■「内定への一言」バックナンバー編


「学ハ先ズ不言ヲ習フベシ」(論語)



「読んで心が痛む本」を持っておくのは、若い頃には特に、大切なことです。それが一生を通して繰り返して読める本であれば、なお良いでしょう。僕の場合は、「そういう本はあるか」と聞かれたら、真っ先に挙げる本が2冊あります。


「論語物語」(下村湖人・講談社学術文庫)と、「論語と算盤」(渋沢栄一・国書刊行会)で、若い頃から何度も何度も読み返してきて、今ではほとんどの内容を暗記してしまっている本です。



「論語物語」は、2年前の新年から3ヶ月間、大濠のミスドで朝7時から、当時3年生だった隈本さん、芝田さん、宮田君と一緒に読みました。子路や子貢、顔淵、伯牛といった個性的な弟子たちは、誰もが皆、長所と短所を備えており、思わず感情移入してしまうような個性的な人物ばかり。


寒い朝から、みんなで孔子様に説教され、「いやぁ、気持ちがすっきりした!素直にいこう!」と一日を迎えたのも、今ではいい思い出です。


「好きな本は?」と聞かれて「論語」と答えると、「固い」という顔をされますが、そういう顔をする人ほど、論語の「まえがき」すら読んでいません。



論語はとても常識的で、読みやすく、温かくて本質を突いた言葉に溢れた古典です。いつ読んでも、学ぶことがあります。論語関係では、山本七平さんの「論語の読み方」(祥伝社)も名作ですが、論語を扱った作品を書いた人は皆、「孔子は偉大な常識人だ」という意見で一致しています。


「儒教」が宗教ではない理由、というか論語の特徴は、「子、怪力乱神ヲ語ラズ」という言葉にもあるように、「怪=超常現象や超能力」、「力=権力」、「乱=男女関係」、「神=宗教や人間を超えた存在」を話題にしていない点です。



その証拠に、論語には「生まれ変わり」や「啓示」、「預言」、「恋愛」、「覇権」、「神学論争」などの話は、一切出てきません。これらの話題は客観化できず、話せば必ず派閥が生まれ、人間関係に何らかの亀裂やきしみを生むため、孔子様も話題に採り上げなかったのでしょう。


その論語には、有名すぎる名言名句が星の数ほど収められていますが、今日は「学問に臨む姿勢」を扱った一言をご紹介します。



それは、「学ハ先ズ不言ヲ習フベシ」という言葉です。「学問をしようと思ったら、まず不言を学ばねばならない」という意味です。「不言」とは、「何も言わないこと」です。なぜ、「不言」なんでしょうか。ちょっと考えてみましょう。


去年の秋に行った「FUNスピーチ塾」は、この冬には内容を一部アレンジして、「FUN面接塾」としてお届けしましたが、その中で、こういう内容があったのを覚えていますか?「認めるとは、口を出さないことだ」と。



「認める」とは、「言」を「忍ぶ」と書きます。「言うことを我慢する」という意味です。口を挟みたい気持ち、一言言いたい気持ちをグッと抑えて相手の言い分を聞き入れるのが、「認める」という動作です。


学生さんはよく、「私はあの人を認めない」とか、「オレはあいつを認めている」と言います。この場合の「認める」も、「言いたいことがある」とか、「何も言うことはない」という意味でしょう。皆さんが「認めている」と思っている人は、「その人の話なら聞く」という人のことでしょう。


面接では「自己PR」とかいう意味不明の言葉が横行し、やたらと自己主張することが奨励されているようですが、そんなのはウソです。「話し方」より「聞き方」の方が、内定のためには何倍も大事だということを、今、志望業界に内定をもらった皆さんは、強く実感していることでしょう。



「聞き方」で差を付ける方法があることを、90%の学生さんは見落としています。


「不言」もこれと同じです。「学ぼうと思ったら、しゃべるな」というのは、「すぐに口を挟むと、理解が浅いままで終わってしまう」という危険を戒めたのでしょう。



どういうことか、会話シミュレーションを用いて考えてみましょう。

たとえばここに、「ベンチャーキャピタル」を志望している、国際文化学科のM君という学生さんがいるとします(というか実在)。M君の選考に立ち会った面接官が、「有言」をポリシーとしている社会人なら、おそらく以下のような会話になることでしょう。

M:「西南学院大学文学部のMです。よろしくお願いします」
面:「文学部か。じゃあ、経営の勉強はしてないよね」
M
:「たしかに知識は足りませんが、経営や経済に対する興味は負けません。例えば私は、2年の時に
面:「経営にどんな興味があるの?」
M
:「特に興味があるのは、有望な中小企業の上場支援において、上場前も後も武器になるような資産を一緒に作り上げていく経営支援です。その理由は
面:「なんで中小企業なの?」
M
:(このおっさん、人の話聞いてるのか?)


というふうに、自分の興味ばかりを優先させ、人の話の腰を折って、いちいち見解を確かめるのは、実に器の小さい態度です。M君がイライラするのも、理解できます。



では逆に、面接官が「不言」を重んじる人だったら、どうでしょうか。


M:「西南学院大学文学部のMです。よろしくお願いします」
面:「文学部でベンチャーキャピタルなんて、面白いですね」
M
:「はい。異質の要素を比較し、共通点を探して可能性をつなげる国際文化の勉強こそ、VCの業務に役立つものだと自負しています」
面:「ほう」
M
:「私は経営や産業も文化だと考えています。働き方、商品開発、売り方、広告手法などは、国が違えば方法も違います。なのに経済の分野では、政治や文化以上に交流が進んでいます。これは、国内において、異質とされる大企業と中小企業の交流や、ベンチャー企業と老舗企業のマッチングなどにも、応用できる視点だと感じています」
面:「なるほど」
M
:「新たな文化や産業がある国に導入され、それがどう根付いて成長していったかを観察することは、企業が新商品を開発したり、上場を目指して経営改善を重ねていく過程と重なります」
面:「君は実にユニークな考え方をしているね」
M
:「ありがとうございます」


と、相手が「不言」を貫き、自分に自己表現の機会を与えてくれたため、M君は自分の信念や意見を、余すところなく伝え、見事内定を勝ち取りました。



面接などの「1対1」のコミュニケーションでは、有言とか不言という行動がはっきりと見て取りやすいものですが、これは読書や講演、普段の会話でも同じです。


およそ物事の本質を学ぼうと思えば、大事なことは「こちらがカラ」という準備をしていることです。これは本メルマガでも、2年ほど前にカリアッパのエピソードをご紹介したので、古参読者の方は覚えておられると思います。



「あれこれと浅薄な自説を述べる前に、まずはぐっとこらえ、達人の言葉に耳を傾けること」が、新たな段階の成長を可能にする、という話でしたね。読書でも会話でも、ちょっと見聞きしてすぐに口をはさむようでは、相手やその本は到底、本来の面白さを見せてはくれないでしょう。



言いたいことを抑え、反論をしばし我慢し、まず読む。まず聞く。そうしてこそ先に進め、そこで、ちょっと前に持った疑問が氷解し、新たな気付きや知識が生まれます。


古代の中国だけでなく、江戸時代の高名な私塾でも、優れた教師は皆、弟子たちに「不言」を教えたそうです。しかも、「10日」とか「1ヶ月」も、「何もしゃべるな」と教えたそうですから、現代人なら発狂しそうな期間です。



その過程で、「隙あらば、師匠に俺の意見をぶつけてみよう」とか、「自説を売り込むチャンスは見逃さないぞ」と思っていた若い弟子たちは、「自分の考えていたことって、なんて浅かったんだ」と反省したそうです。



「何か言ってやろう」と待ち構えていたということは、それ以上成長した考えを持っていなかった、ということでもあります。「言いたい」と思って「不言」の日々を過ごすうちに、「言う価値があるのか」、「言ってどうなるのか」という自問自答が生まれるいう効果こそ、不言のメリットです。


自説を表明する機会を封じられ、よくよく熟慮する時間を与えられた弟子たちは、自分の不明を恥じ、かつての計画を反省し、その分余計素直になって、先生の教えをよく吸収し、大きく成長したそうです。



「しゃべっているうちは、反省も学習も不可能だ」というのは、東西の賢者たちが口を揃えている「この世の掟」です。言いたいことをグッとこらえ、相手の言い分によく耳を傾けてこそ、新しい意見も生まれるというもの。「不言」はこのように、平素の自分を反省する機会を与えてくれ、失いかけていた素直さを取り戻すきっかけをくれ、学ぶ速度と方向を調整してくれる行動です。


「沈黙の効用」については、面接塾でお話した通りで、ここでは再説しません。冬にまた、機会があれば話します。この夏は、「不言」によって自分を高め、新たな境地に到達してはいかがでしょうか。


今日の一冊 「なぜ」(松下幸之助/文春文庫)


松下幸之助さんといえば、晩年、出版を中心とした社会貢献事業であるPHP活動」(Peace and Happiness through Prosperity:繁栄による平和と幸福)を展開したことでも知られています。


PHPが「家電メーカー系列の出版社」であることを教えると、「へぇ」と驚く学生さんもいます。PHP文庫には、松下さんの著書もたくさんあって、FUNのみんながブックオフに行くと、必ず誰かが何かを買っていますよね。

その松下さんが、珍しく文春から出している著書が、「なぜ」です。文春であるからには、おそらく教育とか政治の話題を書いているんだろうと思って買ってみたら、そうでした。


本書には、FUNの皆さんが好きな「手形」について、「私製紙幣」と説明し、全国の企業を「準日本銀行」に模して、行きすぎた借金経済を案じるエッセイもありますが、それ以外は教育や理想国家について、戦後最大の業績を残した経営者の発想を綴っています。

「企業=金儲け主義」という歪んだ価値観を持っている方は、一度読んでみてはいかがでしょうか。企業がいかに社会や国家のことを考え、不屈の克己心で成長し、社会を豊かにしているかが、よく分かりますよ。




今日の質問 「ある程度の資格がないと就職は不利?」(西南3年Nさん)

う~ん、僕は英検準1級と普通免許しか持っていないので、資格の有無が就職にどう働くかを、経験的に語ることはできません。ただ、仕事柄、人様の転職や再就職に関わるのが本業なので、資格があれば有利だとは断言できます。


しかし、資格の有無以上に大事なのは、「位置づけ」です。「どういう動機で取得し、どう生かしたいか」を自分で責任を持って語らなければ、「周囲に影響されただけなんだね」と評価が下がることもあります。

参考に、FUNの学生さんについて言えば、毎年志望業界にどんどん内定し、しかも毎年「九州で一人」とか、「県で初」、「大学で初」といったニュースもありますが、ほとんどの学生さんは、TOEIC600700点くらいの資格しか持っていません。

今年、たくさんの内定をもらった学生さんを考えてみても、資格があった人はいません。むしろ「資質」で受かっています。


皆、控え目で礼儀正しい学生さんばかりですが、「東京の学生って、大したことないですね」という意見が、今年は特に多かったです。そりゃ、トップ営業マンのセールス研修を受けて面接に臨めば、東大生が相手でも楽勝でしょうが

ただ、僕が毎年「資格はあったほうがいいですか」と聞く学生さんに言っているのは、「なくていいと言えば、君は手を抜くつもりか」ということです。


学生さんの中には、就職の準備に繊細であるような素振りを見せつつ、心の中では、「できるだけ、楽をしたい」と考えている人もいます。そういう学生さんは、根本的に自信がありません。


「なくていい」と聞けば一時的には安心しても、他の人が「ないと困るらしいよ」と言っているのを聞けば、途端に不安になります。

資格がない学生は、「資質」で勝ったわけです。意欲の表れとして、自分に「やる気の証拠を残そう」と考えて資格を取った学生は、それはそれで、強力な武器を手にしています。


「資質」とは、「社会人の資格」と考えればよいでしょう。素直さ、意志の強さ、継続力、集中力、思いやり、時間に対する責任そういう表現しにくい要素を、面接という短期間の勝負で相手に伝えるのは、資格取得以上に難しいことだと言えます。

だから結論は、「あれば楽になる」という程度の気持ちで資格を取った学生は、あろうと受からず、「なくてもいいか」という気持ちで臨む学生は、代わりの何かを提示して、自分の可能性を証明せねばならない、ということです。

そもそも、「資格が有利か」と考える前に、「チャンスを見つけたら、機会を得て実現させる」という態度こそが有利だと知るべきでしょう。


人によって、その姿勢の表れが資格だったり、資質だったりするだけのことです。情報次第で努力の質が変わる、という浅はかな考えでは、椅子に座った瞬間に分かります。

学生さんの資格に対する考え方は、どこぞの業者が作ったものかは分かりませんが、まったくボロ儲けだなぁ、とよく感じます。資格も資質も、どちらも大事です。片方がなければ、片方で補完するのみ。


不足を補う努力は、人一倍でなければならない、という単純な事実を受け入れ、できる限りの最高の準備を、今日から始めましょう。そうすれば、他人から惑わされることなど、絶対にありません。




■「内定への一言」バックナンバー編


「可能性とは努力であって、時間ではない」(アミエル)



今日は韓国語塾の第回でした。まだ3週間目に入ったばかりなのに、みんなの覚えの早いこと。中でも筑女のTさんは、今日から遅れて参加したのに、「2つ」の歌についていけて、これはすごい才能だと驚きました。女子大2年のNさんは、自分で「歌詞の翻訳」にも挑戦していて、自分で作った例文の確認にも来て、学生さんの向上心には感心します。


皆さん、テストでは、大学で「第二外国語」で選択している人の2倍の点数を取りましょう。それくらい、夏には楽勝になっています。ついでに韓国語3級も、取ってしまいましょう。


いつも言っていますが、僕はFUNで、会計、語学、パソコンの3つをマスターした学生を育てたいと考えています。しかも、「専攻外」で。なぜかと言えば、この3つを身に付ければ、転職や独立でもかなり有利になるからです。



考えてもみて下さい。あなたがもし、「英語学科」を卒業した人よりも英語や他の語学が得意だったら、どうしますか?専門学校でパソコンを学んだ人よりも、ホームページや各種ソフトに詳しかったら、どうですか?商学部を卒業した人より、財務諸表が読め、経済記事を読みこなせたら、どうですか?

上記は全部、可能です。その理由は僕が全部できるし、教えるための方法と情熱、時間を持っているからです。僕が身に付けた、英語、韓国語、マレー語、パソコン、会計、財務、経済知識、法律、営業、スピーチ、作文、取材、編集の中で、一つとして「学校で学んだこと」はありません。



いわば、「実社会で得たもの」なので、数百円でばらまきます。皆さん、あとは身に付けるだけです。今のうちに努力して、将来は楽をしてしまいましょう。


よく若者は、「若者には可能性がある」と言います。人が言うならまだしも、自分で言います。学生さんも、よくこういうことを言います。それはそれで、自分に与えられた時間の価値を大きく見積もっている証拠で、大変立派な心構えです。



しかし、良い言葉は往々にして、二面性を持っているもの。つまり、「逃げ道にもなる」ということです。


なぜ若者に「可能性」なるものが与えられている、と言われているのでしょうか。それは無論、「人生を経験できる残り時間が、他の世代と比べて長い」という事実によるものでしょう。



つまり、若者に多く与えられているのは、「可能性」ではなく「時間」といった方が適切です。だから、時間が長ければ、「可能性を発揮できる確率」も多くなる、というわけなんですね。


そう、所詮「確率」なのです。そして、「確率=可能性」ではありません。確率とは、「平均より良い方に行くかもしれない」という見込みのことであって、「良い方に行く」という行動とは何も関係がありません。


それに、「うまくいく確率」が高いなら、「うまくいかない確率」も同様に高いと考えるのが、常識的な考え方でしょう。


つまり、「今、努力していない人間には、可能性などない」ということです。それを、「与えられた時間の長さ」に甘えて「可能性がある」などとごまかすのは、間違った態度です。


「可能性」?どんな可能性なのでしょうか?それをよく口にする人は、「今、毎日やっていること」の先に、自分がどんな結果に行き着くかを、考えたことはあるのでしょうか。


僕は、本業であるフリーターの再就職相談では、「今やっている行動が最終的にあなたにもたらすものは何か」を聞くことにしています。「分からない」と言っても無視します。分からない人など、いないからです。誰だって、「これじゃいけない」ということは、心の中では分かっています。


そして、「僕は、君が深いところで探し当てた君自身を応援するのだ」ということを伝えるのです。そういう深い部分の信頼関係がなければ、繊細な転職相談は、スムーズに進みません。

人生には、「怠けている人間ほど、実は楽観的である」というギャップがあります。今サボっている人、分かっていて動かない人、頑張っている人に嫉妬する人、他人を認めきれない人、すぐに言い訳を作って中断する人。フリーターの多くは、こういう若者です。


僕は、「なぜ、いつも、みんなこうなのか?」と考えました。性別、年齢、前職、志望職種、所得、教育によらず、あまりにパターンが似通っていたからです。そして、一つの結論というか、「仮説」にたどり着きました。



それは、「だって、将来はいいことがあるかもしれないから」とか、「自分だって、やる時はやるんだから」と、心中奥深くに「楽観的な見通し」があるという心理状態です。

いわば、「運命的なハプニング」が、いつか自分を今の状態から救ってくれるだろうと、心のどこかで期待しているからこそ、今頑張らないというわけでした。



英語の「happening」は、「happen」の派生語で、「幸せ」を表すことがあります。「幸せ」とは、「顕在化された可能性」と考えればよいでしょう。それまでどこかに隠れていた(潜在的だった)「可能性」なるものが、時を得て姿を現した(起こった=happen)から、「幸せ」になったわけです。


現在、僕が好んで集めているような「昭和25年以前」の古い本を読んだりすると、「幸せ」を「仕合わせ」と書いていることがあります。「先生がご紹介下さつた本を、たまたま立ち寄つた神田の古書街で見つけるといふ仕合はせがあり」といった感じです。



何かと何かが「仕合わせた」という語感が感じられますよね。つまり、「Aという要素(紹介による認識)」と「Bという要素(立ち寄ること)」が、「出くわした」という状態です。


これは、極めて「happen」と近い語感だとは言えないでしょうか。僕は別に、言語学の学説がどうなっているか、なんてことは知りません。ただ、英語でも韓国語でもマレー語でも、「そもそもの由来」を知るのは、とても好きです。



そして、この習慣はしばしば、正確な定義と雷のようなアイデアを与えてくれます。つまり、「今そこにある可能性」は、動かなければ掴めないということです。こんなことは、誰でも知っているし、何度も聞かされてきたことでしょう。



しかし、「可能性があること」に安心しきって、あるいは甘え切って、掴むための行動を取っていない若者が、あまりに多すぎるのではないでしょうか。それは、「happen」が起こりえない、ということです。



仕合わせようにも、仕合わせる片方の要素としての「行動」がない、ということです。だから「happening」、つまり「幸せ(仕合わせ)」は、起こりません。


そこに可能性があろうと、動かない人間には「豚に真珠」です。つまり「無意味」ということです。そんな人には、ただ「茫漠たる時間」あるのみ。



ダラダラ過ごして、時間を埋め合わせるための行動を「カラオケ」や「ボーリング」などのように、「他人のアイデア」との合作で済ませる若者に、一体どんな可能性があるというのでしょうか。そういう若者には、老人以下の可能性すら、ありません。


別にカラオケやボーリングが悪いというではありません。僕だって、年に1回くらいは行きます。しかし、「やることやったぞ!」という気持ちでなければ、とても行くことはできません。やるべきことが分かっていて、それを後回しにして遊ぶと、僕に与えられていたはずの「仕合わせ」が、逃げて行ってしまうような気持ちになってしまいます。



そういう信念を昔から持っていたので、友達も多くありませんでした。しかし、人脈はたくさんできました。こういう点での僕の感情は、30歳になった今でも、とても「子供っぽいもの」だと思いますが、僕はこういうことをデタラメにして生きるには、気が小さくできているようです。



しかし、それを恥だと思ったことはありません。口だけでかくて「豪快な人間」を装い、全く結果が伴っていない人間よりも、僕の方が何倍も成功しているという実感があるからです。


皆さんにも、与えられているのは「可能性」ではなく、「時間」です。それが「可能性」になるのは、自分が努力している時だけです。自分の努力こそ、そこに待っている「運の片割れ」と自分を仕合わせる要因です。


そうしてこそ、「可能性がある」と言えます。そう信じて、今日も自分を「幸せ」に一歩近付ける一日にしましょう。



今日の一冊 「金の全てを知りつくした男~安田善次郎の成功哲学~」(青野豊作/PHPビジネスライブラリー)

最近ブックオフでよく探しているのが、PHPの「ビジネスライブラリー」シリーズです。80年代に続々と発刊されたようで、どれも名作揃いです。と書いたら、読者の皆さんが探し始めて、なくなってしまうかもしれませんね。いえいえ、それは却っていいことですから、どんどん買いに行きましょう。


安田善次郎と言えば、今の「みずほ」グループ(第一勧銀+興銀+富士)の一角であった「富士銀行」の前身である「安田銀行」の創設者です。幕末から大正の激動期に「金融王」と呼ばれるほど手腕を発揮し、五・一五事件で暗殺されたのが、本当に悔やまれます。



本書は富山に生まれ、若い頃から刻苦勉励を重ねて大成した実業家の、詳細な伝記です。両替商の時代から近代的銀行制度の手法を取り入れ、投資や資産運用で「百発百中」の成果を出し続けた人物の「目の付け所」が、惜しみなく紹介されています。


これは、金融業界に行く人は、必読の一冊ですよ。経済や歴史の勉強にも、格好の入門書になるでしょう。渋沢栄一や本多静六さんの本と一緒に読めば、さらに理解が深まるでしょう。



今日の質問 「効率的な語学学習法とは?」(西南3年Nさん)

西南のNさんは、先週頂いたメールで、なんと6つも質問を載せてくれていました。どれも多くの学生さんの気持ちを表してくれているので、受信トレイにメールを保存し、毎回一つずつ取り上げていますが、今日は「語学の学習法」についてです。


僕も、10年と少し語学を学んできて、4つほどの外国語が操れるようになりましたが、「効率」ということは、最初ほど考えなくなりました。


学生さんからよく寄せられる質問に、「仕事をして、メルマガを書いて、エントリーシートの添削をして、本も読んで、FUNのレジュメも作って講義もして、一体、いつ寝たり勉強したりしてるんですか?」というものがあります。そんなに不思議なんでしょうか?


僕はただ、いつも喫茶店とブックオフとキンコーズを、愛車のタクト(前号掲載のビバさんで37,000円)で走り回っているだけなのに


しかし、それに対して「答え」というものがあるなら、僕は「集中力」だと答えます。 僕は決して、決めた作業を延期しません。ダラダラと時間をかけることもしません。一発必中で仕留めます。終わるまでやめないので、必ず終わります。単純なことです。



「やろうかやるまいか」と考える時間こそもったいないので、そういう時は顔を洗い、さっさと喫茶店に行って代金を払い、「集中時間」を購入します。そして、どんな作業も、数百円を払って買った「時間と空間」の中で向き合うと、恐ろしいほどのペースと完成度で仕上がります。これは、誰がやっても同じでしょう。

ということで、Nさん。「効率」というものがあるなら、それは「どれだけ集中できるか」ということです。集中すれば、深く理解できます。深く理解できれば、難解な表現も簡単になっていきます。


語学にしろ会計にしろ、レポートにしろ勉強にしろ、「集中が中途半端」な状態で、浅いところをフワフワさまよっている時間が、一番無駄で何も生み出しません。


効率は、こちらが何も準備しない状態では、発生しえない要素です。意欲と準備が欠落した人間に対して、何がしかの効率を用意できる方法は、本質と乖離した「語呂合わせ」くらいしかないでしょう。


そして、そんな勉強では、試験が終わった後に「驚くほどの忘却力」を味わって、自己嫌悪に陥るのが普通です。


学生さんは取り掛かりが遅く、継続力がないため、「取っ掛かりの効率」や「試験に間に合わせるための効率」ばかりを考えます。なぜ、「忘れないための効率」や、「自信を持つための効率」を考えないのでしょうか。


効率とは、そもそも「結果」から考えるべき要素でしょう。真剣にやれば、何事も「最初は遅い」のが普通です。よって、逆説的ですが、最初は「効率が悪い」というのが、正常な現象です。


それを、「最初から効率が良いこと」を探そうとするから、結局何も続かず、身に付かず、自信も余裕も生まれないのではないのでしょうか。


語学にしろ何にしろ、まず、全身全霊で集中してみましょう。そうすれば、必ず突破口が見えてきます。一つ突破できれば、次もその次も、どんどん突破できます。そうして、自分に合った勉強方法が確立されていきます。それが「効率」です。


効率とは、「やり方」ではなく、「やり方が分かっていくこと」です。続けば必ず上達します。何事も、効率ではなく、集中と継続によってのみ、上達します。効率は、その速度を若干、左右するだけです。

効率とは、「最初から良い」という尺度で考えるのではなく、「後に行くほど楽になる」という尺度で考えるべきです。経営も、スポーツも、芸術も、全てそうです。だからまずは、「全部ムダ」と分かっていても、全力でぶち当たることです。


最初のムダを恐れると、全部がムダになります。最初は「100%」がムダでも、次は「95%」がムダ、というふうに成長するでしょう。そうやって、ムダがなくなっていくことが効率です。ムダが「0%」の方法も、あるにはあります。


しかしそれは、そこに行き着くまでのプロセスを経験した人にしか、できません。

往々にして達人ほど、初心者を前にして、学生さんなら「バカにするな!それくらい分かっている」と反発しかねないような、恐ろしくシンプルなアドバイスをします。


そしてそれを聞いた若者は、「自分は人の真似はしたくない」とふてくされます。若者の間では、「真似しない」という言葉を口にすれば、それは免罪符のように「非効率」を贖い、周囲からの「不干渉」の資格を手に入れられるようです。


しかしそれは、正しくは「真似できる能力すらない」ということです。そういう人は「自分なり」という言葉が好きなようですが、「自分なり」とは、正しく翻訳すれば、「好きなことだけを、やりたい時にしかやらない態度」ということです。


つまりは、「永遠に、かつ絶対に上達しない方法」と言えます。現代は「個性尊重の時代」らしいので、僕も今さら時代の流れに乗って、「いやぁ、すごいね!自分なり。」と不干渉を貫いています。


学生さんは「達成」ばかりを見ようとするので、立てた目標と現状の格差ばかりが意識に映り、自ら落胆します。最後は焦って自滅し、「最初から楽な方法」を求めて、何ヶ月もさまよい、結局全ての時間を無駄にします。


これは実にもったいないことで、「ムダが減った」ことこそ、喜ぶべきことです。自覚しやすい前進を、いつも意識に置きましょう。そうしてこそ、効率が生まれます







■「内定への一言」バックナンバー編


「願望は目の前の現実を捨象させる」(渡部昇一)



土曜のFUNゼミ「マネー塾」では、「モノが豊かになって、心が貧しくなった」という、日本ではありふれている社会観の「嘘」を説明しました。マネー塾では、お金の知識と同様に、参考になるであろう「社会や経済の見方」をご紹介しているのですが、お金はもちろん、そういう哲学的な内容が好きな学生さんもたくさんいます。とても嬉しいことです。


「成長する」とは、今まで目の前に存在していたのに、自分の知識や経験の不足から見えなかった要素が、はっきりと見えてくるようになることでもあります。



描いたプロセスと、実際の努力、結果が一致すれば、「上手」とか「達人」と呼ばれます。凡人には見えない要素が見えてこそ、より正確な判断ができ、想像と結果が一致するようになってくるのですから、全くその通りですね。


しかし、これはまた、何かをやろうと思っても、なかなか思った通りに事が進まない人には、「大切な何かが見えていない」ということでもあります。




例えば、「自転車に乗っている人」を見て、「ペダルをこげば進む」と思った人は、「なんだ、簡単じゃないか」と思って、ペダルをこごうとするでしょう。そして、転ぶでしょう。


なぜでしょうか?それは、「バランス感覚」という要素を見なかったからです。正しく言えば、見えるのに観察できなかったのです。「自分にも簡単にできるはずだ」という願望が、その現実を視界から排除してしまった、というわけです。



よって、自分が想像した「自転車でスイスイ走る」という結果は、「バランス欠如」という要因により、当初の想像とは違う「転倒」という結果に終わりました。


このように、「目の前にあるのに、その現実を見落とす行為」を、それが意識的であれ、無意識の動作であれ、「捨象」と呼ぶのだと、渡部昇一さんは著書『新常識主義のすすめ』(文春文庫・1978で書いています。



「対象」や「現象」とは、その人の知識や経験で認識できる事実の集合体を指すわけですから、そこから「捨てる」ということで、「捨象」と呼ぶわけなんですね。



哲学には、このように「頭脳や心の働き」を便利に説明してくれる言葉がいくつかあって、最終学歴が自動車学校で無学な僕は助かります。言語によって動作や状態を規定するというのは、すごい集中力や想像力が必要なので、新語を作る人は尊敬に値します。


さて、この「捨象」がよく起こる分野と言えば、やはり「国際交流」や「海外旅行」でしょう。


例えば、以下のような言い回しはどうでしょう。1年という短期間ながら、途上国のミニ建材商社で働いた経験のある僕は、帰国後、「なぜ日本では、こういう言い方がまかり通っているのか」と不思議でならない言葉です。


「途上国の子供たちは、家族を助けるために働いていて、本当に感心する。日本の子供が失った目の輝きがある」
「東南アジアでお店に入ると、みんな片言の日本語ができ、愛想も良く、本当にいい人ばかりだった」
「韓国では夫婦別姓が進んでいて、女性の人権を認めている。それに比べて日本は何だ」


については、そもそも「子供が昼間から働いている」という事実が、「学校に行かせる経済力がない」という問題に起因することを捨象しています。「途上国は心が豊か」という思い込みから、人種的に作りの違う目を見れば、愛らしく思えるんでしょう。


については、「店で愛想がいいのは、自分が客だから」という事実を捨象しています。そして、別にあなただから、日本人だから愛想良く振舞ってくれるのではありません。ただ、「客だから」です。


僕は東南アジアの人と一緒に働きましたが、正直な感想は、「こんな人たちとずっと働いていくのは耐えられない」と感じました。「異民族と仕事をするのは、なんと苦労が多く効率が悪いことか」と痛感したのは、相手との関係が「客」ではなかったからでしょう。


については、そもそも韓国の系図(族譜=チョクポ)では、「女性は戸籍に入れない」という風習が捨象されています。夫婦の姓が違うのは、別に男女同権の表れではなく、「女は一族に入れない」という儒教的伝統の結果に他なりません。


以前、頭の悪い東京の学者が「韓国の方が日本よりジェンダーフリーが進んでいる」と言っていましたが、その韓国の「出生率」が先進国最下位で、女性の社会進出に対する不満が異常に高いことを、この学者はどう説明するのか、理解に苦しんだものです。


このように、「捨象」によって導かれる珍問答は数知れず、これらの「想像と結果の齟齬」は、「ギャップ」と呼ばれて、知的達成や研究の対象とされます。学問的課題となっているうちは、まだ健全です。人類はそうやって、多くの領域に体系や理論を発見してきたのですから。


しかし、それが政治的、社会的に圧力を持つ「偏見」となると、始末が悪いものです。

例えば、「自称・国際交流通」をもって任じる学生などは、よくこのようなことを言ってはいないでしょうか。


「アメリカは、日本と比べて女性の社会進出が格段に進んでいる。それに比べて、日本ではまだ法整備や世論の啓蒙が不十分だ」。


昔は「ジェンダーフリー」と言って、ソ連崩壊で失業した社会主義者(教師や市民団体)たちが、新たな活動の場を求め、若い女性たちに「あなたは抑圧されている!」とけしかけた時期があったものです。


「知的水準が高い女性が、近代的家庭形態の次に到達する自己認識」と叫ばれ、鳴り物入りで導入が図られた新思想の結果は

嫉妬深く、結婚のハードルが高く、理屈っぽくて社交性のない「嫌われる女」ばかりが、そういう偏見的な世論を支持しました。


あれ?「知的水準が高い女性の新思想」だったはずなのに?上流の知的な女性たちは、今も「幸せな結婚こそ、女の喜び」と言っています。こういう女性は、「ホーケン的!」じゃなかったのでしょうか?ジェンダー主義者の皆さん、攻撃しなくてよろしいんですか?


マルクスは共産主義を「高度に発展した資本主義の次に訪れる経済体制」と言いましたが、その予言に反して、共産主義が伝染したのは、「お金」すら使ったことがなく、およそ地球上で「最も後進的」とされた地域ばかりでした。



ジェンダー論も、今では教えることがなくなった国公立大学の「窓際教授」が、世間知らずの女子大生を相手に、細々と講義をするだけの授業に成り下がっているようです。ジェンダーも共産主義も、発生と衰退の仕組みは、全く同じですね。嫉妬深い人間ばかりに支持された点まで、そっくりです。


だいたい、「感動がない思想」が健全に発展するはずがありませんが、学者先生は、本の山に埋もれて勝手な想像ばかりし過ぎて、こういう単純な事実に気付かないのでしょうか。この論では、女性が「家庭にいること」を後進的、封建的と見なし、男性以上の働きを期待するのが常ですが、そういう考え方自体、「母親」というものを冒涜した無礼な思想ではないでしょうか。


僕は、子供を立派に育てることは、事業を起こす以上に立派な社会貢献だと思います。

「アメリカの女性は社会進出が進んでいる」のは、確かに一面ではそうでしょう。「働きたい」と願う女性のための制度は、わが国も見習うべき点がいっぱいあるとは、僕も思います。



しかし、この意見は「アメリカに対する憧れ」が過剰に作用し過ぎて、ある事実を捨象してはいないでしょうか?それは、「アメリカの家計は、世界一債務が多い」という事実です。


アメリカの「共働き」が、「先進的」で「進歩的」だとしましょう。そう思う人は、「共働き」がそうなのか、あるいは「アメリカ」だから先進的としているのかは分かりません。だから、「日本の共働き家庭をどう思うか?」と質問してみればよいでしょう。



もし、それを「先進的ではない」と言うなら、その人は「アメリカだから先進的」としていることになります。これは見当違いも甚だしい意見です。なぜなら、「共働き」という動作の性質は無視して、単に「日本だから」、「アメリカだから」という事実のみに立脚した結論を導いているからです。


日本人であれば、「日本の共働き」には体験的実感が伴います。仮に自分の家庭がそうではなくても、近所の友達や昔の知人を思い出すと、「鍵っ子」がいたはずです。



そして、「共働き」は、なぜ起こるのでしょうか?それは大抵の場合、「社会進出したいから」ではなく、ただ単に、「お父さん一人では、お金が足りない」からです。これを「社会進出が進んでいる」と言うのは、「あんた、頭の作りが都合が良すぎるんじゃない?」としか思えません。


多くの統計やルポが伝える通り、アメリカ人は、日本人の4~7倍のクレジットカードを持っているそうです。「未来はもっと良くなる」と、進化論思想を受け入れた彼らの借金癖はすさまじく、その旺盛すぎる購買意欲で、日本企業も大変な恩恵を受けているわけですが、共働きの陰で放置されたアメリカの子供はどうなるのでしょう。



アメリカのお母さんだって、子供が生まれれば、職場の上司や同僚よりも大切だと思うはずです。「社会進出のため、子供なんて後回し」だとは思えないでしょう。そういう冷酷な意見は、結婚できないヒステリー女の意見です。人の親なら、愛する子供の成長する姿を見つめ続けたいはずです。僕は片親で育ちましたが、母が仕事帰りに駅まで迎えに来てくれる「雨の日」が好きでした。


「専業主婦は借金によって不可能」というのが、あの国の大半の家庭の真実です。アメリカ女性の大半は、「働きたいから」ではなく、「支払いが苦しいから」、やむを得ず働いているに過ぎません。それを、ご都合主義の「自称・先進的」女性は、「アメリカを見なさい!」と言うわけですから、やはり「思想的田舎モノ」と言うほかありません。


人間は、知的後退がひどくなると、恥を隠すためか、急進的な考えに飛びつきたがるものです。それもまた、「捨象」のなせるわざです。特に、若いうちはそういう傾向が強いので、わがFUNでは、地道に「古典」や「歴史」を勉強しているわけです。



常識とは「知識」ではなく、「判断力」のことだと、以前読んだ本でも、学びましたよね。無知な人間は多くの事実を捨象し、勝手な願望によって組み立てた現実を言葉で説明したがるものです。しかし、それは往々にして、ご都合主義的で、一方的な解釈に過ぎません。


あるいは「中国経済が急成長」というのも、中国人の勤勉の成果でもあるのでしょうが、それはただ単に、「毛沢東華国鋒の経済政策がひどすぎた」からでもあります。鄧小平が現れるまでの中国は、「バングラデシュ並みの最貧国」でした。



戦後の日本、朝鮮戦争後の韓国を見ても分かる通り、「奇跡の成長」と自称する経済発展を成し遂げた国は、その前に、あまりに多くのものを失いすぎています。


住宅、都市、工場、鉄道、上下水道そのような物まで破壊し、失ってしまえば、その国の戦後の成長はすさまじいものでしょう。経済成長率で言えば、「8%」とか「12%」といった、「驚異的」と呼ばれる比率をたたき出す可能性もあります。



それはまた、「民族の優秀性と同時に、後進性を示す数値でもある」ことを、低成長を堅実に積み重ねる賢明な西洋人は知っているのでしょう。僕は、西洋はそういう点でも精神的ゆとりがあって、やっぱりすごいと感じます。


このような現象は、個人の人格形成や学問的成長においても、同様に当てはまることです。急激な成長の手応えに、自分の可能性を改めて実感するのもよいでしょう。



しかしそれは、同時に「今までサボっていた反動」であることも、受け入れてよい事実です。じゃないと、短期間の慢心が、その後の自信失墜を招きかねません。


就活もまた、「捨象と発見の連続」である点が、喜びでもあり苦労でもあります。選考結果に一喜一憂しつつも、今まで見えなかった社会の仕組みが見えてくることは、業界研究や面接の良い収穫だと言えるでしょう。そして、そういう知的前進が「楽しい!」と素直に言える学生さんほど、たくさん内定をもらうものです。


読書に読書を重ね、不断の探究心と学問的向上心を発揮して、今は「捨象」している多くの事実を見抜くことができる、知的な若者になりましょう。



人に見えないものが見えると、はっきり言って、めちゃくちゃ儲かります。来週から始まる「マネー塾」では、学生さんが捨象している「お金の事実」を惜しみなく教えるので、受講希望者の方は、ご期待下さい。