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「ただいま帰りました。」
歩美の家に戻ると、リビングで歩美がパジャマ姿のままで麦茶を飲みながら、テレビを観ていた。よく見ると顔は若干青ざめており、まだ酒が残っているようにも見える。
「秋穂、お帰りぃ……ご飯、食べよ……。」
テーブルを見ると、炊き立てのご飯と豆腐の味噌汁、そして焼き魚と漬物が二人分並んでいた。
「久しぶりに千葉の魚を食べるんじゃない? たくさん食べてね。」
「ありがとうございます。いただきます。」
おばさんが用意してくれた朝食を頂きながら、歩美とポツリポツリと話を進めた。
「さっき、散歩に行ってきたんだけど、小学校に池田先生がいたよ。去年、異動で戻ってきたんだって。」
「うっそーー!!」
その時、口にしていた味噌汁を噴き出しそうな勢いで、歩美が目を見開く。先程までの気怠そうな雰囲気は、『池田先生』という言葉の力で一瞬で掻き消されたようだ。
「ホント、歩美って池田先生が好きだね。」
カマスの干物を焼いたのを箸で突きながら私は歩美をからかった。それに対してムキになった様に、
「あったりまえでしょ~。池田先生は私の初恋の人なんだから。」
池田先生の話題ですっかり目の覚めた様な歩美は豪快にご飯をかき込みながら答えた。
「ねぇ、今日仕事は?」
「多分、二日酔いになるんじゃないかなぁって思って午後出勤にしてもらってる。秋穂は? 何時頃帰るの?」
昨晩、矢島君は今日帰るって言ってた。帰る時間を聞いて一緒に帰れば良かったかもしれない。
「午後の講義が2時頃からだから、11時頃には帰る。」
「じゃ、見送りは出来るね。ホントのところ矢島君と帰りたかったんじゃないの?」
私の内心を見透かした様に私をからかうと、早くも食後の一服をし始めた。そして、私は歩美の言葉に思わずご飯がグッと喉につまり、すぐに味噌汁で流し込んだ。まだ熱さが残った味噌の風味が、ふわっと口に広がる。
思えば、千葉に住んでいた頃は、毎日のように魚を食べていた。それが今は、パンやスープといった洋食に染まりきっている。好物は魚だと言っていた母も、「ランチはパスタ」だの「ランチはワンプレート」とすっかり都会の食文化に馴染んでしまったようだ。
今、私が食べているカマスの干物を食べたら、母も故郷を懐かしく感じるのだろうか。そして、父も結婚してから20年近く生活した第二の故郷を思い出すのだろうか。
「……美味しいね、カマス。」
自然に口から零れ落ちた言葉は、幼い頃の思い出と重なったからかもしれない。
「ごちそうさまでした。」
食べ終わった食器を台所に持っていこうとすると、おばさんが、
「いいのよ、そのままで。歩美がドーナツ買ってきたみたいだから一緒に食べてたら?」
「すみません。ありがとうございます。」
歩美はテレビを見ながらドーナツを食べていた。
「あっ、朝ごはん食べ終わった?食後のデザートにドーナツどう?」
「うん。」
そのドーナツは全国展開されてるドーナツ屋のドーナツではなく、駅前で古くからある和菓子屋さんの揚げドーナツだった。
「懐かしいね、これ。」
「ここのドーナツは今でも子供達に人気があるみたいよ。」
「そうなんだ。」
静かな時間が流れる中、歩美は私の方へにじり寄って、
「そう言えば、秋穂って小学生の時から矢島君と仲良かったよね。なんだっけ……交換日記もしてたんじゃない?」
「交換日記じゃないよ。お互いに面白い本があったら紹介しあってただけ。」
スカートの上にポロポロこぼれる揚げドーナツの砂糖を払いながら、私は言い訳っぽいが本当の事を話した。でも歩美の方を直視できなかったのは何故だろう。
「ふーん……まあ、いいや……。」
ニヤニヤしながら、歩美はドーナツを頬張る。甘くて、シャリシャリしていて……子供の頃から慣れ親しんだ味だ。小学生の頃から小遣いを握りしめて、何度買いに行ったことだろう。
「うわっ、胃に来た。」
ただし、脂っこい……。それを表すかのように、歩美がドーナツを片手に顔を歪めた。
「二日酔いにはキツイかもね。」
「美味しいんだけどね……。」
ドーナツを食べながら、矢島君とのノートを思い出す。子供の頃はよく、矢島君に紹介してもらった本と一緒にこのドーナツを食べていた。
『アガサクリスティの「もの言えぬ証人」という本が面白いよ』
『アガサクリスティって面白いね』
『特にエルキュールポアロのシリーズが面白いよね』
6年生の1学期には一人、教室の隅で本を読んでいた私だった。その姿をじっと見ていた矢島君が夏休み明けに2~3冊の本を持って私の前に現れた。もしかしたらあの時私は矢島君に恋をしたのかもしれない。そう思い出しながら何を見る訳でもなく遠くを見つめていた。
「あ~きほ。また矢島君の事を考えてるの?」
76%以上からかいながら歩美は私の顔を覗き込んだ。
「べ、別に……。」
「私が思うに矢島君も秋穂の事、気になってると思うよ。同窓会の度に秋穂の事探してたもん。」
「そうなの?」
それは初めて聞く話で、私は少々ドキリとした。
「うん、同窓会で矢島君と会う度に『柴田、来てない?』って聞かれたもん。」
「へぇ……。」
もしかしたら私だけの片思いじゃないのかもしれない。それだけで私の胸はドキドキした。
「いいなあ……若いねっ。私は恋、出来るかなあ……。」
そうやって、ふとため息を吐いた歩美。おそらく、残り24%の感情に歩美の本心が詰まっているのだろう。
「私ね、心の隅でずっと……池田先生のことを好きでいたんだよね。卒業してからも、ずっと。」
タバコに火をつけながら、歩美は窓の向こうを見つめる。私はドーナツの砂糖をゴミ箱の上で払いながら、歩美の心に耳を傾けた。
「中学校に行っても、高校に行っても彼氏が出来なくて……というか、好きな人も出来なくて……短大でも随分からかわれたな。『20歳にもなって、彼氏いないとかヤバイよー!』って……。」
歩美は短大を卒業後、地元の不動産店で事務をしている。しかし、よく考えてみれば、歩美の口から今までに『彼氏』という言葉を聞いたことが無い。
「……歩美、今までに彼氏は?」
失礼を承知で聞くと、歩美はフフッと笑いながらタバコの煙を噴き出した。
「ご想像にお任せしますー……って、大体分かっちゃったでしょ。」
私は一途に一人の男性を想い続けていた歩美がうらやましかった。中学生の時は矢島君は私立の進学校に進学したけれど、その離ればなれになってしまった寂しさに彼氏を作るなんて考えられなかった。
ようやく彼氏が出来たのは高校生の時だった。でもあれは付き合っていたと言えるのだろうか……。もう名前すら覚えてないし、付き合っていた期間は1ヶ月程
だった。別れた理由も特になく、いわゆる自然消滅だった。それでも「彼氏」が出来たという事には変わりなく、その彼もどこか矢島君に似てた様な気がする。
「歩美だってこれからも恋、出来るよ。きっと。でもね、次に好きになる人も池田先生にどこか似てるんだと思う。だから歩美は一生、池田先生の事を忘れないと思うな。」
「そうだといいな……。」
そして歩美はまた遠い目をした。 その瞳は、純粋に恋をした少女――そのものだった。