「東京都世田谷区の寺社に豪徳寺と松陰神社を選びました。豪徳寺には、安政の大獄で吉田松陰らを処刑した江戸幕府の大老・井伊直弼の墓所があります。松陰神社は、松下村塾で多くの志士を輩出した吉田松陰が祀られ、子弟の墓所があります。豪徳寺と松陰神社は近距離にあり、明治期の深い暗闇の日本を構築したことを暗示します。」
東京都世田谷区の公園の調査とワークを終えて、次に、世田谷区の寺院と神社の調査とワークを進めることにしました。東京都世田谷区の寺社を調べるにあたり、日本全国の寺社の数について調べました。《都道府県別寺院数ランキング! | お坊さんの知恵袋》によると、『日本の宗教法人数は、仏教系 77,042 神道系 86,648 キリスト系 4,704 諸教 14,271(宗教年鑑 令和元年度版より)』となっています。
日本全国には寺院が約7,7000、神社が約8,600あるということになります。日本全国にあるコンビニ店舗数は、55 ,852(2020年9月度 一般社団法人日本フランチャイズチェーン協会より)といいますので、寺院や神社はコンビニの数より多いことになります。また《都道府県別寺院数ランキング! | お坊さんの知恵袋》には、各都道府県別の寺院数のランキングが掲載されています。
『1. 愛知県 4842 2. 大阪府 3444 3. 兵庫県 3333 4. 滋賀県 3127 5. 京都府 3108』となっています。各都道府県別の神社数のランキングについては、《フクリパ》に情報が掲載されています。『1. 新潟県 4672 2. 兵庫県 3852 3. 福岡県 3409 4. 愛知県3352 5. 岐阜県3264』とあります。寺院の数は、愛知県がお最も多く関西の自治体に多いのは、歴史的な経緯からも納得します。
しかし、神社の数で、新潟県が最も多いのは意外でした。その理由についてネットで調べると《松之山ドットコム》には、『明治後期に政府が出した神社の統廃合を進める合祀政策に新潟県が消極的だったことや、明治時代の新潟県の人口が日本で最も多かったことなどが主な理由として考えられています。
人口が多く、農業や漁業が盛んだった新潟は村落共同体の数も自然発生的に増え、それに比例して神社数も多いということです。また、村落に密着した神社はお祭りも積極的に行われ、数多くの神社が現代までその姿を伝えています』と記されています。人口が多い地域に寺院や神社の宗教施設が置かれてきたのです。
では、東京都や世田谷区の寺社はどうなのか、というと、寺院については《東京都世田谷区の寺院 》に情報があります。『「2025年03月17日」時点において、全国には76,660カ寺(337カ寺は登記閉鎖等)の寺院があります。東京都には2,887カ寺(3カ寺は登記閉鎖等)の寺院があります。東京都世田谷区には123カ寺の寺院があります。これは、東京都の寺院数の4.26%にあたります』。
東京都世田谷区には、123の寺院があります。一方、世田谷区の神社についての情報は、《東京都世田谷区の神社》に記されています。『「2025年02月21日」時点において、全国には80,507社(226社は登記閉鎖等)の神社があります。東京都には1,438社の神社があります。東京都世田谷区には56社の神社があります。これは、東京都の神社数の3.89%にあたります』。
東京都世田谷区には、56の神社があります。東京都の中で寺院の数が多い区・市町村はどこかを調べると《東京都にある寺院の一覧表 》に情報がありました。東京都の寺院総数2,887の内、多い順に、『1. 台東区 346 2. 港区 248 3. 八王子市 158 4. 新宿区 136 5. 文京区 135 6. 世田谷区 123』となっています。
やはり水の場所に神社が多くあると感じます。また、東京都の中で神社の数が多い区・市町村はどこかを調べると《神のやしろを想う》に情報があります。東京都の神社総数1609(平成16年統計データ)の内、多い順に、『1. 八王子市 119 2. 大田区 98 3. 足立区 93 4. 青梅市 76 5. 世田谷区 72 6. 江戸川区 63』となっています。
八王子市は、天皇の墓所もあり、本来は水のある光の場所ですが、寺社を置くことで深い闇に変えられていることが分かります。寺院や神社の宗教施設は、古くからの支配層にとっての隠された松取り場でした。松取り場ということは、裏の金儲けとなる工作拠点です。支配層の松取りによる金が、いわゆる「松利権」です。
大まかには、寺院や神社の数が多い地域ほど、支配層の松利権が大きいことになります。寺院や神社が多い区市町村は、松利権の闇が深い場所ですが、本来は、大きな光の場所であり、深い暗闇に変えられた地でもあると言えます。寺院や神社は、信者などの人々を多く集めて、密かに松取りが成されてきました。その象徴的な催事が「祭り」です。
昔からの寺社の祭りは、支配層にとっての裏の金儲けに繋がる重要な資金源だったのです。《ミシュラン観光ガイドに掲載の工作施設・津軽藩ねぷた村と岩木山神社で封印されてきた津軽富士の岩木山》にありますが、現代における神社の祭りは、観光業と繋がって、多くの観光客を集めるための大規模な祭事になっています。
ここに、観光が支配層にとって表裏の金儲けの仕組であり、隠された裏金の蓄財の闇がある理由でもあります。日本全国の寺院と神社が隠された松利権の闇が潜んでいることは、1つ1つの寺社を繋いだ闇のネットワークを形成していることを意味します。この寺社の闇のネットワークが、支配層の松利権の闇のネットワークであり、松利権網となります。
日本列島には、寺社の闇のネットワークである支配層の松利権網の闇の網が張り巡らされている、ということです。この支配層の松利権網の闇のネットワークを終わらせるために、大きな寺社に祈りを通じて光を降ろして、闇から光に変えていく必要があります。東京都世田谷区において、大きな寺社として、「豪徳寺(ごうとくじ)」と「松陰神社(しょういんじんじゃ)」をワーク対象に選びました。
豪徳寺の情報はwikiに記されています。『豪徳寺は、東京都世田谷区豪徳寺二丁目にある曹洞宗の寺院。元は臨済宗。山号は大谿山(だいけいざん)。一説には招き猫発祥の地とされる。[歴史]本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
文明12年(1480年)、世田谷城主・吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ。当初は臨済宗に属していたが、天正12年(1584年)に曹洞宗に転じる。他に、重臣の關口刑部家一族の墓所が存在しているようだ。寛永10年(1633年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備した。
寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による。平成18年(2006年)に猫の彫り物が施された三重塔が新たに建立された。[招き猫伝説]招き猫発祥の地とする説がある。井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたという。
豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置く。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である』。「招き猫」は、人間のエゴを増幅する闇のツールになっていると捉えています。
人間のエゴを大きくする仕組としては、招き猫の他に、稲荷神社やダルマ(達磨)があります。人間は、お金を多く得たいという願望を持つことで、御利益があるとされる目に見える物を集めてすがるようになります。招き猫は、人間が金に支配されて深い暗闇を経験するための闇の役割だと理解しています。招き猫のルーツを調べると、招き猫-wikiに情報が記されていました。
『招き猫は、前足で人を招く猫の形の置物。猫は農作物や蚕を食べるネズミを駆除するため、古くは養蚕の縁起物でもあったが、養蚕が衰退してからは商売繁盛の縁起物とされている』。招き猫の源流は、猫が蚕を食べるネズミを駆除することからだといいます。そもそも養蚕や製糸業そのものに裏の金儲けという松利権があります。
詳細は《馬と糸を伝って降りる子猫の夢から繋がった養蚕・製糸業の松取りの闇が潜む札幌市中央区の桑園地区》に記されています。より多くの金を得るための招き猫であり、人間のエゴが大きくなるにつれて、小判を持った招き猫や金色などの華やかな色を使った招き猫が生み出されてきたと感じます。また、動物の猫そのものも光から闇に変えられた存在だと捉えています。
《工作の闇のドラコニアンが内在する猫とカメラで仕事をする「世界ネコ歩き」の動物写真家・岩合光昭》にありますが、猫は本来、シリウスが降ろした光の役割でしたが、ドラコ(ドラコニアン)が憑依することで、飼主などの人間を監視する闇の役割に変えられてきました。《ピラミッドの中で奴隷の松取りをしてミイラにした》にありますが、宇宙人のドラコは、人間に松取り工作の知恵を与えてきた存在です。
いずれにしても、豪徳寺に招き猫の起源説があることは、人間のエゴを大きくする闇の役割を担っていたことになります。グーグルマップで豪徳寺を見ると、南側には、世田谷城跡があります。城が城主などの権力者の松果体摂取場所であることから、城跡の地下には闇の地底があることを示唆しています。
豪徳寺や世田谷城跡の地下には、古くからの闇の地底があり、支配層の松関連の地下施設が存在する可能性を感じます。豪徳寺の住職・粕川徹哉、所在地(東京都世田谷区豪徳寺二丁目24番7号)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「シリウスの術師」「いいです」と伝えられました。東京都世田谷区にある松陰神社の情報はwikiに記されています。
『東京都世田谷区若林に所在する。若林は吉良氏の領地だった。旧社格は府社。付近には国士舘大学(世田谷キャンパス)や世田谷区役所がある。松陰神社前駅(東急世田谷線)下車。鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の1863年(文久3年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された。
1882年(明治15年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は1927年から1928年にかけて造営されたものである。松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前が刻まれている。
松下村塾を模造した建物、頼三樹三郎、広沢真臣らの墓もある。松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、明治元年(慶応4年)、木戸孝允がこれを修復整備した。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。また、敷地に隣接する形で桂太郎の墓もあるが、案内が不十分なこともあり、参拝者は少ない。
桂自身の遺言により、この地に埋葬された。ともに松陰神社がある縁から、1996年に世田谷区と萩市は友好都市提携を行っている。1992年より世田谷と萩では商店街などの民間交流がはじまった。若林では「萩・世田谷幕末維新祭り」が開催されている。 境内には松下村塾もあるが、これは萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模し復元建造されたものである。
なお、徳富蘆花の「謀反論」でも書かれているが、谷を挟んだ向こう側には豪徳寺がある。豪徳寺は吉田を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の菩提寺である』。松陰神社には、2014年11月に現地を訪れてエネルギーワークを行っていました。松陰神社の祭神の吉田松陰や弟子たちに光を降ろして御魂を上げています。
また、豪徳寺の井伊直弼(いいなおすけ)の墓所でも純粋な祈りを通じて光を降ろし、井伊直弼の御魂を光に還していました。何よりも日本に大きな影響を与えた先人たちの魂を光に還すことが重要になります。《東京 松陰神社 ~巡礼の旅(174)~》には、概要として『松陰神社の吉田松陰の墓前にて、松陰と門下生たちの御魂が還るよう光の柱を降ろした。
豪徳寺の井伊直弼の墓の前にて「心を鬼にして貫いた」と井伊直弼のエネルギー体が自分の思いを伝えて、井伊家の人々の御魂と共に昇天して行った、東京巡礼の旅』とあります。吉田松陰は、山口県萩市の松下村塾において、多くの幕末維新の志士たちを輩出しました。その名の通り、「松の下の村の塾」であり、裏には支配層の松利権があったと見ています。
安政の大獄で吉田松陰を処刑した、江戸幕府の大老・井伊直弼の墓所がある豪徳寺から東側約700mの場所に吉田松陰を祀る松陰神社があることが、深い意味があります。表面的には敵対関係にあった2人が戦わせて利益を得るという支配層・八咫烏により深い闇の日本をつくる大事な役割を担っていたことを示唆しています。
源平合戦や関ヶ原の戦いなど昔からの戦いや戦争は、支配層の松利権のための工作だと捉えています。2つの勢力を戦わせて対立させることで、深い暗闇の世界をつくってきたのです。東京都世田谷区にある松陰神社の宮司・齋藤憲輝、所在地(東京都世田谷区若林4丁目35-1)に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。
「松下村塾の1人の過去世。東出の役」「いいです」と伝えられました。ネットで調べてみると「東出の役」とは、東出昌大がNHK大河ドラマ「花燃ゆ(はなもゆ)」で演じた久坂玄瑞(くさかげんすい)のようです。松陰神社の宮司は、過去世のカルマの解消のために現在の職を引継いていると感じます。いずれにしても、豪徳寺と松陰神社を含めた土地と地底が本来の姿になることを願っています。
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