49話+α=279枚、脱稿しました。
手前味噌で申し訳ないけど、すべてがうまくいっちゃった。
読み返すと、泣くもんね。
書き上げる前に死ねん、と思って書いてたけど、よかった、できあがりました。
今度のは、きっと大丈夫。
さて、みなさんにはブラッシュアップしたものをお出ししてます。
「空を歩く」
よかったら、読んでみてね。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
「空を歩く」という、ファンタジーのふりをしたハードボイルド小説を書いてます。
「空を歩く」
物語を編むとき、神様が降りてくるから書きとめる、というひとがいますが、ぼくは違います。
デスクに垂れ込めて考え詰めてひねり出す、というのとも今回は違います、ぼくはいつもこっち派だけど。
今回のは、文字を打ち込みはじめると、自然に画が立ち上がってくるので、それをスケッチしてく形です。
だから考えるのも反応するのもすごくはやい。
びっくりしてます。
言語表現ってのは、ひとつのデッサンの様式だとぼくは思ってて、いかに自分に見えてる光景を記号に置き換えて相手に伝えるか、ってことだと思うのです。
そしてそして、ぼくの頭の中の画づらは音楽と密接に関係してて、常にメロディラインというか、ぶ厚い音が脳裏に目に見える形で内在してます。
うまく言えないけど、その三つは全部でひとつなのです。
というわけで、ぼくに「空を歩く」を着想させた音楽を聴いてください。
ぼくはどういうわけか、5拍子とか、7拍子とか、変拍子の曲が好きなのです。
興味ないや、というひとは、聴かないでください。
「そのはやぶさはふたたびとぶだろう/ブラッド・メルドー」
マリー・アントワネットの時代のベルサイユ宮殿は、華やかさの一方で、うんち、しっこは庭中で垂れ流されてたらしいよ。
貴族たちは夜な夜な開かれるパーティで豪華な料理や飲み物を堪能し、たまってくると庭に出て、きらびやかなドレスをたくし上げて事をすませてたんだ。
それが十人や二十人のものではないので、常に宮殿中ににおいが立ち込めてたんだと。
時の使用人が革命の後に、トイレで用を足すたびに、ああこのにおい、と、舞踏会やらんちき騒ぎの思い出にふけった、という述懐が残ってるんだ。
優雅だねえ。

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寿司屋、といったら、大泉学園駅前の「○辰」さんを利用してたんですが、なんだかヘンです。
席について、まずはビールを飲んで、さて注文、と思って、カウンターの中に呼びかけたのですよ。
すると兄ちゃんの一言。
「そこに紙があるから、ご注文を書いてください」
へ?そんなシステムだっけ?と、第一の違和感。
しかし、にぎり寿司の注文はこれに書くってことかな、と思って、今度は碗ものを注文しようと、背後のおねーちゃんに呼びかける。
すると驚愕の一言。
「そこの紙にお願いします」
だったら、なんでおまえはそこにおんねん。
カウンターの兄ちゃんにも言いたい。
カウンターとは、客とのコミュニケーションのために設けられた商店構造なんだよ。
その最重要な人間関係を省きたいのなら、回転寿司に衣替えしてほしい。
よほど、注文の紙とやらに「どうかしてんじゃないの?お茶で顔洗って出直しなさい、○辰さんよ」くらい書いてやろうと思ったが、やめといた。
そのかわり、もう二度といかないかもしれない。
さらば。

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この世でいちばんおいしいお茶、というのをものの本で見つけたよ。
まず、最高の茶葉を集めた玉露を用意するんだ。(このへん、ざっくり)
そいつを、夕刻の蓮の花の中心に置いておくのさ。
夜になると蓮は花弁を閉じるんで、一夜がまんします。
朝になると、蓮の花は「ポン」と音を立てて、再び花びらを開きます。
で、その中の茶葉を取り出し、さらに蓮の葉にたまった朝露で茶をいれるんだと。
甘みが舌の上に立ちのぼってきませぬか~。
芳香が鼻先をくすぐりませぬか~。
中国の王侯貴族は、こんな遊びをしてたのですねえ。
「蓮学」というのがあるらしく、蓮を、植物学や文化や芸術いろんな方向から見つめてみよう、という試みらしいです。
蓮ってのは、古今東西、普遍的に世界の象徴だからね。
ちょっと興味があります。

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諸君、おめでとう。
諸君は、近い将来に文学賞をもらうであろう作品を、ただで読む光栄に浴すことができる。
お礼?
そんなのはかまわない。
読んでくれるだけで、小生はしあわせなのだ。
ただ、著作権保護のために、近いうちに前半部分を移動させようと考えている。
興味のあるひとは、今のうちに読んでおくのだ。
興味のないひとは、「このひと、バカかな?」と思っててくれたらいい。
最終話まで頭の中で考えたけど、これは間違いなく傑作になってしまうのだ。
ならざるを得んのだよ、傑作に。
映画化されたときの主演は、オダギリジョーに頼もうと考えている。
ジュビーのほうは、榮倉奈々さんがいいな、かわいいし。
どっちも上すぎるか。
さいあく、自主制作で、オレとヨメ主演で撮ってもいいや。
もっと上になっちまうな。
んもう、酔っ払うと、こんなことばっか考えてるんである。
もうどうしょっもないしはんなんである。

「空を歩く」
「お酒が飲めない」というワカモノが激増してるんですが、ちがいます。
「飲めない」のではなく、「飲もうとしない」だけなのです。
酒を分解する力なんて、人間は最初からは持ち合わせてないの。
顔が赤くなったり、息切れがしたりするから飲めない、のではなく、飲んでるひとってみんなそうなんだよ。
それを、多少の練習で鍛え、そのうちにお酒はおいしく、気持ちよくなっていきます。
そしてお酒は、おいしいから飲む、んじゃなく、大人だから飲む、のです。
お酒はとても大切なコミュニケーション媒体ですよ。
ぼくは自分の存在価値を賭けて言いきるけど、お酒を飲まないひとは人生の多くの部分をソンしてます。
大切なひとの大切な話を聞き逃すようなもの。
大切なひとの最も大切な部分にさわらせてもらえないようなもの。
酒なしのコミュニケーションに、大切なものが含まれてるとは思えない、というのが、酒を飲んでる立場での意見です。
そんなバカな、と思うなら、こっち側にいらっしゃい。
それでもくる気がないのなら、そこにとどまってらっしゃい。

※深刻に分解酵素を持ってないひとには、ごめんなさい。

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その日、皿洗いのバイトから帰ると、留守電に「太田くんが大変なことに」という三浦の声。
なんだこれ?と太田んちに電話をかけると、つながらない。
胸騒ぎがして、金沢の太田の実家に問い合わせてみる。
そこで驚愕の事実を知る。
移動に一晩かかるほどの距離をへだてた場所でただ泣き崩れるしかないおかーさんに乞い願われ、オレは草加警察署に一番乗りに駆けつけ、安置室で綿を鼻に詰めた大親友を引き取った。
仕事に向かうバイクで、道に飛び出してきた無礼者をよけきれず、太田は首を折ってあっけなく召されたのだった。
・・・というのが、12年前の今日。
それ以来、この日は「死」について考える、ということになってる。
のんきな日々をのほほんと生きてるわけだが、考えてみれば、いつどの瞬間に終わっても不思議ではないこの命。
そのときへの準備も必要かもしれない。
いつも考えてる、死についての最も軽薄なイメージは、「最後には握り飯を食いたい」ということ。
シラスとおかかを混ぜ込んだ炊きたて飯を握り、アサリのしぐれ煮を入れ、火の上でひとあぶりした海苔で巻いたものがいい。
それでまあ、覚悟はできそうな予感はある。
死ぬ前に「さて死ぬか」と言った豪傑がいるそうだが、辞世の言葉はここにはまだ記さないでおく。(ほんとはまだ考えてない)
死んだら、葬儀も坊さんもお経も必要ない。
あれは哀しげで沈痛な雰囲気をかもすためだけに行う無駄な作業だと思う。
それよりも、「しはん昇天記念日」かなんかと銘打った宴会を開催し、参列者にはわいわいとたのしんでほしい。
ごちそうを持ち寄り、酒を飲んで、しゃべりたいやつにマイクを持たせ、故人の生前の振る舞いや、思い出話、人となりの暴露なんかをしてくれたらいい。
ビールは、プレミアムでないモルツにしてほしい。
葬送曲は、セロニアス・モンクの「サムシング・イン・ブルー」というピアノ曲が気に入ってるので、それにしてほしい。
お棺の中には、サン=テグジュペリの「人間の土地」を一冊入れてくれたらいい。
花に包まれるよりも、草のほうがいい。
わさわさ入れて、盛大に焼いてほしい。
弱還元雰囲気で、1250度で、12時間程度でいい。
煙が天をのぼってったら、手を合わせるよりも、手を振ってほしい。
・・・とまあ、こんな薄っぺらな想像しかできないわけだけど、実際の死ってのはどんなんかな。
もっともっと大好きな仲間と語らいたいし、もっともっと取り込みたい知識があるし、もっともっと書きたいことがあるし、もっともっとつくりたいし、もっともっと大好きな音楽にひたりたい。
だけど、もっともっと重要ななにか、が思い浮かばないのが不思議。
軽薄な欲しか出てこないわが身が哀しい。
でもね、人間ってのはこの程度のものなのだ。
それでも、死を考えることによって、その日を一生懸命に過ごすことができる。
たくさんのひとに、このことを考えてほしい。
みんなもこれを機会に、どーよ?
最後に太田に、感謝の意と、杯を。

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ぼくもまたとある人物にそそのかされ、フェイスブックをはじめてみました。
へんな「招待状」みたいなのを送りつけられたひと、びっくりしたでしょ?
ぼくもびっくりしました。
スイッチ一個をうっかりクリックすると、あんな大騒ぎになるんですね。
申し訳ない、許してね。
つか、危うすぎるやろ、フェイスブック。
なんで自分のメール機能とアドレスリストにまでつながってんだろ?
プライバシーとか、大丈夫なのかな?
こわい・・・
さてそこで、ちょっとこの「ネットワークシステム」ってやつを、知識のないぼくなりにじっくりと分析してみたのですよ。
ぼくは「ブログ」ってやつを10近くも持ってて、ちょこちょこと更新してます。
こいつを、ぼくは優れた表現ツールだと気に入ってます。
書きっぱなしでかまわない、というシンプルさがいいです。
ブログとはつまり、世界中に発信するための表現ツール「ホームページ」の機能を、ソフトなしにネット上で簡単にできるようにしたものと解釈してます。
しかも応答機能までついてるため、ひとりの人物の発信が世界のすみずみにまで行き渡り、それを拾ったひととつながることもできるわけです。
だけど、これだと匿名性がありすぎて、誰が発信してるのかがわかりません。
なんでもかんでも言いたい放題に言えるし、返すほうもノーリスクで攻撃できます。
ひとを深く傷つける術にも活用できるわけです。
そこで「ミクシイ」ってやつが、匿名性をちょっとだけ縛って、誰が発信したかを明確にしたわけです。
ぼくはこのツールも、表現とコミュニケーションには有効だと思ってて、使い倒してます。
だけどミクシイは、誰にでも開かれたものではないため、お友だちが少ないとどう扱っていいかよくわかりません。
逆に言えば、これはお友だちを集めるために活用するものなので、最初に顕著な戸惑いがあります。
そこであきらめてやめていくひとも多いのではないか、と想像できます。
またミクシイは、「表現して」「交流する」というはっきりした目的があるため、そこが希薄なひとには、あまり面白くありません。
ひとりきりでは、楽しみの展開がないわけです。
そこで現れるのが「ツイッター」というやつです。
これは、目的を「友だち集め」に特化したと言っていいツールです。
内容がほとんどなくてかまわないつぶやきを全世界に発信して、ひたすらフォローワーと呼ばれる「友だちのようなヒトビト」をコレクションしていくわけです。
表現の密度が薄くても、あるいはまったく無意味な言葉のかけらでも、全世界でそれを拾い、反応してくれるひとがいるので、さびしい思いをしなくてすみます。
さらにこのツールの特徴は、即時性をすばらしく発展させたという点です。
おかげで、画面の向こうのみんなと「今、つながってる感」があります。
そしてフェイスブックは、さらに「つながってる感」を突き詰め、匿名だった本人の身分を明かし、どんどんつながっていきましょう、という作業を押し進める効果を持ってます。
よく知らないけど、あらゆるネットワークシステムと連動してるため、ソシオグラム(ヒトビトとつながる手の数)を爆発的に展開し、自動的に連結させてくれるのです。
だけどこれらのツールはまた、人数のコレクションによって、自分も世界を構成している、という幻想にひたるところで終わってしまう危険性をはらんでます。
画面上の友だち集めは、さびしさから自分を開放してくれるかもしれません。
だけど、それはツールを活用する前段階であることを忘れてはいけません。
なんのための友だち集めか?ということを考えなければ。
そこで終わらせないためには、やっぱり「表現」と「コミュニケーション能力」が必要となってきます。
逆にその作業をめんどくさがるために、どんどんシステムのほうが発展していく、というジレンもまたあるわけですが。
結局は、ひと相手に面と向かわないと、この手の能力を磨くことはできません。
どこまでいっても、最後は人間、そこから逃れることはできないのですよ。
さて、この「対峙を避ける思想」はどこからはじまったかと考えたときに、ぼくは「ファックス」に行き当たりました。
電話しかなかった昭和時代には、ひとは誰しも、ハラをくくってダイアルをまわし、声と声とで相手とつながり合ったのです。
それがファックスの出現によって、用事はあるけど、やり取りはめんどくさい、という「現代的利便性」、別の言い方をすれば「おうちゃく」が許容されるようになったのです。
次に、メール機能が世に出ると、もうヒトビトは、声同士の会話をしなくなりました。
相手の顔を見て、という当意即妙も、原初的な作法も、最低限の配慮も必要なくなり、体温のない情報のやり取りに終始してかまわない、ということになってしまったわけです。
そのかわりに、ネットワーク機能を使うと、おびただしい数の「相手」を手に入れて、友だちいっぱいなファンタジーが味わえます。
だけど逆に、自分が空っぽになっていく気がするのが、考えすぎですか?
フェイスブックの使い方はまだよくわからないけど、どんなツールを使おうが、最終的には、自分に発信するものがあるかどうか、だけだと思うのですよ。
リストを一杯にすることで自己満足を得る、なんてことにならないように、ツールの活用には注意が必要です。
フェイスブックのボタンを一個クリックしてしまった一瞬に、前記一切を感知しました。
間違ってたら、ごめんなさい。
だけどこのフェイスブックって、「名刺代わり」「なつかしいひと探し」という他にどうにも使い道がイメージできなかったので、思いついたかぎりのことを書かせてもらいました。

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