■「内定への一言」バックナンバー編


「魚は与えず、釣り方を教えよ」(ロシアのことわざ)



昨日の就活コース第13回は、西南、女子大、九産、久留米大、筑女から学生さんが集まり、みんな選考や志望業界のことを楽しそうに話していました。毎週水曜の就活コースは「内定」だけを目標にした勉強会ではありませんが、内定が取れないと話になりません


昨今は色々な就職支援団体があるそうですが、「内定だけを目指しているわけじゃない」と言いながら人集めに苦労しているのは、やはり肝心の焦点をぼかしているからではないか、と思います。


やるからには、絶対に納得のいく結果を出すまで諦めない。そして、納得のいく結果が出る考え方を学び、納得のいく仕事を未来に見出すそれがFUNの方針です。


そして、そういう境地を表すのに適切な言葉が、今日の一言「魚は与えず、釣り方を教えよ」です。



「魚」とは、もちろん目標とする成果の象徴。受験なら「合格」、経営難の会社なら「お金」、出会いを求めている人には「恋人」、そして就職なら「内定」が、さしずめ「お魚くん」に当たるでしょう。


実際、人は焦れば焦るほど、性急に成果を求めます。そして、土壇場で踏ん張って集中し、さし当たっては満足できるものを得たと思ったら、状況はもっと悪くなるというのは、社会や人生において、よくある話です。



例えば、「アフリカのある国の子供たちが、食べる物もなく、飢えに苦しみ、1分に1人のペースで5歳以下の子供が亡くなっている」というニュースを聞けば、誰もが「かわいそうだ、すぐに助けないと」と思うでしょう。


それはそれで、たいへん人道的な発想です。しかし、動機が人道的だからといって、結果もそうなるとは限りません


まず、なぜこの国は「幼い子供」という、社会において一番保護されないといけない立場の世代層が、真っ先に死んでしまうというような状態に陥っているのか、を考えなければ、さらに大きな悲劇を招いてしまうということです。


ある欧米の国に拠点を置く人道支援団体は、見るに見かねて、食糧や資金の無償援助を行いました。


すると力の強い者が弱い者から食べ物やお金を奪い取り、もっと多くの子供たちが餓死しました。それを見て、「監視しないとダメだ」と思った団体職員が現地に赴き、食糧や資金が適切に配分されるよう、チェックしました。そして、渡すべき人に食糧と資金が行き渡りました。


すると人々は一時の飢えをしのいだものの、「種」はゴミ箱に捨ててしまいました。お金に至っては、久しぶりに買い物をできるのが嬉しくて、お父さんがわずか数日で使い果たしてしまいました。それも、酒や賭博に。


そう、問題は食糧やお金がないことではなく、ましてや気候や風土条件でもなく、「人々の考え方や生活習慣」にあったのです。


種を捨ててしまうなんて、置かれた状況を考えれば信じられない行為です。酒や賭博に使うとは、親にあるまじき行為です。


彼らは政治や風土の条件もあるでしょうが、まさに「誤った教育」のために、必要以上に自分たちを苦しめていたのでした。宝くじで大金を当てた人が、その年のうちに自己破産してしまうように。



ちょっと話は飛びますが、デンマークに、ある笑い話があるそうです。


ある夫婦が、普段のように過ごしていた夜、突然「神様の使い」が現れました。その使いが言うには、「汝らが願うことを3つ、何でも叶えてやろう。ただし、1分以内に言わなければならない」とのこと。


妻は喜びと驚きで、「あなた、1分なんだって!何か欲しい物を言ってよ!」と言い、夫は焦って、そうだな、そういえば、おまえはフライパンが欲しいって言ってたな。よし、フライパンをくれ!」と言いました。


神様の使いは、望み通り、フライパンをくれました。


妻は「あなた、何よ!せっかく望みのものをくれるっていってるのに、フライパンなんかをお願いするなんて、バカじゃないの!あんたなんて、鼻にキュウリがくっついてしまえばいいのよ!」と怒りました。


神様の使いは、望み通り、主人の鼻をキュウリに変えてしまいました。


鼻をキュウリに変えられてしまった夫は怒り、「おまえ、何てことをしてくれたんだ!おい、使いとやら、この鼻を元に戻しておくれ!」と嘆願しました。


神様の使いは、望み通り、主人の鼻をキュウリから元に戻しました。そして、「汝らの願いは、3つとも叶えた。では、さらばじゃ」と姿を消しました。


夫婦の元には、欲しかったフライパンが一つ、プレゼントされましたという話です。


日頃から何も考えず、将来のことも想像していない人間に、いきなり願ってもいないようなチャンスやプレゼントが転がり込んできたところで、幸せになることは不可能だ、という戒めを込めた話として、デンマークではよく知られているそうです。



先に挙げたあるアフリカの人々にも、これと同じことが起こったのでしょう。


欧米が援助すればするほど内戦が激化し、餓死者が増え、悲劇の連鎖が加速する様子を見かねて、欧米諸国は支援をストップしました。そして日本に役割を押し付けました。


日本政府はODA(Official Development Aid:政府開発援助)を通じて、最初は欧米と同じように多額の資金を供与しました。日本の援助は多額だったため、政府はたくさんの食糧を輸入し、一時は難を逃れました。そして翌年、かの国の大使が日本政府に質問しました。


「日本は今年、いくらくれるんですか?」


ここでも、問題はかの国の資金不足や食糧不足ではありませんでした。助ければ助けるほど、相手は「くれくれ族」になっていったのでした。



という負の連鎖が続いた後、日本政府が本格的に海外支援に力を入れ、創設した制度が青年海外協力隊だとは、有名な話です。


ある部隊は医療を教え、またある部隊は植林を、農業を、治水を、建築を、教育を、漁業を、裁縫を、タイピングを教えるこの活動は、世界各国で高く評価されています。


台湾、インドネシア、マレーシア、タイ、ベトナム、フィリピンなど、アジア各国で「搾取&愚民化」を行った欧米とは全く違った教育を提供した日本に対する評価や感謝の声は、僕も現地で何度も何度も直接耳にし、そのたびに「自分はなんと素晴らしい、有り難い国に生まれたんだ」と、日本人であることを誇りに思いました。


通貨危機によって高度経済成長が急にストップし、IMFの管理下に置かれ、青年が無気力に溺れて国の将来像を見失った韓国から、97年に訪問団が結成され、JICAを訪問し、「日韓教育セミナー」が富士山で開催されました。


僕はこの時の通訳(日韓)をしたことが機縁で、青年海外協力隊の活動を詳しく知ったのですが、まさに「魚は与えず、釣り方を教えよ」の理念に則った活動で、素晴らしいものだと感動しました。


飢えた人に魚を与えれば、一時的に飢えをしのぐことはできます。しかし、魚は食べてしまえばなくなります。それでは、飢えた人を余計、不幸にしてしまいかねません。中国にも「慈母敗子」という言葉があって、その意味は「親が甘いと、子供は不幸になる」だそうです。


でも、「釣り方」を知っていればどうでしょう?魚というものは、どこに集まるのか?何が好きなのか?どうやったら寄ってくるのか?どうやったら陸上に連れてこられるのか?どうやったら調理できるのか


それを知っていれば、自らの力で「飢え」、つまり「求めるものの欠乏」を補い、要望を満たすことができます


これは、学生の就職活動でも全く同じだと感じています。多くの学生は、FUNを訪れると、「とにかく就活が気になるんでとか、「とりあえず、内定が欲しいっす」と言います。


そういう学生は、取材や広告企画・作成、雑誌作り、ビジネス学習、絶版書の輪読といったFUNの活動を見て、「なんでそんなことをやるんだ?」といった顔をします。


そして、「それより、今は就活が大事なんだから、就活に直結する書類の書き方や、面接の答え方を教えてほしい」と言うこともあります。


これは、飢えたアフリカの子供が、「とにかく魚を食べさせて下さい」と言っているのと、全く同じ。もちろん僕は、「じゃ、君にはエントリーシートや面接の方法を教えてあげよう」とは言いません。


僕は別に就職指導で食べているわけではなく、本気で未来に挑戦したい学生、「自分は夢に間に合っている」と信じている学生のお手伝いをするために顧問をやっているわけで、FUNでもよく言いますが、「学生の味方」ではなく、「挑戦者の味方」に過ぎません。


釣り方はいい、とにかく魚だ、魚をくれ、と言う学生さんには、「そういうサークルもあるらしいから、そっちに行ったら?」と言うことにしています。


「おいしい魚=自分がやるべき天職」の居場所を知るため、自分の足で歩き回って「取材」をし、その仕事の本質を知るために「経営の勉強」をし、それをモノにするために広告の企画・作成を通じて「役立ち方」を学び、その結果の手応えを問うために「雑誌作り」をやる


つまり、「魚=企業や経営」の性質を知れば、自分からアプローチし、手に入れることができるのです。そういう「釣り方」の勉強こそ、学生時代にやるべきではないかと考えているからこそ、3年間休まず遅れず、学生さんとともに人生や経営の勉強をしています。


僕は「夢がない」とか、「やりたいことがない」といった、生きがいの飢餓状態を救うすべは、少しばかり知っています。それは、実に簡単です。僕が教えるのではなく、学生が自分で発見し、行動し、確認し、自信を深めるお手伝いをすればいいだけです。


自分で電話をかけて企業を訪問し、社長に直接質問をぶつけ、記事を書き、達成を振り返る方法を学んだ学生は、それまで「経営?別に興味ありません」とか言っていたのが、「会計とか法律って、大事なんですね!」と言い始め、自ら「金持ち父さん」や「8020の法則」を買いに行きます。


こんなことなら、僕も筑摩書房の回し者になっておけばよかった、と後悔しています。


あなたもおそらく、最初は「魚」ではなく、「釣り方」を極めるために、あの受験勉強に耐え、今の学校に入学したはずです。


今、どちらを手に入れるために、毎日の時間を使っていますか?「釣り方」を学べば、どんな川、海でも、あらゆる魚を相手にできます。そして、川、池、海というフィールドの違い(業界の差)や、魚の違い(職種・業務内容の差)が、楽しく思えてきます。


違うことが楽しいと思えたら、疲れは好奇心に変わります。「内定」よりは「働き方」こそ、この時期に求めるべきもの。


なぜなら、働いている自分のイメージがないところに、内定はありえないないからです。

■「内定への一言」バックナンバー編


「根無し草に花は咲かない」



二十代があと二日で終わります。二十歳の頃はマレーシアの貿易会社で働いていましたが、この十年間を振り返って感じるのは、一にも二にも「根っこを育てる時間だった」ということ。


海外勤務では貿易の基本業務の傍ら、東南アジアのイスラム文化の中で暮らす努力をし、出版社では営業と取材を学び、自営時代は資金繰りとスピーチを鍛え、そして独立では、組織運営と事業計画の立て方を学びました。



と、こう振り返るといかにも順調だったようですが、順調だったのは僕の想像だけで、実践するといかに粗末な計画と見通ししか持っていなかったか、何度も何度も痛感してきました。


やり始めて難しさに気付くも、一度決意したからには、絶対に投げ出すつもりはない。必然的に、目的が達成された「A地点」と、始めようと思った「B地点」をつなぐのは、「忍耐と継続」になります。


そして、これを何度も続けるうちに、多少のショックでは動じない「根」が育ってきたのだと思います。


この「根」というのは、幾つかの言葉で表せます。



日本に生まれて有り難い、日本のために頑張ろうという愛国心

自分が役立てる分野が社会の中にあるのが有り難い、という奉仕の精神

鍛えてきた能力を通じて人の役に立ち、喜ばれるのが幸せ、という充実感

父の分まで二倍生き、挑戦に手を抜かず、全てを形にしてきた達成感

来る三十代に向け、いささかの揺るぎもない決意と展望が持てる自信



ここからやっと、「芽」が出るんだなと感じます。三十代は芽を出して、それを幹に育て上げる時期だと自分では考えています。四十代から花を咲かせ、他の場所に種を蒔いていきます。


さて今日の一言は、昭和最高の文芸評論家として、文化勲章を受章した小林秀雄さんの言葉です。


戦後になって、みんなが欧米かぶれになり、揃って「日本のものはダメだ」と言い出した時、そういう風潮に動じることなく言い放った言葉です。スポーツ、勉強、仕事、趣味全てに通じる言葉ですね。


また、渡部昇一さんも著書の中で「どっちみち人は老いるのだから、老いて暗いのは、人生が失敗だったという証拠である」と書いています。


しかるべき時、放っておいても来ると分かっていた時を迎えて、あると思っていたものがない。あるいは、ないだろうなと思っていたものがない。


例えば、老後に友達がいない、十分な蓄えがない、というその喪失感は、いかばかりでしょうか。


「花が咲いていない枯れ野の人生」を自分で確認するのは、何より辛い仕打ちでしょう。しかし、それは自分で準備した結末です。しかるべき時に暗いのは、自分の人生が失敗だったという証拠です。


大学生なら、「就職活動の時期を迎えて暗い」というのは、紛れもなく大学生活が失敗だったという証拠です。何の根も育たず、芽も出なかったということを、自分で認めているという証拠ですから。


誰でも入学したなら、卒業するのは分かっています。卒業したらどこかで自分の食い扶持を稼ぐのも分かっています。そうと分かっていて何もしなかった。あるいはやってきたことが役に立たなかったこういうのを失敗というわけです。


そこで、根も張っていないのに花を咲かせようと焦っても、造花を買ってきてくっつけるのが精一杯でしょう。「もう、こんな自分は嫌だ!」という悲痛な叫びでFUNに入部してきた人も、数人います。


FUNはいつでも再挑戦ができるチャンスを作るサークルですから、そのような入部動機でも結構ですが、やはり、積極的な学生とそうでない学生の間には、大人と幼児ほどの差を感じてしまいます。


社会には、「仕事が楽しくない」と言う大人がいっぱいいます。ならば、なぜ彼らは働いているのでしょうか。いろいろ理由はあるでしょうが、その一つに「退職金」という存在があります。


楽しくない、叱られてばかり、手当ての付かない残業で深夜帰りばかりでも辞めない。もはや、仕事そのものと自分の人生はわずかな接点しか持っておらず、辞めた方がその人と会社のためにもプラスなのに、それでも辞めない。だって、退職金が欲しいから。


なんというスレイブな生き方でしょう。まさに現代版・奴隷制度です。日本人は、いつから、こんなに悲しい生き方をする人種に成り下がってしまったんでしょう。


この親の態度が子供にもしっかりと伝承され、子供も「大学?楽しくないね」、「授業?出てないね」、「単位?やばいね」と言いながらも、辞めません。


そんな時間のムダを過ごすのなら、辞めた方が本人と親のためでもあるのに、それでも辞めません。だって、卒業証書が欲しいから。


親も奴隷なら、子も奴隷です。かくして、何の根も張らない失敗人生が、日本中の到るところで、今年も着々と伝承されているわけです。


子供は「就職」と言えば、毎日苦しそうな顔をしているお父さんのような生活のことだと決め付け、将来への選択を躊躇する若者も無数にいます。


僕の仕事は、そういう若者に誇りを与え、もう一回人生に積極的に挑戦する心構えと知的武装をする過程をお手伝いすることです。


言い換えれば、自分自身に、どんな風雪にも動じない根を張るサポートです。野球選手やミュージシャンだけが「プロ」というのは納得できません。確かに彼らは並々ならぬ練習に耐え、他の全てに優先させて自分の夢を追い続けた人たちだから、常人では追い付けない高い技能を持っていますが、僕は会社で働くお父さんたちも、やはり何かの能力を生かしてお金をいただいているわけだから、「プロ」としてのカッコ良さを持つべきだと思っています。



・働く父親を尊敬できる社会にしたい。

・働くことが楽しみな教育を作りたい。

・働くことが幸せな日本人を輩出したい。



この三つが、僕の創業理念です。そんな思いで日々働いていたある時、FUNの顧問になりました。


よって、FUNで学んでいることも、全ては「根」の部分です。学生はすぐに芽とか花を求めますが、どうせ倒れて枯れ果てるだけの花を与えるつもりはありません。


「魚を与えず、釣り方を教えよ」(ロシアのことわざ)のように、欲しいものは自分で手に入れられる能力と、その考え方を提供するのがFUNです。


成果自体を与えてしまうと、人は努力しなくなります。放っておいても、ギリギリで間に合わせた卒論を出せば、「卒業」という成果がもらえる学生を見て下さい。彼らの目は生きがいに輝いているでしょうか?


卒業したところで、オドオドと自信なく、会社で起こることにビクビクしながら生きていくだけが、関の山でしょう。大学時代に自信が持てなければ、それは確実に社会人生活にも影響します。


たとえ卒業できたにせよ、自信も持てない若者を社会に送り出すのが、何の教育と呼べるんでしょうか。僕はそれが大きな疑問です。


だから、二十代は自分にしっかりとした根を張りましょう。芽が出ていなくても、花が咲いていなくても、根が張れているのなら、それを素直に喜びましょう。


焦らず弛まず、力まず手を抜かず、一つの決意を自信になるまで貫きましょう。僕は器用なことは言えませんが、忍耐と継続の大切さだけは、会社の経営やFUNのお手伝いを通じて、少し分かった気がしています。


さて、来年からは「内定つかみ取り」編です。新たな一年に最高のスタートダッシュが切れるよう、メール講義を通じて応援していきますので、一緒に毎日を大切にし、なりたい自分になっていきましょう。


今年はどうも、お世話になりました。来年もどうぞ宜しくお願いします。

■「内定への一言」バックナンバー編


「自分が不幸でも、人を幸せにすることはできる



「人は何のために生きるのか」という問いを、僕はあまり考えることなく社会に出ましたが、学生の皆さんはどうですか?そういうことを、よく考えますか?


FUNで三年間学生の将来設計の様子を見てきて、今の学生さんは僕の学生時代(九四年入学)よりも、「幸せ」という言葉をよく使うような気がします。ただし、その使い方は二通りあるようです。



誰が言い始めたのか、どこから流行し始めたのか、なぜ支持されるのか全く理解できないフレーズとして、「自分が幸せじゃないと、人を幸せにすることなんてできない」という言葉があります。


僕はこの言葉は、全くの嘘っぱちだと思います。俗耳に入りやすいだけで、何の真実性も説得力もない安っぽい言葉です。



これが先に述べた「二通り」のうちの一つです。「幸せ」の使い方に二通りあるというのは、「自分が幸せになるため」と「人を幸せにするため」の二つのことです。


そして、「なぜ生きるのか」とか「なぜ働くのか」と聞かれた時、どちらを反射的に答えとして思い浮かべるかで、人生は全く違うものになると最近は考えています。


「自分が幸せじゃないと、人を幸せにすることなんてできない」は、「自分が先に幸せを手に入れてしまえ」という考え方がないと、出てこない言葉です。さらには、「幸せは自分の内にある」という思想が基盤です。


「自分の内にある幸せ」とは、一体何でしょうか。それは「おいしいものを食べる」とか、「泣ける映画を見る」とか、「お気に入りの服を着る」といった、確かに楽しいものの、一人で達成できるどうでもいいことばかりです。


もしかして、「落ち着き」と「幸せ」の区別ができていないのかもしれません。



だから、「自分が幸せじゃないと~」の言い方は、「自分が先に満足している状態になっていないと~」と全く同じ意味です。


つまり、こういう考えや言葉を正しいと信じる人たちの「幸せ」には、「相手」がおらず、要するに「自分の方が優位に立った状態でなければ、他人の状態や幸せを考える精神的余裕が持てない」という貧困な発想です。


よって、「自分が幸せじゃないと、人を幸せにすることなんてできない」を分かりやすく翻訳してみれば、「自分が志望校に受かっていないと、人の受験勉強を応援することなんてできない」と同じ意味です。世の中、そういう人が大半でしょう。


人より先に幸せになるのは、確かに快感の一つです。人が自分より先に幸せになるのを見ると辛い、嫉妬する、許せないそういう人はいっぱいいます。


そんな卑しい大衆根性を備えた人々には、「自分が幸せじゃないと~」という底の浅い言葉は、実にしっくりと来る要素を備えています。



しかし、これとは違う、誰でも分かる深い幸せがあります。それは「自分の外にある幸せ」です。

「自分が不幸でも、人を幸せにすることはできる」という幸せです。


この時の幸せはいつも「相手」の中にあり、自分が相手を幸せにするために及ぼした努力の影響や貢献度を見て、自分まで嬉しくなってくるというものです。この種類の「幸せ」には、「大切な人の幸せな姿を見るのが自分の一番の幸せ」という、自他の一致が基盤にあります。


人間の喜びとは、本来何が満たされた時に実現されるのでしょうか。確かにおいしい食べ物、好みに合う服、要望に合う地位も必要です。それがなければ、居心地がいくらか悪くなってしまうのは分かります。


しかし、それだけでは空しいのも事実。やっぱり、「大切な人に感謝された時」や、「期待以上の配慮を受けた時」以上に喜べる、幸せな瞬間はないでしょう。そして、このタイプの幸せの前に、「自分の状態」は不問です。



例えばあなたは今、多忙な就職活動に突入しようとしています。正直言って、気持ちの中には一抹の不安もあります。準備だって、十分とは言えない状態かもしれません。つまり、「幸せ」と呼べる自分ではないかもしれません


そんな時、あなたの大好きな友達や恋人の誕生日が近付いてきました。この一年、どれだけ助けられ、楽しい時間をもらったかを思えば、お祝いしないわけにはいきません。そして


「自分が幸せじゃないと、人を幸せにすることなんてできない」という思想に従った人は、「ごめん!就活で忙しくてさぁ、お祝いできないよ。また来年ね」とパーティーをキャンセルします。


一方、「自分が不幸(不安定)でも、人を幸せにできる」という思想に従った人は、「あの人が自分をどれだけ幸せにしてくれたかを思えば、今日はプレゼントを買って手紙を書き、夜は徹夜でエントリーシートを仕上げればいいじゃないか!」とパッと決断して動くことができます。


そして、あなたの大切な人は、その優しさを改めて実感させるような「就活で忙しいのに、ごめんね。でも、すごく嬉しいよ。他のみんなはエントリーシートを書いてないみたいだけど、大丈夫かなぁ。あなた、あんまり寝てないみたいだけど大丈夫?こんな素敵なプレゼントをもらって新しい一年が始まるなんて、今年はすごくいい一年になりそうで本当に幸せ。就活も絶対、一緒に明るく頑張ろうね!」という言葉で報いてくれるでしょう。


もちろん、あなたは大切な人からそんな言葉をかけられ、天にも昇る喜びです。心は天下を取ったような覇気に満ち、「就活がなんだ!自分には最高の仲間がいる!できないことなど、何一つない!」という気概を持って、また日常生活を力強く、明るく生きていくでしょう。


あなたが取った行動は、相手を幸せにしたばかりか、回り回って自分にまで幸せとやる気を与えてくれました。


一方、「自分が幸せじゃないと」派の人は、家でこたつに入り、好きなお菓子でも食べながら、「あぁ、幸せ」とでも言って、エントリーシートをまた先延ばしにしているんでしょう。



さて、あなたはどっちの「幸せ」を手に入れるため、就職活動をしようと思っていますか?「やりたいこと」なんて考えるから、一歩も進めないんじゃないですか?


「やりたいこと」なんて、どこの業者が言い出したことか知りませんが、愚かな自己満足の骨頂です。


この広い社会を見て、「してあげたいこと」がいくつかあるでしょう。身近に助けてあげたい状態の人がいるでしょう。そういう人たちに幸せを届けることを、自分の幸せにしてみてはいかがですか?



「イヤだ!自分が幸せじゃないのに、なんで見ず知らずの人たちを幸せにできるんだ」と言う人は、公務員試験や貯金など、一人で達成できる幸せを追い求めて、ひっそりと寂しく喜んでおけばいいでしょう。


「そうだ!自分は社会に必要とされている。自分の努力で幸せになれる人がたくさんいるのを考えると、業界や会社のことはまだよく分からないけど、何を知ってもワクワクしそうだ!」と思える人は、もう成功したも同然です。


一人で家にいると、どうでもいい瑣末なことまで気になってきます。そして、人に会うには精神的余裕がない、と言い出したりします。しかしこれは、全く逆といえる言動です。


人に会い、友達を勇気付けて感謝されれば、心の余裕も生まれてくるものです。一人で家でお菓子を食べてゴロゴロしていても、余裕どころか焦りと不安が増幅されるだけです。


つまり、今あなたが「自分にとっての幸せ」をどう考えるかで、就活の結果は既に決まってしまっている、ということですね。


これから始まる活動は、自分の考え方を証明してくれるだけの手続に過ぎません。打ちのめされる人は、企業や選考に打ちのめされるのではなく、自分の器の小ささと発想の貧しさに叩きのめされるだけ。


選ばれる人は、自分の考え方や日頃の精神的態度のおかげで、幸せを掴むものです。家族、恋人、友人、バイト先の仲間、先生、その他お世話になった人、そして将来出会う同僚、上司、お客様の「自慢の人」になれるよう、受かりまくり、喜びの連鎖反応が内定後までも、卒業までも続く就活を、心から楽しみましょう!


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