離婚が無効化され、ルクレツィアの貞操は綺麗なままとされた。
これを人々は「白い結婚」と呼んだ。
※ルクレツィアとチェーザレ
だが、その貞操を揺るがす事態になる。
「あの娼婦、男子を出産したらしい」
人々は法王の権力に怯え、おもてだって口にはしないものの陰でこう噂した。
「離婚騒動の時に、法王の連絡番とよろしくやって身籠ったんだってよ。」
この連絡番が、バチカン館内で怒り狂った兄のチェーザレによって斬って棄てられたこともあり、この噂は信憑性は高いとされた。
ルクレツィアの価値が下がる前に誰かに嫁がせなければ!
フランスもミラノも問題でなくなった今、ターゲットとするのはナポリしかない。
それでサレルノ公の名前があがる。
しかし、サレルノ公はこう言った。
「あの女は誰でも知っている通り、兄たちの慰み者だよ。
そんな女を娶るわけがないだろう。」
焦ったチェーザレは、我が妻としてナポリ新王の王女との結婚を打診する。
が、あっさりと断られる。
「この俺の求婚を断るなんて・・・」
このことが、のちに悲劇の一因となる。
法王がしつこく打診を続けた結果、やっとルクレツィアとナポリ新王の庶子、ビシェリエ公との縁組に成功した。
ビシェリエ17歳、ルクレツィア18歳であった。
「やっと、やっと、私は幸せになれる。」
ルクレツィアはこの結婚に想いを馳せた。
そしてその年、チェーザレは自らフランスのルイ12世のところに赴き、フランスとの同盟をまとめ、ついでに親類の美女の誉れ高いシャルロットを妻として迎えた。
このフランスとの同盟に蒼くなったのはビシェリエ公だった。
「私は、チェーザレに利用されて殺されてしまう。」
ビシェリエ公は、ルクレツィアを置き去りにしてローマから逃亡する。
法王は怒り、ルクレツィアの弟で先にビシェリエ公の妹サンチャと結婚していたホフレを呼び出すと、妻であるサンチャをナポリに戻してしまえ!と命令した。
ことの事態にルクレツィアはものも食べず、だんだんと弱っていくほど悲しみに暮れる。
「お願い。夫と平穏に、平穏に暮らさせてください。」
あまりの嘆きに法王も折れ、法王領のスポレートの執行官にルクレツィアを任命し、ビシェリエ公にフランスとの同盟が貴方の不利にならないからと説得を始める。
ビシェリエ公はルクレツィアの姿をみて心を痛め、やっとローマに帰還してくれた。
それから2人は仲睦まじく暮らし、ロドリゴと名付けられた男子も儲ける。
ルクレツィアにやっと春が来たのだ。
「この幸せが長く続きますように」
しかし、その願いは虚しくも一蹴されてしまう。
ルクレツィアの兄のホアンが暗殺されてしまったのだ。
犯人はチェーザレだとのもっぱらの噂だった。
兄弟でさえも殺めてしまうチェーザレに、ビシェリエ公は身の危険を感じ始めていた。
ルクレツィアもこれまでの経験から、ただならぬ不安を身にまとっていた。
「この夫だけは、守らなければいけない。
もう失うのはたくさん。」
しかし1500年7月、暴漢に襲われたビシェリエ公は命からがら妻の元に帰ってきた。
「きっと、きっと、チェーザレの手の者だ。」
ルクレツィアは胸が押しつぶされそうになりながらも、気丈に看病を続ける。
健気に毎日、毎日、夫のそばを離れず、自ら毒味をした料理を食べさせ、身辺の警護に神経をすり減らしていた。
「私しか守ってあげる人間はいない。」
そして最愛の夫が、やっと歩けるようになった頃・・・・惨殺されてしまう。
その時の様子は諸説あるが、泣き叫び、夫をかばおうとしたルクレツィアの目の前で、チェーザレの部下たちが殺してしまったという説がある。
そうであったとしたら、あまりにもむごい仕打ちだ。
無惨としか言いようがない。
チェーザレはボルジア家の血を濃く引き、恨みなどを決して忘れない人間だったと謂われている。
定かではないがナポリ新王の王女との縁組を断られた恨みだと言われている。
ナポリの人間が幸せそうに暮らしているのが、そんなに癇に障ったのか?
ただ、偏執な性格の者が多いボルジア家にあって、納得できる解答といえよう。
抜け殻になったルクレツィアに待っていたのは、次の縁組だった。
「もう、誰か止めて!助けて!」
チェーザレは70歳近い父の年齢を考えて、自分の娘も縁組の道具として利用した。
ヴェネツィア、フィレンツェ・・・・まだまだ、絆を深めなければいけない国がある。
「ああ、そうだ。次はフェラーラ国にしよう。」
ルクレツィアに持参金、宝石、特権などを付け、フェラーラ公のアルフォンソと無理矢理婚約させてしまう。
フェラーラ公は、最後の最後まで逃げ口上をしていたが、ついには新郎不在のまま結婚式は強行された。
ルクレツィアの隣には代理人が控えている。
「馬鹿馬鹿しい・・・・・・」
ルクレツィアはもう自分の人生を投げていた。
「一人きりの結婚式に、何の意味があるの?」
豪華な馬車に乗り、200人の騎士、180人の使者、150頭の馬に乗せた花嫁道具。
これは、老いてからルクレツィアへの悔恨の想いを持った父からのせめてもの贈り物だった。
花嫁一行は、フェラーラ領に入る前に宿をとる。
「明日から、冷たい視線に晒されながら生活するのね・・・・」
そんな捨て鉢なルクレツィアのもとに、こっそりと忍び込んできた男がいた。
夫となるフェラーラ公のアルフォンソであった。
このアルフォンソは、若い頃から父に叱られてばかりの冒険好きで、自由奔放な性格だった。
「君がルクレツィアかい?」
「そうですけど・・・貴方は?」
「僕はアルフォンソだよ。君と話がしたくてね。
ここに座ってもいいかい?」
「ええ。どうぞ。」
それから2人は最初はぎこちなかったものの、2時間も愉しく会話ををする。
頭の良いアルフォンソは、この会話で自分の耳に流れてきたルクレツィアの噂は眉唾ものだと疑い始めていた。
「これからは、僕の目で見て、僕の心で感じた彼女を信用しよう。」
それからなんと2人は17年間も周囲が羨むような仲睦まじい結婚生活を送る。
夫との間には7人もの子供も出来た。
「ああ、なんて幸せなんだろう。もう不安は訪れないわよね、きっと」
こうした生活が出来たのも、残念なことに身内である父と兄のチェーザレが死んでくれたお蔭であった。
法王とチェーザレは2人して急に発病し、父はこの世を去ってしまった。
「ボルジア家の毒薬」というのは、あまりにも有名だ。
ボルジア家がただのスペインのボルハ家から、ここまでのし上がったのには、毒薬に精通していたからだといわれている。
そんな精通した2人が共謀して枢機卿暗殺を企て、法王とチェーザレが誤って毒を飲んでしまった。
兄はなんとか命を取り留めたが、父は亡くなってしまう。
法王死後、チェーザレは投獄されたり、逮捕されたりを繰り返していたが、自分の没落を知ったのか、戦いに参じ戦死してしまった。
ルクレツィアは、父と兄の死を喜んだわけではない。
あれだけ利用され酷い目に遭ったにも拘らず、とても嘆き悲しんだ。
ルクレツィアにも一族を思う、いや、思い過ぎる血が流れていたのであろうか?
これから、夫と子供に囲まれて幸せな日々が送れるはずだったのに・・・・。
やっと平穏な生活を手に入れたにも拘らず、今度はルクレツィア自らその生活にピリオドを打ってしまった。
産後の肥立ちが悪く、家族に看取られながら39歳の短い命を終わらせる。
やっと、これからだったのに・・・・。
そう思うと、同じ女として子供たちを遺して行くのはさぞ無念であったろうと胸が痛い。
ルクレツィアは、能く「ルネッサンスのお市の方」と呼ばれる。
確かに彼女の数奇な人生は、お市と似ている。
だが、お市はずっと悲劇の姫だったが、ルクレツィアは、ごく最近まで「悪女」の烙印を押されて語り継がれてきた。
歴史は男のために語り継がれ、男の都合で改ざんされてきた。
それが、やっと現代の研究によりルクレツィアは、良き妻、良き母として語られるようになった。
でも歴史って・・・・・・・・本当はどうかなんて本人しか判らないものである。