吉祥寺に井の頭公園という立派な公園がありまして、そこで毎週末にアートマーケットが行われてます。
アートマーケットというのはつまり、手づくりのものしか売っちゃいけないフリーマーケットのことです。
「公的なフリーマーケットでは、リサイクル品以外売ってはならない」という、世にもくっだらない条例ができたおかげで、手づくり品はフリマから完全に追い出されてしまい、その受け皿にというわけか、あちこちで手づくり市が活況を呈してます。
その筆頭が、この井の頭公園の「アート・マーケッツ」。
なにしろ毎週末にやってくれるってんだから、すごい話ではないですか。
いそいそと登録をして、今日はじめて参加してみました。
売り物は、もちろん陶器。
今日は様子見なので、まず「店頭で売るほどの質ではないし」「かといって自分でも使わないし」「ただただ保管場所を食うばかりの半端品」というものをかき集めました。
そのはみ出し品をためしに二束三文で並べてみよう、さばければめっけもの、的なスタンス。
60点ほどを、コロコロ付き巨大スーツケースに詰め込み、いざ。
「会場の設営は9時から」という厳しいお達しが区側から発されてたんで、一時間前に現地に到着しました。
ところが、そこには誰もいません。
早朝ランナーたちが池のほとりをぽつりぽつりと行き交うばかり。
本当にこんな場所で大丈夫か?と心底不安になり、そのまま帰りたくなりましたが、しばし待ちます。
すると徐々にひとが集まってきて、店を設えはじめ、祭りの体を成していきました。
わが森魚工房は、木陰と日光半々の絶好のブースをゲット。
バーベキュー用のテーブルや、きちんとした什器で店舗を設営する周囲に交じって、地べたに敷き布、ベタ置きのわが店構えはみすぼらしい。
しかし、ま、最初ですから。
なのにこれがよく売れる。
200円~500円という、周りから見たら信じがたい値段で出したこともあり、大繁盛でした。
お陽さまが空気を暖めはじめると人出も増え、大変なにぎわいに。
結局、9時に店を開いて、午後1時になるとほとんど売り切れ。
品数のない地べたのわが店構えはあまりに異質なため、早々に撤収することにしました。
公園事務所にその旨伝えにいくと、こちらも一番乗り・・・ならぬ一番上がり。
速攻、速決着の、上々デビューでした。
売り上げは一万五千三百円ナリ。
その後に吉祥寺の町を楽しもうと思ったのですが、トランクをゴンガラゴンガラ転がす身には、凄まじい人ごみ行き交う吉祥寺の横丁はせますぎまして。
とっとと家に帰り、早起きで足りてない分の睡眠時間をむさぼりました。
あっ!
ところで告知では「ざっくり3時まで」と書いたのですが、撤収後に会場に足を運んでくださった方、申し訳ありませんでした。(キタミさんには偶然会えたけど、他にはいないかな?)
すいません!売れすぎちまいまして!えへっ。
どうかお許しを。
さて、次回10月31日(土)は、わりかしちゃんとつくった器をきちんとした値段で出させてもらいます。(あたりまえだけど)
ほんとの勝負ってわけですか。
こちらのほうも、どうぞよろしくお願いします。

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と、いうわけで、まだまだ素人の演技論はつづくわけですが。
内藤剛志、大杉蓮、西村雅彦。
さて、この中で演技のうまいのは誰?
彼らはきっと舞台映えをする俳優なのかもしれないけど、スクリーンの中におさまると、どうしてもその大仰な芝居が鼻についてしまうのですよ、オレだけなのかな。
舞台では、声を張って後ろや隅のほうのお客さんにまでセリフが届くようにしなきゃなんないんで、自然とそんな発声法になります。
また「カメラ切り替え」による場面転換というものがないんで、演者の視線の動きで観客の意識を誘導するという技術が必要になってきます。
役者AがBと話し、そののちCに視線を移すという動きは、これからCが何事かを演じはじめることを示唆してます。
喜びを表すなら大げさに笑顔をつくらなきゃならないし、がっかりするなら「一目でそれとわかるように」肩を落とさなければならない。
でなきゃ、観客の意識がそこに向かないし、伝わらない。
すべての動きに意味を持たせ、そのひとつひとつが展開や感情表現の説明を担ってるわけです。
無駄な動きを削いで、必要な約束ごとだけを残し、物語は構成されてるのです。
それが、リアリティを求める映像芝居に持ち込まれると、むしろ説明的になりすぎ、不自然に見えてしまいます。
上で並べた三人は名優さんなのかもしれないけど、オレはどうしても彼らの声が、今話しかけてるはずの相手登場人物に対してというよりも、こちら(観客)に向けられたセリフ、と聴こえてしまうのですよ。
そして、芝居がわかりやすすぎる。
実世界では、人間は無駄な動きに支配されてるのです。
その「無駄なのに必要な動き」というリアリティが、舞台で育ったひとにはなかなかむずかしいのですな。
「ゴッドファーザー」のあるシーンで、マーロン・ブランドは額に苦渋のシワを刻み、万やむを得ずといった震える声で決断を下すわけですが、そのとき彼はなんと、ポリポリと耳をほじりながら殺しの指示を口にするのです。
どんだけ生々しく、どんだけ怖いか、という話ですよ。
芝居をしたことのない一視聴者の意見、つか「印象」を聞いてもらいました。

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ツマによるとオレは、テレビでキムタクの新しいCMが流れるといちいち反応してるんだそうです。
「なるほど」とか「ほー」とか、ひとりごちてるらしい。
だけどオレは別にキムタクが好きなわけじゃなくて、彼の芝居のですね、質というか、こちらを引っかける(興味を引かせる)技術というか、特別な雰囲気を持ってるなあ、といちいち感知させられてしまうのでした。
ところで、ブラッド・ピットがある映画で演じたワンシーンがすごく印象に残ってるんで、ちょっと書かせてください。
たぶん台本では、そのシーンはト書きで「刑務所前でジョージの出所を待っている」とだけ書かれてると思うのです。
そこをどう演じます?
ブラピはですね、このシーンにかなりの長尺を費やしてるのですよ。
つまり彼は、スポーツカーに寄りかかってハンバーガーを食べている。(記憶だけで書かせてもらってるので、若干ちがうかも)
そのソースがこぼれて、手に付いてしまう。
汚れた手をスーツの裾にこすりつけてぬぐおうとする、が、思いとどまる。
それは、次の場面でジョージ・クルーニーに「なんだそりゃ、ロックスターか?」とツッコまれるまっ白な高級スーツだからなの。
これでふいてしまおうかどうか躊躇してるうちに、ふとジョージが現れたことに気付く。
ハンバーガーをひょいと放り捨て、指をなめた彼は、結局その手をスーツにこすりつけながら出迎えに向かう。
こんなシーン。
つまりブラピは、自分の役柄が「育ちの悪い人間」で「最近成り上がった立場」で「高級スーツを着慣れてなく」て「ジョージを敬ってる」ということを、このワンシーンで説明しきってるわけです。
「彼はついに成し遂げた。そして意気揚々とジョージを出迎えにいったのである」などとナレーションがつく映画があるけど、まったくヤボってものですよ。
ストーリー展開や状況の説明は、画面の中で演者が動くことのみによってなされるべきなのです。
そのシネマの構造を、ブラピはよく理解してるわけ。
日本人ならこのシーンをどう演じるかというと、門にもたれかかって、ふと目深にかぶった帽子のひさしを上げ(出所者に気付いた)、にやりと笑って歩き出す=5秒、といったところ。
絵コンテの中ではそうでも、そこから解釈を働かせて演じるのが本物の役者ってものでしょう。
つまり、そういうことができる役者なんじゃないかなー、と、オレはキムタクを見てるわけでして。
ゴールデンタイムのテレビドラマを観てると、登場人物たちがきちんと目と目を見つめ合って会話をしてます。
そんなニンゲン、実際にいます?
これは「見つめる相手に向かって話をしている」という、視聴者の目の動線を意識した演技上の記号(モンタージュ理論)であるわけなんだけど、舞台芝居ならともかく、テレビでそれをやるとリアリティが損なわれてしまいます。
そのへんをよくわかってる芝居ですよ、キムタクのそれというのは。
好きでも嫌いでもなく、「見せ方」をよく知るいい役者なのではないか、と思うのですよ。

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沖縄で滞在した部屋ではクーラーを停め、窓を開けて風を入れて過ごしました。
岩礁と白砂の海を渡ってきた風は人工の冷気よりも心地よいし、そもそも下随筆でつづったとおり「空気を吸うために島まできてる」わけなので、わざわざ科学的に合成された「東京都と同質の空気」は必要ありません。
クーラーは快適を求めて発明された装置だけれど、さらなる快適を求めると、クーラーすらいらなくなります。
ただそれには、島までいかなきゃならないけどね。
ところで。
「温室効果ガスを25%さくげん!」
と総理大臣は息巻いてます。
それは人類をふくむ生態系の永存、地球環境保全の担保、なんて気宇壮大な思想が背景にあるんで、ムチャでもなんでも必ずやり遂げねばならん最低限の条件、みたいです。
がんばりましょ。
練馬区のわが家では、生活スペースには冷暖房もろくなものがないし、たいした電化製品も使わないし、自分が今いる場所以外の電気は消してるし、国家から「もっとさくげんしろ」と命ぜられれば、「うるせー、バカ。てめーの指図は受けねえ」とは思いつつも、より一層の手間をかけるにやぶさかではない。
暑けりゃ、はだかんぼで過ごせばいいのだし、寒くなったら、セーターを着込んでクッションにからだをうずめればよろしい。
夏は窓を開けて畑を渡る風を、冬は日光を取り入れれば、けっこう快適に過ごせます。
しかし人間とは欲深いもので。
もっと快適に、もっと快適に、もっと、もっと・・・と、どこまでも「テクノロジーによる心地よさ」を求めたくなるようです。
消費者がみずからそれを求めて生産者を突き上げてるのか、生産側の競争意識が消費者の欲求をあおってるのか、どっちかはわかんないけど、とにかく現代人は「ほんの少しの不快感も許さない」ところまで快適の精度を極めようと血道を上げてます。
その結果、地球が具合を悪くしてるわけ。
快適に過ごそうとするための営みが、逆に快適な環境を奪ってるという矛盾は、なかなかシニカルな構図ではあります。
しかし逆に言えば、もっかい「快適さに執着することがそれほど重要なのか?」というところに立ち返れば、むしろ、より快適に過ごせるようになるんじゃないか?というロジックが成り立つわけですが、いかがでしょうか?
つまりそういうことを、ハトヤマさんは深いところで言わんとしてるのだと、ぼくは信じたいです。

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原稿の〆切をやっつけて、スッキリした気分で宮古島を旅してきました。
まばゆく照り返す白砂の浜をはだしで歩いたり、水泳ゴーグルいっこでエメラルドブルーの海に飛び込んだり、光の綾の中で色とりどりにひらめく魚たちと遊んだり、起伏に富む島内を気ままにドライブしたり、降りそそぐ流れ星をよけながら酒を飲んだり・・・と、まあ、めんどくさいコトバを使ってみたけど、要はのんきに過ごしました。
だけど、それはただの「時間のやりすごし方」ってもので、この島にくる大切な意味は、実は「この場所の空気を吸う」ってことなんだなー、と、ビール片手にテラスの柵に足をのっけて考えたり。
都会とは空気がちがう、とはよく使う慣用句。
だけど、本当にここの空気を吸うと、血液が入れ替わって、からだ(心もね)が更新されていく気がします。
一年に一度こないとだめみたい。
閉ざされた都会で、よどんで、枯れて、収縮したものが、南の島で開放・拡散されるのでした。
みなさんも、ぜひ。

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ほんとに夢のようなことが起こりそうな、新政権の動きです。
ワクワクしますね、ちょっとこれ。
言っちゃ悪いけど、わずか数日前の麻生さんの画がテレビに映ると、まったくなんという人物を国家のトップに頂いていたのだ、と悪寒を感じずにはいられません。
しかしですねこの高揚感、日本中を興奮の渦に巻き込んだ小泉さんの登場のときと似てませんか?
あのときも、日本は変わる、的な期待感が充満してて、国民は夢見心地になってたものでした。
その反動としての深い失望を体験してるだけに、新しい政権を100%信じられないのが哀しいところ。
ただ、ほんとに国が変わりそうなこの予感は、小泉さんの言葉が非常に抽象的であったのに対して、今回政策をリードしてる人々(鳩山さん個人ではない)の言葉が具体的な説得力を持ってるとこに根差してます。
つか、言ったからにはほんとにやれよ!
できなかったら承知しねっかんな!
・・・くらいのスタンスで見守りましょう。
国会の質疑がはじまったとき、新野党(J他)の攻めの前で、今の意気揚々さが少しでも残ってたらいいんですが。
とは言え、世にも見苦しくゆがんだシステムが、政権党が変わるというたった一事でつまびらかになるのが痛快です。
新政権が一言「ここを変える」と宣言する行為には、これまでのシステムを古く古く見せる効果があったのですね。
この点は新鮮な驚きでした。
それにしても、新しく野党となったJの様子が気にかかります。
ここ10年、国民は一貫して「改革」をしてくれそうな党に投票しつづけてきたわけですが、そのことが理解できてないフシがあります。
「保守結集」なんて信じがたい言葉でまとまろうとしてる姿を見てると、ほんとに大丈夫なのか?と思ってしまいます。
立ち直るなら直るで、改革の名のもとに立ち直ってほしいです。
さて、Jの総裁選は河野さんで決まりです。
歴史はくり返します。
細川さんに政権を獲られてJが下野したときに総裁だったのが、河野さんのパパ。
息子もその「総理になれない総裁」という憂き目を見るに違いありません。
政権党もがんばって、新野党もがんばってほしいです。
なんだか日本がいい方向に向きそうなひさびさの気配がうれしいのですよ。
これはまた、絶望感の裏返しでもあるのですが。

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新政権の組閣にタイミングを合わせて出てくる魂胆だったりして、と思ってたら、ドンピシャでした。
旦那の方でしたが。
弁護士の入れ知恵なんでしょうが、細君の方は逃亡&出頭で選挙報道をむちゃくちゃにしてたし、民主党に怨みでもあるのか知らん。
それにしても、保釈されて謝罪の言葉をひと言口にしてはみても、反省の色がぜんぜん感知できませんね、別件の色男の方もそうだったけど。
自分の報道が掻き消えるタイミングだけを計ってたにちがいありません。
細君の「ヤク抜き」逃避行といい、すべてが計算ずくで、まるでお芝居の世界です。
ドッキドキでしょうね、こういう三文芝居って。
ところで矢田亜希子さんはどうしたんでしょうか?
彼女も少しは社会的なエクスキューズってものを考えなければ。
旦那逮捕の直後にとっとと離婚して、関係無しを装ってますけど、マジでそれでいいと思ってるのか?
このあさましさには、暗い笑いしか出てきません。
美しいひとだけに、この対応はひどく鼻につきます。
スクリーンに復帰しても、妙なものがわだかまって、素直に見られません。
ちゃんとスジを通せば、好感度なんてぐんとアップするのにね。
こういうときこそ、テクニックに頼らず、自尊心でもって事にあたってほしいです。
不祥事を起こした企業でも、悪事がバレた政治家でも、スキャンダルを明かされた芸能人でも、現代の日本人てのは後処理が粗末すぎます。
もっとていねいに対応して、いっこいっこクリアにしていかないと、世間体はともかく、自分の中で気持ちわるくないのかな・・・?
澱を沈めたような心持ちのまま日々を過ごすのは、オレは絶対いや。
さっさと自分の非を認めて、反省して、それを態度で示したいです。
それだけが信頼回復への道すじなんじゃないですかね。
「卑しい人物」と指差されたくなければそこを徹底しなければいけないし、それができない人間は「卑しい人物」と指差されても文句を言いなさるな。
そして、生涯それを背負いなされ。
つか、生涯背負うくらいなら、一瞬の本気の誠意を見せとけばいいのに~・・・

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自分の前世はなんだったんだろう?と考えてみる。
ばくぜんと、お殿様だったのでは、と思ってんだけど。
「上様」なんて呼ばれてたにちがいない。
その気分がまだ抜けきってない感が、自分の中にある。
「暴れん坊将軍」とかみてると、ひと事とは思えないもんなあ。
あれが自分の本当の姿だった気がする。
それか、キリンね。
これもばくぜんと。
昔、サバンナのバオバブに首伸ばして、葉っぱを食んでた記憶があるもん。
キリンか、お殿様。
それは間違いない、うん。

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報道で、常に受動態で語られる球団。
それが広島カープ。
広島が勝ったとき→「広島に破れました」
広島がチャンスのとき→「広島に攻められてピンチです」
広島が上位に上がりそうなとき→「広島が迫ってきました」
・・・いちばん下のは受動じゃないが、立場は相手チームの側にありますね。
要するに、常に報道の眼中から外れた球団です、広島カープ。
戦ってるのは他球団で、広島はいつも「その相手」なわけ。
もちろんこれは、広島が優勝しないチームだからです。
優勝できないというか、優勝しようにないというか、究極的な言い方をすれば、優勝するべきでない球団ということなのでしょう。
だから、ぼくは応援するのです。
プロ野球にあまり興味はないけど、広島だけはずっと追っかけてます。
見捨てておけない、というか、シンパシーですかね。
シーズン中に軽んじられ、オフになると骨までしゃぶられ、人材は流出する一方ですが、それでもこの球団には「愛」がありますよ。
がんばれ、ビンボー球団。
ところでジャイヤンツが強いです。
ぼくもみなさんと同じくジャイヤンツのやり口を毛嫌いしてた者のひとりですが、最近のジャイヤンツは面白いです。
原さんは天才ですね。
スタメンに大金で漁ってきたビッグネームをごっそり並べてた頃とはまったく別の戦い方をしてます。
今まで鬱屈してた若い衆の生き生きと伸びやかなこと。
実に視野が広くて、フェアで、誰にも文句を言わすことなく優勝するにふさわしい資格を回復させました。
見事です。
でも、最終的に優勝するのは、残念ながらわが広島カープですが。
そのとき、報道はこういう受動的表現を取るはずです。
「広島カープに優勝されてしまいました」
ちゃんとそう言えよ、報道各社!

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