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二人が帰ると残ったのは大森だけだった。
「内山君はきっと伸びる青年だよ。礼儀も正しいし
僕も個展に行ったけど来ていたお客さん、皆に挨拶してたからね。
何より絵がいい。」
「そうですね。性格も温厚な方みたいですから、こういう絵が描けるでしょうね。
それにしても、絵の才能があるのは羨ましいです。私は絵心がないですから。」
しばらく内山の話になっていたが、話題は雄二の事になった。
「桜ちゃんは堺君と元の様に付き合わないの?」
桜子は苦笑いしながら、
「もう昔の話ですから。」
「でも堺君はよくここに来ているみたいだけど。」
大森は一口、酒を飲んで桜子の次の言葉を待った。
「まだわかりません。彼は突然大学の時にいなくなったんですから。
やっぱり気持ちの整理が出来てたと思っても彼を見ると複雑な気持ちになるんです。」
大森は黙ってグラスを傾けると、
「確か彼は大学3年生の時にパリに行ったんだっけ。
それも誰にも言わくて。別に彼を責めてる訳ではないんだけど
誰かにパリに行く事は知らせた方が良かったと思うよ。
少なくとも桜ちゃんと付き合っていたのだから桜ちゃんだけでも
自分の決意を言った方が良かったかもしれない。
あの頃はまだ美由紀さんがここのおかみだったけど
アルバイトで桜ちゃんもきてたけど、落ち込んでた時期もあったしね。」
大森の言葉に桜子は微笑むだけだった。
雄二がいなくなった日の事は昨日の様に覚えている。
1ヶ月探して、警察に捜索願を出した事もあった。
だが今、雄二は帰ってきて2日に1回は桜子の店にやって来る。
雄二の真意が分からなかった。
そして自分の気持ちも。雄二がパリに行ってしまってから桜子も付き合った男性はいた。
でも雄二の事は頭の隅にいつもあった。
こんな話が出来るのは店に誰もいないからかもしれない。
他の客は雄二と桜子が同級生だったのは知っている者もいたが
付き合っていた事を知っているのは大森だけだった。
大森が桜子達が付き合っていると気づいたのは、まだ美由紀が店を開いている時で、
桜子がアルバイトで店の手伝いをしていた時に限って雄二が来ていたし、
明らかに他の客と話すのと雄二と話す時の笑顔が違っていた。
たこのマリネを大森に渡しながら、桜子は大学時代の事を思い出していた。
あの時は何故黙って行ってしまったのか…。
どこに行ってしまったのか…。
大森の言う通り、パリからのはがきで所在がわかるまで桜子は気になってしょうがなかった。
それをなぐさめたのが別れた夫の康之だった。
今思えば、一人で雄二が帰ってくるのを待つのがつらかったから康之からの
交際の申し込みを受け入れたのかもしれない。
そうなれば、何人もの女性と浮気をしていた康之を責める事は出来ない。