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その日を境に北村に嫌われたかもしれないと言った紗香は3日に一度は
桜子の店に通う様になった。
当然、常連の客とも顔なじみになる。
最初は紗香の事を常連客は「紗香ちゃん」と呼んでいたが、
紗香がそれを拒否した。
今では紗香の事は「田淵さん」と呼ぶ客が多い。
紗香が他の客に「紗香ちゃん」と呼ばれるのを拒否したのは恐らく
小娘あいつかいされてる気がして嫌なのだろうと桜子は思っていた。
それは記者としてのプライドでもあるのだろう。
しかも桜子の店は小料理屋にも関わらず、カウンター席で紗香はほとんど仕事をしていた。
飲みに来たのか、残業をしに来たのか分からなかったが、
少なくとも2合は日本酒を飲んでいたので、飲みながら仕事をしたかったのかもしれない。
どちらかというと常連客同士で喋るのが好きな村木が一度、
「今日は田淵さんに1杯おごるよ。」
と言っても、紗香はそっけなく、
「結構です。私には私の収入がありますから。」
と、突っぱねた。それに村木は鼻白んだがそれぐらいで年下の女性が言った事を
気にする村木ではなく、酒をおごるという事は言わなくなった。
一番左の席は今や雄二の指定の席になっており、雄二もまた2日に1度は来ていた。
紗香と雄二。新しい常連客が出来た桜子の店だが、こじんまりとした店という雰囲気は
変わらず「知る人ぞ知る店」と言うのは変わらなかった。
桜子としてもこれ以上常連客が増えたとしても、桜子が叔母の美由紀から
店を受け継いだ頃と変わらない位になった程度で極端に客が増えたという訳でもなかった。
今日は紗香は来ておらず、雄二が来ていた。
雄二もどちらかというと黙って飲み続けるタイプで何が目的でここに来ているのだろうかと
考える事もあった。それは以前、雄二から「やり直さないか」と
言われた事があったからであってその事が頭から離れなかった。
だが桜子はそんな事をおくびにも出さず、客として雄二に接していた。
「雄二さん、今は何をしてるの?」
他の客がいなかったので名前で呼んで前から気になっていた事を聞いてみた。
それはおかみが客に聞く事から少し脱線していた事かもしれないが
大学時代に付き合っていたという事もあり、桜子も少しは気がゆるんだのかもしれない。
雄二は桜子の方も見ないでボソリと、
「表参道で画廊をしてる。」
と、だけ答えた。画廊をしているのはパリに留学したのが関係してるのだろうか。
そんな事を考えたがそれ以上は聞かなかった。
その時、北村が入って来た。
「やぁ。」
「いらっしゃいませ。今日も寒いですね。」
北村は雄二と反して右隅の席に座り、
「おかみ、今日は龍馬で。」
とだけ伝えた。それだけで桜子には北村が
高知の日本酒「龍馬」を注文している事が分かっていた。
北村専用となってる冷酒器に龍馬を注ぎ、北村の座っているカウンター前に置く。
その後につまみを聞くのが北村流だった。
「おかみ、茶わん蒸しとか出来る?」
「はい、すぐに。」
北村はチラリと雄二を見ると頭を下げた。それにつられて雄二も頭を下げる。
「あら、北村さん。堺さんとお知り合いでしたっけ?」
「村木さんに教えてもらったんだ。おかみの大学時代の同級生だって。」
村木と北村は桜子の店の常連客の中でも長い客になる。
桜子が大学生の頃からバイトをしていたのは知っているが
その頃の桜子は見た事はなかった。だが、桜子が叔母からこの店を引き継いでからは
通っているので少なくとも5年は通っている。
その年数は最近流行ってきている小料理屋としては短いものではなかった。