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「おかみ、僕の名刺。田淵さんに渡してもらえた?」
「はい。あれから3日後にいらっしゃったのでお渡ししときました。」
桜子は出来上がった茶わん蒸しを北村の目の前に置くと
預かっていた名刺を渡した事を伝えた。
「そう。」
北村はしばらく黙って飲んでいたが、言うのを少し考えて、
「彼女も若いからわからないことかもしれないが、
ここの常連が来た時は少しは協調する事を学んだ方がいいかもしれないな。
仕事をする場所ではなくてここは酒を楽しむ場所だ。」
それはきっと、他の常連客が紗香に対して女性扱いしているのを
拒否してる姿勢の事を指したのだろう。
「最近では少し、馴染んできていらっしゃいますよ。こないだ村木さんと何かしら
話が盛り上がってたみたいです。」
話好きの村木は一度酒を紗香におごると言ってこっ酷く断られている。
だがそれだけでムッとする村木ではなく、
年下の女性にちょっと言われただけで憤慨はしていなかった。
何度か話しかけて紗香も気を許す様になってきていた。
それは村木の人柄もあるのかもしれない。
「桜子。」
「はい。」
「今度うちの画廊でこれから伸びるって思ってるイラストレーターの個展をやるんだ。
よかったら来てくれないか。これ、招待状。」
「ありがとう。」
雄二に渡された招待状には雄二が期待してるであろうイラストレーターの絵が
水彩画で描かれており、そのイラストレーターの人となりが分かるような
優しい絵だった。
北村は桜子と雄二の会話を聞いて、
「僕にも頂けますか?画廊巡りとか好きなんですよ。」
と、北村には珍しく他の客に声をかけた。
雄二はバックから同じ封筒を出すと、
「これから絶対売れるイラストレーターなんです。絶対に見ておいて損はないですよ。」
と熱心に勧めた。
北村は何回も招待状の絵の表や裏を見ては、
「優しいタッチの絵だね。きっとこの方は優しい心の持ち主なんだろうね。」
目を細めながら言った。
桜子の店の様な小さな店ではこういう風に常連客が仕事の事でも知り合うきっかけにも
なるので、桜子としてもやり甲斐があった。
その時今日3人目の客が店に入って来た。
年が明けてから始めてくる大森だった。大森は桜子と雄二が大学時代付き合っていたのを
知っている。その雄二がカウンターにいた事に驚いていた様だった。
「あれ?堺君じゃないか。久しぶりだなぁ。」
「ご無沙汰してます。」
大森は雄二の隣に座り、体ごと雄二の方を見ると、
「堺君もそれなりの歳になったんだねぇ。あの頃は本当に若い青年だったのに。」
あえて桜子と雄二が付き合っていたのを言わなかったのは北村がいたからだろう。
「桜ちゃんも懐かしいだろ。あっ、今日は冷酒で。緑川ってある?
こないだ会社の同僚に美味しいって教えてもらったんだ。」
「すみません。今それは置いてないんです。近くの酒蔵の越の寒中梅ならありますよ。」
「じゃぁそれで。つまみは桜ちゃんに任せるよ。北村さん、堺君が桜ちゃんの
大学時代の同級生って知ってます?」
大森が店に入ってきてから一言も喋らなかった北村に声をかけた。
北村も顔だけ大森の方を見て、
「えぇ、村木さんに教えてもらいました。」
それだけ答えてまた黙々と飲み始めた。北村があまり常連客と話さないのを知っている
大森だったから北村が一人で飲みたいのだろうと判断してそれ以上は口を挟まなかった。
桜子はつまみに茎わかめとエノキの炒め物と里芋と豚肉のしょうが煮を出した。
「今日は何も食べてこなかったんだ。何かご飯みたいなのも頼める?」
「はい、すぐに。」
桜子は昨日から仕込んでおいた、五目御飯を茶わんに入れると大森の前に置いた。
それを旨そうにかきこんでいる。桜子は笑いながら、
「本当にお腹がすいてたんですね。」
とおかわりを渡した。