ぼくもまたとある人物にそそのかされ、フェイスブックをはじめてみました。
へんな「招待状」みたいなのを送りつけられたひと、びっくりしたでしょ?
ぼくもびっくりしました。
スイッチ一個をうっかりクリックすると、あんな大騒ぎになるんですね。
申し訳ない、許してね。
つか、危うすぎるやろ、フェイスブック。
なんで自分のメール機能とアドレスリストにまでつながってんだろ?
プライバシーとか、大丈夫なのかな?
こわい・・・
さてそこで、ちょっとこの「ネットワークシステム」ってやつを、知識のないぼくなりにじっくりと分析してみたのですよ。
ぼくは「ブログ」ってやつを10近くも持ってて、ちょこちょこと更新してます。
こいつを、ぼくは優れた表現ツールだと気に入ってます。
書きっぱなしでかまわない、というシンプルさがいいです。
ブログとはつまり、世界中に発信するための表現ツール「ホームページ」の機能を、ソフトなしにネット上で簡単にできるようにしたものと解釈してます。
しかも応答機能までついてるため、ひとりの人物の発信が世界のすみずみにまで行き渡り、それを拾ったひととつながることもできるわけです。
だけど、これだと匿名性がありすぎて、誰が発信してるのかがわかりません。
なんでもかんでも言いたい放題に言えるし、返すほうもノーリスクで攻撃できます。
ひとを深く傷つける術にも活用できるわけです。
そこで「ミクシイ」ってやつが、匿名性をちょっとだけ縛って、誰が発信したかを明確にしたわけです。
ぼくはこのツールも、表現とコミュニケーションには有効だと思ってて、使い倒してます。
だけどミクシイは、誰にでも開かれたものではないため、お友だちが少ないとどう扱っていいかよくわかりません。
逆に言えば、これはお友だちを集めるために活用するものなので、最初に顕著な戸惑いがあります。
そこであきらめてやめていくひとも多いのではないか、と想像できます。
またミクシイは、「表現して」「交流する」というはっきりした目的があるため、そこが希薄なひとには、あまり面白くありません。
ひとりきりでは、楽しみの展開がないわけです。
そこで現れるのが「ツイッター」というやつです。
これは、目的を「友だち集め」に特化したと言っていいツールです。
内容がほとんどなくてかまわないつぶやきを全世界に発信して、ひたすらフォローワーと呼ばれる「友だちのようなヒトビト」をコレクションしていくわけです。
表現の密度が薄くても、あるいはまったく無意味な言葉のかけらでも、全世界でそれを拾い、反応してくれるひとがいるので、さびしい思いをしなくてすみます。
さらにこのツールの特徴は、即時性をすばらしく発展させたという点です。
おかげで、画面の向こうのみんなと「今、つながってる感」があります。
そしてフェイスブックは、さらに「つながってる感」を突き詰め、匿名だった本人の身分を明かし、どんどんつながっていきましょう、という作業を押し進める効果を持ってます。
よく知らないけど、あらゆるネットワークシステムと連動してるため、ソシオグラム(ヒトビトとつながる手の数)を爆発的に展開し、自動的に連結させてくれるのです。
だけどこれらのツールはまた、人数のコレクションによって、自分も世界を構成している、という幻想にひたるところで終わってしまう危険性をはらんでます。
画面上の友だち集めは、さびしさから自分を開放してくれるかもしれません。
だけど、それはツールを活用する前段階であることを忘れてはいけません。
なんのための友だち集めか?ということを考えなければ。
そこで終わらせないためには、やっぱり「表現」と「コミュニケーション能力」が必要となってきます。
逆にその作業をめんどくさがるために、どんどんシステムのほうが発展していく、というジレンもまたあるわけですが。
結局は、ひと相手に面と向かわないと、この手の能力を磨くことはできません。
どこまでいっても、最後は人間、そこから逃れることはできないのですよ。
さて、この「対峙を避ける思想」はどこからはじまったかと考えたときに、ぼくは「ファックス」に行き当たりました。
電話しかなかった昭和時代には、ひとは誰しも、ハラをくくってダイアルをまわし、声と声とで相手とつながり合ったのです。
それがファックスの出現によって、用事はあるけど、やり取りはめんどくさい、という「現代的利便性」、別の言い方をすれば「おうちゃく」が許容されるようになったのです。
次に、メール機能が世に出ると、もうヒトビトは、声同士の会話をしなくなりました。
相手の顔を見て、という当意即妙も、原初的な作法も、最低限の配慮も必要なくなり、体温のない情報のやり取りに終始してかまわない、ということになってしまったわけです。
そのかわりに、ネットワーク機能を使うと、おびただしい数の「相手」を手に入れて、友だちいっぱいなファンタジーが味わえます。
だけど逆に、自分が空っぽになっていく気がするのが、考えすぎですか?
フェイスブックの使い方はまだよくわからないけど、どんなツールを使おうが、最終的には、自分に発信するものがあるかどうか、だけだと思うのですよ。
リストを一杯にすることで自己満足を得る、なんてことにならないように、ツールの活用には注意が必要です。
フェイスブックのボタンを一個クリックしてしまった一瞬に、前記一切を感知しました。
間違ってたら、ごめんなさい。
だけどこのフェイスブックって、「名刺代わり」「なつかしいひと探し」という他にどうにも使い道がイメージできなかったので、思いついたかぎりのことを書かせてもらいました。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園