■「内定への一言」バックナンバー編
「可能性とは努力であって、時間ではない」(アミエル)
今日は韓国語塾の第⑤回でした。まだ3週間目に入ったばかりなのに、みんなの覚えの早いこと…。中でも筑女のTさんは、今日から遅れて参加したのに、「☆2つ」の歌についていけて、これはすごい才能だと驚きました。女子大2年のNさんは、自分で「歌詞の翻訳」にも挑戦していて、自分で作った例文の確認にも来て、学生さんの向上心には感心します。
皆さん、テストでは、大学で「第二外国語」で選択している人の2倍の点数を取りましょう。それくらい、夏には楽勝になっています。ついでに韓国語3級も、取ってしまいましょう。
いつも言っていますが、僕はFUNで、①会計、②語学、③パソコンの3つをマスターした学生を育てたいと考えています。しかも、「専攻外」で。なぜかと言えば、この3つを身に付ければ、転職や独立でもかなり有利になるからです。
考えてもみて下さい。あなたがもし、「英語学科」を卒業した人よりも英語や他の語学が得意だったら、どうしますか?専門学校でパソコンを学んだ人よりも、ホームページや各種ソフトに詳しかったら、どうですか?商学部を卒業した人より、財務諸表が読め、経済記事を読みこなせたら、どうですか?
上記は全部、可能です。その理由は…僕が全部できるし、教えるための方法と情熱、時間を持っているからです。僕が身に付けた、英語、韓国語、マレー語、パソコン、会計、財務、経済知識、法律、営業、スピーチ、作文、取材、編集…の中で、一つとして「学校で学んだこと」はありません。
いわば、「実社会で得たもの」なので、数百円でばらまきます。皆さん、あとは身に付けるだけです。今のうちに努力して、将来は楽をしてしまいましょう。
よく若者は、「若者には可能性がある」と言います。人が言うならまだしも、自分で言います。学生さんも、よくこういうことを言います。それはそれで、自分に与えられた時間の価値を大きく見積もっている証拠で、大変立派な心構えです。
しかし、良い言葉は往々にして、二面性を持っているもの。つまり、「逃げ道にもなる」ということです。
なぜ若者に「可能性」なるものが与えられている、と言われているのでしょうか。それは無論、「人生を経験できる残り時間が、他の世代と比べて長い」という事実によるものでしょう。
つまり、若者に多く与えられているのは、「可能性」ではなく「時間」といった方が適切です。だから、時間が長ければ、「可能性を発揮できる確率」も多くなる、というわけなんですね。
そう、所詮「確率」なのです。そして、「確率=可能性」ではありません。確率とは、「平均より良い方に行くかもしれない」という見込みのことであって、「良い方に行く」という行動とは何も関係がありません。
それに、「うまくいく確率」が高いなら、「うまくいかない確率」も同様に高いと考えるのが、常識的な考え方でしょう。
つまり、「今、努力していない人間には、可能性などない」ということです。それを、「与えられた時間の長さ」に甘えて「可能性がある」などとごまかすのは、間違った態度です。
「可能性」?どんな可能性なのでしょうか?それをよく口にする人は、「今、毎日やっていること」の先に、自分がどんな結果に行き着くかを、考えたことはあるのでしょうか。
僕は、本業であるフリーターの再就職相談では、「今やっている行動が最終的にあなたにもたらすものは何か」を聞くことにしています。「分からない」と言っても無視します。分からない人など、いないからです。誰だって、「これじゃいけない」ということは、心の中では分かっています。
そして、「僕は、君が深いところで探し当てた君自身を応援するのだ」ということを伝えるのです。そういう深い部分の信頼関係がなければ、繊細な転職相談は、スムーズに進みません。
人生には、「怠けている人間ほど、実は楽観的である」というギャップがあります。今サボっている人、分かっていて動かない人、頑張っている人に嫉妬する人、他人を認めきれない人、すぐに言い訳を作って中断する人…。フリーターの多くは、こういう若者です。
僕は、「なぜ、いつも、みんなこうなのか?」と考えました。性別、年齢、前職、志望職種、所得、教育によらず、あまりにパターンが似通っていたからです。そして、一つの結論というか、「仮説」にたどり着きました。
それは、「だって、将来はいいことがあるかもしれないから」とか、「自分だって、やる時はやるんだから」と、心中奥深くに「楽観的な見通し」があるという心理状態です。
いわば、「運命的なハプニング」が、いつか自分を今の状態から救ってくれるだろうと、心のどこかで期待しているからこそ、今頑張らないというわけでした。
英語の「happening」は、「happen」の派生語で、「幸せ」を表すことがあります。「幸せ」とは、「顕在化された可能性」と考えればよいでしょう。それまでどこかに隠れていた(潜在的だった)「可能性」なるものが、時を得て姿を現した(起こった=happen)から、「幸せ」になったわけです。
現在、僕が好んで集めているような「昭和25年以前」の古い本を読んだりすると、「幸せ」を「仕合わせ」と書いていることがあります。「先生がご紹介下さつた本を、たまたま立ち寄つた神田の古書街で見つけるといふ仕合はせがあり…」といった感じです。
何かと何かが「仕合わせた」という語感が感じられますよね。つまり、「Aという要素(紹介による認識)」と「Bという要素(立ち寄ること)」が、「出くわした」という状態です。
これは、極めて「happen」と近い語感だとは言えないでしょうか。僕は別に、言語学の学説がどうなっているか、なんてことは知りません。ただ、英語でも韓国語でもマレー語でも、「そもそもの由来」を知るのは、とても好きです。
そして、この習慣はしばしば、正確な定義と雷のようなアイデアを与えてくれます。つまり、「今そこにある可能性」は、動かなければ掴めないということです。こんなことは、誰でも知っているし、何度も聞かされてきたことでしょう。
しかし、「可能性があること」に安心しきって、あるいは甘え切って、掴むための行動を取っていない若者が、あまりに多すぎるのではないでしょうか。それは、「happen」が起こりえない、ということです。
仕合わせようにも、仕合わせる片方の要素としての「行動」がない、ということです。だから「happening」、つまり「幸せ(仕合わせ)」は、起こりません。
そこに可能性があろうと、動かない人間には「豚に真珠」です。つまり「無意味」ということです。そんな人には、ただ「茫漠たる時間」あるのみ。
ダラダラ過ごして、時間を埋め合わせるための行動を「カラオケ」や「ボーリング」などのように、「他人のアイデア」との合作で済ませる若者に、一体どんな可能性があるというのでしょうか。そういう若者には、老人以下の可能性すら、ありません。
別にカラオケやボーリングが悪いというではありません。僕だって、年に1回くらいは行きます。しかし、「やることやったぞ!」という気持ちでなければ、とても行くことはできません。やるべきことが分かっていて、それを後回しにして遊ぶと、僕に与えられていたはずの「仕合わせ」が、逃げて行ってしまうような気持ちになってしまいます。
そういう信念を昔から持っていたので、友達も多くありませんでした。しかし、人脈はたくさんできました。こういう点での僕の感情は、30歳になった今でも、とても「子供っぽいもの」だと思いますが、僕はこういうことをデタラメにして生きるには、気が小さくできているようです。
しかし、それを恥だと思ったことはありません。口だけでかくて「豪快な人間」を装い、全く結果が伴っていない人間よりも、僕の方が何倍も成功しているという実感があるからです。
皆さんにも、与えられているのは「可能性」ではなく、「時間」です。それが「可能性」になるのは、自分が努力している時だけです。自分の努力こそ、そこに待っている「運の片割れ」と自分を仕合わせる要因です。
そうしてこそ、「可能性がある」と言えます。そう信じて、今日も自分を「幸せ」に一歩近付ける一日にしましょう。
■今日の一冊 「金の全てを知りつくした男~安田善次郎の成功哲学~」(青野豊作/PHPビジネスライブラリー)
最近ブックオフでよく探しているのが、PHPの「ビジネスライブラリー」シリーズです。80年代に続々と発刊されたようで、どれも名作揃いです。…と書いたら、読者の皆さんが探し始めて、なくなってしまうかもしれませんね。いえいえ、それは却っていいことですから、どんどん買いに行きましょう。
安田善次郎と言えば、今の「みずほ」グループ(第一勧銀+興銀+富士)の一角であった「富士銀行」の前身である「安田銀行」の創設者です。幕末から大正の激動期に「金融王」と呼ばれるほど手腕を発揮し、五・一五事件で暗殺されたのが、本当に悔やまれます。
本書は富山に生まれ、若い頃から刻苦勉励を重ねて大成した実業家の、詳細な伝記です。両替商の時代から近代的銀行制度の手法を取り入れ、投資や資産運用で「百発百中」の成果を出し続けた人物の「目の付け所」が、惜しみなく紹介されています。
これは、金融業界に行く人は、必読の一冊ですよ。経済や歴史の勉強にも、格好の入門書になるでしょう。渋沢栄一や本多静六さんの本と一緒に読めば、さらに理解が深まるでしょう。
■今日の質問 「効率的な語学学習法とは?」(西南3年Nさん)
西南のNさんは、先週頂いたメールで、なんと6つも質問を載せてくれていました。どれも多くの学生さんの気持ちを表してくれているので、受信トレイにメールを保存し、毎回一つずつ取り上げていますが、今日は「語学の学習法」についてです。
僕も、10年と少し語学を学んできて、4つほどの外国語が操れるようになりましたが、「効率」ということは、最初ほど考えなくなりました。
学生さんからよく寄せられる質問に、「仕事をして、メルマガを書いて、エントリーシートの添削をして、本も読んで、FUNのレジュメも作って講義もして、一体、いつ寝たり勉強したりしてるんですか?」というものがあります。そんなに不思議なんでしょうか?
僕はただ、いつも喫茶店とブックオフとキンコーズを、愛車のタクト(前号掲載のビバさんで37,000円)で走り回っているだけなのに…。
しかし、それに対して「答え」というものがあるなら、僕は「集中力」だと答えます。 僕は決して、決めた作業を延期しません。ダラダラと時間をかけることもしません。一発必中で仕留めます。終わるまでやめないので、必ず終わります。単純なことです。
「やろうかやるまいか」と考える時間こそもったいないので、そういう時は顔を洗い、さっさと喫茶店に行って代金を払い、「集中時間」を購入します。そして、どんな作業も、数百円を払って買った「時間と空間」の中で向き合うと、恐ろしいほどのペースと完成度で仕上がります。これは、誰がやっても同じでしょう。
ということで、Nさん。「効率」というものがあるなら、それは「どれだけ集中できるか」ということです。集中すれば、深く理解できます。深く理解できれば、難解な表現も簡単になっていきます。
語学にしろ会計にしろ、レポートにしろ勉強にしろ、「集中が中途半端」な状態で、浅いところをフワフワさまよっている時間が、一番無駄で何も生み出しません。
効率は、こちらが何も準備しない状態では、発生しえない要素です。意欲と準備が欠落した人間に対して、何がしかの効率を用意できる方法は、本質と乖離した「語呂合わせ」くらいしかないでしょう。
そして、そんな勉強では、試験が終わった後に「驚くほどの忘却力」を味わって、自己嫌悪に陥るのが普通です。
学生さんは取り掛かりが遅く、継続力がないため、「取っ掛かりの効率」や「試験に間に合わせるための効率」ばかりを考えます。なぜ、「忘れないための効率」や、「自信を持つための効率」を考えないのでしょうか。
効率とは、そもそも「結果」から考えるべき要素でしょう。真剣にやれば、何事も「最初は遅い」のが普通です。よって、逆説的ですが、最初は「効率が悪い」というのが、正常な現象です。
それを、「最初から効率が良いこと」を探そうとするから、結局何も続かず、身に付かず、自信も余裕も生まれないのではないのでしょうか。
語学にしろ何にしろ、まず、全身全霊で集中してみましょう。そうすれば、必ず突破口が見えてきます。一つ突破できれば、次もその次も、どんどん突破できます。そうして、自分に合った勉強方法が確立されていきます。それが「効率」です。
効率とは、「やり方」ではなく、「やり方が分かっていくこと」です。続けば必ず上達します。何事も、効率ではなく、集中と継続によってのみ、上達します。効率は、その速度を若干、左右するだけです。
効率とは、「最初から良い」という尺度で考えるのではなく、「後に行くほど楽になる」という尺度で考えるべきです。経営も、スポーツも、芸術も、全てそうです。だからまずは、「全部ムダ」と分かっていても、全力でぶち当たることです。
最初のムダを恐れると、全部がムダになります。最初は「100%」がムダでも、次は「95%」がムダ、というふうに成長するでしょう。そうやって、ムダがなくなっていくことが効率です。ムダが「0%」の方法も、あるにはあります。
しかしそれは、そこに行き着くまでのプロセスを経験した人にしか、できません。
往々にして達人ほど、初心者を前にして、学生さんなら「バカにするな!それくらい分かっている」と反発しかねないような、恐ろしくシンプルなアドバイスをします。
そしてそれを聞いた若者は、「自分は人の真似はしたくない」とふてくされます。若者の間では、「真似しない」という言葉を口にすれば、それは免罪符のように「非効率」を贖い、周囲からの「不干渉」の資格を手に入れられるようです。
しかしそれは、正しくは「真似できる能力すらない」ということです。そういう人は「自分なり」という言葉が好きなようですが、「自分なり」とは、正しく翻訳すれば、「好きなことだけを、やりたい時にしかやらない態度」ということです。
つまりは、「永遠に、かつ絶対に上達しない方法」と言えます。現代は「個性尊重の時代」らしいので、僕も今さら時代の流れに乗って、「いやぁ、すごいね!自分なり。」と不干渉を貫いています。
学生さんは「達成」ばかりを見ようとするので、立てた目標と現状の格差ばかりが意識に映り、自ら落胆します。最後は焦って自滅し、「最初から楽な方法」を求めて、何ヶ月もさまよい、結局全ての時間を無駄にします。
これは実にもったいないことで、「ムダが減った」ことこそ、喜ぶべきことです。自覚しやすい前進を、いつも意識に置きましょう。そうしてこそ、効率が生まれます。