小料理屋 桜 15話 | Vicissitudes de richesse ~七転八起~

Vicissitudes de richesse ~七転八起~

人生、転んでも立ち上あがれば勝つんですよねぇ
だから、転んでも立ち上がるんです
立ち上がって、立ち上がり続けるんです

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村木も11時を過ぎると、

「じゃぁおかみ勘定お願い。」

そう言って腰を上げた。

「あら、今日はもうお帰りになるんですか?」

村木はいつもだったら12時半の閉店時間までいる事が多い。

「おかみがね、さっきの堺君の事を考えてるみたいだから。」

「そんな事ないですよ。」

そうは言っても村木と話をしていても、時折雄二はパリで何をしていたのだろうかとか

今何をしているのだろうかなどふっと思っていたのは確かだった。

「いや、今日は帰るよ。」

「ごめんなさい。なんだか久しぶりに会ったからかもしれませんね。」

「そういう日もあるさ。じゃぁ、また明日。」

狭い店とはいえ、客が誰もいなくなってしまうとガランとした雰囲気になってしまう。

村木も帰ったしのれんを下ろそうかと考えていると、

去年の暮以来来ていなかった北村が久しぶりに顔を出した。

「遅くなったけどあけましておめでとう。」

そう言って北村は入って来た。

「おめでとうございます。」

北村の為に新しい暖かいおしぼりを渡すと、いまどきの中年の様に顔から首筋まで

拭くなどはせず、手を温めるだけでおしぼりを横に置いた。

何気ないこの行為だが、この行動の一つ一つが北村を「紳士」というイメージを

抱かせる。

「今日も冷やにしますか?」

「あぁ、うん。頼むよ。」

北村は日本酒は飲むが銘柄は基本、高知の『龍馬』を飲んでいた。

だが、それを言わない時はいつも桜子に任せていた。

桜子は後ろに並んでいる日本酒の列を見て、蓬莱泉を選んだ。

すでに北村専用となっている冷酒器に蓬莱泉を入れ、おちょこを渡すと黙って注ぐ。

ボソリと、

「息子をね、ニューヨークに留学させる事に決めたよ。」

そう言えば去年最後に会った時、息子が海外留学をしたいと言っていたという

話をした気がした。

「そうなんですか?でもニューヨークは人種のるつぼって言う位ですから

色々な国の方々と知り合いになれるかもしれませんね。」

「ただなぁ、安全なとこじゃないだろ?そこが気になるんだよ。」

ニューヨークはアメリカの中でもサンフランシスコに続き日本人の

銃被害が多い都市として留学を一度でもした事がある者にとっては有名な場所だった。

「でも昔程、危険じゃなくなったって聞きますよ。」

「まぁいちいち気にしてたら何も出来ないからな。許す事にしたよ。

親としては複雑な気持ちだが。」

桜子の親は桜子がイギリスに留学した時、どんな気持ちだったのだろう。

留学を勧めたのは父だったが。

その事には触れず桜子はつまみに、大根とじゃこを柚子胡椒で和えたものを出した。

「実はね、息子の留学を許したのはおかみの一言もあったんだ。」

「まぁ。私、責任が大きいですね。」

「おかみもイギリスに留学して『勉強になった』って言ってたからね。

経験者の意見は大きいよ。」

それだけを言うと、北村は黙って盃を傾けた。

北村はどちらかというと村木の様には喋らない。

黙々と一人で飲んでいる事の方が多いかもしれない。

桜子もその事は踏まえているので北村から話題を振られない限り

余計な事は言わない様にしていた。

「おかみはどう思う?最近の若者が留学する事。」

そう言われて初めて拭いていた食器を置いて、北村の方を見た。

「何事も経験する事は大事ですもの。いい事だと思いますよ。」

そこまで言って、言うべきか迷ったが、

「…。私の友人も親にも周りの人にも何も言わずに留学した人がいますからね。」

その場に村木がいたら雄二の事だとわかっただろうが、

村木はすでに帰っている。だからこそ言えたのかもしれない。

「そうか…。その人はそれなりの決意があったんだろうな。皆に黙って行くとは。」

「さぁ。」

もし、あの大学時代。

雄二がパリに留学したいと事前に言われていたら桜子は賛成しただろうか。

一瞬そんな事を考えたが今となっては過去の事だ。