■「内定への一言」バックナンバー編


「願望は目の前の現実を捨象させる」(渡部昇一)



土曜のFUNゼミ「マネー塾」では、「モノが豊かになって、心が貧しくなった」という、日本ではありふれている社会観の「嘘」を説明しました。マネー塾では、お金の知識と同様に、参考になるであろう「社会や経済の見方」をご紹介しているのですが、お金はもちろん、そういう哲学的な内容が好きな学生さんもたくさんいます。とても嬉しいことです。


「成長する」とは、今まで目の前に存在していたのに、自分の知識や経験の不足から見えなかった要素が、はっきりと見えてくるようになることでもあります。



描いたプロセスと、実際の努力、結果が一致すれば、「上手」とか「達人」と呼ばれます。凡人には見えない要素が見えてこそ、より正確な判断ができ、想像と結果が一致するようになってくるのですから、全くその通りですね。


しかし、これはまた、何かをやろうと思っても、なかなか思った通りに事が進まない人には、「大切な何かが見えていない」ということでもあります。




例えば、「自転車に乗っている人」を見て、「ペダルをこげば進む」と思った人は、「なんだ、簡単じゃないか」と思って、ペダルをこごうとするでしょう。そして、転ぶでしょう。


なぜでしょうか?それは、「バランス感覚」という要素を見なかったからです。正しく言えば、見えるのに観察できなかったのです。「自分にも簡単にできるはずだ」という願望が、その現実を視界から排除してしまった、というわけです。



よって、自分が想像した「自転車でスイスイ走る」という結果は、「バランス欠如」という要因により、当初の想像とは違う「転倒」という結果に終わりました。


このように、「目の前にあるのに、その現実を見落とす行為」を、それが意識的であれ、無意識の動作であれ、「捨象」と呼ぶのだと、渡部昇一さんは著書『新常識主義のすすめ』(文春文庫・1978で書いています。



「対象」や「現象」とは、その人の知識や経験で認識できる事実の集合体を指すわけですから、そこから「捨てる」ということで、「捨象」と呼ぶわけなんですね。



哲学には、このように「頭脳や心の働き」を便利に説明してくれる言葉がいくつかあって、最終学歴が自動車学校で無学な僕は助かります。言語によって動作や状態を規定するというのは、すごい集中力や想像力が必要なので、新語を作る人は尊敬に値します。


さて、この「捨象」がよく起こる分野と言えば、やはり「国際交流」や「海外旅行」でしょう。


例えば、以下のような言い回しはどうでしょう。1年という短期間ながら、途上国のミニ建材商社で働いた経験のある僕は、帰国後、「なぜ日本では、こういう言い方がまかり通っているのか」と不思議でならない言葉です。


「途上国の子供たちは、家族を助けるために働いていて、本当に感心する。日本の子供が失った目の輝きがある」
「東南アジアでお店に入ると、みんな片言の日本語ができ、愛想も良く、本当にいい人ばかりだった」
「韓国では夫婦別姓が進んでいて、女性の人権を認めている。それに比べて日本は何だ」


については、そもそも「子供が昼間から働いている」という事実が、「学校に行かせる経済力がない」という問題に起因することを捨象しています。「途上国は心が豊か」という思い込みから、人種的に作りの違う目を見れば、愛らしく思えるんでしょう。


については、「店で愛想がいいのは、自分が客だから」という事実を捨象しています。そして、別にあなただから、日本人だから愛想良く振舞ってくれるのではありません。ただ、「客だから」です。


僕は東南アジアの人と一緒に働きましたが、正直な感想は、「こんな人たちとずっと働いていくのは耐えられない」と感じました。「異民族と仕事をするのは、なんと苦労が多く効率が悪いことか」と痛感したのは、相手との関係が「客」ではなかったからでしょう。


については、そもそも韓国の系図(族譜=チョクポ)では、「女性は戸籍に入れない」という風習が捨象されています。夫婦の姓が違うのは、別に男女同権の表れではなく、「女は一族に入れない」という儒教的伝統の結果に他なりません。


以前、頭の悪い東京の学者が「韓国の方が日本よりジェンダーフリーが進んでいる」と言っていましたが、その韓国の「出生率」が先進国最下位で、女性の社会進出に対する不満が異常に高いことを、この学者はどう説明するのか、理解に苦しんだものです。


このように、「捨象」によって導かれる珍問答は数知れず、これらの「想像と結果の齟齬」は、「ギャップ」と呼ばれて、知的達成や研究の対象とされます。学問的課題となっているうちは、まだ健全です。人類はそうやって、多くの領域に体系や理論を発見してきたのですから。


しかし、それが政治的、社会的に圧力を持つ「偏見」となると、始末が悪いものです。

例えば、「自称・国際交流通」をもって任じる学生などは、よくこのようなことを言ってはいないでしょうか。


「アメリカは、日本と比べて女性の社会進出が格段に進んでいる。それに比べて、日本ではまだ法整備や世論の啓蒙が不十分だ」。


昔は「ジェンダーフリー」と言って、ソ連崩壊で失業した社会主義者(教師や市民団体)たちが、新たな活動の場を求め、若い女性たちに「あなたは抑圧されている!」とけしかけた時期があったものです。


「知的水準が高い女性が、近代的家庭形態の次に到達する自己認識」と叫ばれ、鳴り物入りで導入が図られた新思想の結果は

嫉妬深く、結婚のハードルが高く、理屈っぽくて社交性のない「嫌われる女」ばかりが、そういう偏見的な世論を支持しました。


あれ?「知的水準が高い女性の新思想」だったはずなのに?上流の知的な女性たちは、今も「幸せな結婚こそ、女の喜び」と言っています。こういう女性は、「ホーケン的!」じゃなかったのでしょうか?ジェンダー主義者の皆さん、攻撃しなくてよろしいんですか?


マルクスは共産主義を「高度に発展した資本主義の次に訪れる経済体制」と言いましたが、その予言に反して、共産主義が伝染したのは、「お金」すら使ったことがなく、およそ地球上で「最も後進的」とされた地域ばかりでした。



ジェンダー論も、今では教えることがなくなった国公立大学の「窓際教授」が、世間知らずの女子大生を相手に、細々と講義をするだけの授業に成り下がっているようです。ジェンダーも共産主義も、発生と衰退の仕組みは、全く同じですね。嫉妬深い人間ばかりに支持された点まで、そっくりです。


だいたい、「感動がない思想」が健全に発展するはずがありませんが、学者先生は、本の山に埋もれて勝手な想像ばかりし過ぎて、こういう単純な事実に気付かないのでしょうか。この論では、女性が「家庭にいること」を後進的、封建的と見なし、男性以上の働きを期待するのが常ですが、そういう考え方自体、「母親」というものを冒涜した無礼な思想ではないでしょうか。


僕は、子供を立派に育てることは、事業を起こす以上に立派な社会貢献だと思います。

「アメリカの女性は社会進出が進んでいる」のは、確かに一面ではそうでしょう。「働きたい」と願う女性のための制度は、わが国も見習うべき点がいっぱいあるとは、僕も思います。



しかし、この意見は「アメリカに対する憧れ」が過剰に作用し過ぎて、ある事実を捨象してはいないでしょうか?それは、「アメリカの家計は、世界一債務が多い」という事実です。


アメリカの「共働き」が、「先進的」で「進歩的」だとしましょう。そう思う人は、「共働き」がそうなのか、あるいは「アメリカ」だから先進的としているのかは分かりません。だから、「日本の共働き家庭をどう思うか?」と質問してみればよいでしょう。



もし、それを「先進的ではない」と言うなら、その人は「アメリカだから先進的」としていることになります。これは見当違いも甚だしい意見です。なぜなら、「共働き」という動作の性質は無視して、単に「日本だから」、「アメリカだから」という事実のみに立脚した結論を導いているからです。


日本人であれば、「日本の共働き」には体験的実感が伴います。仮に自分の家庭がそうではなくても、近所の友達や昔の知人を思い出すと、「鍵っ子」がいたはずです。



そして、「共働き」は、なぜ起こるのでしょうか?それは大抵の場合、「社会進出したいから」ではなく、ただ単に、「お父さん一人では、お金が足りない」からです。これを「社会進出が進んでいる」と言うのは、「あんた、頭の作りが都合が良すぎるんじゃない?」としか思えません。


多くの統計やルポが伝える通り、アメリカ人は、日本人の4~7倍のクレジットカードを持っているそうです。「未来はもっと良くなる」と、進化論思想を受け入れた彼らの借金癖はすさまじく、その旺盛すぎる購買意欲で、日本企業も大変な恩恵を受けているわけですが、共働きの陰で放置されたアメリカの子供はどうなるのでしょう。



アメリカのお母さんだって、子供が生まれれば、職場の上司や同僚よりも大切だと思うはずです。「社会進出のため、子供なんて後回し」だとは思えないでしょう。そういう冷酷な意見は、結婚できないヒステリー女の意見です。人の親なら、愛する子供の成長する姿を見つめ続けたいはずです。僕は片親で育ちましたが、母が仕事帰りに駅まで迎えに来てくれる「雨の日」が好きでした。


「専業主婦は借金によって不可能」というのが、あの国の大半の家庭の真実です。アメリカ女性の大半は、「働きたいから」ではなく、「支払いが苦しいから」、やむを得ず働いているに過ぎません。それを、ご都合主義の「自称・先進的」女性は、「アメリカを見なさい!」と言うわけですから、やはり「思想的田舎モノ」と言うほかありません。


人間は、知的後退がひどくなると、恥を隠すためか、急進的な考えに飛びつきたがるものです。それもまた、「捨象」のなせるわざです。特に、若いうちはそういう傾向が強いので、わがFUNでは、地道に「古典」や「歴史」を勉強しているわけです。



常識とは「知識」ではなく、「判断力」のことだと、以前読んだ本でも、学びましたよね。無知な人間は多くの事実を捨象し、勝手な願望によって組み立てた現実を言葉で説明したがるものです。しかし、それは往々にして、ご都合主義的で、一方的な解釈に過ぎません。


あるいは「中国経済が急成長」というのも、中国人の勤勉の成果でもあるのでしょうが、それはただ単に、「毛沢東華国鋒の経済政策がひどすぎた」からでもあります。鄧小平が現れるまでの中国は、「バングラデシュ並みの最貧国」でした。



戦後の日本、朝鮮戦争後の韓国を見ても分かる通り、「奇跡の成長」と自称する経済発展を成し遂げた国は、その前に、あまりに多くのものを失いすぎています。


住宅、都市、工場、鉄道、上下水道そのような物まで破壊し、失ってしまえば、その国の戦後の成長はすさまじいものでしょう。経済成長率で言えば、「8%」とか「12%」といった、「驚異的」と呼ばれる比率をたたき出す可能性もあります。



それはまた、「民族の優秀性と同時に、後進性を示す数値でもある」ことを、低成長を堅実に積み重ねる賢明な西洋人は知っているのでしょう。僕は、西洋はそういう点でも精神的ゆとりがあって、やっぱりすごいと感じます。


このような現象は、個人の人格形成や学問的成長においても、同様に当てはまることです。急激な成長の手応えに、自分の可能性を改めて実感するのもよいでしょう。



しかしそれは、同時に「今までサボっていた反動」であることも、受け入れてよい事実です。じゃないと、短期間の慢心が、その後の自信失墜を招きかねません。


就活もまた、「捨象と発見の連続」である点が、喜びでもあり苦労でもあります。選考結果に一喜一憂しつつも、今まで見えなかった社会の仕組みが見えてくることは、業界研究や面接の良い収穫だと言えるでしょう。そして、そういう知的前進が「楽しい!」と素直に言える学生さんほど、たくさん内定をもらうものです。


読書に読書を重ね、不断の探究心と学問的向上心を発揮して、今は「捨象」している多くの事実を見抜くことができる、知的な若者になりましょう。



人に見えないものが見えると、はっきり言って、めちゃくちゃ儲かります。来週から始まる「マネー塾」では、学生さんが捨象している「お金の事実」を惜しみなく教えるので、受講希望者の方は、ご期待下さい。