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その後、北村は黙ってしまったので桜子も余計な事は言わず
食器を洗ったり、明日の仕込みなどをしていた。
沈黙は流れていたが、不思議と北村と2人なら嫌な沈黙ではなかった。
時折、北村が冷酒器からおちょこに酒を注ぐ音と
外からはパトカーの音がするぐらいで静かな時間が流れた。
その静けさを蹴破る様に引き戸が開いた。
引き戸を開けたのは若い女性で桜子の記憶の限りでは
初めての客だったと思う。
「いらっしゃいませ。」
その女性の足取りは少し危ないところがあったので、ここに来る前に飲んでいたのだろう。
カウンター席に座ると、キョロキョロと周りを見渡し、
「ママさん、日本酒。冷やで。」
見た目よりハスキーな声で注文をされた。口調は見たよりはっきりしており
足取りは危なかったが本人はそんなに酔っていないと思ってるらしい。
「はい、銘柄はどうなさいますか?」
「飲めればなんでもいいわ。それとつまみもいらないから。」
その言い方は少し投げやりな感じがしたし、
ここは小料理屋なので『ママ』と言われる事に少し抵抗があった。
スナックと勘違いしているのだろうか。
桜子は後ろに並んでいる日本酒でラベルが女性向けになっている
月つさぎを選び、升酒で客に出した。
女性はそれを一気に飲んでしまい、
「これじゃぁ酔えないわ。もっと強いの頂戴。」
と別の銘柄を指名した。
その様子を見ていた北村が珍しく、その客に向かって声をかけた。
「お客さん、ここは小料理屋だ。カウンターの中にいる女性は『ママ』じゃなくて
『おかみさん』だね。それにすでに酔っている様だからこれ以上飲まない方がいい。」
と、忠告してくれた。だがその忠告も女性にとってはどうでもいい事らしく、
「何よ、ここは客が客に説教をする店なの?いいじゃない。お金を払うんだから。
そうよ…。何もかもお金なのよ。」
そう言うと段々と頭が下がり、カウンターで寝てしまった。
桜子と北村は顔を合わせると、
「どうしたんでしょう、このお客様。なんだか無理に飲んでるみたい。」
「何かあったんだろうね。だけどあの飲み方は美味しい酒の飲みかたじゃない。」
しばらくその女性をそのままにしていたが、桜子はやる事も尽きてしまい、
「ちょっと失礼しますね。」
と北村に断りを入れて、自分の部屋がある2階に上がった。
洋服箪笥からストールを持って下に降り、その女性の肩にかけた。
「なんだ、それを取りに行ってたのか。」
「えぇ、暖房を入れてるとはいえこのままじゃ風邪をひいちゃいますから。」
ストールをかけられた気配と桜子と北村との会話で目が覚めたのか、
最初、自分の肩にかかっているストールを不思議そうに見てから桜子を見た。
「これ…。おかみさんが?」
「そのままだったら風邪を引いてしまいますから。それよりどうなさいますか?
かなりお飲みになってる様ですからもうお酒は辞めといた方がいいと思いますけど。」
桜子のその言葉に女性は自虐的に笑い、
「いいのよ、今日は飲みたい気分なんだから。これありがとう。」
そう言ってストールを桜子に返した。
「でも変な店ね。お酒を出す店なのに客にもう飲まない方がいいなんて言うなんて。」
「お酒は楽しく飲んだ方がいいですから。」
「今日はいいのよ。楽しかろうと楽しくなかろうと。そう言えば越後武士がアルコール度が
高かったわね。ないの?」
越後武士はアルコール度が40度以上あるので飲む客が極端に少なく
置いてる事は置いてあったがまだ封を切ってはいなかった。
…。それにしても、この女性は越後武士がアルコール度が高いのを知ってるという事は
酒には詳しいらしい。まぁ日本酒好きの間では知れ渡ってる事ではあったが。
「ございます。ストレートになさいますか?ロックになさいますか?」
日本酒ではあったがこれはあまりにもアルコール度が高いのでロックで飲む人もいる事を
5年とはいえ、この仕事をしていて分かっていた。
「ストレートでお願い。大丈夫よ。そこまで壊れてないから、まだ。」
桜子はどうしようかと思ったが、客の要望だ。黙ってストレートでグラスに入れて渡した。
今度は先程と違い一気に飲み干す事はなく少しづつ飲んでいたので
それだけは安心した。女性が一人、帰り路で寝てしまったりしたら桜子の責任にもなる。
しかも今日は格段に寒かった。
「さっきはごめんなさいね、ママなんて呼んで。」
「いえ。」
北村は黙って飲んでいる。見ると冷酒器の酒が空に近かった。
「北村さん、お酒の御かわり用意しましょうか。あとおつまみ」
「あぁ、うん。頼むよ。さっきのと同じのにしてくれ。つまみはおかみに任せるよ。」
桜子は一度北村の冷酒器を下げ、対で買った同じ型の冷酒器に蓬莱泉を入れて
北村に渡した。そしてつまみにレンコンのきんぴらを出した。
それを見ていた女性客は、
「さっきはつまみはいらないって言ったけど、私にもあのつまみ頂ける?」
先程より冷静な声で桜子に注文した。
桜子はつまみをもう一皿入れ、女性客に渡した。
「お口に合うかわかりませんけど。」
「こういう店やってるのに謙遜するのね。私、紗香。あなたは?」
「ここのおかみをさせて頂いてる桜子です。」
この店に紗香が来て30分。初めて桜子は彼女の名前を知る事が出来た。