社会福祉法人 賛育会」の関係者・要人を追跡するにあたり、まず、設立者である木下正中、吉野作造、藤田逸男、河田茂、片山哲、星島二郎の6人の調査とワークを進めました。

 

公式サイトには、『1918 年(大正7年) 3月16日東京帝国大学学生基督教青年会(東大 YMCA)特別会員有志である木下正中、吉野作造、藤田逸男、河田茂、片山哲、星島二郎氏らにより、 キリスト教の趣旨にもとづき、婦人と小児の保護、保健、救療の目的を持って「賛育会」を創立』と記されています。

 

賛育会の設立者・木下正中の経歴はwikiに記載されています。『木下正中 (きのしたせいちゅう・1869年-1952年)は、若狭国小浜(現・福井県小浜市)出身の医師。医学者。医学博士。[略歴]・1869年(明治2年)、若狭国小浜堀屋敷、木下凞の長男として出生。・1894年(明治27年)、帝国大学医科大学卒業、欧州留学。

 

・1904年(明治37年)、東京帝国大学医科大学教授。・1917年(大正6年)、東京帝国大学教授を退官、浜町病院長就任。・1923年(大正12年)、雲浜奨学会専務理事、後 副会長。・1924年(大正13年)、木下産婦人科病院開設、病院長に就任、日本婦人科学会長。・1929年(昭和4年)、雲城会長。・1932年(昭和7年)、小浜港湾修築期成同盟会設立発起人、相談役。

 

・1952年(昭和27年)1月1日没、82歳。正四位勲三等。 長男-木下正一(木下病院長)。甥-木下昌雄(日立造船社長、木下東作氏長男)』。公式サイトにも、木下正中の経歴が記載されています。『木下正中氏、1869(明治2)年8月19日生まれ。若狭(福井県)出身。東京帝国大学医学部を卒業後、ドイツへ留学。1903(明治36)年東京帝国大学医科大学産科学・婦人科学教室主任(現在の教授職)に就任。

 

日本の産婦人科界の先駆として活躍した。そんな木下と賛育会との出会いは運命的なものがあった。1917(大正6)年9月に東京帝国大学を退職すると、それを機に欧米視察へ行き社会事業についても多くを視察した。その中で「老後の仕事として、"下層者"のための産院を作ってみたいと考えた」と、帰国後の1918(大正7)年初頭、東大基督教青年会(東大YMCA)において、医学部の人の集まりで話したことがあった。

 

その話を契機に木下の所へ相談に訪れたのが、賛育会の前身ともいえる「大学青年会医院」で診療活動に従事する河田茂であった。活動の場を広げようと漠然とした計画を語る河田の話を聞き、語られたのが冒頭の言葉である。木下と当時、東京帝国大学で教鞭をとっていた吉野作造の協力を得て、1918(大正7)年3月16日設立発起人会を開き、かくして賛育会は産声を上げたのであった。

 

賛育会創設期における木下の役割はきわめて大きく、その体を成すにあたっては、木下なくして成しえなかったとも言える。1919(大正8年)年に賛育会が診療所での働きを拡大し、日本初の庶民の為の産院『賛育会本所産院』を建設する際も、その資金のほとんどを、木下独りの働きによって調達されたといって過言ではない。

 

また、賛育会を支える運営資金を集める為、帝国劇場で興行を開いた時も、「あの帝大の木下先生が何か始めたぞ」と人々に知れ渡り、その席を満席に埋めたこともそうである。1923(大正12)年の関東大震災からの復興時に、ロータリークラブからの寄付に添えて「木下博士の賛育会に」とあったことからも、その名声が見て取れる。

 

1926(大正15)年9月10日、賛育会は初代理事長を木下正中とし、財団法人として組織の装いを新たにした。しかし、自身が院長を勤める浜町病院の震災復興に勤しむ中、第1回理事会にてその職責を吉野作造に譲り、木下は評議員として賛育会を支え続けた』。賛育会の設立者・木下正中は、日本の産婦人科界の先駆社である産婦人科医でした。

 

731部隊の石井四郎と師を同じくし産婦人科医で日赤病院勤務だったキヤノンの創業者・御手洗毅》などの記事にありますが、産婦人科は、医療の闇の中核となる支配層の松利権の闇が潜んでいると見ています。賛育会の設立者(初代理事長)・木下正中の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松喰い」と伝えられました。賛育会の設立者・木下正中は、自ら松を食す支配層の工作員の役割を担っていたようです。

 

賛育会の設立者(第2代理事長)・吉野作造の経歴は《コトバンク》に記されています。『吉野作造・よしのさくぞう(1878-1933) 政治学者。大正デモクラシーの理論的指導者。明治11年宮城県古川町(現大崎(おおさき)市)に生まれる。首席で県立尋常中学校を卒業後、二高を経て、1900年(明治33)に東京帝国大学法科に入学、政治学を専攻する。

 

二高時代に、ミス・ブゼルの聖書講義や押川方義(おしかわまさよし)、海老名弾正(えびなだんじょう)らの説教を聞いたのが機縁でキリスト教の信仰をもつ。その後、東大学生時代には海老名が主宰する雑誌「新人」の編集を助けたり、本郷教会を通して安部磯雄(あべいそお)や木下尚江(きのしたなおえ)らのキリスト教社会主義者と交流する。

 

大学では、小野塚喜平次(おのづかきへいじ)の影響を受け、とくに、小野塚の「衆民」主義とドイツ流の国家学や国法学からの政治学の独立を主張する実証主義的方法論を学んだ。1906年、清(しん)国の袁世凱(えんせいがい)の長子の家庭教師として招かれ、翌1907年には北洋法政専門学堂の教師となる。1909年に東大助教授に就任。

 

翌1910年、3か年の欧米留学に出発。ベルリンで牧野英一や佐々木惣一(そういち)らと交遊する。帰国後、1914年(大正3)に教授になり政治史講座を担当する。そうして、1916年1月「中央公論」に代表論文「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」を発表、以後、続々と「中央公論」に「民本主義」の政論を発表して、一躍論壇の寵児(ちょうじ)となる』。

 

賛育会のベースは、東京帝国大学学生基督教青年会(東大YMCA)のキリスト教組織であり、賛育会の設立者(第2代理事長)・吉野作造もキリスト教徒です。賛育会の設立者(第2代理事長)・吉野作造の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。日本を深い暗闇にするための松利権を有する支配層の工作員の役割でした。

 

賛育会の設立者・藤田逸男(第3代理事長)の経歴は《社会福祉法人賛育会公式サイト》に記されています。『1886(明治19)年9月5日生まれ、岡山県出身。苦学した中学時代岡山教会で受洗。旧制六高を経て、東京帝国大学文学部へ進学。東京帝国大学学生YMCAに入会する。当時のYMCAには片山哲、河田茂、星島二郎らがいた。

 

1913(大正2)年、大学を卒業後、東京帝国大学学生YMCA主事となり、追分会館完成後は専務理事として会館運営にあたった。1917(大正6)年、賛育会の前身である東京帝国大学学生YMCA「大学青年会医院」を開設し、その後、河田茂と共に賛育会設立の中心を担う。賛育会設立趣意書は藤田の記したものである。

 

二代目理事長の吉野作造が逝去した後を継ぎ、1933(昭和8)年から1956(昭和31)年に逝去するまで、第三代理事長として23年間、賛育会の運営に当たる。その間、戦時下における運営、東京大空襲で全拠点を焼失した後の解散、長野県への妊産婦乳幼児の疎開、賛育会病院再建と賛育会の復興を成した。

 

静岡県での東海病院設立と激動の時代を乗り切り、その苦闘を、財団法人賛育会三十年外史「賛育会物語」として纏めた。賛育会とは別に、日本で最初の生活協同組合「家庭購買組合」を創設し専務理事として運営にあたる。戦時の物資統制と東京大空襲で組合すべてを失うも、戦後、民間から要求した法律案第一号である「消費生活協同組合法」の制定に尽力した。

 

これは、現在、およそ1000組存在する各生協の根拠法令である』。賛育会の設立者・藤田逸男(第3代理事長)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松喰い」と伝えられました。賛育会の初代理事長と同様に自ら松を食す支配層の工作員の役割だったようです。自分で松や松製品を嗜みながら松利権が絡む松製品を販売している工作員が多いのです。

 

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「暗闇を卒業するために世の中の仕組を知る」についてのお話会(スカイプ)の参加者募集のお知らせ

2025年12月26日(金)13時からZoom(ズーム)を使った「お話会(ズーム)」を開催します。テーマは「暗闇を卒業するために世の中の仕組を知る」です。闇から光への変化であるアセンションは決して自動的に起こるものではありません。隠されてきた真実を知ることが何よりも重要です。過去のヒプノセラピーやエネルギーワークの経験を通じ気づいた世の中の仕組についてお話させていただきます。

【12/26お話会(ズーム)募集要項】

1.イベント名 
お話会(ズーム)

2.講師 
ヒプノセラピスト&スピリチュアルライター 岩本 義明

3.日時 
2025年12月26日(金)13:00~15:30

4.会場 
Zoom(ズーム)を使用したお話会です。参加者の方の家などの居住空間に居ながら受講できるオンライン講座となります。Zoomは、パソコンやスマートフォン・タブレットで利用できる無料のWeb会議ツールです。 ダウンロードしなくても送付のリンクをクリックするだけで、ズーム講座に参加できます。ズームについては以下のページをご参照ください。
※「ズーム(Zoom)について」の詳細のページはこちら⇒Zoom(ズーム)について
      
5.定員 
4名 ⇒定員に達しましたので、募集を締め切りとさせて頂きます。お申込みありがとうございました。

6.参加費 
3,000円

7.内容
(1)お話「暗闇を卒業するために世の中の仕組を知る」

アセンションと呼ばれる闇から光への変化は、決して自動的に起こるものではなく、自分が自助努力する必要があります。地球は深い闇を経験して大きな光になるための魂の修行場です。暗闇の原点は真実を隠すことです。地球の現実世界は目に見える世界です。それ故に、真実を容易に隠すことが出来ます。真実が隠蔽されて嘘や工作が成されることで、多くの人が騙される暗闇の世界に構築されてきました。

自分が本来の姿になる覚醒のためには、隠されてきた真実に気づいて知ることです。それは、一方的に外側の情報を集めるのではなく、自分の経験に基づいて真実を探求することが大事です。自分の体験や経験は嘘をつかないからです。世の中には、多くの嘘が存在しており、自分の経験と感覚で嘘と真実を見分けなければなりません。

覚醒とは騙されない自分になることなのです。今回のお話会では、これまでのヒプノセラピーやエネルギーワークを含めた私の経験を通じて気づいた隠された真実の多い世の中の仕組についてお話させていただきます。

(2)対話の時間

時事問題やニュース、出来事、疑問に思っていることなど、様々なジャンルについて、参加者の皆さまから自由に質問していただき、私が回答する時間となります。

8.お申込み方法
参加を希望する方は、件名を「12/26お話会(ズーム)」とし、下記の内容を添えてメールにてお申込み先までお送りください。
(1)お名前とフリガナ
(2)メールアドレス
(3)ご連絡先(携帯番号)

9.お申込み&お問合せ先
メール:yoiwamo@yahoo.co.jp
スピリチュアルライフ 岩本義明宛
携帯番号:080-5065-0126

10.お支払方法
お申込み時にお伝えします指定の銀行口座への事前振込みとなります。料金のお振込みをもって正式なご予約とさせていただきます。尚、お振込み手数料はお申込みの方のご負担とさせていただきます。

11.キャンセルについて
開催日の3日前までにご予約の取消のご連絡を頂いた場合、料金をお返しいたします。それ以降の場合は、原則としてご返金できかねますので、よろしくお願いいたします。

【お知らせ】
☆「12/22輝く地球・光の講座(フォローアップ:(ズーム))」のご案内New!

☆魂の統合のためのヒプノセラピーとエネルギーヒーリング⇒☆統合ヒプノヒーリングセッションのご案内
☆今世をヒントにした自分を知るための探求⇒☆セルフアウェアネス・セッションのご案内
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