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「あなた、こういうお店を出してる割りには若いわね。
と、言っても私より年上でしょうけど。」
女性に年齢を聞くのは失礼だと思っていたのであえて年齢は聞かなかったが
おそらく、桜子よりは年下であるのはわかっていた。
着ている服はさりげなくだがブランドで固められているが、嫌味ではなく
きっとセンスがいいのだろうと思った。
紗香はバックから名刺入れを出して、自分の名刺を桜子に渡した。
名刺には、
『文栄社 記者 田淵 紗香』
と書いてあった。
「記者さんなんですか…。」
「そう。社会部のね。でも女だからって相手にされない事の方が多いわ。
あと年齢でも認めてもらえない事も多い。
うちの部署は男社会だから。」
その事は少しはわかる気がした。銀行も男社会なので、女性行員は雑用係と
勘違いしている人間が未だにいるのは桜子の経験で知っている事だった。
紗香はちらりと北村を見ると、
「失礼ですけど、お名刺頂戴してもいいですか?」
と、北村にも名刺を渡した。
北村は名刺を受け取ったが、
「申し訳ないんだけど、今日は家から来てるんだ。名刺は持ってない。
今度来た時におかみに渡しておくからもらっておいて。」
紗香からもらった名刺を胸ポケットにしまった。
「じゃぁ何をされてるんですか?」
本来、他の客と喋る事がない北村が初めて来た女の客に話しかけられて
少し躊躇している様だった。
だが、北村はボソリと
「ただのサラリーマンだよ。」
「ただのサラリーマンにもストーリーがありますから。」
北村は紗香が言ったセリフに紗香の方を向いた。
「ストーリー?」
「えぇ。」
紗香は越後武士を少し多めに口に運ぶとつまみのレンコンを突くだけで口にはせず
北村の反応を見た。
北村は不思議そうな顔をしていたが、一切自分は会社員である事しか話さなかった。
「北村さん…。ですよね。着ているシャツもパンツも綺麗にアイロンがしてあるから
家庭は円満で奥様にしてもらってるか、逆に不仲でクリーニングにまめに出してるかの
どちらか。そして時計は部下にも上司にも嫌味じゃないディーゼルの腕時計。
って事は上にも下にも気を使う中間管理職。ぐらいかしら。今の私にわかる事は。」
桜子は紗香の鑑識眼には驚いた。
酔っているとはいえ、仕事の為に養った人を見る目は酔ってないらしい。
紗香が言った事に対して北村は何も言わなかったが、
それは家庭の事を言われたからだろうか…。
息子の話はしても妻の話は聞いた事はなかった。
そして小さいとはいえ小料理屋に通えるお金があるのはそれなりの地位を会社で
築いているからだと桜子は思っていたが紗香はそうでもないらしい。
客のプライバシーに関わる事は相手が喋らない限り、聞かない様にしていたが、
桜子の中で北村に対する少しの興味が湧いて来た。
だがそれは口にする事はなかった。
それが店を長続きさせるコツだと叔母に教えてもらっていたから。
「すごいですね。北村さんとは初対面のはずなのに私より北村さんの事が分かるみたい。」
時間が12時を回ったので、閉店の事も少し考えながら桜子は思った事を言った。
「これぐらい出来なきゃ記者とは言えないわ。もっとも私の周りの男の人達は
私を記者として見てくれないけど。」
北村は目の前にある冷酒器の酒を飲み干すと、黙って立ち上がって
「おかみ、勘定お願い出来る?」
と、出口の方へ歩み寄った。
その後ろ姿を見送りながら紗香は一人で黙って飲んでいた。
「ありがとうございました。」
北村を外まで見送ると、紗香はひとり言の様に
「私、マズい事言ったかしら。」
と呟いた。
そして桜子の方を見て、
「職場が職場だからね。つい強気に物を言っちゃうの。気に障ったから帰ったんでしょ?」
「北村さんはそういう方じゃないですよ。
もし、気に障ったところがあったらちゃんとおっしゃいますし。」
「…。そう。あの人が帰ったからって訳じゃないけど私も帰るわ。」
そう言うとバックとコートを引き寄せた。
「あの…。」
桜子はさっきから気になってた事を紗香に言った。
「世の中、お金ばっかりじゃないですよ。」
その一言で紗香の片眉が少し上がって紗香の感情が負の方向へ向かわせた事を表していた。
「私、お金の事なんて興味ないから。それと…。また来ます。御馳走様。」
桜子が紗香にとって感情的になる事を言ったにも関わらず
また来ると言った意味を少し桜子は考えた。