いちばん大切なものをかなぐり捨てて、すでに原発屋と成り果ててる東芝は、さっさとつぶれていい。
経産省は、東芝と日立と三菱とで「日の丸原発会社」なんてのをつくろうとしてるけど、こりゃ、日立も三菱もつぶれるぞ。
つぶさなきゃいけないのは、経産省だよなあ・・・
なんで日本「政府」は、こんなにも原発にこだわるんだろ?
世界じゃ、すでに原発に見切りをつけて、自然エネルギーに大挙してシフト中。
その方がはるかに安全で手っ取り早くて、しかも技術革新の伸び代に限りがない。
いったん取り付けさえすれば、燃料費もゼロなんで、誰が考えたって、そこに行き着くのは自然の理。
結局、原子力で国土の大きな部分を失った日本だけが、原子力の世界に固執し、取り残されてるわけだ。
東芝も、最近のニュースでは日立もそうなんだけど、いったい原発のためにどれだけの無駄金を捨ててんのよ。
福島の事故でも、国庫は20兆円をすでに散らしたけど、ここで問題にする天文学的なコストは、事故後のやつじゃない。
昨今では、原発一基を建てよう、と決めても、コストが際限なく、「何割増し」どころじゃなく、「何倍」「何十倍」にも跳ね上がり、どこまでいっても工事を終わらすことができないんで、誰も手を出せないでいる。
そいつを日の丸原発会社は、一手に引き受けましょう、と輸出に前のめりになってんだから、カミカゼだよなあ。
関係会社は絶対つぶれるよ、お年玉を全部賭けてもいい。
原発推進は、被害者になりながら加害者になるってこと。
いいことなし。
品位も節操もない。
最も大切な美意識もない。
福島のデブリは、水の底で今も生きて呼吸をしてる。
あいつは、永遠に超高熱を出しつづける。
数百万年の間に、片時でも冷却できなくなったら、アウト。
いっそ、もう一度目を覚まして、首都圏をこっぴどい目に遭わせてくれないかな、とも思う。
そうでもしないと、推進したい連中には理解できないみたいだ。
それにしても、あの事故を起こしといて骨身に沁みないとは、たいしたキモだよなあ・・・
いやそれ以前に、このバカバカしいまでのコスト計算だけで、原発カードがババだと理解できないなんて、頭が悪すぎる。
日本の官庁、そして企業も、劣化が極まった感がある。
フクシマのやらかしで、世界中がもう懲りたってのに、ついに日本だけは懲りませんでした、という不思議なお話。

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大好きなジャズピアニスト、ブラッド・メルドーは、いろんな相方を見つけてきては、新しい音楽を模索してるのだった。
エレクトリックなものから、ソプラノサックスとのデュオや、クラシック歌手とのオペラチックなものまで、変幻自在。
リズムセクションを入れようとしないのは、ピッチが正確に刻まれてると、音が枠にはめ込まれたように硬くなって、飛翔できないと感じてるんだろう。
タイコやベース音にわずらわされずに、音に没入したい、ってのもあるのかもしれない。
完全に入り込んで、フリーに走りだしたときの凄みといったら、「命を削ってる」って言葉がぴったりするほどだもんね。
それが嵩じたのか、最近の作では、ノイローゼ気味に前衛の方向(いわゆるフリージャズじゃなく、超絶技巧の方)にいっちゃって、聴者置いてけぼり感があった。
そのカウンターバランスと言いたくなる本作では、非常に軽やかなアイリッシュ仕立て。
ブルーグラス畑のマンドリン&ヴォーカルというクリス某は、ちゃかちゃかと小刻みな弦音を爪弾きつつ、伸びのあるというよりはむしろ稚拙に張り上げる声で曲をリードしていくんだけど、これにブラッド兄さんは自由自在なピアノをのっけてまして。
これが実に、かつて兄さんの曲では聴いたこともなかったような愉快な雰囲気。
二本の手、十本しかない指を迷惑なほどに器用に操るブラッド兄さんは、三つ四つの旋律を同時に繰りひろげるという離れ業(ジャグリングに似たピアノ奏法だ)を極める作業にしばらく夢中だったんだけど、今作では一転、心をほどいて遊んでる。
神経まで蝕まれそうな艱難辛苦の作業で脳に汗をかいてたこのひとにとって、トラディショナルなストライドピアノなんて、お茶の子さいさい。
しかしそこもまた、ただの速弾きで終わらせないのが職人魂ってもの。
寄せては返すリズムの反復の中に、同じ音がひとつとしてない。
ど、み、低そ、み・ど、み、低そ、み・・・の繰り返しが極論すればストライド奏法なんだけど、このコードの作法だけは崩すことなく、手を変え品を変えて、どんどん別の音に展開していく。
そのボキャブラリーの広さときたら。
そうして曲が単調になることから逃れ、奥行きをほじくり、世界を複雑玄妙に構築していく様は、まさしく吟遊詩人の真骨頂。
田舎風なのに新しいなあ、とうならされる。
このデュオも、若い子を育ててあげよう、って気まぐれからはじめた気配があるものの、プレイ自体はまったく相手に対してフェアで、戯れとは言えども、実力全開、能力余すところなく開陳。
いや、むしろ、新進気鋭から刺激を頂戴して自分の血肉にしてやろうとする意欲がすごい。
こうなってくると、相方の若者ヴォーカルも恐縮・・・なんて微塵も感じさせないノリノリ。
ははあんなるほどここまで遊んでいいわけね、という以心伝心による相乗効果と言っていい。
あまりにたのしい遊びの時間は、夕暮れが近づくにつれて切なさに胸苦しくなってしまうものだけど、この明るい曲調と当意即妙の掛け合いはまさしくあれだ。
ふたりの子供がゲラゲラと絡み合いながら芝生の上を転げ、固く結んで離れたがらないような光景がなぜか思い浮かぶ。
双方ともに神がかった演奏で、息もぴったし。
たのしすぎて、うれしすぎて、めまいまでしてくる。
それにしても、こうまでイチャイチャされると、やっぱ、と思うのは、そっち方面のひとなのかなあブラッド兄さん・・・ってことなんだった。

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タバコの規制が進むのか進まないのか・・・
飲食店内でタバコを吸うなんて、テロと同じ行為だと思うんだけど、日本人は鷹揚だ。
以前にTEDってアメリカのプレゼン番組を観てたら、銃規制について興味深いことを言ってた。
アメリカでは銃を持つのがあたりまえのことだと思ってるけど、タバコのことを考えてみて、とプレゼンターは言うのだ。
「以前は、誰もが飲食店でタバコを吸ってたものだけど、今は誰も吸わない。吸わないことがあたりまえで、そこで吸いはじめるようなひとがいたらギョッとするでしょ」と。
そんな具合いに、銃を持たないことがあたりまえの世界にしたい、と。
タバコを飲食店から完全に追い払ったように、銃を追い出せばいいのだ、と。
日本も逆の発想をすればいいのだ。
日本国内に、銃がないのはあたりまえ。
そんなふうに、持ってることが不自然に思えるくらいに、タバコもなくせるはず。
日本だって、かつては所かまわずタバコをふかしてた時代があった。
植木等の映画で、入院中の主人公が病院のベッド上でタバコを吸いはじめたときは、さすがにのけぞったよ。
それが今や、タバコは限られた場所でしか吸わないのがマナーになって、浸透してる。
そうして、あたりまえを積み上げていけばいいのだ。
「タバコを吸えなくしたら、飲食店の客が減る」なんて規制慎重派は言うけど、あり得ないよ。
タバコを吸う客は、確かに禁煙店にはいかなくなるかもしれない。
だけど実は、タバコを吸わない客もまた、煙をもうもうと立ててる店を忌避してるのだ。
今や、喫煙者人口は全体のわずか20%弱。
喫煙店は、残り80%の客を逃してると言える。
禁煙にしたら、客は増える計算だ。
やってみたらいいんだよ。
意外と簡単なことだから。

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清水富美加ちゃん・・・なあ〜・・・
もったいない、ってのが第一の印象だけど。
うちの工房に遊びにきてくれたときは(仮面ライダーフォーゼの頃の取材)、強いけどあやうい、ってイメージだった。
誰も信用しない、って気持ちがあからさまに滲み出てた。
滲み出るどころか、あれは発散(アピール)してたのかもしれない。
「星の王子さま」流に言うなら、剣呑、だった。
明るさのない元気、と言うか、他人を拒絶する明るさ、と言うか、すごい二律背反があった。
それが類のない魅力として評価されたんだろうけど。
それでも、工房には何組ものマスコミ取材がきて、そのことごとくがクズばっかで辟易させられたけど、ふみかちゃんだけは実に真面目に、真っ当に、そして作法を踏み外さず、仕事をやりきってくれた。
意欲も強かったし、持ってるボキャブラリーの豊富さや、知性と機転にも舌を巻いたけど、なにより、野心がすごかった。
この子はプロだ、と思った。
ものすごい存在感があって、オレは図々しくも「きみは五年後に大河ドラマの主役を張れる」と本人にも伝えたし、本当に4年後にNHKの連ドラの重要どころに抜擢されたときには、ついに、と思ったもんだよ。
だけど、なあ〜・・・
オレは自由を信奉し、実際にあらゆる人間関係を犠牲にして自由を実現して生きてるんで、彼女の選択はわからなくはない。
だけど、義理を果たしきるからこその自由なんであって、それを反故にしての自由は、ただのやんちゃでしかない。
全部片付けてからの宣言にしてほしかった。
彼女のこの判断は、無礼極まる、と言わざるを得ない。
自由の獲得どころではなく、将来の自由を縛るタイプの、最悪の振る舞いだと思う。
自由を言うなら、全部をやり遂げてから・・・つか、最低でも約束事をさばいてからの話だろう。
そのへんの事情はよくわからないからなんとも言えないけど、報道に乗ってる情報が確かなら、その自由の追い求め方には、美しさがない。
残念だ、と言っとく。

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休日となると、ほとんど外に出ないで過ごす。
部屋でゴロゴロしてばっか。
昼間っから酒を飲むか、文章を書くか、本でも読むか。
気が向いたら、ピアノを弾くか。
極めてインドア志向。
外に出るといったら、酒場に向かうか、マルエツでお買い物程度。
あまりにも外に出ないんで、マルエツでさえも旅行気分となる。
旅行といったらお土産だが、この買い物もそんな心持ちだ。
つまり、「せっかくこんな観光地にまで足を運んだんだから、なにを記念に買って帰ろうかしら」てなテンションだ。
こうなると、多くの旅行客がそうであるように、値段など見ない。
少なくとも、価格の比較などしない。
欲しいものはじゃんじゃん買う。
「値段を見ないなんて、大金持ちですね」と女子に言われるが、男子の買い物なんて、だいたいそんなもんじゃないかな。
そして、その見立ては間違ってる。
オレは値段を見ないが、シールは見るのだ。
シール、好き!
30%引き、半額、お買い得シール!
シールさえ貼ってあれば、大して必要のないものでも買える。
普段は絶対に手を出さない珍味とか、ちょっとお高めのアラレとか、奇妙な調味料とか、ものすごい刺身とか、半額なら平気。
そうして新しい味覚を試すことができる。
まさしく、旅行先で買うお土産の感覚だ。
ああ、買い物って素晴らしいなあ。
そうして買い込んだものを秘密の場所にストックし、再び部屋にこもるんであった。

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酒場に飲みにいくときは、必ず本を持ってく。
読書をするために飲みにいく、と言っていい。
勉強しにいく、とも言える。
工房でたくさんのひとに会ってさんざん言葉を垂れ流してるし、パソコンに向かってさんざんアウトプットをしてるしで、インプット方面がかつえてるのかもしれない。
文字を取り込みたい。
だけど文芸はずいぶん読んでなくて、読むのは自然科学系の新書か、あれはなんつーの?むつかしいカンジの参考書みたいなやつがちょうどいい。
今はね、脳内のニューロンとシナプスの働きをくわしく解説するようなのを読んでる。
おもしろい。
それに、カウンターで読んでると、頭がいろんな方向に働くんだよなあ。
密室でひとりきりで本を読んでると、集中できて、文字に完全に移入できて、理解も深くなる。
つまり、一直線に飲み込める。
だけど酒場のカウンターで読んでると、一点集中じゃなく、なぜかイメージがいろんな方向にひろがってく。
今まさに文字から仕入れた知識と、今その場(酒場の喧騒)にある経験と、酔って散らかった脳内の知見が、総合的に混ぜ合わさりながら、不思議なケミストリー、つの?すごい発想に跳躍してくの。
この知的体験が、実にたのしいのだ。
それはほとんどその場かぎりの着想と帰結で、覚めた後にはなにも残らない質のものなんだけど、絶対に実になってると思うんだよね。
あるいはそれは創造性なんてものじゃなく、内観で見つけた潜在意識の顕在化なのかも。
オレはこの時間を、とても大切にしてるのだ。
ひとり飲みの時間は、どんな人物を相手に飲むよりも大切。

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うち、子供がいないんで、なんなんですけど。
最近、「ほめてほめてほめちぎって、叱らないで育てる」みたいなの、あるじゃないですか。
オレはこの育て方に批判的です。
ものすごくほめて育てられて、アホみたいになっちゃってるガキ、おるやないですか。
天下無敵、わがまま放題、みたいな。
ただただムカつきます。
無制限にほめられすぎたんですな。
子供なんて世間のことをなにも知らなくて、言えば野生の犬や猫と同じですから、きちんと制御することを覚えさせないと危険です。
ほめて伸ばすばかりじゃ、縮めてしまっとかなあかんとこも増幅させることになります。
5こほめたら、2こ叱らな。
100ほめて、叱り0って・・・大王つくってます?おくさん。
そもそも、わが子をほめちぎる親って、見てて気持ち悪いです。
気持ち悪くないです?
思ってても言えないでしょ、こういうの、世間的に。
オレは言いますよ、ええ、それがこのブログですし。
そして、オレはどやしつけますよ、実際に。
工房にきたガキの振る舞いが気にさわったら、容赦なくガレージに呼び出します。
「ちょっとこいや」言うてね。
で、懇々と説教たれますよ。
親がその場にいようがいまいが、必ずどやしつけます。
そういう人間になろうと思ってますから、オレ。
で、そうすると子供って、ちゃんと理解しますよ。
その瞬間からいい子になります。
そう振る舞うようになる、じゃなくて、ちゃんと心を入れ替えますよ。
そんなやり方を知らんの、実の親だけなんとちゃうかな。
何人もどやしつけたけど、どの子とも確実にいい関係になれます。
子供がアホなのは、親がアホやからです。
アホな子、アホにされてかわいそう。
アホ親、将来復讐されてかわいそう。
と思うんです。

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トランプさん、面白いね。
発言もたのしいが、全米の大モメっぷりも愉快だ。
バカな騒ぎだなあ・・・
一年間もかけてちゃんとした手順を踏んで選ばれた大統領に向かって、「出ていけ」はない。
政策いっこいっこに対しての批判なら理解できるけど、ただのヒステリーみたいな反トランプデモは見苦しい(というか、やはり面白い)。
それを見たトランプさんの発言もいい。
「だいたいお前ら、選挙にいったのか?」
まったく妥当な意見だと思う。
選挙にいってないやつらが騒いでるとしたら、これは本当に意味がわからない。
投票するチャンスをドブに捨てたやつに、投票結果をどうこういう資格なんかない。
一切の権利を白紙で委任した身なんだから、どんな結果が出ても土下座してありがたがらないと。
トランプさんは、完璧な民主主義の元で、まったく真っ当に戦い、公明正大に勝利を得た、どこにも傷のない大統領だ。
掲げる政策は実に品性のないものだが、それはアメリカの民度そのものと言える。
トランプさん=アメリカの選択、って点だけは揺るがないんで、ヒステリックなデモ参加者たちは、もう少しそこを理解しないといけない。
ただ、デモはもっとつづけてほしい。
あの画づらは面白すぎる。

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昔はあいつも純粋だったのにな・・・と思うのです。
あいつってのは、遺伝子のことです。
あいつら(ぼくそのもの、とも言えますが)の目的は自己複製なので、とにかく自らのアイデンティティを未来に連綿とつないでいくことだけを考えてます。
いや、考えてたはずでした。
だけど、なん億年もたつうちに、目的もテクニカルな方向に展開したくなるもんなんですね。
感覚とか、思考とか、感情とかを生存機械(肉体という乗りもの)に与えてるうちに、目的が散漫となり、朦朧となって、原形質の頃に「のこすぞーっ」と純粋だった想いが、にごってきたようです。
その結果、ぼくはぼくの乗りものに乗っ取られようとしてます。
人類がAIに乗っ取られようとしてる構図と似てますね。
生存機械はこうして、自分で考える能力を手に入れたわけですが、その考えてることと言ったら、もともとのぼく(遺伝子)が望むところのものではない。
確かに「セックスしてえ」とか、「あのこがすきだ」とかは思うわけで、それは自己複製の本能の命じるところとも言えます。
しかしそれは、純粋な生存という意味合いから見たら、にごってます。
「想い」なんてものが発生してる時点で、かなりのにごりようです。
ぼくら生存機械は日々、物思うわけですが、そのほとんどすべての事柄は、感覚と思考と感情とに根ざすもの。
「痛い」とか、「ああ、〆切りが」とか、「あのやろー、ゆるさん」とか、遺伝子自体の生存、淘汰、自己複製とはまるで関係ありません。
関係なくはないけど、にごりが著しい。
摂食と代謝に多くの労力をかけはじめて以来、余計な枝葉が付随してきたんですね。
それは知恵とも言えますが、少なくともシンプルな目的意識からは外れてしまいました。
だいたい栄養摂取にしても、「おいしい」が発生した時点で、すでに方向が散漫になってるでしょ。
生存の目的を差し置いて、おいしい、が目的化してしまうわけです。
純粋な想いはどこへ・・・?
また、つづく。

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このからだは、暫定的なものなわけですよ。
ぼくの正体は、突き詰めると「遺伝子」という姿かたちのないひとひらの情報なのであって、物質的な肉体はその乗りものとして機能してるに過ぎない、ぼくの影。
・・・って、狂っちゃったふりをしてるわけじゃないのです、真面目な話。
ここに、ちょこんと情報があります。
その情報が、周囲から物質を集め、乗りものをつくり上げます。
乗りものはすぐに部分部分が劣化するので、ひっきりなしに別の物質を取り込み、修理し、いらない箇所を捨てなければなりません。
それが「摂食」「新陳代謝」「排泄」の意味です。
それを間断なくくり返す結果、今日のぼくは一ヶ月前のぼくとはまるで入れ替わってます。
どこにも一ヶ月前のぼくが残ってないのです。
まったく新しい別のぼくが出現してるにもかかわらず、ぼくはまだこのからだをかつてのぼくと信じて疑わないのですね、不思議。
ぼくはぼくではなくなりました。
なのになんでこのぼくが、一ヶ月前のぼくというアイデンティティを持ちつづけ得るかというと、それは「遺伝子」という情報が絶えず、古い細胞から新しい細胞に伝言してくれるからです。
ゆく川の流れは絶えずしてまた元の水にあらず。
ぼくの肉体は、ぼくのようであって、自然の中で移ろう一部分、吹きだまりのようなものなのです。
あっちからきて、こっちに去りゆくぼくの正体は、ついにひとひらの情報でしかない。
それが「動的平衡」の概念でした。
それをベースに、最近はさらに思惟を深めて発展させてるのですが、お酒飲みつつだったり、お風呂の湯舟につかりつつだったりで。
それは「死」のことです。
ああ・・・お風呂の中ではうまく考えがまとまってるのに、文字に起こすとなんだか散らかるなあ・・・
とりあえず、つづく。

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