被災地(岩手)のがれきを、東京都で処分するんだって。
周辺県を含む他の誰も手を上げないから、都が「じゃ」ってことになったんだと。
石原都知事は大嫌いな人物だけど、この点だけは立派!
やっぱ、日本中で全力を挙げて手伝わなきゃね。
岩手は遠すぎる、とか、残留放射能が、とか脳書きタレる輩がいるけど、これは「象徴」としての活動だから。
たっぷりと、こってりと、燃やしてほしい。
他県もこの心意気を見習いなされ。
あとね、「持ち込むな」の意見が1800通寄せられたらしいけど、クソですわ。
黙ってろ、バカ。
やなら、東京から出てけよ。
そんなお手紙書くヒマがあったら、「原発をなくそう」ってところに命がけで取り組めよ。
ほんと、薄情で臆病、って、塗る薬ないわ。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
周辺県を含む他の誰も手を上げないから、都が「じゃ」ってことになったんだと。
石原都知事は大嫌いな人物だけど、この点だけは立派!
やっぱ、日本中で全力を挙げて手伝わなきゃね。
岩手は遠すぎる、とか、残留放射能が、とか脳書きタレる輩がいるけど、これは「象徴」としての活動だから。
たっぷりと、こってりと、燃やしてほしい。
他県もこの心意気を見習いなされ。
あとね、「持ち込むな」の意見が1800通寄せられたらしいけど、クソですわ。
黙ってろ、バカ。
やなら、東京から出てけよ。
そんなお手紙書くヒマがあったら、「原発をなくそう」ってところに命がけで取り組めよ。
ほんと、薄情で臆病、って、塗る薬ないわ。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
書店でふと手に取った本に、びび、っときて、また2300円なりの散財。
だけど、自分が本当に知りたかった最も基本的なところに導いてもらえる気がする。
オレは、この世界はふたつの現実で成り立ってると考えてたの。
ひとつの世界は、自分が直感的・主観的にこうだと思ってる「意識」の世界。
もうひとつは、他者の目が見てる(オレという存在を含んだ)物質的・客観的世界。
どちらも現実なんだけど、両者を照らすと、まったく認識違いのものがあったりして、実はそれらが統合された普遍的な真理なんて存在しねんじゃねーの?と考えて、少々悶々としてたわけ。
さて、件の本によれば、「いや、二つじゃなくて、この世界は三つの現実に分けられるんだよ」と言ってる。
ちなみに、これは例によって、数学の本、純粋学問の本です。(宗教じゃないよ)
さて、この本の言うところの「三つの現実」のうちのひとつは、意識がとらえる世界。
これは取っつきようもない、個々の中の心象世界ね。
簡単に言えば、ひとのアタマん中だ。
で、ふたつめは、物理的実在の世界。
触覚で感じ取れる、いわゆる「ある」のこと。
ここまでは、オレも同意見。
が、そのどちらでもない、みっつめの世界があるというんだな。
それが「数学的形式の世界」なんだと。
この部分を読んだとき、ほんとにカミナリに打たれたようになって、「あ、そっか。それでオレ、数学や物理の本ばっか読んでるんだ」と瞬時かつ完全な理解が起こったよ。
自分の認識の中で、その点が欠落してたとわかったのだった。
その欠けたピースを知るために、つまり、自分の中の認識世界を完全なものにするために、こんな学術本ばっか読みたくなるんだ、と。
数学的形式の世界ってのは、つまり「世界はこうしてできてる」「・・・んだけど、人間の感覚ではとらえきれない」という宇宙(ものごとの仕組み)の本質部分を、数式や構造モデルで認識する、ということ。
例えば、時空が10次元まであると仮定すれば重力世界と電磁力世界を統一した公式で説明することができる、みたいな話とか、宇宙の膨張が加速してるのはダークマターとダークエネルギーがカギを握ってる、みたいな話。
そこまでいかなくても、たとえば「リンゴが落ちる」現象は、それを引き起こす力が人間の目には感知できないものだとしても、数式によって完全無欠の説明がつく。
エネルギーの量は、質量と光速度の二乗を掛け合わせれば、正確に導きだせる。
目に見えない世界は、記号を使った設計図で概念化できる。
要は、触覚でも理性でも認識できないようなことを、観念によってとらえるわけだ。
目に見えない世界もまた現実に存在してる世界であって、そこにもわが感覚世界と同じルールがあり、それは数学=物理学という知性で説明しうる、ということ。
「√-1」って数は実在しないんだけど、これに「虚数」と名をつけて公式をつくると、いろんな応用ができるんだ。
三次元世界では決して視覚的に表現できない、それは一見、奇妙な概念なんだけど、そんな世界も形式としては矛盾なく実在するんだ。
逆説すれば、この「形式世界」がリアルに存在してるかぎり、事実上、この世のすべての現象には説明がつけられるというわけ。
これまでの連綿とした物理学の研究から、物理的実在の世界はすべて、数学的形式に従ってる。
一方、意識の世界と物理的実在の世界もまた、緊密につながってる。
だって、「心」は物質から生まれたんだよ。
「気持ち」とは、タンパク質と電気信号による化学反応である、と言ったひとがいるし、「考え」は、科学の世界ではシナプスとニューロンの発火による物質の伝達という解釈だ。
その奥に控えしが「意識」なる茫洋とした世界なんだけど、こちらは「触覚的」認識が難しい。
だけどその世界が実在しないかといえば、そうじゃない。
それは視覚化できないけど、「ある」んだ。
「我思う、ゆえに我あり」と言ったひとがいるじゃないか。(ものの本を読むと、この思想家もまた、数学者だった)
オレははっきりと「意識」してこの文章を書き、日々を生きてる。
その「意識」ってやつはどこにあるかというと、やはり「観念」の中にある。
いつかそんな構造も、数学的形式で説明できる日がくるかもしれないね。
こんな具合に三位一体を考えてくと、なるほど、世界の全体像がぼんやりと見えてくる。
すごいぜ、「神は数学者か」。
さて、本の最終ページを見ると、偶然にもこの本は、発行日のわずか五日後にオレの手に取られたことになる。
まったく本屋などに立ち寄らないオレに、である。
運命かなあ。
やっぱ、茫洋としたネット界で横着検索するよりも、きちんと実在する本の森をさまよい歩いて触覚でつかまえないといけないね、本質は。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
だけど、自分が本当に知りたかった最も基本的なところに導いてもらえる気がする。
オレは、この世界はふたつの現実で成り立ってると考えてたの。
ひとつの世界は、自分が直感的・主観的にこうだと思ってる「意識」の世界。
もうひとつは、他者の目が見てる(オレという存在を含んだ)物質的・客観的世界。
どちらも現実なんだけど、両者を照らすと、まったく認識違いのものがあったりして、実はそれらが統合された普遍的な真理なんて存在しねんじゃねーの?と考えて、少々悶々としてたわけ。
さて、件の本によれば、「いや、二つじゃなくて、この世界は三つの現実に分けられるんだよ」と言ってる。
ちなみに、これは例によって、数学の本、純粋学問の本です。(宗教じゃないよ)
さて、この本の言うところの「三つの現実」のうちのひとつは、意識がとらえる世界。
これは取っつきようもない、個々の中の心象世界ね。
簡単に言えば、ひとのアタマん中だ。
で、ふたつめは、物理的実在の世界。
触覚で感じ取れる、いわゆる「ある」のこと。
ここまでは、オレも同意見。
が、そのどちらでもない、みっつめの世界があるというんだな。
それが「数学的形式の世界」なんだと。
この部分を読んだとき、ほんとにカミナリに打たれたようになって、「あ、そっか。それでオレ、数学や物理の本ばっか読んでるんだ」と瞬時かつ完全な理解が起こったよ。
自分の認識の中で、その点が欠落してたとわかったのだった。
その欠けたピースを知るために、つまり、自分の中の認識世界を完全なものにするために、こんな学術本ばっか読みたくなるんだ、と。
数学的形式の世界ってのは、つまり「世界はこうしてできてる」「・・・んだけど、人間の感覚ではとらえきれない」という宇宙(ものごとの仕組み)の本質部分を、数式や構造モデルで認識する、ということ。
例えば、時空が10次元まであると仮定すれば重力世界と電磁力世界を統一した公式で説明することができる、みたいな話とか、宇宙の膨張が加速してるのはダークマターとダークエネルギーがカギを握ってる、みたいな話。
そこまでいかなくても、たとえば「リンゴが落ちる」現象は、それを引き起こす力が人間の目には感知できないものだとしても、数式によって完全無欠の説明がつく。
エネルギーの量は、質量と光速度の二乗を掛け合わせれば、正確に導きだせる。
目に見えない世界は、記号を使った設計図で概念化できる。
要は、触覚でも理性でも認識できないようなことを、観念によってとらえるわけだ。
目に見えない世界もまた現実に存在してる世界であって、そこにもわが感覚世界と同じルールがあり、それは数学=物理学という知性で説明しうる、ということ。
「√-1」って数は実在しないんだけど、これに「虚数」と名をつけて公式をつくると、いろんな応用ができるんだ。
三次元世界では決して視覚的に表現できない、それは一見、奇妙な概念なんだけど、そんな世界も形式としては矛盾なく実在するんだ。
逆説すれば、この「形式世界」がリアルに存在してるかぎり、事実上、この世のすべての現象には説明がつけられるというわけ。
これまでの連綿とした物理学の研究から、物理的実在の世界はすべて、数学的形式に従ってる。
一方、意識の世界と物理的実在の世界もまた、緊密につながってる。
だって、「心」は物質から生まれたんだよ。
「気持ち」とは、タンパク質と電気信号による化学反応である、と言ったひとがいるし、「考え」は、科学の世界ではシナプスとニューロンの発火による物質の伝達という解釈だ。
その奥に控えしが「意識」なる茫洋とした世界なんだけど、こちらは「触覚的」認識が難しい。
だけどその世界が実在しないかといえば、そうじゃない。
それは視覚化できないけど、「ある」んだ。
「我思う、ゆえに我あり」と言ったひとがいるじゃないか。(ものの本を読むと、この思想家もまた、数学者だった)
オレははっきりと「意識」してこの文章を書き、日々を生きてる。
その「意識」ってやつはどこにあるかというと、やはり「観念」の中にある。
いつかそんな構造も、数学的形式で説明できる日がくるかもしれないね。
こんな具合に三位一体を考えてくと、なるほど、世界の全体像がぼんやりと見えてくる。
すごいぜ、「神は数学者か」。
さて、本の最終ページを見ると、偶然にもこの本は、発行日のわずか五日後にオレの手に取られたことになる。
まったく本屋などに立ち寄らないオレに、である。
運命かなあ。
やっぱ、茫洋としたネット界で横着検索するよりも、きちんと実在する本の森をさまよい歩いて触覚でつかまえないといけないね、本質は。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
阿部や坂本が支えてる今のジャイアンツは、長嶋さんや王さんが活躍してた頃のジャイアンツとは、メンバーがすっかり入れ替わってますよね。
だけど、「ジャイアンツ」というアイデンティティーは変わることなく生き続けてて、つまり、長嶋さんの頃の古き良きジャイアンツも、今季まさにペナントレースを戦ってるジャイアンツも、同じジャイアンツといえます。
「ジャイアンツは永久に不滅です」みたいなことを長嶋さんは言ったけど、それはジャイアンツというチームが、というよりは、観念(それをそれたらしめてる根幹のとこ)が、永遠だと言いたかったんだと思います。
なんの話?って、つまり、動的平衡の問題です。(今、凝ってるやつ)
ちょっと頭を切り替えて。
人間ひとりを、いっこのチームと仮定します。
そのからだは、いろんなもので構成されてます。
「ぼく」は監督で、指揮系統を司ってはいるけど実体がなくて、その命令によって、いろんな物質が担当してる各部署に働いてもらってるの。
つまり、ぼくはぼくだけど、ぼくのからだは借り物なのです。
世界っつか、宇宙から物質をお預かりして、かりそめの肉体を形成してるに過ぎないの。
一年前にぼくの血肉を構成してた物質たちは、すでにいっこ残らず役割を終えてからだの外に散らばっちゃってて、今ぼくを構成してるのは、ここ数ヶ月のうちに生まれた新参たち。
つまり、一年前とは、ぼくはまったく違ったぼくに変わり果ててます。
チームの構成員が、根こそぎ入れ替わっちゃってるわけです。
ぼく自身も知らない間に、ぼくはまったく別のぼくになっちゃったの。
こんな不思議なことってあります?
じゃ、ほんとのぼくはどこにいるかというと、遺伝子の中に情報として存在してるに過ぎないのです。
その遺伝子(の情報が書かれた細胞片)すら、一年前とはすっかり入れ替わっちゃってるんで、ぼくという一個人は、ほんとに観念としてしかこの世に存在してないのですよ、わかります?
この世には、遺伝子情報というオバケみたいなものがたゆたってるのみで、それが周囲の物質を集めて「姿形」となり、その肉塊の操作が生物学的な「営み」を生み、その営みはなんのためになされてるのかっつーと、つまるところ、遺伝子情報を連綿と後世に伝達してくため、という、まあなんと言いますか、「遺伝子は永久に不滅です」的な構造にですね、この生物界はなってるわけです。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
輪廻転生。
色即是空、空即是色。
いろんな言葉で言われてますが、ぼくって存在は、宇宙そのものなんですねえ。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
だけど、「ジャイアンツ」というアイデンティティーは変わることなく生き続けてて、つまり、長嶋さんの頃の古き良きジャイアンツも、今季まさにペナントレースを戦ってるジャイアンツも、同じジャイアンツといえます。
「ジャイアンツは永久に不滅です」みたいなことを長嶋さんは言ったけど、それはジャイアンツというチームが、というよりは、観念(それをそれたらしめてる根幹のとこ)が、永遠だと言いたかったんだと思います。
なんの話?って、つまり、動的平衡の問題です。(今、凝ってるやつ)
ちょっと頭を切り替えて。
人間ひとりを、いっこのチームと仮定します。
そのからだは、いろんなもので構成されてます。
「ぼく」は監督で、指揮系統を司ってはいるけど実体がなくて、その命令によって、いろんな物質が担当してる各部署に働いてもらってるの。
つまり、ぼくはぼくだけど、ぼくのからだは借り物なのです。
世界っつか、宇宙から物質をお預かりして、かりそめの肉体を形成してるに過ぎないの。
一年前にぼくの血肉を構成してた物質たちは、すでにいっこ残らず役割を終えてからだの外に散らばっちゃってて、今ぼくを構成してるのは、ここ数ヶ月のうちに生まれた新参たち。
つまり、一年前とは、ぼくはまったく違ったぼくに変わり果ててます。
チームの構成員が、根こそぎ入れ替わっちゃってるわけです。
ぼく自身も知らない間に、ぼくはまったく別のぼくになっちゃったの。
こんな不思議なことってあります?
じゃ、ほんとのぼくはどこにいるかというと、遺伝子の中に情報として存在してるに過ぎないのです。
その遺伝子(の情報が書かれた細胞片)すら、一年前とはすっかり入れ替わっちゃってるんで、ぼくという一個人は、ほんとに観念としてしかこの世に存在してないのですよ、わかります?
この世には、遺伝子情報というオバケみたいなものがたゆたってるのみで、それが周囲の物質を集めて「姿形」となり、その肉塊の操作が生物学的な「営み」を生み、その営みはなんのためになされてるのかっつーと、つまるところ、遺伝子情報を連綿と後世に伝達してくため、という、まあなんと言いますか、「遺伝子は永久に不滅です」的な構造にですね、この生物界はなってるわけです。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
輪廻転生。
色即是空、空即是色。
いろんな言葉で言われてますが、ぼくって存在は、宇宙そのものなんですねえ。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
92歳になるばあちゃんの耳が遠くなったとかで、実家の母ちゃんが困ってるらしい。
なにに困ってるかっつーと、テレビの音量を「レベル70」で聴いてるんだと、うひーっ!。
70ったら、町内中にとどろきわたってしまうくらいの大音響でないの。
ちょっとセクシーなシーンとか、気まずくね?
それにしても70かあ・・・すげえな。
ちなみに今、わが家自慢のアクオスで試してみたけど、フルボリュームでも60どまりだった。(普段は12~14で聴いてます)
それでもカタツムリ官がじんじんするような音量だよ。
ばあちゃん、それでなに観てんだろ?
サスペンスとかだったら、こえーよなあ。
じゃじゃーん、ぎゃ、あ、あ・・・とか。
でも、きっと観てるよな。
ボリュームいじるより、補聴器買え。
東京都練馬区・陶芸 教室/森魚工房 in 大泉学園
なにに困ってるかっつーと、テレビの音量を「レベル70」で聴いてるんだと、うひーっ!。
70ったら、町内中にとどろきわたってしまうくらいの大音響でないの。
ちょっとセクシーなシーンとか、気まずくね?
それにしても70かあ・・・すげえな。
ちなみに今、わが家自慢のアクオスで試してみたけど、フルボリュームでも60どまりだった。(普段は12~14で聴いてます)
それでもカタツムリ官がじんじんするような音量だよ。
ばあちゃん、それでなに観てんだろ?
サスペンスとかだったら、こえーよなあ。
じゃじゃーん、ぎゃ、あ、あ・・・とか。
でも、きっと観てるよな。
ボリュームいじるより、補聴器買え。
東京都練馬区・陶芸 教室/森魚工房 in 大泉学園
ここんとこ一、二年の間に読んでる本たち。


以前にね、週刊誌でマンガをかいてたんですよ、オレ。
その頃は、クソ面白くもないプロ野球のデータとか、サッカーのルールとか、戦術とか、エピソードとか、そんな知識を詰め込むためにいろんな専門誌(ワールドサッカーダイジェストとか、ボクシングマガジンとか、陸上競技マガジンまで)を「無理やりに」読んでたんだけど、くびきを断ち切った今は、なんでも好きなものを読めるのさ。
好きなものってのは、実は数学や物理学だったんだなあ。
結局、自分の知識欲の求める先は、物事の根本原理なんだとわかったよ。
現象や結果じゃなく、「なぜ?」にこそ関心がある。
オレは「~なので」「~だから」というのが口ぐせらしいんだけど、これは、問題のより深い部分を議論の俎上に載せよう、深く納得してもらおう、ってアプローチから発生してるんだ。
掘り下げたいんだ、世界を。
最近いちばん興味があるのは、哲学だなあ。
まだそこに足を突っ込んではいないけど。(ムツカシイし)
でも、思考法はその作法を十分に踏んでる気がするんだ。
オレはきっと、悟りをひらきたいんだと思う。
その一歩目の足をひょいと上げたとこなんだ、きっと、と思ってる。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園


以前にね、週刊誌でマンガをかいてたんですよ、オレ。
その頃は、クソ面白くもないプロ野球のデータとか、サッカーのルールとか、戦術とか、エピソードとか、そんな知識を詰め込むためにいろんな専門誌(ワールドサッカーダイジェストとか、ボクシングマガジンとか、陸上競技マガジンまで)を「無理やりに」読んでたんだけど、くびきを断ち切った今は、なんでも好きなものを読めるのさ。
好きなものってのは、実は数学や物理学だったんだなあ。
結局、自分の知識欲の求める先は、物事の根本原理なんだとわかったよ。
現象や結果じゃなく、「なぜ?」にこそ関心がある。
オレは「~なので」「~だから」というのが口ぐせらしいんだけど、これは、問題のより深い部分を議論の俎上に載せよう、深く納得してもらおう、ってアプローチから発生してるんだ。
掘り下げたいんだ、世界を。
最近いちばん興味があるのは、哲学だなあ。
まだそこに足を突っ込んではいないけど。(ムツカシイし)
でも、思考法はその作法を十分に踏んでる気がするんだ。
オレはきっと、悟りをひらきたいんだと思う。
その一歩目の足をひょいと上げたとこなんだ、きっと、と思ってる。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
「ロウソクは美しい」と言った物理学者がいるよ。
炎を揺らめかすその風情が美しいんじゃなく、物理的な効率と循環が美しい、というんだ。
最初の炎がロウを融かす。
すると本体にカップができて、そこに液体となったロウが湖のようにたまる。
たまったロウは、毛細管現象によって芯に吸い上げられて燃料となり、安定した炎をつくる。
ストックされたロウがなくなると、炎の位置は押し下げられる。
それに従って、本体のカップの周囲は融け、ロウのチャージが行われる。
ロウの揮発と芯の耗滅が同時に進行するため、少しのロスもなく、また炎は同じ大きさ・形をキープしたまま、ロウソクのボディは短くなっていく。
まるで整った円のように美しい「現象の循環」でないの。
・・・という本ばっか読んでる今日この頃。
炎を揺らめかすその風情が美しいんじゃなく、物理的な効率と循環が美しい、というんだ。
最初の炎がロウを融かす。
すると本体にカップができて、そこに液体となったロウが湖のようにたまる。
たまったロウは、毛細管現象によって芯に吸い上げられて燃料となり、安定した炎をつくる。
ストックされたロウがなくなると、炎の位置は押し下げられる。
それに従って、本体のカップの周囲は融け、ロウのチャージが行われる。
ロウの揮発と芯の耗滅が同時に進行するため、少しのロスもなく、また炎は同じ大きさ・形をキープしたまま、ロウソクのボディは短くなっていく。
まるで整った円のように美しい「現象の循環」でないの。
・・・という本ばっか読んでる今日この頃。