ものの貸し借りって、結構なストレスなんだよね。
ものを借りたときの「返さなきゃプレッシャー」ったらないし、汚しでもしたら、壊しでもしたら・・・と思うと夜もおちおちと寝てられなくなる。
ものを貸したときも、「あいつ(貸したもの)は今どうしてるかな・・・」と思い出が走馬灯のように巡って、はやく手元に戻ってきてほしくなる。
細かいかなあ?
ってわけで、借りるくらいなら散財して手に入れたいし、貸すくらいならあげちゃう。
「貸して」って気軽な言葉は、実は「くれ」と言ってんのと同じだと思う。
そう考えると、「くれ」って言葉はいっそ清々しいな。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
「風の谷のナウシカ」を久しぶりに地上波で観たら、やっぱしすごいわ。
達見というほかない。
でも宮崎駿監督の作品は他にも観るんだけど、このひとのつくるものはどれもこれも、最後は結局、魔法と呪文に逃げちゃうんで、どうしても不満が残るのだ。
ものすごい期待にはじまって、ものすごい消化不良で終わる。
ナウシカも・・・まあ最後は「なんだこれ?どーゆーことやねん」なんだけど、それを差し引いても、この物語は世界観も展開も卓越した見識で描かれてて、すごい千里眼で未来を見通してるとしか思えない。
30年以上も前の作品なのに、ここら数年で起きてる問題の一切が予言されてんじゃないかしらん。
それにしても、いいよなあ、映画の中の世界は。
なんたって、この現実世界にないものを持ってるからね。
それはなにかっつーと、まあ希望と言ってもいいし、ナウシカと言ってもいいんだけど。
要するに、この現代に起こってることは、ああいうふうに(魔法で)便利には解決できないのだな。
美しく一件落着に終わるなんてことはありえない。
ぺしゃんこになりかけたら、あとはもうぺしゃんこになるしかないだろう。
あ、でも「風の谷のナウシカ」の中でも、一回ぺしゃんこになってんだっけ、この「旧」世界。
それはまあ、監督の予言でもなんでもなく、必ず起きるに決まってることなんだろうけど。
ぺしゃんこかあ・・・考えてみたら、映画では誰がどう近未来を描いても、あたりまえにそうなってるな。
近未来がぺしゃんこ前提での、遠未来表現を競い合う形。
この分だと、この現実世界にナウシカの出現を期待するなんて、夢物語だ。
別の言い方をすれば、ナウシカのいない「風の谷の物語」が、この現実世界なんだった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
日本が、世界が、加速的に悪い方向に走り出した2016年だったねえ。
前々から予兆はあったんだけど、それぞれにためてたストレスが一気に噴出した感じ。
自分だけが生き残ろうと必死で、相手を叩き潰す作業に一生懸命。
遠慮したものが負け、って亡者の争いになってる。
ひとり勝ちにかっぱぎたい欲に取り憑かれてるんで、地球環境への負荷にも配慮できない。
来年はえらい年になるね。
この流れは変えられないのかな。
バカ同士は殴り合って滅びればいいけど、それの巻き添えに、地球が壊れてくのは見てられない。
人間の存在なんて自然界の営みに比べたらちっぽけなもの、なんていうけど、今や、ちっぽけじゃない。
絶大、と言っていい。
人間がちょっと本気を出せば、自然なんて簡単に壊滅させることができる。
でも逆に言えばさ、人間がちょっとだけ配慮しさえすれば、自然は素晴らしいサイクルで、永遠に近い時間と快適を与えつづけてくれるのにね。
それに飽き足らず、「快適すぎる」立場を求めることに、なんの意味があるんだろ?
欲をかいて、自分を支えてくれてる他者や、自分が置かれてる環境が、回復不可能なまでにダメージを受けたらどうすんの?
元の木阿弥なんじゃないの?
人間は知識をつけすぎて、知性を失ったよ。
すべてを求めすぎて、すべてを失うわけだ。
来年は必ず、このネガティヴサイクルが一歩進むはず。
人間はまた後退する。
知性を取り戻したいもんだ。
日本も、世界も。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
年も押し詰まったここにきて、よめはんが風邪で倒れ中。
お熱が39度オーバーで、隣でゲホゲホいってる。
こんなふうに部屋で一緒に過ごしたり寝たりしてんのに、いつも不思議と感染らないんだよね、オレって不思議。
それにしても、ウイルスってすごい賢い。
自分の体を遠くへ移動させるために、感染者に咳やくしゃみをさせるなんて発想は、天才的だ。
あいつらはそんなマジカルなアプローチで、空を飛ぶ能力を手に入れたんだ。
また、致死性のウイルスはほぼ下痢系に走るんだけど、ゲロやうんちや、あるいは死んだ宿主の体液に混じってそっとひろがってく、って性格もえげつない。
あいつらは遺伝子を持った鉱物と言っていい無機質な存在のくせに、絶対に高い知性と根性を持ってるね。
強いお薬でぺしゃんこにされても、すぐにもっと強くなって戻ってくるし、復讐の観念まで理解してるにちがいない。
そして、「世界を征服するのだ!」という強い野望がなければ、こうまではがんばれない。
最後の最後には必ず、地上の王になるひとたちだ(宇宙もかなあ・・・?)。
しかしこうまでがんばった先に、あいつら定義的に無生物な存在がそのまま進化しつづけるとして、ついに魂を獲得することはできるものなんだろうか?
いや、お得意のマジカル発想で、「人間の肉体を借りて、自分は魂そのものという存在になる」って手もあるね。
人間の体をすでにコントロールできはじめてるんだから、手足や行動まで完全に操れるようになるのは時間の問題かもしれない。
レンタル肉体の操縦士、ってわけだ。
・・・よめはんの咳き込む姿を横目に見ながら、冷静にこんなことを考えてる枕元なんだった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
下のブログ、すごいこと書いてるなあ・・・
酔っ払うと、無意識にうっかりと本音丸出しの文章を書いてるんで、気をつけないと。
消しはしないけどね。
タバコを吸わないヒトビトの大半が感じてる憤激ではあろうかと思う。
こういうことは吐き出しちまえばいいんだよ、あいつら、もっとひどいもの吐いてんだから。
まだ部屋がにおってるぜ、クソッ!
・・・と、とりあえずの書き出し。
ここんとこ、時間さえあれば文章を書く、って病気を患ってる。
書かないではいられない。
んで、また、パタリと書けなくなるのだ。
二年に一度くらいのサイクルでやってくるやつだ。
そう鬱の、そう状態かなあ。
だけど、たのしいのだ、文章書き。
オレ、酒以外の趣味はなし、ってプロフィールのひとだったんだけど、ついに趣味を見つけたかも。
見つけたというより、気づいたかも。
自分史編み。
ナルシストだなあ、と思っても、やめられない。
半生の局所局所を細密に思い出しては、私小説風に描写して備忘するわけ。
過去に起きた出来事一点に集中して、ワンシーンを脳裏から引っ張り出してみると、実際に起きたことなのに、記憶の中で自然な脚色が行われてることがわかる。
回想という自己完結の行為なのに、まるで何者かの自由解釈でつくられた映像を観るようだよ。
自分でも気づかない主観が働いて、記憶の断片が装飾に彩られてるんだね。
それは、自分の中の真実でありながら、拡大解釈された芝居でもあるわけだ。
そいつを文章に写し取るのに、なんの苦もない。
キーボード上を指が淀みなく動いて、止まらない。
たのしくて仕方がない。
やっぱり病気だなあ。
ほとんど下痢状態の、アウトプット症候群。
だけどいつまでつづくかわかんないんで、もうしばらくはこの記憶の地図づくりをたのしもうと思う。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
うまいものを食べにいっても、タバコ吸いが隣に座っただけで、一夜が台無しになる。
タバコ吸いが隣に座ると、心底、がっかり。
家に帰り着いて服を掛けておくと、翌日には家中にひどいにおいが立ち込めてて、まったくうんざりさせられる。
そんなとき、タバコ吸いを心の底から呪いたくなる。
あのニコチンとタールを肺に塗り込めてんだから、おめでたいよなあ。
ええ、タバコファシストです。
「しね」は、昨今は保育園を落ちたひとしか使わない言葉だけど、オレは、タバコ吸いの人間に対してだけは遠慮なく使うことにしてる。
「タバコをポイ捨てするやつ、しね」は、オレが尊敬する人物の名言で、圧倒的に支持できる。
なんでそれほどの迷惑を周囲に及ぼして、平気で生きてられるのかなあ、タバコ吸い・・・
わからんわ。
からだにものっすごいタバコのにおいを染み込ませた知り合いがいて、彼は5メートルって距離に接近してきただけでわかるくらいの体臭を放つんで、こっちは鼻が曲がりそうなんだけど、自分では知らないで過ごしているのだった、かわいそうに。
その知り合いは、とても人柄がよく、誰にでも好かれ(実際、オレも好感。近づくのは御免だけど)、ひとつの特殊技術を武器に世界を渡り歩くみたいなこともやってるすごい人物なのだ。
が、若くして脳溢血で倒れちゃった。
今や車椅子生活で、言葉を発することもできないでいる。
それがタバコのせいであることは疑いがない。
気の毒に、とは思うけど、自業自得だな、とも思う。
彼は好人物だとは思うが、一方で、彼がどれだけの害毒を周囲に対して(そして自分に対して)振りまいてきたか、それを勘定に入れないわけにはいかない。
車椅子の彼は今、まったくの無臭だ。
禁煙を数年も余儀なくされて、完全に悪臭が消えたのだ。
ようやく無害のひとになれたのだな、と思う。
しなないでほしい。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
大好きなブランクーシの彫刻。


ひとりたたずむ女の子。


チューをする。


さらにチュー。


さらに強く抱きしめ合ってチュー。


いよいよ固く結んでチュー。


そしてひとつになりましたとさ、という話。
抽象とは、こういうことなんであります。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
アウトローであることを忘れちゃいかん、と思う。
ケンカを売ることも、買うことも大切。
日本人、ケンカしなさすぎ。
このままじゃ、声の大きなひとの言いなりだよ。
わが国家のシステムでは、声の大きなひとがいちばん得をする。
オレは自分の声が大きいとは思ってないけど、大きな声を出す人物には必ず食ってかかることにしてる。
それで死んだってかまわないよ。
言いたいこと言わなきゃ。
よめはんもそう。
小さなからだで、か細い声で、納得できないことには敢然と立ち向かってく。
尊い姿勢だと思う。
そうして世の中が正しい形になっていけば、と思う。
自分が正しいとは必ずしも思わないけど、戦う相手よりはいくぶん正しいはずだ、とは信念を持って言えるよ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
みんなの腕立て伏せは、どんなやつ?
オレの腕立て伏せはね、手を着く間隔は肩幅、腕も体もぴんと伸ばしきってスタンバイし、下降。
鼻の先とヘソが床に接地するまで下げる。
そこから体を曲げずにジャッキアップ。
・・・ってもの。
テレビなんか観てると、腰を曲げて尻を突き出した状態で上半身だけヘコヘコしたり、腕をちゃんと曲げずに上空で空お辞儀をするようにペコペコしたり、逆に腕を伸ばしきらずに下方だけで平身低頭したり、インチキばっか。
そんなのを一回に数えてんじゃねえ、と言いたい。
オレは、ヘコヘコも、ペコペコも、平身低頭も、絶対しないぜ。
これは自尊心の問題なんである。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
自分の半生記を書いてんだけど、文体が難しいんだよ、これ。
過去を振り返るんだから全部過去形で書けばいい、ってもんじゃない。
やっぱ臨場感が欲しいから、当時の状況の中で現在進行形で登場人物たちを動かしたいわけ。
劇中劇みたいに、著者が述懐する形で、ある一時期の物語を一話完結で挿入する構成。
これなら細切れにしたセクションを独立させて、そのときそのときを現在進行形で展開することができる。
だけど説明をしてる現在の著者と、物語中の主人公のどちらも「オレ」なんで、読み返すと結構な混乱がある。
過去の自分に、その時点における過去を思い起こさせるシーンとか、文体の理を詰めてると脳が煮えてくる。
しかも、現在の一人称のオレが、三人称的存在としての昔のオレを動かしてるんで、この点でも混乱が生じる。
現在のオレが説明する過去のオレは「彼」なわけだが、彼はオレとして振る舞う約束事となってるんで、その階層の理解が深くゆき届いてないと、ふた通りの解釈ができてしまうわけ。
いっそ完全な私小説(大河ドラマみたいな)にしちゃえばよかった、と後悔してんだけど、もう110話・110万文字ってところまで書き進めてるから、今さら文体から構築し直し、ってのも切ない作業になってくる。
全部書ききってから、老後にのんびりと組み立て直そうかな、と達観だか諦観だかよくわかんない境地で、ひとまずは書きためることにする。
deep forest 森の深いとこ

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園