つぼみの咲く頃 6話 | Vicissitudes de richesse ~七転八起~

Vicissitudes de richesse ~七転八起~

人生、転んでも立ち上あがれば勝つんですよねぇ
だから、転んでも立ち上がるんです
立ち上がって、立ち上がり続けるんです

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「……歩美は、良い恋をしたよ。」

 その時、私の口から自然に零れ落ちた。その言葉に歩美はくわえたままのタバコを外すと、ギュッと灰皿に押し付ける。次に歩美はテーブルに置かれたタバコを手に取ると、パッケージを眺めながら、ポツリと呟く。

「……池田先生がタバコ吸っていたの覚えてる?」
「うん。校庭の隅っこで吸ってたよね。」
「……私、6年生の時、先生にいろいろ相談しててね。先生、まだ長いタバコを消して、私の話を真剣に聞いてくれたんだよね……その時に吸ってた銘柄がこれなの。」

 そう言うと、歩美はタバコの箱を私にそっと差し出した。それはコンビニや自動販売機でよく見かける銘柄で、いかにも男性向け……というパッケージでも無い、ごく普通の5mgのタバコだ。

「就職して、凄いストレス溜まって……ある日、タバコに手を出したって感じかな……でも、何でそのタバコを選んだのかは……自分でもよく分かんないや。」

 ハハッと苦笑いを浮かべると、歩美はスッと立ち上がり、台所へ向かった。そのまま2階の自室に入って戻ってくるとスーツ姿だった。

「ごめんね。もっと話したかったんだけど、仕事に行かなきゃ。駅までは送るから。」

 壁に掛けてある時計は10時半を指していた。

「ううん。仕事前なのにごめんね。」
「また来た時は、もうちょっとゆっくり話そ。」

 私は大して多くもない荷物を持つとおばさんに、

「お邪魔しました。また、来ます。」
「あら、もう帰るの?」
「えぇ、午後から講義がありますから。ありがとうございました。」

 駅までは歩美の車で行く事になった。

「仕事先まで近いのに車で通勤してるの?」
「うん、たまに営業さんとか車で送り迎えしてるから。この辺は交通が不便だし。」

 見事だが少し荒い運転さばきで駅まで送ってくれると、私は下郡から吉祥寺までの切符を買い歩美は入場券を買ってホームに入った。

 びっくりしたのは、そこに矢島君がいたことだった。

「あ、岡川と柴田じゃん。柴田も今から帰るのか?」

 その言葉に私はなぜか歩美の後ろに隠れる様に立ってしまった。率先して矢島君に話しかけてくれたのは歩美だった。

「矢島君も東京だったよね。どこに住んでるの?」
「俺? 俺は西荻窪。柴田は?」
「私は吉祥寺。」

 私達の話を聞いていた歩美は、

「近所じゃない。じゃぁ私はこれから仕事だから。お二人で仲良く帰ってね。」
「えっ? ちょっと待って。」
「いいじゃない。矢島君と仲良くなるチャンスなんだから。」

 半分以上からかい口調で歩美はスキップでもするかのように軽やかな歩調で駅から出て行った。

「……昨日は、楽しめた?」

 どうやって話を切り出そうか考えていると、矢島君がポツリと言葉を発した。故郷の風に揺らぐ景色と重なって、矢島君の髪もふわりと踊る。

「う、うん……来ようかどうか迷ってたけど……来て良かった。」

 東京に引っ越して以来、3年ぶりに訪れた故郷・君津市。19歳から灰色と原色に染まった街で暮らしてきたが、まだ緑色と青色が残っていたこの街並みを見た瞬間、何処かホッとしてしまう自分が居たのも事実だ。

「東京は便利な場所だけど……やっぱり、ここが好きなんだなって思っちゃった。」
「俺もかな。正月と盆に帰ってくるたびに、やっぱり良いなって。」

  思えば、大学入学当初は『君津市出身』と言っても、「どこ?」と言われることが多かった。そして何時からか、出身を聞かれても、『千葉県出身』とだけ答え るようになったのだ。千葉県だと言えば「どこ?」と聞かれることは無かったためか、その方が自分を傷付けずに済む――心の中でそう思ったのかもしれない。

「……俺、卒業したら、千葉に帰ってこようと思ってるんだ。まあ、卒業するまで2年あるけど……。」
「……東京の病院に行かないの?」
「千葉にも大学病院はあるからさ。将来はそこで研修医になれたら良いなと思って。」
「そうなんだ……。」

  そう呟くと、私は手元の時計に目を落とした。時刻表を確認すると、あと数分で電車が到着する予定だ。東京とは違い、ここは頻繁に電車は来ない。東京のよう に一本乗り遅れても、「まあ、次の電車に乗るか」とは行かないほど不便な地域だ。今住んでいる吉祥寺や、大学がある東京女子大学駅、買い物に行く新宿や渋 谷のような、賑わいのある華やかさとは縁遠い場所だろう。

「私は……何も決まってないや。やりたいことも何か分かんないし……。」

 今通っている大学は、どうしてもやりたいことがあって入学した――という訳では無かった。

「秋穂。来年、東京に転勤することになったから、東京の大学を受験しなさい。家族で引っ越すぞ」

 父の言葉がきっかけで、私は『吉祥寺から通学が出来る、合格圏内の大学』を受験したのだ。東京女子大学の文理科を選んだのも、ただ、その分野の成績が良かったから。それだけ――

「……何のために大学に行ってるんだろう……来年、4年生だし……就活しなきゃいけないけど……夢とか何も無いよ。」

 木更津方面へ真っ直ぐ延びる線路を眺めながら、ため息と一緒に本音を溶かした。その様子を、矢島君は黙ったまま見つめている。きっと、突然聞かされた独り言に困惑しているのだろう。

「あっ……。」

 こんな暗い話を聞かせてはいけない――そう思い、「ごめん。」と口に出そうとした瞬間、矢島君の口がはっきりと動いた。

「今から見つけたらいいんじゃない? 間に合うでしょ。」

 今から?

 その言葉に少し動揺していると、矢島君は右頬を指先で掻きながらポツリと話し始めた。

「俺は浪人するかも……ってところでギリギリ合格してて、成績も毎回、下の方なんだ。教授からも怒られてばっかりだし、医者に向いてないって何回も言われた。でも、医者になるんだって夢を持ってるから負けないようにしてる。留年しても、怒鳴られても、諦めるつもりは無い。」

 それは、初めて知った矢島君の本心だった。それと同時に、小学生の頃から成績優秀だから何一つ不自由していないのだろう――と勝手に思い込んでいた事に気付かされ、自分自身が情けなく思えた。

「だからさ、柴田もまだ諦めなくていいじゃん。な?」

 そう言いながらニコッと笑う姿は、小学生の頃と変わらなかった。10年の時を経て、私は矢島君に再び大切なことを気付かされたのかもしれない。

「ありがとう……あ、そう言えば……。」

 と、私が言いかけた、その時。タイミングが良いのか悪いのか……歩美からメールが届いた。きっと、会社の給湯室でこっそりメールを打っているのだろう。