
三谷幸喜さんは、ぼくの苦手な映画監督。
オモシロい・・・んだろうけどねプロットは、だけどそれを生かす方法論がなってない。
要するに、映画(映像)の作法を理解してない。
舞台の演出家であり、優れた脚本家である(といううわさの)彼は、監督業には手を出すべきじゃないと思う。
以前のNHK大河ドラマ(「新選組!」)はひどかった・・・というか、第一回放映分でいきなりおよそフォローできないって結論に至り、愛想が尽きた。
一応、彼の映画はテレビ放映分だけは観ることにしてて、先日も「清須会議」を地上波で観たんだけど、やっぱしだめだ・・・
面白い素材をわざわざつまらなくしてしまってる、と言っていい。
まず、ドラマをセリフ劇に仕立てようとするヘキがあって、とにかくト書きが説明的すぎる。
さらに「ひとつの構図からロングショット」をやりたがるんで、さらに画づらが単調になる。
物語が、絵に描いたように上滑りしてく。
舞台芝居をスクリーン上で展開したい、って意図はわからなくもないけど、少なくともその作意は成功してない。
とにかく彼がその賢い頭を使えば使うほど、いいハナシが台無しになってくんだった。
例えば、こんなホン↓のテレビドラマをどう思う?
朝、家庭の食卓で、母親と女子高生。
母親「早くご飯を食べて、学校にいく支度をしなさい。だけどあなたはおっちょこちょいだから、いつものように転ばないように気をつけてね」
女子「わかってるよ、ママ。そうだ、今日、男子の転校生がくるんだけど、どんなやつかな?いやな感じだったら、とっちめてやる」
母親「よしなさい。転校が多いそういう子ほど、うわべではイキがってても心根は優しいものよ」
女子「そういうものかな。だけど、そんなギャップ感、ちょっといいね。恋の予感がするよ。じゃ、いってきまーす」
↑これが三谷作法ね。
すなわち、全てをセリフで説明し、画づらなしに物語を進行させる。
視線が一点で、外へのひろがりと奥行きがない舞台上では、こんなやり方も効果的かもしれない。
だけど映像や二次元系では、この一幕は↓こうして情景に落とし込んで表現する。
朝、玄関を飛び出す女子高生、口にはトースト。
女子「キャー。遅刻遅刻う~。ママったら、なんで早く起こしてくれないかなっ、あせっ」
どっし~ん!
女子「いったーい。なっ、なによあんたっ」
男子「なんだとう。そういうおまえこそなんだよ。いきなりぶつかってきて。とっとと失せろ、ブスッ」
女子「なんですって~?もう~、いやなやつっ」
ところがその男子は、なんと今日クラスにやってきた転校生だった!
そして、放課後の帰り道。
女子「くっそー、あの転校生めっ。いつかとっちめてやるから。あっ・・・あいつだっ」
朝の男子が、捨てられた子犬の頭を撫でている。
女子「・・・あいつめ・・・けっこう優しいとこもあんじゃん。きゅんっ」
というわけなんだった。
キャラの設定や物語の展開は、あくまで風景描写の流れの中で行うべきで、つまり視聴者に理屈として読み取らせるのではなく、自然に感受させるべきなんである。
三谷映画を観ると、いつも脚本を読まされてる気分に落ち入る。
ストーリーは理解できるが、感情の移入が難しい。
どこか上っ面をなぞってる違和感がぬぐえない。
その点に気がついてくれたらいいんだけどなー、だけどそんなことはもちろん知っててわざわざこの方法論なんだろうなー、だけど成功してないんだよなー・・・って点が、実に惜しまれるんであった。
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